日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第九十七話『冀望』 破

 奏(かな)手(で)には予感があった。

 おそらく、娘とゆっくり話が出来るのはこれが最後であろう。

 そう考えると、今こそ伝えておきたいことが次から次へと溢(あふ)れてくる。

 全ては叶(かな)うまい。

 

 ならば、娘が聞きたいことには答えられる限り答えよう。

 奏(かな)手(で)が口を開いたのは、そんな思いからだった。

 

「彼と……繋(つな)がっていたかったの。あの時から私(わたくし)は魅(み)弦(つる)さんと殆(ほとん)ど一緒に居られなかった。皇(すめらぎ)姓を名乗り、家庭を顧みずに夢ばかり追い掛けてきたけれど、それでも心は彼から離れられなかった。旧姓に戻してしまうと、私(わたくし)達が夫婦であったことそのものが嘘(うそ)偽りになってしまうような気がして、戻せなかった……」

 

 それは奏(かな)手(で)の素直な気持ちだった。

 魅(み)琴(こと)からすれば「何を今更」と怒らせてしまうかも知れない。

 端から見れば夫のことを棄(す)てたも同然である。

 だがそれでも、今の奏(かな)手(で)は自分に嘘は吐けなかった。

 

「愛していたの、彼を。信じてもらえないかも知れないけれど……」

「そう……ですか……」

 

 魅(み)琴(こと)の反応は静かだった。

 何(ど)処(こ)か納得しているようにも見える。

 もしかすると、薄々感付いていたのか。

 

「日本へ帰ってきて、病室で色々と考えました。今までの自分のこと、本当の想(おも)い……。そんな中で、ふと気が付いたんです」

 

 魅(み)琴(こと)は語り出した。

 奏(かな)手(で)は時々ゆっくりと頷(うなず)きながら聞いている。

 

「以前の私(わたし)は、日本を守る為(ため)に決死の戦いを挑むに当たり、航(わたる)のことを吹っ切ろうとしました。実際は未練を却(なか)々(なか)断ち切れませんでしたが、最後は敢(あ)えて彼に辛く当たって酷(ひど)い事をしてしまいました。でも、私(わたし)は彼を愛していた」

「そう……」

「だからもしかしたら、御(お)母(かあ)様(さま)も同じだったのではないかと思ったんです。御母様は本当は御(お)父(とう)様(さま)のことを愛していた。けれども何か事情があって、冷たくしなければならなかったんじゃないかって……」

 

 母と娘、二人の視線が交錯する。

 今、彼女達の心は嘗(かつ)て無い程に通じ合っている。

 

「御母様、もしかしてその事情というのは、私(わたし)の為ですか?」

「言っておくけれど、貴女(あなた)の想像している程純粋なものではないわ、私(わたくし)の想いは」

 

 奏(かな)手(で)は誤解されたくなかった。

 自分に全くの非が無く、良い母親だったなどと思われるのも心外だ。

 それでは魅(み)琴(こと)が却(かえ)って自分と魅(み)弦(つる)の晩年を気に病んで、傷付いてしまう。

 そのようなことは全く本意では無い――だから彼女は敢えて言わなければならなかった。

 

「病に伏した魅(み)弦(つる)さんに構わず自分のことにばかり感(かま)け続けたのは、百パーセントではないけれども自分の思い通りだった。已(や)むを得(え)ない事情というのも、半分は夢に専念出来るという言い訳だったわ。貴女(あなた)のこともそうよ。母親として貴女(あなた)を守ろうとする一方で、政治家として貴女(あなた)の才覚を利用しようともした。どちらも私(わたくし)という人間の偽り得ぬ一面。そういう半端者なのよ、私(わたくし)は」

 

 奏(かな)手(で)は自嘲する。

 嘗て義父から問われた言葉を思い出していた。

 結局自分は、夢に徹し切る覚悟に欠けていたのだ。

 そんな人間の手に、世界最強の座が届く筈(はず)も無かった。

 

「一層夢を諦められれば楽だったのに……。願わくは、魅(み)弦(つる)さんと貴女(あなた)、三人で普通の家族として生きていきたかった……」

「しかし、御(お)爺(じい)様(さま)が居ましたからね……」

「全くだわ、忌々しい……」

「御爺様のことはやはりお嫌いですか?」

「当然だわ。魅(み)弦(つる)さんを死に追(お)い遣(や)った元凶、私(わたくし)と家族を離れ離れにさせた男。ただ、あの男が居なければ私(わたくし)はあそこまで上り詰めることなど出来なかったでしょうね。私(わたくし)が政治家として力を付けたのは、皇(こう)國(こく)の脅威という情報に逸(いち)早(はや)く触れ、皇(こう)國(こく)を知る第一人者となれたからだった。そういう恩もあるのが、また憤(ふん)懣(まん)遣(や)る方無いわ」

「だと思います。日本を守ろうとしたことは間違い無いでしょうが、確実に碌(ろく)な人間ではありませんでしたからね」

「ただ、今思うと義父も人の子だったのかも知れない。結局貴女(あなた)を普通の娘として育ててくれたみたいだし」

「そうですね。その御(お)陰(かげ)で却って私(わたし)の決意が固くなってしまったところもありますが……」

「貴女(あなた)は良い出会いに恵まれたのね……」

 

 奏(かな)手(で)は溜息を吐いた。

 一つの罪悪感が彼女に降り掛かる。

 

「貴女(あなた)のお友達の久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)さん、彼女には悪いことをしてしまったわ。嘸(さぞ)かし私(わたくし)を憎んだのでしょうね。今のこの様を見て、少しは溜(りゆう)飲(いん)を下げてくれるかしら……」

「彼女はそんな娘(こ)じゃありませんよ。私(わたし)の知る久(く)住(ずみ)さんは優しい娘(こ)です。いつも私(わたし)や周りの人のことを気に掛けて、放っておけない。出来る限り力になろうとする――そんな優しさを自然に持った娘(こ)でした。彼女には色々なことを教えてもらいました。大好きな漫画やアニメのことだけじゃなく、大切なことを……。本当に、大切な友達だったんです」

「成程、有難いことね。益(ます)々(ます)謝らなくてはならないわ。それから、お礼も言っておかないと……」

 

 魅(み)琴(こと)の言葉で、奏(かな)手(で)は久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)という人物の輪郭が掴(つか)めたような気がした。

 勿(もち)論(ろん)、娘の云(い)う双(ふた)葉(ば)の為人(ひととなり)は一面ではあるが、全てではないだろう。

 だが、思い出とはそういうものだ。

 愛する者の記憶は美化されるのが必然である。

 

 奏(かな)手(で)は信じている。

 その美しさこそ、愛する人が自分に贈った大いなる遺産に違い無い。

 愛する人と共に生きた時間は美麗を残して洗練され、軈(やが)て自らの人生を輝かせる光となる。

 奏(かな)手(で)は魅(み)弦(つる)の記憶が美化されたものだと承知しながら、その美しさこそが此(こ)処(こ)まで自分を歩ませたのだと信じて已(や)まなかった。

 

「それと、貴女(あなた)が出会った素敵な人といえば、忘れてはいけない相手が居るわよね?」

 

 そして、奏(かな)手(で)は思い至る。

 娘もまた、掛け替えの無い相手と出会っている筈だ。

 是非とも訊(き)いておきたい。

 

「岬(さき)守(もり)航(わたる)君、彼とはどうなの?」

「随分と、ぶっちゃけた質問ですね」

「良いじゃない。母親にばかり惚(のろ)気(け)話をさせていないで、ね? 今度は貴女(あなた)のことが聞きたいわ」

 

 奏(かな)手(で)は悪戯(いたずら)っぽく、我(わが)儘(まま)に甘えて見せた。

 そんな子供のような母親の様子に、魅(み)琴(こと)も慣れている。

 仕方が無い、とでも言いたげに溜息を吐いた。

 

「彼とは今、恋人としてお付き合いをさせて頂いています。まだ付き合いだしたばかりですが、私(わたし)はこのまま彼と一緒になりたいと思っています」

「そ、良いと思うわ」

 

 止める理由は無かった。

 奏(かな)手(で)としても、岬(さき)守(もり)航(わたる)には全く悪感情が無い。

 寧(むし)ろ、娘に関しては誰よりも彼に感謝していた。

 

「あっさりと許すんですね」

「私(わたくし)も彼のことは気に入っているからね。なんとなく、昔の魅(み)弦(つる)さんと雰囲気が似ている。まあ比べるとちょっと俗っぽいところはあるけれど、芯の強さは魅(み)弦(つる)さんよりもずっと上かも知れない。彼は、岬(さき)守(もり)航(わたる)君は素晴らしい人だと思うわ」

「ええ、本当に……」

 

 魅(み)琴(こと)の眼(め)が潤んでいる。

 というより、彼女の姿そのものが滲(にじ)んで見えていた。

 奏(かな)手(で)は今、何やら大きな感慨の中に居る。

 それが彼女に次の言葉を与え、それでいて喉から出せずに詰まらせていた。

 

 だがそんな中、母娘二人の時間に水を差す無粋な者が居た。

 幻聴が奏(かな)手(で)に訴えかける。

 

『何を娘などに絆(ほだ)されているのぉ? 今まで夢の為に夫を棄てて娘を利用し尽くしてきた癖にぃ! 浅ましい祖母の呪いを克服したいという切望を思い出しなさぁい! たかだか娘への情の為に目の前にある可能性を棒に振ってはいけないわぁ! 畢(ひつ)竟(きよう)、娘がどうなろうと貴女(あなた)には関係無いじゃなぁい!』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の声は奏(かな)手(で)だけに聞こえているようだ。

 心做しか、彼女の声から怒りを感じる。

 血縁への情、それを憎んでいるのだろうか。

 

 しかし、貴(き)龍(りゆう)院(いん)の言葉が返って奏(かな)手(で)の中で一つの蟠(わだかま)りを氷解させた。

 長年心の奥底に刺さっていた棘(とげ)が抜けた様だ。

 

(そうか、関係無いのか。祖母のことなんか、魅(み)琴(こと)のこれからの人生には毛程も……)

 

 能(よ)く考えてみれば、自分は魅(み)琴(こと)に自身の親のことは何も話していない。

 つまり、娘は知らないのだ。

 奏(かな)手(で)が母親から何を教わり、何に縛られて、抗(あらが)って、世界最強を志したのか、全く見当も付かないであろう。

 

 魅(み)琴(こと)は生きていく。

 死地に赴(おもむ)きながら帰還して、自分よりも弱い、しかし真に愛すべき相手と結ばれて、生きていく。

 祖母も母も、そして自分さえも過去に変えて、全く無関係に娘は未来へ歩むのだ。

 そうして、時が来ればまた彼女の道も次の世代へと繋がるだろう。

 

 これから娘が歩く道には、自身が背負った呪いなど露程も残らない。

 思えば魅(み)琴(こと)が生まれたその瞬間、奏(かな)手(で)を潜在的に苦しめてきた血の枷(かせ)は消えることを運命付けられていたのだ。

 

「御母様……?」

 

 困惑する魅(み)琴(こと)の顔を朧(おぼろ)気(げ)に認めた奏(かな)手(で)は、初めて自分の両目から溢れた涙に気が付いた。

 

「ありがとう、魅(み)琴(こと)ちゃん……」

「え?」

「貴女(あなた)が生まれてきてくれて、本当に良かった……」

 

 奏(かな)手(で)は自分の涙を拭いた。

 今、娘と向き合う表情に涙など一滴も残したくはない。

 愛した人との間に生まれ、自分を救ってくれた娘の顔をもっと好(よ)く見ていたい。

 

 そんな母に、娘は微(ほほ)笑(え)んだ。

 我が子ながらなんと美しい娘だろうか。

 天使か、女神か……。

 魅(み)琴(こと)は奏(かな)手(で)に言葉を返す。

 

「御母様の方こそ、私(わたし)をこの世に産んでくださり、ありがとうございます。生かしてくださり、ありがとうございます。貴女(あなた)が強く在ってくださったから、私(わたし)は此処で彼との仲を貴女(あなた)に報告出来ています」

「そ。だったら、私(わたくし)の人生にも意味があったということね。貴女(あなた)の人生に、少しでも良い影響を与えられたのなら……」

「あら、何を仰(おつしや)るのですか?」

 

 魅(み)琴(こと)は意外といった風に眼を丸くしていた。

 

「私(わたし)は自分で自分を強いと確信していますが、その強さはどう考えても貴女(あなた)から受け継いだものですよ。誰かを護(まも)る意志を御爺様や御父様から、それを曲げない強さを御母様から贈られたのだと思っています。みんな完璧ではありませんし、悪いところもあったでしょう。でも、渡された美しいものを大切にしながら、感謝を胸に抱いて生きていくんです。私(わたし)は生まれの誇りを、そういうものだと考えています。その積み重ねこそが、私(わたし)達が護ってきた日本という国の伝統なのではないでしょうか」

 

 娘の言葉を聞いた奏(かな)手(で)は今、羽が生えた様な気分だった。

 屹(きつ)度(と)病など嘘で、世界の果てまでも飛んで行けるだろう。

 夢の様な多幸感。

 だが余りにも綺(き)麗(れい)な感覚が、逆に自身の終(しゆう)焉(えん)を実感させる。

 

「出(しゆつ)藍(らん)の誉(ほま)れね……」

 

 言葉を口にして、奏(かな)手(で)は思い出した。

 いつだったか、母親にも同じ事を言われた気がする。

 奏(かな)手(で)の母は資産家の三男坊と結婚したものの、子宝には却々恵まれなかったらしい。

 当時には珍しく、三十代も半ばを過ぎてからの出産だった。

 

 そんな母だったので、奏(かな)手(で)の教育には熱心だった。

 そんな奏(かな)手(で)が政治家を志すと言い出したとき、母から告げられた言葉がまさに「出藍の誉れ」だった。

 

 思えば母は呪いだけでなく、意志の強さも育んでくれたのだろう。

 あんな祖母も母に何かを残したのかも知れない。

 強さは国の為に戦った祖父からのものか。

 

 何(いず)れにせよ、奏(かな)手(で)にはもう思い残すことは無かった。

 奏(かな)手(で)という個人が終焉を迎えても、それは自身の滅びを意味するのではない。

 自分の繋がる誰もが娘の中で生き続け、娘に繋がる誰もがまた次に繋がるのだ。

 呪いだけを過去に変え、美しさだけを磨き上げながら……。

 

「最(も)早(はや)私(わたくし)から貴女(あなた)に言えることは殆ど無いでしょう。でもこれだけは言わせなさい」

「はい」

 

 不思議な静寂の中奏(かな)手(で)は、おそらく娘に贈る最後の言葉を口にする。

 

「貴女(あなた)は貴女(あなた)の愛する人と、幸せな人生を後悔無く歩み切りなさい」

 

 魅(み)琴(こと)は母の言葉を咀(そ)嚼(しやく)する様に頷き、答えを返す。

 

「はい。私(わたし)は御母様の様に強く生き、御父様の様に素敵な人と、幸せになります」

「……宜(よろ)しい」

 

 暫(しば)しの沈黙が病室に流れた。

 差し込む日は傾き始めたが、この空間の全てが太陽の巡りに拠(よ)って刻まれる一秒一秒を深く惜しんでいるかの様だ。

 だが、別れの時は来る。

 誰しもに、平等に。

 

 魅(み)琴(こと)はゆっくりと息を吸い込み、そして奏(かな)手(で)に告げてきた。

 

「では御母様、私(わたし)はもう行きます」

「ええ」

「どうか、お大事に」

「貴女(あなた)も、どうか末永く健やかに……」

 

 また来てね、とは言わなかった。

 もう充分、母と娘の言葉は交わした。

 後はもう、娘に輝かしい未来があれば良い。

 

 奏(かな)手(で)は一礼する魅(み)琴(こと)を穏やかに微笑みながら見送った。

 病室の扉が閉まり、外界と隔たれ、再び孤独が包み込む。

 

「扨(さ)て、と……」

 

 奏(かな)手(で)は寝台(ベッド)に身体を預けて眼を閉じた。

 目蓋の裏には怒りの形相を浮かべる女の幻影が浮かぶ。

 

『答えを訊きましょうか』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は眉(み)間(けん)に皺(しわ)を寄せて奏(かな)手(で)へ尋ねてきた。

 しかし、答えは決まり切っている。

 

「お断りしますわ。私(わたくし)にはもうこの世に未練など無い。神々をお恨み申し上げる理由も無い。だって既に、遙(はる)か昔に大いなる恵みを、私(わたくし)の本当の望みを与えてくださっていたのだもの……」

『そう、残念だわぁ。だったら貴女(あなた)はこのまま死になさぁい……』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の幻影は目蓋からゆっくりと、恨めしそうに消えていった。

 代わりに顕(あらわ)れたのは亡き夫・麗(うる)真(ま)魅(み)弦(つる)の姿だった。

 

(魅(み)弦(つる)さん、私(わたくし)はここまでみたい。夢の果てならばこれからは二人で見守りましょう。二人一緒に、あの娘(こ)と彼の行く末を……)

 

 そう念じた奏(かな)手(で)は、魅(み)弦(つる)に抱き締められた様な気がした。

 愛する人が迎えに来てくれたのだろうか。

 

 静かに眠った奏(かな)手(で)は翌々日に容態が急変。

 十月十四日水曜日、皇(すめらぎ)奏(かな)手(で)――本名・麗(うる)真(ま)奏(かな)手(で)――激動の時代に皇(こう)國(こく)と戦う天命を負って駆け抜けたかのような女の生涯は、最(さい)期(ご)は一人の母親としてその幕を閉じた。

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