十月十二日月曜日。
皇奏手は病室で呆然と天井を見上げていた。
彼女が倒れて入院したのは八月三一日、衆議院総選挙の翌日まで遡る。
病状は胃潰瘍で、吐血を伴っていた為に入院治療を行うことになった。
その後、二週間程で一旦退院の許可が出るも、完全に治癒するまでの間は実家から通院を繰り返していた。
当初の医者の見込みでは、全治約二箇月の筈だった。
投薬治療も成果が出て、症状はかなり和らいでいた、筈だった。
しかしその後、十月十日の午前、通院中だった彼女は激しい腹痛を訴えて意識を失った。
そして緊急で行われた精密検査の結果は医師達を驚愕させる。
(末期癌……この私が……)
検査の結果、皇奏手はステージⅣの膵臓癌を患っていることが判明した。
それは医師達にとっても信じられない事実だった。
無論、吐血して意識を失い最初に入院した時点でこの手の検査は抜かりなく行われている。
そして、その時の診断結果が胃潰瘍だったのだから、当時は癌など影も形も見当たらなかったのだ。
余りにも異常な事態に右往左往する医師達を嘲笑うかのように、皇の病状は恐ろしい速度で悪化していった。
彼女は衰弱の一途を辿り、見る見るうちに痩せ細っていった。
今では寝台から降りて歩くこともままならない。
(死ぬのか……私は……)
余りの急速な衰えに、皇は否が応にも自身の死を実感していた。
しかし、このような現実を突然告げられても受け容れることなど出来はしない。
病状はすぐに根尾ら関係者に伝えられたが、世間への公表を決断するには至っていない。
皮肉にもその決断力欠如は、彼女の政治指導者としての再起不能もまた突き付けていた。
(私は世界最強になれないのか……)
皇は一つの夢を見ていた。
途方も無い巨大な夢を抱いて、政界の門を叩いた。
それから彼女は脇目も振らず、家族を蔑ろにしてまで政治家としての地位を確実に積み上げてきた。
日本国を強く豊かにし、皇國の脅威から守る為に心血を注いできた。
しかし今の今まで遮二無二働いてきた究極の目的は、壮大なる夢の実現だった。
それは今、終わりを迎えようとしている。
皇奏手の命の灯と共に……。
(私は……)
今際を迎えようとしている皇は思い起こす。
彼女が何故「世界最強」などという滑稽極まり無い夢を追い求めたのか。
その道程で、彼女が何を棄てていってしまったのか。
彼女は顔も知らない祖母のことを想い、すっかり老け込んだ顔を皺くちゃにして我が身に降り掛かった境遇を呪った。
皇奏手の夢は、その人生は、彼女が生まれる遙か前から始まっていたのだ。
⦿⦿⦿
皇奏手の母は孤児であった。
遠因となったのは、母の幼き日に始まった戦争である。
ただ、戦災孤児というには少し違っていた。
母の母、つまり奏手の祖母は戦禍に見舞われながらも、終戦まで生き延びることが出来た。
元々近所でも評判の器量好しで、周囲の者達に相当良くしてもらっていたらしい。
彼女を嫁に貰った夫のことは誰もが羨んでいた。
徴兵さえされなければ、幸せな人生があったのかも知れない。
だが、夫は戦死してしまった。
残された母娘に対しては、行く末を案じる者も居ればこれ幸いにと言い寄る男や縁談を進めようとする年長者も居た。
そんな中、彼女はとんでもない行動に出る。
奏手の母が孤児になったのは、その母親に棄てられてしまったからだ。
何故その様な真似をしたのか――母親は意中の相手に嫁ぐ上で、娘の存在を煩わしく想ったらしい。
彼女が再婚相手として米兵を求め、子を身籠もったのだという。
尤も、その後彼女は消息を絶っている為、何処までが事実なのか定かではない。
奏手は母から恨み言を相当聞かされて育った。
焼け野原になった戦後の街で母親に棄てられたせいで、この世の地獄を見たと何度も吹き込まれた。
そんな中、奏手は思う。
要するに、母も祖母も弱者だったのだ。
弱さは困窮を呼び、困窮は人心を荒ませる。
奏手は祖母の様に目先の欲で家族を裏切る様な卑しい人間にも、済んだ過去の憎しみをいつまでも娘に向かって吐き出す様な端たない人間にもなりたくはなかった。
だが成長するにつれ、不安もまた大きくなっていった。
自分は祖母の孫であり、母の娘だ。
ならばその弱さは自分の中の血にも流れているのではないか。
一体何処まで強くあれば、祖母や母親の血を克服出来るのだろうか。
そんな中、彼女は十七歳の時に一つの報道を目の当たりにし、衝撃を受けた。
大相撲に初の外国人横綱が誕生したのだ。
(アメリカ人が日本の国技で一番強い人に……)
奏手は考えた。
抑も、祖母が弱さと醜さを露呈したのは、日本が米国に戦争で負けたのが原因だ。
つまり、日本もまた弱かった。
(私自身がいくら強くあろうとしても、日本が弱ければ意味が無い……)
米国人が大相撲の横綱になったことは衝撃だった。
しかし、彼女はすぐに発想を変えた。
米国人であろうと横綱になれる、それはこれまでの常識では考えられなかった。
ならば自分も、常識を破るのだ。
(私は日本人として、女として、世界最強の座を目指す。そこまで強くなれば、もう血筋なんて関係無い。私は弱者の血を、祖母の呪いを克服出来る筈だ)
この時、彼女の中に生涯の夢が芽生えた。
世界最強――その夢が自身を焼き尽くすまで、彼女は走り続けることとなる。
⦿⦿⦿
今、病床に伏す皇奏手は天井を見上げていた。
弱り切った彼女は孤独に苛まれ、恨み言を吐いている。
「私は……私はこの国を強くする為に、護る為に己の身を砕いてきました。それは確かに、私の覇道に繋がると目論んでのことでしたが、しかし同時に、間違い無くこの国の、日本国の繁栄に向かう道でもあった筈です……」
奏手の、深く皺が刻まれた目尻から涙が零れ落ちる。
夢破れ、敗者となり、汚名だけが残された――そんな末路に対する、無念の涙である。
彼女は今、天井というよりはその向こうにある空に向かって訴えかけていた。
「神様……仏様……。私は信心を忘れなかったつもりです……。その上で、この国を最強の座に押し上げる為に全てを捧げて来ました……。愛した夫も……、彼との娘も……。私腹を肥やすこと無く、全てはこの神の国へと……。その結末がこれですか……?」
答えは返って来る筈も無かった。
彼女は弱々しく天に手を伸ばす。
「どうして私から夢を取り上げるのですか……? 全てを捧げるだけ捧げさせておいて、私には見返りを下さるどころかこんな惨めな末路を与えるのですか……? あの人に出会えたこと、娘の想い人が皇國と戦う兵器を操る力を得たこと、全ては私に与えられた天命ではなかったのですか……? それとも……それともこのまま……このまま終われと……? もう私は用済みだと……?」
奏手は次から次へと湧いてくる無念の疑問を投げかける。
個室に入れられた彼女に答える者など居る筈が無かった。
否、居ない筈だった。
『皇奏手……』
どこからともなく、女の声が彼女の名を呼んだ。
「誰?」
『貴女の無念に深く共感する者だとだけ言っておきましょう』
それはどこか背筋の凍る様な、それでいて安らかな眠りに誘う様な、妖しい響きを持った声だった。
『皇奏手、今の貴女には私達の同志となる資格がある。私ならば貴女に迫り来る死を退け、夢の続きを見せてやることが出来るわよぉ……』
「同志……? 死を退ける……? 夢の続き……?」
今の弱り切った奏手にとって、その言葉は極めて甘美な響きを孕んでいた。
彼女は薄々感付いている。
声の主は屹度、部下達が探し求めたあの女だろう。
「貴女はまさか……」
『ええ。私はよく知っている。この大和の地の神々が如何に薄情で、身勝手であるかを。私に言わせれば、抑もこの日本という国自体が神々の駄々から始まったようなもの。だから私と一緒に復讐しましょう? 神々を呪い、私と共に同じ樂園を目指すと誓いを立てなさぁい。そうすれば貴女に広目天の称号を譲っても良くってよぉ。私もそろそろ、神瀛帯熾天王を従える真の媛神に繰り上がっても良いと思っていたのでねぇ……』
奏手の心が、あれだけ強気だった彼女の心が揺れる。
貴龍院皓雪の声は今、うっとりする程心地よい響きで彼女に笑いかけていた。