奏手には予感があった。
おそらく、娘とゆっくり話が出来るのはこれが最後であろう。
そう考えると、今こそ伝えておきたいことが次から次へと溢れてくる。
全ては叶うまい。
ならば、娘が聞きたいことには答えられる限り答えよう。
奏手が口を開いたのは、そんな思いからだった。
「彼と……繋がっていたかったの。あの時から私は魅弦さんと殆ど一緒に居られなかった。皇姓を名乗り、家庭を顧みずに夢ばかり追い掛けてきたけれど、それでも心は彼から離れられなかった。旧姓に戻してしまうと、私達が夫婦であったことそのものが嘘偽りになってしまうような気がして、戻せなかった……」
それは奏手の素直な気持ちだった。
魅琴からすれば「何を今更」と怒らせてしまうかも知れない。
端から見れば夫のことを棄てたも同然である。
だがそれでも、今の奏手は自分に嘘は吐けなかった。
「愛していたの、彼を。信じてもらえないかも知れないけれど……」
「そう……ですか……」
魅琴の反応は静かだった。
何処か納得しているようにも見える。
もしかすると、薄々感付いていたのか。
「日本へ帰ってきて、病室で色々と考えました。今までの自分のこと、本当の想い……。そんな中で、ふと気が付いたんです」
魅琴は語り出した。
奏手は時々ゆっくりと頷きながら聞いている。
「以前の私は、日本を守る為に決死の戦いを挑むに当たり、航のことを吹っ切ろうとしました。実際は未練を却々断ち切れませんでしたが、最後は敢えて彼に辛く当たって酷い事をしてしまいました。でも、私は彼を愛していた」
「そう……」
「だからもしかしたら、御母様も同じだったのではないかと思ったんです。御母様は本当は御父様のことを愛していた。けれども何か事情があって、冷たくしなければならなかったんじゃないかって……」
母と娘、二人の視線が交錯する。
今、彼女達の心は嘗て無い程に通じ合っている。
「御母様、もしかしてその事情というのは、私の為ですか?」
「言っておくけれど、貴女の想像している程純粋なものではないわ、私の想いは」
奏手は誤解されたくなかった。
自分に全くの非が無く、良い母親だったなどと思われるのも心外だ。
それでは魅琴が却って自分と魅弦の晩年を気に病んで、傷付いてしまう。
そのようなことは全く本意では無い――だから彼女は敢えて言わなければならなかった。
「病に伏した魅弦さんに構わず自分のことにばかり感け続けたのは、百パーセントではないけれども自分の思い通りだった。已むを得ない事情というのも、半分は夢に専念出来るという言い訳だったわ。貴女のこともそうよ。母親として貴女を守ろうとする一方で、政治家として貴女の才覚を利用しようともした。どちらも私という人間の偽り得ぬ一面。そういう半端者なのよ、私は」
奏手は自嘲する。
嘗て義父から問われた言葉を思い出していた。
結局自分は、夢に徹し切る覚悟に欠けていたのだ。
そんな人間の手に、世界最強の座が届く筈も無かった。
「一層夢を諦められれば楽だったのに……。願わくは、魅弦さんと貴女、三人で普通の家族として生きていきたかった……」
「しかし、御爺様が居ましたからね……」
「全くだわ、忌々しい……」
「御爺様のことはやはりお嫌いですか?」
「当然だわ。魅弦さんを死に追い遣った元凶、私と家族を離れ離れにさせた男。ただ、あの男が居なければ私はあそこまで上り詰めることなど出来なかったでしょうね。私が政治家として力を付けたのは、皇國の脅威という情報に逸早く触れ、皇國を知る第一人者となれたからだった。そういう恩もあるのが、また憤懣遣る方無いわ」
「だと思います。日本を守ろうとしたことは間違い無いでしょうが、確実に碌な人間ではありませんでしたからね」
「ただ、今思うと義父も人の子だったのかも知れない。結局貴女を普通の娘として育ててくれたみたいだし」
「そうですね。その御陰で却って私の決意が固くなってしまったところもありますが……」
「貴女は良い出会いに恵まれたのね……」
奏手は溜息を吐いた。
一つの罪悪感が彼女に降り掛かる。
「貴女のお友達の久住双葉さん、彼女には悪いことをしてしまったわ。嘸かし私を憎んだのでしょうね。今のこの様を見て、少しは溜飲を下げてくれるかしら……」
「彼女はそんな娘じゃありませんよ。私の知る久住さんは優しい娘です。いつも私や周りの人のことを気に掛けて、放っておけない。出来る限り力になろうとする――そんな優しさを自然に持った娘でした。彼女には色々なことを教えてもらいました。大好きな漫画やアニメのことだけじゃなく、大切なことを……。本当に、大切な友達だったんです」
「成程、有難いことね。益々謝らなくてはならないわ。それから、お礼も言っておかないと……」
魅琴の言葉で、奏手は久住双葉という人物の輪郭が掴めたような気がした。
勿論、娘の云う双葉の為人は一面ではあるが、全てではないだろう。
だが、思い出とはそういうものだ。
愛する者の記憶は美化されるのが必然である。
奏手は信じている。
その美しさこそ、愛する人が自分に贈った大いなる遺産に違い無い。
愛する人と共に生きた時間は美麗を残して洗練され、軈て自らの人生を輝かせる光となる。
奏手は魅弦の記憶が美化されたものだと承知しながら、その美しさこそが此処まで自分を歩ませたのだと信じて已まなかった。
「それと、貴女が出会った素敵な人といえば、忘れてはいけない相手が居るわよね?」
そして、奏手は思い至る。
娘もまた、掛け替えの無い相手と出会っている筈だ。
是非とも訊いておきたい。
「岬守航君、彼とはどうなの?」
「随分と、ぶっちゃけた質問ですね」
「良いじゃない。母親にばかり惚気話をさせていないで、ね? 今度は貴女のことが聞きたいわ」
奏手は悪戯っぽく、我儘に甘えて見せた。
そんな子供のような母親の様子に、魅琴も慣れている。
仕方が無い、とでも言いたげに溜息を吐いた。
「彼とは今、恋人としてお付き合いをさせて頂いています。まだ付き合いだしたばかりですが、私はこのまま彼と一緒になりたいと思っています」
「そ、良いと思うわ」
止める理由は無かった。
奏手としても、岬守航には全く悪感情が無い。
寧ろ、娘に関しては誰よりも彼に感謝していた。
「あっさりと許すんですね」
「私も彼のことは気に入っているからね。なんとなく、昔の魅弦さんと雰囲気が似ている。まあ比べるとちょっと俗っぽいところはあるけれど、芯の強さは魅弦さんよりもずっと上かも知れない。彼は、岬守航君は素晴らしい人だと思うわ」
「ええ、本当に……」
魅琴の眼が潤んでいる。
というより、彼女の姿そのものが滲んで見えていた。
奏手は今、何やら大きな感慨の中に居る。
それが彼女に次の言葉を与え、それでいて喉から出せずに詰まらせていた。
だがそんな中、母娘二人の時間に水を差す無粋な者が居た。
幻聴が奏手に訴えかける。
『何を娘などに絆されているのぉ? 今まで夢の為に夫を棄てて娘を利用し尽くしてきた癖にぃ! 浅ましい祖母の呪いを克服したいという切望を思い出しなさぁい! たかだか娘への情の為に目の前にある可能性を棒に振ってはいけないわぁ! 畢竟、娘がどうなろうと貴女には関係無いじゃなぁい!』
貴龍院の声は奏手だけに聞こえているようだ。
心做しか、彼女の声から怒りを感じる。
血縁への情、それを憎んでいるのだろうか。
しかし、貴龍院の言葉が返って奏手の中で一つの蟠りを氷解させた。
長年心の奥底に刺さっていた棘が抜けた様だ。
(そうか、関係無いのか。祖母のことなんか、魅琴のこれからの人生には毛程も……)
能く考えてみれば、自分は魅琴に自身の親のことは何も話していない。
つまり、娘は知らないのだ。
奏手が母親から何を教わり、何に縛られて、抗って、世界最強を志したのか、全く見当も付かないであろう。
魅琴は生きていく。
死地に赴きながら帰還して、自分よりも弱い、しかし真に愛すべき相手と結ばれて、生きていく。
祖母も母も、そして自分さえも過去に変えて、全く無関係に娘は未来へ歩むのだ。
そうして、時が来ればまた彼女の道も次の世代へと繋がるだろう。
これから娘が歩く道には、自身が背負った呪いなど露程も残らない。
思えば魅琴が生まれたその瞬間、奏手を潜在的に苦しめてきた血の枷は消えることを運命付けられていたのだ。
「御母様……?」
困惑する魅琴の顔を朧気に認めた奏手は、初めて自分の両目から溢れた涙に気が付いた。
「ありがとう、魅琴ちゃん……」
「え?」
「貴女が生まれてきてくれて、本当に良かった……」
奏手は自分の涙を拭いた。
今、娘と向き合う表情に涙など一滴も残したくはない。
愛した人との間に生まれ、自分を救ってくれた娘の顔をもっと好く見ていたい。
そんな母に、娘は微笑んだ。
我が子ながらなんと美しい娘だろうか。
天使か、女神か……。
魅琴は奏手に言葉を返す。
「御母様の方こそ、私をこの世に産んでくださり、ありがとうございます。生かしてくださり、ありがとうございます。貴女が強く在ってくださったから、私は此処で彼との仲を貴女に報告出来ています」
「そ。だったら、私の人生にも意味があったということね。貴女の人生に、少しでも良い影響を与えられたのなら……」
「あら、何を仰るのですか?」
魅琴は意外といった風に眼を丸くしていた。
「私は自分で自分を強いと確信していますが、その強さはどう考えても貴女から受け継いだものですよ。誰かを護る意志を御爺様や御父様から、それを曲げない強さを御母様から贈られたのだと思っています。みんな完璧ではありませんし、悪いところもあったでしょう。でも、渡された美しいものを大切にしながら、感謝を胸に抱いて生きていくんです。私は生まれの誇りを、そういうものだと考えています。その積み重ねこそが、私達が護ってきた日本という国の伝統なのではないでしょうか」
娘の言葉を聞いた奏手は今、羽が生えた様な気分だった。
屹度病など嘘で、世界の果てまでも飛んで行けるだろう。
夢の様な多幸感。
だが余りにも綺麗な感覚が、逆に自身の終焉を実感させる。
「出藍の誉れね……」
言葉を口にして、奏手は思い出した。
いつだったか、母親にも同じ事を言われた気がする。
奏手の母は資産家の三男坊と結婚したものの、子宝には却々恵まれなかったらしい。
当時には珍しく、三十代も半ばを過ぎてからの出産だった。
そんな母だったので、奏手の教育には熱心だった。
そんな奏手が政治家を志すと言い出したとき、母から告げられた言葉がまさに「出藍の誉れ」だった。
思えば母は呪いだけでなく、意志の強さも育んでくれたのだろう。
あんな祖母も母に何かを残したのかも知れない。
強さは国の為に戦った祖父からのものか。
何れにせよ、奏手にはもう思い残すことは無かった。
奏手という個人が終焉を迎えても、それは自身の滅びを意味するのではない。
自分の繋がる誰もが娘の中で生き続け、娘に繋がる誰もがまた次に繋がるのだ。
呪いだけを過去に変え、美しさだけを磨き上げながら……。
「最早私から貴女に言えることは殆ど無いでしょう。でもこれだけは言わせなさい」
「はい」
不思議な静寂の中奏手は、おそらく娘に贈る最後の言葉を口にする。
「貴女は貴女の愛する人と、幸せな人生を後悔無く歩み切りなさい」
魅琴は母の言葉を咀嚼する様に頷き、答えを返す。
「はい。私は御母様の様に強く生き、御父様の様に素敵な人と、幸せになります」
「……宜しい」
暫しの沈黙が病室に流れた。
差し込む日は傾き始めたが、この空間の全てが太陽の巡りに拠って刻まれる一秒一秒を深く惜しんでいるかの様だ。
だが、別れの時は来る。
誰しもに、平等に。
魅琴はゆっくりと息を吸い込み、そして奏手に告げてきた。
「では御母様、私はもう行きます」
「ええ」
「どうか、お大事に」
「貴女も、どうか末永く健やかに……」
また来てね、とは言わなかった。
もう充分、母と娘の言葉は交わした。
後はもう、娘に輝かしい未来があれば良い。
奏手は一礼する魅琴を穏やかに微笑みながら見送った。
病室の扉が閉まり、外界と隔たれ、再び孤独が包み込む。
「扨て、と……」
奏手は寝台に身体を預けて眼を閉じた。
目蓋の裏には怒りの形相を浮かべる女の幻影が浮かぶ。
『答えを訊きましょうか』
貴龍院は眉間に皺を寄せて奏手へ尋ねてきた。
しかし、答えは決まり切っている。
「お断りしますわ。私にはもうこの世に未練など無い。神々をお恨み申し上げる理由も無い。だって既に、遙か昔に大いなる恵みを、私の本当の望みを与えてくださっていたのだもの……」
『そう、残念だわぁ。だったら貴女はこのまま死になさぁい……』
貴龍院の幻影は目蓋からゆっくりと、恨めしそうに消えていった。
代わりに顕れたのは亡き夫・麗真魅弦の姿だった。
(魅弦さん、私はここまでみたい。夢の果てならばこれからは二人で見守りましょう。二人一緒に、あの娘と彼の行く末を……)
そう念じた奏手は、魅弦に抱き締められた様な気がした。
愛する人が迎えに来てくれたのだろうか。
静かに眠った奏手は翌々日に容態が急変。
十月十四日水曜日、皇奏手――本名・麗真奏手――激動の時代に皇國と戦う天命を負って駆け抜けたかのような女の生涯は、最期は一人の母親としてその幕を閉じた。