病床に伏す皇奏手に、人知れず悪魔が囁いていた。
嘗ての彼女ならばその誘惑を毅然と撥ね退けたであろうが、今の弱り切った彼女は揺らいでしまう。
声は奏手に妖しく語り掛ける。
『さあ、冀うなら貴女にも授けましょう。憎みなさい、世界を。呪いなさい、大地を。怨みなさい、人々を。殺しなさい、神々を。さあ、今こそ魅惑の果実、黄泉戸喫を求めなさぁい……』
今、奏手の目の前に美女の幻影が佇み、手を差し伸べている。
その手には何やら虹色の球が乗っていた。
禍々しく光る、飴玉を思わせる球である。
「これを手に取れば……これを食べれば……私は生きられるの……? まだ夢の続きを……見られるの……?」
『ええ、勿論よぉ。この貴龍院皓雪、貴女に永遠を約束するわぁ』
「永遠……」
貴龍院皓雪の声が奏手を禁断の道へと誘う。
最早奏手には道が無かった。
癌の症状は異常な速度で悪化し、この分ではいつ命の灯火が尽きても不思議ではない。
彼女の夢は、世界最強の存在になるという壮大かつ無謀な野望、悲願は潰えたも同然である。
だがもしも、もしもここで貴龍院の差し出したものを喰らえば、それで生き存えることが出来るとしたら……。
奏手の口が物欲しげに、自然と開いてしまう。
しかしその時、久しく聞いていなかった声が彼女を引き留めようとする。
『駄目だ、奏手さん! この女には、この女にだけは惑わされるな!』
「魅弦さん……?」
それは彼女の亡き夫・麗真魅弦の声だった。
声だけではない。
今、奏手は頭上に魅弦の幻影を見ていた。
それは貴龍院を押し退け、奏手を思い止まらせようと訴えている。
『この女の口車に乗ってしまったが最後、君の魂は永遠に穢れてしまう! もう二度と、還るべき場所へ還れなくなってしまうんだ!』
『邪魔をするなっ……!』
貴龍院の幻影が魅弦の姿を腕で掻き消した。
しかし、一度は霧状となって消えた魅弦の幻影は再び彼女の目の前に模られる。
『良いかい、奏手さん! この女こそが全ての元凶なんだ! 思い出してみろ、根尾君の報告を! 彼を襲った侯爵・大河當熙は襲撃失敗の直後に急死している! 或いは皇國前総理・小木曽文章! 彼もまた硫黄島防衛戦の直後に急死だ! 二人共、死因は異常に進行の早い癌だった! 全部この女の仕込んだことなんだよ!』
『出鱈目を並べ立てるな!』
『奏手さん! こいつだけは絶対に信じるな!』
『鬱陶しいわねぇっ! だからどうしたというのぉ? どの道私に付いて来なければこの娘は死ぬのよぉ! それとも、貴方は自分の妻にこのまま死ねとぉ? 随分酷い夫だこと!』
幻影同士で争う二人だが、奏手は苦しみと悲しみに堪えなかった。
自分の運命に、ではない。
何より、目の前に顕れた夫に対して自分がしてきたことが重く辛く伸し掛かってくる。
「酷いのは……私の方だわ……」
奏手は魅弦の晩年、政治家としての仕事に明け暮れて身の回りの世話を娘に投げっ放しにしてきた。
母娘仲が険悪になったのはそれが元であるが、奏手としても本意でなかった。
奏手は確かに魅弦のことを愛していた。
しかし、彼女は仕事よりも魅弦を選ぶという選択が取れなかったのだ。
『知っていたさ。全ては魅琴の為だろう?』
魅弦の幻影は悲しげに眼を伏せた。
それは麗真家に纏わる宿命の顛末。
奏手と魅弦、此岸と彼岸に分かたれた妻と夫の悲しい出会いと別れだった。
⦿⦿⦿
皇奏手は麗真魅弦の、良い意味で男性的でない繊細さに惹かれた。
世界最強を志す彼女にとって「男は強く在らねばならぬ」「男は女を護らねばならぬ」といった旧態依然とした価値観は当然反発の対象であった。
そういう意味で、優しくもどこか頼りなく、寧ろ護ってやりたくなるような雰囲気を持った魅弦は打って付けだった。
彼女の好意に、そういった古い価値観への当て付けがあったことは否めないだろう。
しかし同時に、彼女は見抜いていた。
魅弦はその背中に、何やら唯ならぬ重荷を背負っている。
それを共に支えるのは並大抵のことではあるまい。
奏手は、魅弦には自分が必要なのだと確信していた。
二人は結婚し、一子を儲けた。
一人娘の麗真魅琴である。
この時はまさに、幸せの絶頂であった。
優しい夫、充実した仕事、追い掛け甲斐のある夢、そして見目麗しい娘に囲まれた生活は、輝石の様に耀いていた。
だが程無くして、奏手は知ることとなる。
麗真家の運命、皇國の脅威、そして魅弦の父親である麗真魅射の抱く、護国の執念と狂気を。
魅射は息子の魅弦とその姉に苛酷な訓練を強いた。
それが元で魅弦は体を壊してしまっていた。
更に、魅射は孫娘の魅琴に目を付けた。
彼曰く、魅琴は「暴力の神童」である、と。
娘を自分の二の舞にしたくなかった魅弦は、父親から逃亡する決意をした。
奏手も同じ思いだったので、夫を助けることにした。
だが、逃亡劇は魅弦の病によって終止符を打たれた。
魅琴が魅射の手に落ちてしまう――奏手は強い焦燥に駆られた。
この世の闇が自身を隙間無く埋め尽くしていくような気がした。
(私が魅琴ちゃんを護らないと……!)
奏手は一つの決意を固めた。
彼女は意を決して崇神會の本部へと赴き、義父と対峙した。
『御父様、どうか娘から、魅琴から手を引いてはくださいませんか?』
『ならん。おそらく十年以内に皇國は必ずこの世界に顕れる。儂はその時、神州日本を護らねばならん。その為には魅琴の有り余る暴力の才能が必ず必要になる。天皇陛下の為、一億二千万の民の為、魅琴には偽りの帝と戦い散ってもらう』
魅射は俄かには信じ難い答えを返してきた。
余りの言い種に、奏手はつい感情的になってしまう。
『まだ六つの子に何を言うのですか? 義父にこんなことは言いたくはありませんが、貴方は人間ではないわ!』
『その通りだ。儂は護国の鬼となるとあの時決めた。祖国を守る為ならば如何なる犠牲も厭わん。儂も、実の子も、孫も』
『何が護国の鬼ですか! 自分で出来もしないことを未来ある子供達に押し付けて!』
『奏手よ、お前は儂を批難しに来たのか?』
魅射の言葉に、奏手は冷静さを取り戻した。
胸の内には今すぐにでも目の前の男を殺してしまいそうな怒りを押し止めながら、苦い毒を丸呑みするつもりで向き合う。
『つまり、日本を皇國から守れるならば良い訳ですね』
『無論だ。それが全てである』
『なら、私が守ります。私の夢は政治家、それも世界最強の政治家です。私は世界最強の政治家となり、日本をその地位に相応しい国家に育て上げ、皇國から守って見せます』
『ほう……』
魅射は険しい顔で奏手を睨む。
至って真剣な表情――彼女にとって、自分の夢とそのように向き合った相手は魅弦だけだった。
『荒唐無稽、とは言わん。儂のしようとしていることもまたそうなのだから。だが、お前にその覚悟があるか? 儂は自らの願いに全てを犠牲にする覚悟がある。お前はどうなのだ?』
『犠牲……ですか?』
『四方や、このまま魅弦や魅琴との家庭に現を抜かしたまま半端な道を行くつもりではあるまいな。お前の口にした大それた志、そのような甘い覚悟で為せるものではあるまい』
奏手は答えに窮した。
魅射の言うことも解る。
だが、彼女が魅射に直訴しているのは、家族を愛しているからに他ならない。
魅射はそれを棄てろと言っているのだ。
『お前にその覚悟が認められん限り、儂は魅琴から手を引かん。魅弦とは別れてもらう。それが条件じゃ』
奏手は眼を閉じ、一つの息を整える。
気に食わなかった。
魅射の条件を丸々飲まされるのは、自分の立場が弱いが為だ。
此処で折れてしまっては、世界最強など夢のまた夢――奏手は意地を燃やした。
『離婚はしません』
『何?』
『世界最強の政治家になる上で、自分の経歴に傷を付けたくはありませんので』
『そんな道理が通るとでも思うか?』
『ですから、別居します。籍は入れずとも実態は夫婦という事実婚の逆です。私は金輪際、魅弦さんの許には寄り付きません。それでどうですか?』
『成程……』
魅射は少し考え込んだ。
『ならば魅弦と魅琴は麗真家に住まわせる』
『そうですか。その場合、魅琴は普通の娘として育ててくださいね。普通の子同様、学校にも通わせていただきます。でなくては、あの娘から手を引いたとは言えませんので』
『良かろう……』
話は付いた。
この時、奏手は愛する夫から離れることを余儀無くされたのだ。
彼女が魅琴の母親として行動したのは、魅琴が一人の同級生を入院させた謝罪と治療費の支払いに関してのみである。
以後、彼女は魅弦が死ぬまで破綻した夫婦を演じ続けなくてはならなくなった。
⦿⦿⦿
今、死に目にも会えなかった夫・魅弦の幻影を前に、奏手の両目から涙が零れ落ちる。
「魅弦さん……! こんな姿で貴方に逢いたくなんかなかったわ……!」
『何を言っているの? 夫の姿なんて幻覚よ。神為も無しに死んだ人間の姿や声がわかるわけないでしょう?』
貴龍院の声にはやや焦りの色が滲んでいた。
そういう自分も奏手からすれば幻でしかないのだが。
そして、貴龍院の焦りには理由があった。
『くっ……もう来てしまう……!』
何が――奏手が問い掛ける前に、病室の扉が開いた。
入ってきたのはよく見知った若い女だ。
「誰かと話していたのですか、御母様?」
魅琴だった。
今更娘と呼ぶのも憚られる、魅弦との間に生まれた我が子である。
彼女は奏手のベッドの前で辺りを見渡した。
「何か、懐かしい気配がしますが……」
「そ……」
気が付くと、魅弦の幻影はいつの間にか消えている。
奏手は娘に小さく笑みを零した。
(勘の良い娘だ、相変わらず)
今の奏手にはこの娘とやり合う気力など残されていない。
ただそれでも、ありのままに言うのは少し気恥ずかしい。
「貴女に言うと怒られそうで気が引けるわね。それで察して頂戴な」
「成程……」
魅琴は納得したように目を閉じ、そして涼やかな笑みを返した。
「御父様ですか……」
「気も遣って欲しかったわね……」
「御母様、もう一つ答えて欲しいことがあるのですが、訊いても?」
奏手は無言で頷いた。
何を尋ねられるのだろう、娘は何を訊き出したいのだろう――少しの不安を感じながらも、彼女は不思議な清々しさを感じていた。
そんな母の心境を知ってか知らずか、娘は病室の入り口を一瞥した。
「表札を見て驚きました。本名、麗真姓だったんですね」
「ああ……」
魅琴が切り出した言葉に、奏手は一つ溜息を吐いた。
八割方、娘の質問の予想がついた。
それに対する答えは、奏手にとってある意味滑稽な内心の一端を示すものだ。
魅琴は言葉を続ける。
「昔、調べた事があるんです。祖父がどうやって麗真姓に変更したのか気になって、苗字を変える方法について色々と調べました」
「そ、余り興味は無いわね。まあ通ってしまったものは仕方が無い。それがあの男と、貴女、そして私の苗字。それだけのことよ」
「それだけ、の中身をもう少し詳しく聞きたいですね」
魅琴は真に迫る眼で母に問う言葉を続ける。
「調べたうちの一例として、『結婚して姓が変わり、そしてその後配偶者と別れて旧姓に戻る』というものがありました。御母様のように、結婚して夫の姓に変わり、そして夫に先立たれた場合、手続きをして旧姓に戻すかそのまま夫の姓を名乗り続けるか二つの道がありますよね」
「ええ、そうね」
皇奏手は麗真魅弦と結婚し、麗真奏手となった。
その後魅弦は病気で夭逝したが、奏手はそれ以前から旧姓である皇を通称として名乗っていた。
だが戸籍上は、今尚彼女の本名は麗真奏手のままである。
「御母様、貴女の娘にとってとても大事な質問です。どうか本当のことを教えてください。貴女が父の死後、戸籍上の姓を戻さなかったのは何故ですか? ただ手続きが煩わしかったからですか? それとも、もっと別の理由があったのですか? 麗真姓を手放したくない理由が……」
暫しの沈黙が流れる。
それは秋の物侘しさに満ちた、何かの終わりを思わせる沈黙であった。
何かが静かに色褪せていく。
しかしそこには、何処か涼やかな心地良さがあった。
「そうね……」
奏手は観念から、再び小さく微笑んだ。