日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第九十四話『感化の代償』 破

 双(ふた)葉(ば)は車道の土瀝青(アスファルト)を背に天を仰いでいた。

 身体が上(う)手(ま)く動かせない。

 ただ、視覚だけは妙にはっきりしていて、視野が広い。

 

 空を取り囲む銀杏(いちよう)の黄葉がいやに鮮やかで、自分に降ってきている様な気さえした。

 皮肉にも、曇っていた空が晴れ間を覗(のぞ)かせて陽光を輝かせていた。

 

 事故の影響で自動車の通行が止まり、野(や)次(じ)馬(うま)達(たち)が彼女を見ている。

 大型トラックの運転手は頭を抱え、追突した後続自動車に乗っていた者達が彼に詰め寄っている。

 また、歩道では千(ち)果(か)が坐(すわ)り込(こ)んで何かをぶつぶつと呟(つぶや)いている。

 

 双(ふた)葉(ば)は下半身の感覚を失っていた。

 十トンもの車体が何度も腹部に乗り上げたのだから、寧(むし)ろ怪(け)我(が)の痛みを感じられないのは悲惨な不幸の中にある申し訳程度の幸いなのだろう。

 痛みが無い代わりに、胸を未(いま)だに圧迫されている様な、如(い)何(かん)ともし難い息苦しさがある。

 明らかに正常では無い、風船から空気の漏れる様な雑音が混じった呼吸音が頭に響く。

 

 双(ふた)葉(ば)は自分が助からない現状をひしひしと感じていた。

 世界が、銀杏の黄葉が美しく見えるのは、避け得ぬ死が間近に迫っているからなのか。

 秋風が昔(せき)日(じつ)の記憶の走馬灯を回している。

 

 遠い日の記憶、青春の思い出。

 双(ふた)葉(ば)にとってそれは、航(わたる)や魅(み)琴(こと)と共に過ごした高校時代に他ならなかった。

 まさにこの大通りを、銀杏並木を歩いた日々が蘇(よみがえ)り、輝きを放っている。

 

(どうして……こんなことになってしまったんだろう……?)

 

 双(ふた)葉(ば)は自分の身に起こったことを漠然と思い返していた。

 千(ち)果(か)と取っ組み合いになったのは、自分が彼女を置いて逃げたからだ。

 それだけならば責められるようなことではなかっただろう。

 

 だが、双(ふた)葉(ば)は逃げる際に千(ち)果(か)の足を故意に踏み付けた。

 足を挫(くじ)いたと聞いていたからだ。

 千(ち)果(か)が逃げられない様にすれば、追ってくるかもしれない道(どう)成(じよう)寺(じ)の気を惹(ひ)けると思った。

 双(ふた)葉(ば)は明確な悪意を以(もつ)て、千(ち)果(か)を犠牲にして自分だけ助かろうとしたのだ。

 

 そして最後、双(ふた)葉(ば)と千(ち)果(か)はどちらも傷(いた)めた足を踏み外した。

 その結果がこの事故なのだが、二人が足を傷めたのはまさにこの故意の踏み付けが原因だった。

 双(ふた)葉(ば)は自らの手で自らの墓穴を掘ってしまったのだ。

 

 その罪悪感を抱えた双(ふた)葉(ば)にとって、銀杏並木の黄葉は余りにも鮮やかで美し過ぎた。

 あの頃に友と歩いた景色は、変わらない世界は、自分が助かる為(ため)に他人を犠牲にするという行動を取ってしまった彼女を、醜く変わり果ててしまった自分の現状を、余りにも残酷に突き付けていた。

 

(苦しい……息苦しいよ……)

 

 双(ふた)葉(ば)の両目から涙が溢(あふ)れる。

 彼女を覆っている苦しみは事故に因(よ)るものではなく、自分の人生を思っての無念だった。

 何故(なぜ)こんなにも、ままならない境遇を生きなければならなかったのか。

 この美しい世界で唯一の黒が自分に集まっている様な気がした。

 

 その時、双(ふた)葉(ば)は自分に駆け寄ってくる誰かの姿を認めた。

 拡(ひろ)がった視界が、冴(さ)えた頭が、そして追憶がすぐにその正体を悟らせる。

 

(麗(うる)真(ま)……さん……?)

 

 双(ふた)葉(ば)は理解した。

 魅(み)琴(こと)は自分が道(どう)成(じよう)寺(じ)に襲われることを察知して駆け付けたのだ。

 千(ち)果(か)が助かったのは、その魅(み)琴(こと)が間一髪の所で割って入ったからに違いない。

 皮肉にも、それが自分を死に追(お)い遣(や)った。

 

(助けに来て……くれたんだ……)

 

 しかし、双(ふた)葉(ば)に魅(み)琴(こと)を批難する気持ちは湧かなかった。

 こうなったのはあくまでも結果に過ぎない。

 第一、道(どう)成(じよう)寺(じ)に襲われた時に自分が余計な気を起こさなければ、魅(み)琴(こと)は自分のことも纏(まと)めて助けていただろう。

 

(あの時言ったとおりに、本当に来てくれた。こんな私(わたし)を、麗(うる)真(ま)さんは今でも友達だと思って……)

 

 双(ふた)葉(ば)は今、漸(ようや)く認めた。

 航(わたる)も魅(み)琴(こと)も何も変わっていない。

 あの頃、虐(いじ)めを止めてくれたときと同様に、二人は自分を真(しん)摯(し)に助けようとしてくれた。

 何度も何度も、二人は自分の為に動いてくれた。

 

 それをやり方が気に食わないと、自分が拒絶しただけだった。

 確かに日本政府側に不備や不実があったのは事実だ。

 都合良く利用された件に関しては糾(ただ)されて然(しか)るべきだったろう。

 しかし、そんな中でも現場で接してくれた仲間達は自分の為に尽力してくれていた。

 

 皇(こう)國(こく)へ拉致されたとき、何が何でも脱出して帰国するという目標を真先に示して、抵抗の旗頭となってくれた航(わたる)。

 自分達の為に、国交の無い外国まで乗り込んできてくれた魅(み)琴(こと)。

 双(ふた)葉(ば)は二人の友人が国の為に死地へと赴(おもむ)いたことを唾棄したが、それは何よりも、身近な自分に思いを馳(は)せて守ろうとしてくれたのではなかったか。

 

 帰国後もそうだ。

 弱音を吐いた時も真摯に相談に乗ってくれ、自分を現場から遠ざけてくれた航(わたる)。

 酷(ひど)い態度で絶交された後でも構わず助けに駆け付けてくれた魅(み)琴(こと)。

 

 二人はあの頃と変わらず今でも素晴らしい友人だった。

 ずっと自分を気に掛けてくれた。

 ただ自分がそれに応えなかった。

 

(嗚呼(ああ)、麗(うる)真(ま)さん……)

 

 魅(み)琴(こと)が何かを叫んでいる。

 目撃者から有り物のベルトを借り、双(ふた)葉(ば)の腰を絞めて止血しようとしていた。

 救急車のサイレンが遠くで鳴っている。

 魅(み)琴(こと)は今(いま)尚(なお)自分を助けようとしてくれているのだ。

 

 双(ふた)葉(ば)にはそれが貯(た)まらなく嬉(うれ)しく、苦しく、そして悲しかった。

 解(わか)るのだ、何をしても自分は助からないと。

 焦燥に満ちた表情を浮かべる魅(み)琴(こと)も薄々感じているかも知れない。

 この怪我は応急処置でどうにかなるものではない。

 

 自分は死ぬ。

 既に致命傷である。

 救急車が到着する前に、双(ふた)葉(ば)の人生は終わるだろう。

 悪(わる)足(あ)掻(が)きを続ける魅(み)琴(こと)も、程無くしてその現実を突き付けられるのだ。

 

 また魅(み)琴(こと)を悲しませてしまう。

 最後の最後まで、最(さい)期(ご)まで酷い友達だ。

 

(友達……そうだ、麗(うる)真(ま)さんは友達だ……。友達なんだ、今でも……)

 

 双(ふた)葉(ば)は苦しみの中、声を絞り出そうとする。

 

(謝らなきゃ……。酷い事を言っちゃった。謝って、仲直りしたい……)

 

 だが口から出るのは終わり際の余りにも細い呼吸と、死の色に染まった温(ぬる)い血(ち)反(へ)吐(ど)ばかりだった。

 それは魅(み)琴(こと)を却(かえ)って焦(じ)らせるだけだ、苦しめるだけだ。

 双(ふた)葉(ば)は魅(み)琴(こと)に謝ることも出来ない。

 

(嫌だよ、このまま終わりなんて、嫌だ。何か……せめて何か、麗(うる)真(ま)さんに今の自分の気持ちを伝える方法が……)

 

 双(ふた)葉(ば)は周囲に目を配る。

 ふと、彼女の視界に自分の鞄(かばん)が過(よぎ)った。

 中から零(こぼ)れているのは、ずっと入れっぱなしにしていたあの日の購入品だ。

 

(そうだ……。あれを……、あれを使えば……)

 

 意外なことに、双(ふた)葉(ば)は片腕を辛うじて動かすことが出来た。

 最後の力を振り絞り、鞄から零れたそれに手を延ばす。

 魅(み)琴(こと)は双(ふた)葉(ば)に向かって何かを叫ぶ。

 

(動かないで、とか、そんなことを言っているんだろうな。怒られているんだろうな。そう言えば麗(うる)真(ま)さんが私(わたし)に怒ったことってあったかな……? 陽(よう)子(こ)さんと連絡を取っていたとバレた時くらいかな……)

 

 双(ふた)葉(ば)の手に固い物が当たった。

 蓋(ふた)が開き、中の物が指に掛かる。

 

(せめて……これを……)

 

 双(ふた)葉(ば)は魅(み)琴(こと)に謝罪の意思を示したかった。

 椿(つばき)陽(よう)子(こ)に関わったことに後悔は無い。

 だが、魅(み)琴(こと)のことを信じようとせず天(てん)秤(びん)に掛けてしまったことが只管(ひたすら)に悔やまれる。

 今なら、航(わたる)も魅(み)琴(こと)も屹(きつ)度(と)力になってくれたと、心から信じられる。

 

(だから……)

 

 双(ふた)葉(ば)は震える手を顔の前へと持ってきた。

 そして、眼鏡を掛ける。

 航(わたる)と魅(み)琴(こと)、友人達と自分の為に買いに行った、一度も掛けたことのない新しい眼鏡だ。

 今、双(ふた)葉(ば)は嘗(かつ)ての日常に、航(わたる)や双(ふた)葉(ば)とこの大通りを歩いたあの日々に戻ることを願っていた。

 

 魅(み)琴(こと)の顔が曇って固まっている。

 今まで見たことも無いような、悲痛に満ちた表情だった。

 こんな顔をさせてしまうとは、熟(つく)々(づく)自分は酷い友達だ。

 許してくれるだろうか、最期まで友達でいさせてくれるだろうか。

 

(ごめんね。麗(うる)真(ま)さん、ごめんね……)

 

 双(ふた)葉(ば)は精一杯、魅(み)琴(こと)に笑い掛けた。

 彼女にとって、それが最後に出来る唯一の謝罪表明だった。

 こんな自分を助けに来てくれて、友達のままでいてくれてありがとうという、感謝の表明だった。

 あの頃の自分に戻りたい、友達だったあの頃に……。

 

(ありがとう麗(うる)真(ま)さん。大好きだよ……)

 

 視界が滲(にじ)む。

 世界が鮮やかさを失い、全てを許す様に白くなっていく。

 残酷な黄葉は現実を離れ、白秋の中で青春の幻覚となる。

 

 久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)は掛け替えの無い友達に見守られ、静かに息を引き取った。

 最後の最後、楽しかった日々を、嘗ての自分を思い出しながら……。

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