椿陽子と道成寺陰斗は、残された最後の拠点に移っていた。
八社女征一千の目から離れ、漸く手に入れた苟且の自由――しかし無論、八社女からは「妙なことは考えないように」「いつでも監視しているから、下手なことをすればすぐに判る」と釘を刺されている。
この場所は拉致事件の直前に狼ノ牙の工作員が潜んでいた部屋で、場所が割れていないのは最早此処しかない。
見付かってしまったら、もう二人に行く場所は無い。
陽子は陰斗と共に、外出は最小限に抑えて極力動かないように息を潜め続けた。
幸い、狼ノ牙の工作で手に入れた日本円の蓄えはまだ多少はある。
(このまま岬守達の所へ駆け込めば当初の計画通り。親父の情報を提供し、取引を持ち掛けることが出来る。だが、八社女がそれを許す訳が無い。監視しているのは嘘じゃないだろう。此方の動きに気付かれて親父に連絡されたら元の木阿弥だ。とはいえ、全く希望が無い訳じゃない。八社女がこのまま私達を放置し続けるとは思えない。必ず接触してくる筈。その時、八社女を斃せば私達は自由だ)
陽子はその一念で只管耐え続けた。
その甲斐あってか、二人は実に十八日もの間何事も無くやり過ごした。
だが問題は十九日目、十月七日水曜日に起こった。
「か、陰斗、一体どうしたというんだ……?」
「ううぅぅぅっっ……!」
この日、陰斗は朝から調子が悪そうだった。
何か体調を崩すことでもあったかと、陽子は心配になったが、彼女達は病院に行くことなど出来ない。
そうして手を拱いているうちに、昼過ぎになると、陰斗は如何にも苦しそうに呻き始めたのだ。
目の焦点が合っておらず、涎を垂らし、まるで狂った獣になってしまったかの様だ。
「うがあああああっっ!!」
「か、陰斗……!」
陰斗は咆哮し、陽子の体を突き飛ばした。
陽子はアパートの薄い壁に背中をぶつけて尻餅を搗く。
「陰斗、なにが起こっているんだ……?」
明らかに様子がおかしい弟の姿に、陽子は戸惑いと焦燥を禁じ得なかった。
このまま陰斗を放置していては危険だということは解る。
しかし、どうすれば良いのかわからない。
そんな時、陽子は不意に誰かの気配を感じた。
部屋に自分と陰斗以外の誰かが居る――陽子は部屋を見渡し、気配の主を探す。
「これは……随分と症状が進行しているようだね。首領はかなり無茶をしてしまったらしい……」
覚えのある声は陽子の頭上から聞こえた。
首領補佐・八社女征一千はいつの間にか陽子の目の前に立っており、陽子を見下ろしていた。
「八社女……さん……。陰斗は一体どうしちゃったんですか……?」
陽子の問い掛けを尻目に、八社女は藻掻き苦しむ陰斗の下へと近付いた。
そしていつもの薄ら笑いも浮かべずに、陰斗の表情をじっと窺っている。
「首領は穢詛禍終によって、神為を際限無く増幅することが出来るようになった。自分自身は言わずもがな、郎党の神為にも及ぼすことが可能だ。丁度八十年程前、僕が首領に施した様にね」
「ええ。陰斗は神為を増して新しい能力を得ました。それが問題なんですか?」
「ああ、大問題だね」
八社女は陽光の方へと振り向いた。
眉根を寄せた表情が、事態の深刻さを言外に物語っている。
「考えてもみ給えよ。首領が得た穢詛禍終の力は僕も持っている。つまり、首領に出来ることは僕にも出来るんだ。首領は自身の神為を際限無く増幅させ、神皇を超えようとしている。今この瞬間にも、彼は遙かに強くなっているだろう。しかしならば、どうして僕も同じ様に自分の神為を増そうとしないと思う?」
「つまり神為の増幅には、何か良くない副作用があると……?」
陽子は立ち上がり、陰斗の許へと歩み寄った。
八社女の不穏な言葉に、弟への心配が否が応にも募ってしまう。
カーテンを閉め切った部屋が、昼間にも拘わらず真夜中の様に暗く感じる。
何やら押し潰す様な鬱屈とした闇が胃の辺りを抑え付けている。
「見てのとおりさ」
八社女は眼で陽子の視線を陰斗へと誘導した。
呻き、藻掻き、苦しみ、そして正気を失った様に叫んでいる。
「神為とは、内なる神の力だ。しかしね、それは本来、人の身で宿すには大き過ぎる力なんだ。それを精神力で辛うじて統御して、僕達は超人的な力を発揮する。しかし本人の器を大きく超えた神為は、軈て精神を蝕み始める……」
「あ……」
陽子はすぐに父親のことを思い出した。
道成寺は穢詛禍終を身に付けてから、明らかに狂気に呑まれていた。
「だから親父はおかしくなっていったのか……」
「人には人の、身の丈に合った神為の器がある。それは成長と共に神為を増していく分には問題無い。器もまた追従して大きくなっていくからね。しかし、穢詛禍終によって強引に神為を増幅した場合、度が過ぎると器の成長が追い付かなくなってしまうんだ」
「ち、ちょっと待ってくれ!」
陽子には一つの疑問があった。
八社女の言葉と、今の陰斗には辻褄の合わない要素が一つある。
「陰斗は昨日まで特におかしいところは無かったんだ!」
「それは昨日まではどうにか精神の許容範囲を超えていなかったからだよ。増幅した神為が器から溢れ、精神に異常を来す、その瞬間は或る日突然訪れる。首領は狂っているかも知れないが、あれでもまだ精神の均衡は保っている方なんだよ」
「親父が陰斗の神為を増幅させていたのは二週間前までなんだよ!? それが、どうして今になって!?」
陽子の問いに、八社女の眼が陽子を見返してくる。
「忘れたのかい? 異性双生児に於ける神為の特性を……」
「まさか……そんな……!」
陽子は顔から血の気が引いていくのを感じた。
抑圧された胸の奥から吐き気が込み上げて来る。
受け容れがたい事実だった。
「異性双生児は近くに居ると相互作用を起こして神為を増幅させていく。それこそが、組織で神皇の複製人間を双子として作製した狙いだった筈だ。そしてそれに気付かせたのは、他ならぬ君達だろう?」
狼ノ牙が先代神皇の複製人間として雲野幽鷹と雲野兎黄泉を生み出した理由、それはオリジナルの力に少しでも近付ける為に、異性双生児の神為相互作用を利用する為だ。
それは嘗て、雲野兄妹から岬守航達にも語られている。
そして道成寺の娘と息子で、異性双生児である陽子と陰斗こそがその現象を狼ノ牙に伝えたのだ。
「私が傍に居たせいで……陰斗が苦しんでいるというのか……?」
「それだけじゃない。こうしている間にも、彼の神為はどんどん増幅していき、益々精神を蝕むだろう。その果てに訪れるのは、完全なる精神崩壊だ。心が壊れ、完全に物言わぬ人形と化してしまうのさ」
「そんな……!」
陽子は陰斗から目が離せない。
苦痛を訴える狂った叫び声は、助けを求めているかの様だ。
何から?
苦しみの原因が陽子だとするならば、陰斗は一体何から逃れたがっているのだろうか。
「助ける方法は……無いんですか?」
「二つある。一つは、増幅した神為に追い付くように器を拡大してしまうことだ。しかし、これが出来る者は極めて稀だ。それこそ、神皇と同等の者でなければ不可能な芸当だろう。因みに先代神皇は生前、普段は神の領域にある自信の神為を抑えて、ここぞという時だけ全力を発揮していた。力を解放する際は神為の急激な上昇に併せて自身の身体を拡大し、器を大きくしていたんだ。つまり、今言った話はその次元を前提とした話だということ。陰斗にはまあ不可能だろうね」
「じゃあ、もう一つの方法は……?」
「こっちは簡単さ。神為を失わせてしまえば良い」
八社女の言葉の意味はすぐに解った。
陽子は一つ深呼吸をする。
「解りました。扶桑丸を手に入れ、陰斗の神為を消失させれば良いんですね?」
「まあ、そういうことになるね。だが、あれは僕も首領も持っていないんだ」
「大丈夫です。心当たりはありますから……」
陽子は考える。
久住双葉と最後に会った時、彼女から神為が消えていた。
間違い無く、双葉は扶桑丸を飲まされたのだ。
つまり、双葉を捕えた者達に掛け合うことが出来れば、扶桑丸を手に入れることが出来る。
「八社女さん、行かせて貰えますね?」
「……無理も無いね。このままでは陰斗が使い物にならなくなる。それは組織にとっても首領にとっても好ましくはない。ならば、多少の危険や損は承知の上で君を行かせるしか無いだろう」
「ありがとうございます……」
陽子は決意と覚悟を胸に陰斗と八社女へ背を向けると、部屋から出て行った。
双葉とはもう会わないつもりだったが、陰斗を救う為ならば已むを得ない。
事情を話し、無理を言ってでも航達に繋いでもらうしかないだろう。
時の沈黙を破り、事態は急速に動き出そうとしていた。
⦿
陽子がアパートの部屋を去り、この場には八社女と陰斗が二人切りとなった。
そんなとき、八社女の電話が鳴る。
「もしもし」
『私だ』
「推城、どうかしたのかい?」
電話の相手は神瀛帯熾天王としての同志・推城朔馬だった。
八社女は推城と共に日本国で動き、何やら狼ノ牙とは別に企みを張り巡らせている。
「ちょっと今面倒なことになっていて、手短に済ませてもらえると有難いんだがね」
『よく言う、自分で撒いた種だろう』
「まあ、そうなんだけどね。そして、収穫の時も近い」
『では、愈々だな?』
「ああ」
八社女の口元が邪悪に吊り上がる。
策謀の笑みが闇の中で怪しく揺らめいている。
「機は熟した。これから一気に邪魔者を始末してしまおう」
『そうだな。特に、岬守航は是が非でも早期に消してしまいたい』
八社女は推城の言葉を訝しんだ。
勿論、邪魔者である日本国の特別警察特殊防衛課は全員消すつもりでいるが、その中でも岬守航の名を殊更に挙げる意味が解らない。
「意外だな、推城。あの凡夫の何処にそれ程警戒する必要がある? 麗真魅琴の危険性に比べれば塵芥も同然だろう」
『それはそうだ。しかし、麗真魅琴は正直異次元過ぎて手に負えんだろう。彼奴に関しては、我らの手ではなく別の手段で葬ることを考えた方が良い。となると、次点として確実に消したい相手を考えた時、私は奴のことが真っ先に思い浮かんだのだ』
「うーん、だからそれが解んないんだよね。確かに為動機神体の操縦士としては脅威だよ? でも、生身の戦士としてはそれ程かな? 元々彼の神為は乏しかったんだ。つい最近まで術識神為にも完全覚醒していなかった、凄まじいまでの非才振りだ」
『だが、完全覚醒した能力というのが相当厄介だ』
「それもどうかな? 君の分析が正しいとして、もうこれ以上新たな能力を身に付ける余地は無いだろう? 自ら名乗ったものの能力を、本来の使用者が使えなくなった時に身に付ける能力、それも自分が神為を身に付けるまでに名乗った者に限ってのもの……。だとすると、彼の手の内はもうほぼ全部見えているじゃないか」
『そうでもない。私が思うに、後一つだけ重要にして驚異的な能力が隠されている筈だ。我々の計画を破綻させかねないのは麗真魅琴よりも寧ろその最後の秘匿……』
八社女は首を傾げる。
今一つ、推城の主張に納得が出来なかった。
しかし、八社女は推城と付き合いが長い。
彼の慎重さは決して軽視すべきではないとも思っていた。
「解ったよ。岬守航のことは最優先で消すとしよう。その為の策に、君の手も借りたいんだが……」
『良いだろう。して、どうするつもりなのだ?』
八社女は不気味に北叟笑む。
様々な思惑の下、航達に恐るべき魔の手が伸びようとしていた。