日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第九十七話『冀望』 序

 病床に伏す皇(すめらぎ)奏(かな)手(で)に、人知れず悪魔が囁(ささや)いていた。

 嘗(かつ)ての彼女ならばその誘惑を毅(き)然(ぜん)と撥(は)ね退けたであろうが、今の弱り切った彼女は揺らいでしまう。

 声は奏(かな)手(で)に妖しく語り掛ける。

 

『さあ、冀(こいねが)うなら貴女(あなた)にも授けましょう。憎みなさい、世界を。呪いなさい、大地を。怨(うら)みなさい、人々を。殺しなさい、神々を。さあ、今こそ魅惑の果実、黄(よ)泉(もつ)戸(へ)喫(ぐひ)を求めなさぁい……』

 

 今、奏(かな)手(で)の目の前に美女の幻影が佇(たたず)み、手を差し伸べている。

 その手には何やら虹色の球が乗っていた。

 禍(まが)々(まが)しく光る、飴(あめ)玉(だま)を思わせる球である。

 

「これを手に取れば……これを食べれば……私(わたくし)は生きられるの……? まだ夢の続きを……見られるの……?」

『ええ、勿(もち)論(ろん)よぉ。この貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)、貴女(あなた)に永遠を約束するわぁ』

「永遠……」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)の声が奏(かな)手(で)を禁断の道へと誘う。

 最(も)早(はや)奏(かな)手(で)には道が無かった。

 癌(がん)の症状は異常な速度で悪化し、この分ではいつ命の灯(ともし)火(び)が尽きても不思議ではない。

 彼女の夢は、世界最強の存在になるという壮大かつ無謀な野望、悲願は潰(つい)えたも同然である。

 

 だがもしも、もしもここで貴(き)龍(りゆう)院(いん)の差し出したものを喰(く)らえば、それで生(い)き存(ながら)えることが出来るとしたら……。

 奏(かな)手(で)の口が物欲しげに、自然と開いてしまう。

 

 しかしその時、久しく聞いていなかった声が彼女を引き留めようとする。

 

『駄目だ、奏(かな)手(で)さん! この女には、この女にだけは惑わされるな!』

「魅(み)弦(つる)さん……?」

 

 それは彼女の亡き夫・麗(うる)真(ま)魅(み)弦(つる)の声だった。

 声だけではない。

 今、奏(かな)手(で)は頭上に魅(み)弦(つる)の幻影を見ていた。

 それは貴(き)龍(りゆう)院(いん)を押(お)し退(の)け、奏(かな)手(で)を思(おも)い止(とど)まらせようと訴えている。

 

『この女の口車に乗ってしまったが最後、君(きみ)の魂は永遠に穢(けが)れてしまう! もう二度と、還(かえ)るべき場所へ還れなくなってしまうんだ!』

『邪魔をするなっ……!』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の幻影が魅(み)弦(つる)の姿を腕で掻(か)き消(け)した。

 しかし、一度は霧状となって消えた魅(み)弦(つる)の幻影は再び彼女の目の前に模(かたど)られる。

 

『良いかい、奏(かな)手(で)さん! この女こそが全ての元凶なんだ! 思い出してみろ、根(ね)尾(お)君の報告を! 彼を襲った侯爵・大(たい)河(が)當(まさ)熙(ひろ)は襲撃失敗の直後に急死している! 或(ある)いは皇(こう)國(こく)前総理・小(お)木(ぎ)曽(そ)文(ふみ)章(あき)! 彼もまた硫黄島防衛戦の直後に急死した! 二人共、死因は異常に進行の早い癌だった! 全部この女の仕込んだことなんだよ!』

『出(で)鱈(たら)目(め)を並べ立てるな!』

『奏(かな)手(で)さん! こいつだけは絶対に信じるな!』

『鬱(うつ)陶(とう)しいわねぇっ! だからどうしたというのぉ? どの道私(あたくし)に付いて来なければこの娘(こ)は死ぬのよぉ! それとも、貴方(あなた)は自分の妻にこのまま死ねとぉ? 随分酷(ひど)い夫だこと!』

 

 幻影同士で争う二人だが、奏(かな)手(で)は苦しみと悲しみに堪えなかった。

 自分の運命に、ではない。

 何より、目の前に顕(あらわ)れた夫に対して自分がしてきたことが重く辛く伸(の)し掛(か)かってくる。

 

「酷いのは……私(わたくし)の方だわ……」

 

 奏(かな)手(で)は魅(み)弦(つる)の晩年、政治家としての仕事に明け暮れて身の回りの世話を娘に投げっ放しにしてきた。

 母娘仲が険悪になったのはそれが元であるが、奏(かな)手(で)としても本意でなかった。

 奏(かな)手(で)は確かに魅(み)弦(つる)のことを愛していた。

 しかし、彼女は仕事よりも魅(み)弦(つる)を選ぶという選択が取れなかったのだ。

 

『知っていたさ。全ては魅(み)琴(こと)の為(ため)だろう?』

 

 魅(み)弦(つる)の幻影は悲しげに眼(め)を伏せた。

 それは麗(うる)真(ま)家に纏(まつ)わる宿命の顛(てん)末(まつ)。

 奏(かな)手(で)と魅(み)弦(つる)、此(し)岸(がん)と彼岸に分かたれた妻と夫の悲しい出会いと別れだった。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 皇(すめらぎ)奏(かな)手(で)は麗(うる)真(ま)魅(み)弦(つる)の、良い意味で男性的でない繊細さに惹(ひ)かれた。

 世界最強を志す彼女にとって「男は強く在らねばならぬ」「男は女を護(まも)らねばならぬ」といった旧態依然とした価値観は当然反発の対象であった。

 そういう意味で、優しくもどこか頼りなく、寧(むし)ろ護ってやりたくなるような雰囲気を持った魅(み)弦(つる)は打って付けだった。

 彼女の好意に、そういった古い価値観への当て付けがあったことは否めないだろう。

 

 しかし同時に、彼女は見抜いていた。

 魅(み)弦(つる)はその背中に、何やら唯(ただ)ならぬ重荷を背負っている。

 それを共に支えるのは並大抵のことではあるまい。

 奏(かな)手(で)は、魅(み)弦(つる)には自分が必要なのだと確信していた。

 

 二人は結婚し、一子を儲けた。

 一人娘の麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)である。

 この時はまさに、幸せの絶頂であった。

 優しい夫、充実した仕事、追い掛け甲斐のある夢、そして見目麗(うるわ)しい娘に囲まれた生活は、輝(き)石(せき)の様に耀(かがや)いていた。

 

 だが程無くして、奏(かな)手(で)は知ることとなる。

 麗(うる)真(ま)家の運命、皇(こう)國(こく)の脅威、そして魅(み)弦(つる)の父親である麗(うる)真(ま)魅(み)射(いる)の抱く、護国の執念と狂気を。

 魅(み)射(いる)は息子の魅(み)弦(つる)とその姉に苛酷な訓練を強いた。

 それが元で魅(み)弦(つる)は体を壊してしまっていた。

 

 更に、魅(み)射(いる)は孫娘の魅(み)琴(こと)に目を付けた。

 彼曰(いわ)く、魅(み)琴(こと)は「暴力の神童」である、と。

 娘を自分の二の舞にしたくなかった魅(み)弦(つる)は、父親から逃亡する決意をした。

 奏(かな)手(で)も同じ思いだったので、夫を助けることにした。

 

 だが、逃亡劇は魅(み)弦(つる)の病によって終止符を打たれた。

 魅(み)琴(こと)が魅(み)射(いる)の手に落ちてしまう――奏(かな)手(で)は強い焦燥に駆られた。

 この世の闇が自身を隙間無く埋め尽くしていくような気がした。

 

(私(わたくし)が魅(み)琴(こと)ちゃんを護らないと……!)

 

 奏(かな)手(で)は一つの決意を固めた。

 彼女は意を決して崇(す)神(じん)會(かい)の本部へと赴(おもむ)き、義父と対(たい)峙(じ)した。

 

『御(お)父(とう)様(さま)、どうか娘から、魅(み)琴(こと)から手を引いてはくださいませんか?』

『ならん。おそらく十年以内に皇(こう)國(こく)は必ずこの世界に顕れる。儂(わし)はその時、神州日本を護らねばならん。その為には魅(み)琴(こと)の有り余る暴力の才能が間違い無く必要になる。天皇陛下の為、一億二千万の民の為、魅(み)琴(こと)には偽りの帝(みかど)と戦い散ってもらう』

 

 魅(み)射(いる)は俄(にわ)かには信じ難(がた)い答えを返してきた。

 余りの言(い)い種(ぐさ)に、奏(かな)手(で)はつい感情的になってしまう。

 

『まだ六つの子に何を言うのですか? 義父にこんなことは言いたくはありませんが、貴方(あなた)は人間ではないわ!』

『その通りだ。儂(わし)は護国の鬼となるとあの時決めた。祖国を守る為ならば如(い)何(か)なる犠牲も厭(いと)わん。儂(わし)も、実の子も、孫も』

『何が護国の鬼ですか! 自分で出来もしないことを未来ある子供達に押し付けて!』

『奏(かな)手(で)よ、お前は儂(わし)を批難しに来たのか?』

 

 魅(み)射(いる)の言葉に、奏(かな)手(で)は冷静さを取り戻した。

 胸の内には今すぐにでも目の前の男を殺してしまいそうな怒りを押(お)し止(とど)めながら、苦い毒を丸(まる)呑(の)みするつもりで向き合う。

 

『つまり、日本を皇(こう)國(こく)から守れるならば良い訳ですね』

『無論だ。それが全てである』

『なら、私(わたくし)が守ります。私(わたくし)の夢は政治家、それも世界最強の政治家です。私(わたくし)は世界最強の政治家となり、日本をその地位に相(ふ)応(さわ)しい国家に育て上げ、皇(こう)國(こく)から守って見せます』

『ほう……』

 

 魅(み)射(いる)は険しい顔で奏(かな)手(で)を睨(にら)む。

 至って真剣な表情――彼女にとって、自分の夢とそのように向き合った相手は魅(み)弦(つる)だけだった。

 

『荒唐無稽、とは言わん。儂(わし)のしようとしていることもまたそうなのだから。だが、お前にその覚悟があるか? 儂(わし)は自らの願いに全てを犠牲にする覚悟がある。お前はどうなのだ?』

『犠牲……ですか?』

『四(よ)方(も)や、このまま魅(み)弦(つる)や魅(み)琴(こと)との家庭に現を抜かしたまま半端な道を行くつもりではあるまいな。お前の口にした大それた志、そのような甘い覚悟で為(な)せるものではあるまい』

 

 奏(かな)手(で)は答えに窮した。

 魅(み)射(いる)の言うことも解(わか)る。

 だが、彼女が魅(み)射(いる)に直(じき)訴(そ)しているのは、家族を愛しているからに他ならない。

 魅(み)射(いる)はそれを棄(す)てろと言っているのだ。

 

『お前にその覚悟が認められん限り、儂(わし)は魅(み)琴(こと)から手を引かん。魅(み)弦(つる)とは別れてもらう。それが条件じゃ』

 

 奏(かな)手(で)は眼を閉じ、一つの息を整える。

 気に食わなかった。

 魅(み)射(いる)の条件を丸々飲まされるのは、自分の立場が弱いが為だ。

 此(こ)処(こ)で折れてしまっては、世界最強など夢のまた夢――奏(かな)手(で)は意地を燃やした。

 

『離婚はしません』

『何?』

『世界最強の政治家になる上で、自分の経歴に傷を付けたくはありませんので』

『そんな道理が通るとでも思うか?』

『ですから、別居します。籍は入れずとも実態は夫婦という事実婚の逆です。私(わたくし)は金輪際、魅(み)弦(つる)さんの許(もと)には寄り付きません。それでどうですか?』

『成程……』

 

 魅(み)射(いる)は少し考え込んだ。

 

『ならば魅(み)弦(つる)と魅(み)琴(こと)は麗(うる)真(ま)家に住まわせる』

『そうですか。その場合、魅(み)琴(こと)は普通の娘として育ててくださいね。普通の子同様、学校にも通わせていただきます。でなくては、あの娘から手を引いたとは言えませんので』

『良かろう……』

 

 話は付いた。

 この時、奏(かな)手(で)は愛する夫から離れることを余儀無くされたのだ。

 彼女が魅(み)琴(こと)の母親として行動したのは、魅(み)琴(こと)が一人の同級生を入院させた謝罪と治療費の支払いに関してのみである。

 以後、彼女は魅(み)弦(つる)が死ぬまで破(は)綻(たん)した夫婦を演じ続けなくてはならなくなった。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 今、死に目にも会えなかった夫・魅(み)弦(つる)の幻影を前に、奏(かな)手(で)の両目から涙が零(こぼ)れ落(お)ちる。

 

「魅(み)弦(つる)さん……! こんな姿で貴方(あなた)に逢(あ)いたくなんかなかったわ……!」

『何を言っているの? 夫の姿なんて幻覚よ。神(しん)為(い)も無しに死んだ人間の姿や声がわかるわけないでしょう?』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の声にはやや焦りの色が滲(にじ)んでいた。

 そういう自分も奏(かな)手(で)からすれば幻でしかないのだが。

 そして、貴(き)龍(りゆう)院(いん)の焦りには理由があった。

 

『くっ……もう来てしまう……!』

 

 何が――奏(かな)手(で)が問い掛ける前に、病室の扉が開いた。

 入ってきたのはよく見知った若い女だ。

 

「誰かと話していたのですか、御(お)母(かあ)様(さま)?」

 

 魅(み)琴(こと)だった。

 今更娘と呼ぶのも憚(はばか)られる、魅(み)弦(つる)との間に生まれた我が子である。

 彼女は奏(かな)手(で)のベッドの前で辺りを見渡した。

 

「何か、懐かしい気配がしますが……」

「そ……」

 

 気が付くと、魅(み)弦(つる)の幻影はいつの間にか消えている。

 奏(かな)手(で)は娘に小さく笑みを零(こぼ)した。

 

(勘の良い娘(こ)だ、相変わらず)

 

 今の奏(かな)手(で)にはこの娘とやり合う気力など残されていない。

 ただそれでも、ありのままに言うのは少し気恥ずかしい。

 

「貴女(あなた)に言うと怒られそうで気が引けるわね。それで察して頂戴な」

「成程……」

 

 魅(み)琴(こと)は納得したように目を閉じ、そして涼やかな笑みを返した。

 

「御父様ですか……」

「気も遣って欲しかったわね……」

「御母様、もう一つ答えて欲しいことがあるのですが、訊(き)いても?」

 

 奏(かな)手(で)は無言で頷(うなず)いた。

 何を尋ねられるのだろう、娘は何を訊き出したいのだろう――少しの不安を感じながらも、彼女は不思議な清(すが)々(すが)しさを感じていた。

 そんな母の心境を知ってか知らずか、娘は病室の入り口を一(いち)瞥(べつ)した。

 

「表札を見て驚きました。本名、麗(うる)真(ま)姓だったんですね」

「ああ……」

 

 魅(み)琴(こと)が切り出した言葉に、奏(かな)手(で)は一つ溜息を吐いた。

 八割方、娘の質問の予想がついた。

 それに対する答えは、奏(かな)手(で)にとってある意味滑稽な内心の一端を示すものだ。

 魅(み)琴(こと)は言葉を続ける。

 

「昔、調べた事があるんです。祖父がどうやって麗(うる)真(ま)姓に変更したのか気になって、苗(みよう)字(じ)を変える方法について色々と調べました」

「そ、余り興味は無いわね。まあ通ってしまったものは仕方が無い。それがあの男(ひと)と、貴女(あなた)、そして私(わたくし)の苗字。それだけのことよ」

「それだけ、の中身をもう少し詳しく聞きたいですね」

 

 魅(み)琴(こと)は真に迫る眼で母に問う言葉を続ける。

 

「調べたうちの一例として、『結婚して姓が変わり、そしてその後配偶者と別れて旧姓に戻る』というものがありました。御母様のように、結婚して夫の姓に変わり、そして夫に先立たれた場合、手続きをして旧姓に戻すかそのまま夫の姓を名乗り続けるか二つの道がありますよね」

「ええ、そうね」

 

 皇(すめらぎ)奏(かな)手(で)は麗(うる)真(ま)魅(み)弦(つる)と結婚し、麗(うる)真(ま)奏(かな)手(で)となった。

 その後魅(み)弦(つる)は病気で夭(よう)逝(せい)したが、奏(かな)手(で)はそれ以前から旧姓である皇(すめらぎ)を通称として名乗っていた。

 だが戸籍上は、今(いま)尚(なお)彼女の本名は麗(うる)真(ま)奏(かな)手(で)のままである。

 

「御母様、貴女(あなた)の娘にとってとても大事な質問です。どうか本当のことを教えてください。貴女(あなた)が父の死後、戸籍上の姓を戻さなかったのは何故(なぜ)ですか? ただ手続きが煩わしかったからですか? それとも、もっと別の理由があったのですか? 麗(うる)真(ま)姓を手放したくない理由が……」

 

 暫(しば)しの沈黙が流れる。

 それは秋の物侘(わび)しさに満ちた、何かの終わりを思わせる沈黙であった。

 何かが静かに色(いろ)褪(あ)せていく。

 しかしそこには、何処(どこ)か涼やかな心地良さがあった。

 

「そうね……」

 

 奏(かな)手(で)は観念して、再び小さく微(ほほ)笑(え)んだ。

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