時を戻し、十月七日水曜日の昼過ぎ、街の一角で陽子は電話端末を凝視していた。
季節の変わり目に特有の肌寒さを感じ、薄着で出たことを少し後悔していたが、何処かに入って人に見られたくはない。
(最近一気に冷え込んだな……)
気候はすっかり秋めいていた。
日本の夏が高温多湿なのは、太平洋高気圧の影響である。
皇國という莫迦大い土地が突然現れたことは、当然そこに変化を齎す。
今や秋の訪れは、数年前と比べて一月早いのだ。
(前にこの国へ来たのは夏前だったな。街の色もすっかり変わった……)
陽子は初めて、景色の変化に気が付いた。
土瀝青は日光の照り返しを弱め、街路樹に翳りを被せている。
陽子は今までその様なことに気を止める余裕など無かったが、追い詰められた今では妙に目に付いてしまっていた。
死が近付くと、世界が美しく見えるという。
彼女は今、自身の命運が尽きようとしていることを否が応にも突き付けられているのかも知れない。
(まだ既読が付かない……。頼む双葉、貴女だけが頼りなんだ)
陽子は画面に向かって念じ続ける。
二度と会わないと一度は決意した筈の双葉のことを、彼女は再び利用しようとしていた。
後めたさはある。
だがあくまで優先は弟の陰斗だ。
それに、厄介ごとに巻き込むと言ってもこの程度のことならば、大した問題は無い筈だ。
日本側の責任者、扶桑丸を管理しているであろう者の詳細を訊くくらい、迷惑にはならないだろう。
だが陽子にとって、事態は思わぬ方向に転んだ。
想像だにしなかった巡り会わせが彼女を急襲する。
「ん?」
「お?」
「あ……!」
彼女は連れ歩いていた二人の男と出会ってしまった。
久々に見る顔だ。
「岬守……! 虻球磨……!」
「椿!」
岬守航と虻球磨新兒――自分達を追っている元拉致被害者だ。
想定外の遭遇に、陽子は動揺しながらも身構える。
二人は間違いなく自分を倒し、連行しようとするだろう。
二対一と分は悪いが、こんなところで捕まるわけにはいかない。
だが、そんな彼女に新兒は意外なことを言い出した。
「よー椿、随分久し振りじゃねえか。ま、立ち話も難だし何処か飯でも行こうぜ」
彼の言葉はまるで旧友を誘う様な軽薄なものだった。
しかし内容とは裏腹に表情と声色にふざけた様子は無い。
寧ろ静かな迫力が、陽子に拒むことを許していなかった。
航もそんな新兒の提案に同調する。
「そうだな。出来れば個室がある方が良いな。店を探すよ」
「おう、頼んだ岬守。椿、俺はずっとお前に訊きたかったことがあるんだよ」
陽子は考える。
この際、双葉ではなくこの二人に全てを話してしまおうか。
特に、岬守航は敵に対して何処か甘い所がある。
だったら、陰斗のことも助けてもらえるかも知れない。
「解った、大人しくついて行くよ。積もる話もあるしね」
陽子は双葉に対し、キャンセルのメッセージを送ろうとした。
しかし、彼女の眼には意外な言葉が飛び込んできた。
『ごめん陽子さん。今日は先約があるから、そっちが終わってからでもいい?』
『どうしてもっていうなら陽子さんを優先するけど……』
陽子は何故か少し残念に思ったが、この状況ではあまり意味も無い。
一息吐くと、双葉にメッセージを返した。
『大丈夫、こっちも事情が変わった。気にしないで行っといで』
『また改めて、きちんと話がしたい』
陽子は航と新兒に付いて行った。
⦿⦿⦿
三人が入ったのは個室付きのお好み焼き店だった。
この店では自分で焼くか、焼いたものを持って来てもらうかを選ぶことが出来る。
「どうする?」
「どうって、作りながら話すのは面倒じゃね?」
「じゃあ焼いてから持って来てもらうか」
陽子の想いを露知らぬ航と新兒は自分の注文を選んだ。
「おう椿、お前も何食うか選べよ」
「私は良いよ……」
「選べよ」
新兒が低い声で陽子に迫る。
「これから話す内容によっちゃ、娑婆で食う最後の飯になるんだ。好きなもん選べよ」
どうやら新兒には陽子に対して腹に据えかねていることがあるようだ。
陽子にはそれが何なのか、何となく解る。
「虻球磨、私が憎いのか。家族の仇の内通者だった私が……」
「いんや」
確かに新兒の眼は、険しさこそあれど憎悪には染まっていない。
何か別の理由で陽子に怒っているらしい。
「お前にも事情があるんだろ。それくらいのことは解るぜ、俺にも。唯ちょっと、一つだけ納得のいかないことがあるってだけだ」
「何のことだよ……?」
新兒は普段見せない厳しさで陽子に迫る。
隣に坐る航は全て織り込み済みであると言った様子で黙って見守っていた。
そう言えばこの二人は公転館で相部屋だった。
そこで育まれた絆があったからこそ、今でも二人で行動したりしているのだろう。
翻って陽子は、同じものを出汁にして双葉を利用している。
この二人を見ていると、再び罪悪感が込み上げてしまう。
「俺はずっと引掛かってたんだ」
新兒が陽子を問質す。
「それはあの日の朝、丁度久住ちゃんと虎駕が口喧嘩した次の日、ちょっと仲直りするような雰囲気になった時があっただろう」
「僕が朝食の支度をしてたあの日だな」
「あの朝がどうしたんだよ?」
陽子は少し苛立ちを覚えて新兒に問い返した。
彼女としては、早く本題に入りたかった。
それだけに、勿体振った言い方が癇に障ったのだ。
だが新兒の眼はそんな陽子の反発を抑え付ける。
抑も立場的に、彼女は二人に捕まえられている状態なのだ。
新兒は言葉を続ける。
「あの時、俺の妹とお前の弟の話になったよな? 妹煩悩が過ぎると本人に嫌がられるとお前は言った。そして俺達はお前に双子の弟が居ると初めて知ったわけだ。お前がその直前に言ったこと覚えてるか?」
「ああ……」
新兒にとっての本題は極めて些細な事だった。
だが確かに、後になって思い返せば気になる事だろう。
「『まあ妹には会えないんだけど』って言ったね、確かに」
「そう、それだ。その後でお前にも弟が居るという話になった。拉致されたままもう家族に会えないんじゃないか、そう気を落としていたんだと皆思った筈だ。だがな椿、お前が狼ノ牙の内通者だってんなら別の意味にも取れんだよ」
新兒は眉間に皺を寄せ、鋭い視線で陽子を睨んだ。
嘗て粗大塵と呼ばれた不良の時分も、彼はこんな目付きで凄んだのだろう。
「あれ、本当はどういう意味だったんだ? お前は俺の妹が、家族が全員殺されて、既にこの世に居ねえと知っていたのか? それがずっと気になって、次に会うときは訊きてえと思ってたんだ」
新兒の問いに陽子は瞠目して怯んだ。
はっきり言ってそれは揚げ足取りの様な細かいことだ。
今更そんなことを追求してどうするつもりなのかと、陽子は一瞬そう思った。
しかしそこには別の根本的な問い掛けも含まれているとすぐに気が付いた。
お前は自分がどういうことに関わってきたか、その重大さにどこまで自覚的なのか。
お前が加担してきた組織は、目の前に居る相手から大切な者を全て奪っていったのだ。
お前はそれを解っていて、尚も開き直っているどうしようもない人間なのか。
それとも葛藤を抱えつつも自分に言い訳をし続けているのか。
この問いは、陽子の根本に突き刺さるものだ。
弟以外の人間はどうでも良い。
それは畢竟、新兒の家族の様な犠牲を省みないということである。
ならばその精神性は、狼ノ牙と地続きのものではないか。
陽子は息を呑み、答えた。
心して答えなければならなかった。
「知っていたって訳じゃないさ。家族に会えない姉を演じようとしただけ。だけど、そうだな。あの時演じていて、全くその考えが過らなかったってわけでもない」
「つまり、『もうとっくに死んじまってるよ』って意味にもなっちまうとは思ったんだな?」
「……否定出来ないな」
陽子の答えに、新兒は大きな溜息を吐いた。
今にも個室が震え出しそうなほど、隠そうともしない殺気が彼から溢れ出していた。
「岬守、いざとなったら抑えてくれや。何かのはずみで椿のことをぶん殴っちまうかも知れねえ」
新兒は額に青筋を浮かべ、自分の感情を必死で抑えている。
航は一瞬驚いたように隣へ目を向けたが、新兒が手を出すことは無いと思ったのか、陽子の方へと向き直った。
そして、落ち着いた口調で彼女へ問い掛ける。
「椿、お前久住さんと日本で何度か会ってるよな? 一度目は雲野兄妹が入院していた病院を聞き出した。で、それ以降は何やってたんだ? やっぱり狼ノ牙の為に利用してたのか?」
航の問いに、陽子は考える。
既に彼女の中で、二人に助けを求めようとは決めていた。
だが、その為には言葉を選ばなくてはならない。
「病院を訊いたのは狼ノ牙の指示だ。けど、双葉に頼ったのは助けてもらいたかったからなんだ。それを『利用した』と言われればそうだろう」
「つまり、本当は狼ノ牙に従いたくなくて、でも命令を聞かなければならない事情があると、そう言っているのか?」
「ああ。その事情について、貴方達に話したい。もっと言えば、助けて欲しい!」
漸く自分の望む展開に持って行けた陽子は、逸って身を乗り出した。
こうしている間も陰斗は苦しんでいる。
今すぐにでも全てを話したかった。
そして、自分達に手を差し伸べてほしい。
「久住さんと会っていたのも『助けてもらいたかったから』って言ったな。差し迫っているのか?」
「ああ、かなりヤバいことになっている。このままじゃ……」
陽子は不安を押し殺し、二人に深く頭を下げる。
「私だって、好き好んで狼ノ牙に協力したわけじゃない。全ては弟を助けたい一心だった。そして今、弟はとても危ない状態なんだ。貴方達の助けが欲しい。私のことは構わないから、どうか弟のことだけは……!」
航と新兒は互いの顔を見合わせた。
そして頷くと、正面へと向き直る。
新兒は溜息を吐いて踏ん反り返った。
反対に航は椅子に深く座り直して上半身を前に傾ける。
「しゃーねえな」
「解った。話してくれ」
陽子は双葉以外の人間に初めて自らの身の上を話した。
その内容、特に陰斗の悲惨な境遇に、二人の表情は次第に険しさを増していった。