双葉は車道の土瀝青を背に天を仰いでいた。
身体が上手く動かせない。
ただ、視覚だけは妙にはっきりしていて、視野が広い。
空を取り囲む銀杏の黄葉がいやに鮮やかで、自分に降ってきている様な気さえした。
皮肉にも、曇っていた空が晴れ間を覗かせて陽光を輝かせていた。
事故の影響で自動車の通行が止まり、野次馬達が彼女を見ている。
大型トラックの運転手は頭を抱え、追突した後続自動車に乗っていた者達が彼に詰め寄っている。
また、歩道では千果が坐り込んで何かをぶつぶつと呟いている。
双葉は下半身の感覚を失っていた。
十トンもの車体が何度も腹部に乗り上げたのだから、寧ろ怪我の痛みを感じられないのは悲惨な不幸の中にある申し訳程度の幸いなのだろう。
痛みが無い代わりに、胸を未だに圧迫されている様な、如何ともし難い息苦しさがある。
明らかに正常では無い、風船から空気の漏れる様な雑音が混じった呼吸音が頭に響く。
双葉は自分が助からない現状をひしひしと感じていた。
世界が、銀杏の黄葉が美しく見えるのは、避け得ぬ死が間近に迫っているからなのか。
秋風が昔日の記憶の走馬灯を回している。
遠い日の記憶、青春の思い出。
双葉にとってそれは、航や魅琴と共に過ごした高校時代に他ならなかった。
まさにこの大通りを、銀杏並木を歩いた日々が蘇り、輝きを放っている。
(どうして……こんなことになってしまったんだろう……?)
双葉は自分の身に起こったことを漠然と思い返していた。
千果と取っ組み合いになったのは、自分が彼女を置いて逃げたからだ。
それだけならば責められるようなことではなかっただろう。
だが、双葉は逃げる際に千果の足を故意に踏み付けた。
足を挫いたと聞いていたからだ。
千果が逃げられない様にすれば、追ってくるかもしれない道成寺の気を惹けると思った。
双葉は明確な悪意を以て、千果を犠牲にして自分だけ助かろうとしたのだ。
そして最後、双葉と千果はどちらも傷めた足を踏み外した。
その結果がこの事故なのだが、二人が足を傷めたのはまさにこの故意の踏み付けが原因だった。
双葉は自らの手で自らの墓穴を掘ってしまったのだ。
その罪悪感を抱えた双葉にとって、銀杏並木の黄葉は余りにも鮮やかで美し過ぎた。
あの頃に友と歩いた景色は、変わらない世界は、自分が助かる為に他人を犠牲にするという行動を取ってしまった彼女を、醜く変わり果ててしまった自分の現状を、余りにも残酷に突き付けていた。
(苦しい……息苦しいよ……)
双葉の両目から涙が溢れる。
彼女を覆っている苦しみは事故に因るものではなく、自分の人生を思っての無念だった。
何故こんなにも、ままならない境遇を生きなければならなかったのか。
この美しい世界で唯一の黒が自分に集まっている様な気がした。
その時、双葉は自分に駆け寄ってくる誰かの姿を認めた。
拡がった視界が、冴えた頭が、そして追憶がすぐにその正体を悟らせる。
(麗真……さん……?)
双葉は理解した。
魅琴は自分が道成寺に襲われることを察知して駆け付けたのだ。
千果が助かったのは、その魅琴が間一髪の所で割って入ったからに違いない。
皮肉にも、それが自分を死に追い遣った。
(助けに来て……くれたんだ……)
しかし、双葉に魅琴を批難する気持ちは湧かなかった。
こうなったのはあくまでも結果に過ぎない。
第一、道成寺に襲われた時に自分が余計な気を起こさなければ、魅琴は自分のことも纏めて助けていただろう。
(あの時言ったとおりに、本当に来てくれた。こんな私を、麗真さんは今でも友達だと思って……)
双葉は今、漸く認めた。
航も魅琴も何も変わっていない。
あの頃、虐めを止めてくれたときと同様に、二人は自分を真摯に助けようとしてくれた。
何度も何度も、二人は自分の為に動いてくれた。
それをやり方が気に食わないと、自分が拒絶しただけだった。
確かに日本政府側に不備や不実があったのは事実だ。
都合良く利用された件に関しては糾されて然るべきだったろう。
しかし、そんな中でも現場で接してくれた仲間達は自分の為に尽力してくれていた。
皇國へ拉致されたとき、何が何でも脱出して帰国するという目標を真先に示して、抵抗の旗頭となってくれた航。
自分達の為に、国交の無い外国まで乗り込んできてくれた魅琴。
双葉は二人の友人が国の為に死地へと赴いたことを唾棄したが、それは何よりも、身近な自分に思いを馳せて守ろうとしてくれたのではなかったか。
帰国後もそうだ。
弱音を吐いた時も真摯に相談に乗ってくれ、自分を現場から遠ざけてくれた航。
酷い態度で絶交された後でも構わず助けに駆け付けてくれた魅琴。
二人はあの頃と変わらず今でも素晴らしい友人だった。
ずっと自分を気に掛けてくれた。
ただ自分がそれに応えなかった。
(嗚呼、麗真さん……)
魅琴が何かを叫んでいる。
目撃者から有り物のベルトを借り、双葉の腰を絞めて止血しようとしていた。
救急車のサイレンが遠くで鳴っている。
魅琴は今尚自分を助けようとしてくれているのだ。
双葉にはそれが貯まらなく嬉しく、苦しく、そして悲しかった。
解るのだ、何をしても自分は助からないと。
焦燥に満ちた表情を浮かべる魅琴も薄々感じているかも知れない。
この怪我は応急処置でどうにかなるものではない。
自分は死ぬ。
既に致命傷である。
救急車が到着する前に、双葉の人生は終わるだろう。
悪足掻きを続ける魅琴も、程無くしてその現実を突き付けられるのだ。
また魅琴を悲しませてしまう。
最後の最後まで、最期まで酷い友達だ。
(友達……そうだ、麗真さんは友達だ……。友達なんだ、今でも……)
双葉は苦しみの中、声を絞り出そうとする。
(謝らなきゃ……。酷い事を言っちゃった。謝って、仲直りしたい……)
だが口から出るのは終わり際の余りにも細い呼吸と、死の色に染まった温い血反吐ばかりだった。
それは魅琴を却って焦らせるだけだ、苦しめるだけだ。
双葉は魅琴に謝ることも出来ない。
(嫌だよ、このまま終わりなんて、嫌だ。何か……せめて何か、麗真さんに今の自分の気持ちを伝える方法が……)
双葉は周囲に目を配る。
ふと、彼女の視界に自分の鞄が過った。
中から零れているのは、ずっと入れっぱなしにしていたあの日の購入品だ。
(そうだ……。あれを……、あれを使えば……)
意外なことに、双葉は片腕を辛うじて動かすことが出来た。
最後の力を振り絞り、鞄から零れたそれに手を延ばす。
魅琴は双葉に向かって何かを叫ぶ。
(動かないで、とか、そんなことを言っているんだろうな。怒られているんだろうな。そう言えば麗真さんが私に怒ったことってあったかな……? 陽子さんと連絡を取っていたとバレた時くらいかな……)
双葉の手に固い物が当たった。
蓋が開き、中の物が指に掛かる。
(せめて……これを……)
双葉は魅琴に謝罪の意思を示したかった。
椿陽子に関わったことに後悔は無い。
だが、魅琴のことを信じようとせず天秤に掛けてしまったことが只管に悔やまれる。
今なら、航も魅琴も屹度力になってくれたと、心から信じられる。
(だから……)
双葉は震える手を顔の前へと持ってきた。
そして、眼鏡を掛ける。
航と魅琴、友人達と自分の為に買いに行った、一度も掛けたことのない新しい眼鏡だ。
今、双葉は嘗ての日常に、航や双葉とこの大通りを歩いたあの日々に戻ることを願っていた。
魅琴の顔が曇って固まっている。
今まで見たことも無いような、悲痛に満ちた表情だった。
こんな顔をさせてしまうとは、熟々自分は酷い友達だ。
許してくれるだろうか、最期まで友達でいさせてくれるだろうか。
(ごめんね。麗真さん、ごめんね……)
双葉は精一杯、魅琴に笑い掛けた。
彼女にとって、それが最後に出来る唯一の謝罪表明だった。
こんな自分を助けに来てくれて、友達のままでいてくれてありがとうという、感謝の表明だった。
あの頃の自分に戻りたい、友達だったあの頃に……。
(ありがとう麗真さん。大好きだよ……)
視界が滲む。
世界が鮮やかさを失い、全てを許す様に白くなっていく。
残酷な黄葉は現実を離れ、白秋の中で青春の幻覚となる。
久住双葉は掛け替えの無い友達に見守られ、静かに息を引き取った。
最後の最後、楽しかった日々を、嘗ての自分を思い出しながら……。