黄柳野早芙子――本名・水徒端早芙子。
内縁の夫である黄柳野文也が捕えられたとの報を受けた彼女は、一人で戦いの中へと舞い戻って行った。
ただ、武装戦隊・狼ノ牙も地上ノ蠍座も既に撤退を決めており、今回敗走が確定していることは彼女もまた理解している。
そこで、彼女は目的を革命の成功ではなく二つの成果に絞っていた。
一つは黄柳野文也の救出。
しかし彼の居場所を把握していない彼女は、もう一つの目的を先に遂げる必要があった。
それは、皇族一人を最低限打倒すること。
文也も同じ目的の中で消息を絶っており、皇族の誰かと交戦になり捕らえられたと考えられるが、それが誰かは特定できていなかった。
そこで彼女は、昔日の記憶に決着を付ける意味でも、最も相応しい相手を選んだ。
第一皇子・獅乃神叡智。
早芙子の青春時代を彩るのは彼への仄かで愚かな想いと、亡き友に纏わる忘れたくとも忘れ難い悲劇である。
自らの過去を断ち切り、新しい世界を創り出す為に、早芙子は刃を取った。
文也の消息を訊き出し、嘗て憧れた男をこの手で斬る。
深夜、早芙子は紅坂御用地は獅乃神の巨宮へと足を踏み入れた。
手に握るは家宝の刀、名刀「有明左文字」。
彼女は侍従や侍女、衛兵に見つからないよう細心の注意を払ったが、それでも已むを得ない時は峰打ちにて悉く打ち倒していった。
彼女が獅乃神の寝室へと辿り着くのにそう時間は掛からなかった。
深く深呼吸をすると、早芙子は扉を蹴り開けた。
開け放たれたその向こうには広々とした寝室、たった一人の人間の為にどこまで趣向を凝らせば気が済むのかという程に豪奢で広大な部屋が拡がっている。
その中央付近の小卓に置かれた葡萄酒の瓶が月明かりに照らされて淡く光る。
そして椅子に腰かけるその男は硝子杯を小卓に置くと、早芙子の方へその色違いの双眸を向けた。
「行儀の悪いことだ。だが、悍馬も嫌いではない」
その巨しき力強さの塊とも言える身体の持ち主、第一皇子・獅乃神叡智は早芙子の登場に何ら動じることなく、実に落ち着いた様子で佇んでいた。
「亡き許嫁を偲びつつ月を弄ぶ余暇の一時に、思いも掛けぬ美女の来訪者……。だが酒席を共にするにしては些か乱暴な趣向だな」
獅乃神は相変わらず暢気に落ち着き払った様子で葡萄酒を注ぐ。
「まあそれは兎も角、折角の来客を無下にするつもりも無い。ここは一つ、汝の美しさに乾杯と行こうではないか」
そう言って差し出された硝子杯を一閃、早芙子の刃が目にも留まらぬ速さで通り抜けた。
両断された杯がゆっくりと崩れ落ち、中の葡萄酒が溢れて零れた。
「随分な挨拶だな。嗚呼、染みに成らなければ良いのだが……」
獅乃神は葡萄酒の零れた上着を脱ぎ椅子に掛けた。
凄まじいまでの筋肉美に溢れた上半身が露わとなり、それだけで早芙子は凄まじい威圧感に面食らった。
だが、戦士としての覚悟は揺るがず、怯むことなど無い。
「今宵私が取りに来たのは民の血税を絞りし高級酒ではない。貴様の首だ。皇太子・獅乃神叡智、その命貰い受ける」
早芙子は上半身裸となった獅乃神に刃を向ける。
対して彼は怪訝そうな表情を浮かべている。
「命とは随分無意味に欲張りな奴だな。それで汝に何の得があるのだ? そのようなものを望む意味が全く解らん。まさか叛逆者でもあるまいに……」
「私は地上ノ蠍座の黄柳野早芙子だ」
早芙子の名告に獅乃神の動きが止まる。
そしてじっと顔を覗き込んで来た。
「思い出したぞ。汝は水徒端……水徒端早芙子だ。嘗て同窓に麗しの女流剣士がいた。全国高等學校武術大会剣術の部で優勝した汝は、夜空に浮かぶ月を彷彿とさせる美しい女だったと記憶している。俺と共に全校生徒の前で顕彰されたことがあったな。黄柳野ということは結婚したのか。汝のような妻を娶った男は果報者だな」
思い出を語る獅乃神は夢を見るような表情をしていた。
そして現状に話を変えると、彼は打って変わってあからさまに沈痛な面持ちに変貌する。
「だが『地上ノ蠍座』といえば、正真正銘の叛逆者集団ではないか。栄えある水徒端男爵家の令嬢がなぜそのようなものに身を堕としたのだ。何か事情があるならば話してみよ。同じ学び舎に通った好だ、叶う限りの力添えをしようではないか」
獅乃神は自身の胸板を叩いた。
瞬間、大きく空気が震える。
身長二一六糎にもなる筋骨隆々の巨躯は、味方になると言われれば嘸かし頼もしいのだろう。
だが敵対する早芙子にとっては強い威圧感を受ける。
元より油断など微塵も無い彼女だが、改めて気を引き締めざるを得ない。
しかし、ふと早芙子は相対する獅乃神に対して奇妙な違和感を覚えた。
確かに途轍もなく鍛え上げられた肉体だ。
だがその表情、立ち振る舞いはとても戦いに臨む者のそれではなかった。
月明りを纏う茶金色の肌、白金色の長い髪、真紅と柳緑に左右異色なる虹彩、青い唇、長い眉、端正な顔立ち。
あの頃惹かれた、神々しさすら感じられる姿は、諍い事とはまるで無縁というような穏やかさを醸し出している。
更に不可解だったのは、獅乃神からは神為の発動が全く感じられないということだ。
(どういうことだ? 皇族は極めて絶大な神為を持つと聞いていたのだが……)
早芙子は訝しんだ。
そんな彼女に、痺れを切らしたように獅乃神は改めて問い直す。
「黙っていては何も解らんぞ。己一人で抱え込むしかないと思える問題でも、話してみれば案外助け合う術は見つかるものだ。さあさあ申してみよ。幸い俺は皇族だ。出来ることは必ずある」
獅乃神は相変わらず恍けた言葉を繰り返す。
早芙子は一旦深呼吸をし、いざ斬りかからんと刀を構えた。
「自分の力で得た地位でもない癖に、何を偉そうにほざく。貴様だけでなくこの国の連中は皆そうだ。私はそんな腐り切った国を変えるべく、諸悪の根源たる皇國政府を打ち滅ぼす為に自ら刃を取ったのだ!」
早芙子の力強い怒声が獅乃神の表情を曇らせた。
「莫迦な……。汝は屹度何か誤解しているぞ。悪いことは言わん、見なかったこと聞かなかったことにしてやるから斯様な愚行は辞めて直ぐ家に帰れ。大逆罪はそれ即ち極刑の重罪だと分かっているのか? 家族が泣くぞ」
「問答無用! 覚悟っ!」
名刀「有明左文字」が翻った。
稀代の女流剣士、最強の革命戦士である黄柳野早芙子、本名・水徒端早芙子の、華麗にして英傑なる一刀が遂に真価を発揮する。
『術識神為・羅刹刻』
獅乃神の腰から肩口に掛けて、袈裟懸けに一筋の光が奔る。
これは早芙子が想像によって作り出した未来の切断面である。
術識神為・羅刹刻の能力原理とは、この光に合わせて刃を走らせると対象の強度に関わらず確実に切断されるというものだ。
この光が走った時点で、既に斬ったという結果が作られている。
後は其処に刀筋の帳尻を合わせれば良い。
反面、太刀筋が少しでもずれる、もしくは斬撃を止められると不発に終わってしまう。
また、この一筋には術者の腕前や刃の出来映えに反比例して膨大な神為を消費する。
早芙子はこの一太刀を確実に決める為に剣速と剣線を磨きに磨き抜いてきた。
その洗練の極みの様な剣技がまさに、絶対強者と謳われし獅乃神叡智に襲い掛かった。
しかし、確実に相手を斬る筈だった彼女の刀は、獅乃神の体に刃が入ったかと思った瞬間、粉々に砕け散ってしまった。
(莫迦な……⁉)
あり得ない結果に早芙子は困惑を禁じ得ない。
そんな彼女を余所に、獅乃神の興味は砕けた刀に移っていた。
「その鍔拵、先程砕けた刃紋、見覚えがあるぞ。嘗て父上が水徒端家に贈賜され給うたという名刀・有明左文字であろう。家宝を持ち出した上に壊してしまうとは、誠に怪しからんことだとは思わんか? どう埋め合わせるつもりなのだ」
「だ、黙れ!」
家を出た際に持ち出し、共に戦ってきた愛刀を失ったことは痛恨である。
しかしそれ以上に、対象物を確実に両断する筈の能力が通用しなかったことの方が問題であった。
状況への対応に思考を巡らせる早芙子。
獅乃神はそんな彼女の右手首を軽く掴む。
「なっ……。くっ、放せ!」
「見よ、この鍔の意匠、文様。素晴らしき仕事だとは思わんか? 鍔とは、元々は刀を鍛える際に余った鉄で拵えたものに過ぎなかった。だが時代が下るとともに高まった武将の美意識に応えるべく、職人達は技術を研鑽し、妥協無く拘り抜かれ仕上げられた芸術性の高い鍔形が作られるようになった。これこそはその中でも正に珠玉の逸品。神韻縹渺たる大日本の伝統工芸。そしてその偉大なる民族の歴史は数多の苦難を経て幾星霜の果てに世界一の国家となって実を結んだのだ。これは誠に誉れ高きことだぞ。なのに汝らは一体何が不満なのだ。自らに流れる崇高な民族の血と、その誇りを思い出してくれ」
獅乃神は優しく諭すように早芙子に問い掛けた。
だが今の早芙子には響かない。
何故なら、その様な考えは既に道成寺太によって論破され、粉砕されているからだ。
「黙れ! 積み上げた屍を省みぬ帝国主義の亡霊が! 血塗られた手で私に触るな!!」
獅乃神の蟀谷に早芙子の上段蹴りが炸裂した。
剣術だけでなく、徒手空拳も確りと鍛錬済みである。
しかし、異変を起こしたのは攻撃した早芙子の方だった。
「っああぁーっ!」
早芙子は蹴りを繰り出した右脚を抱え悶絶した。
「あ、脚が……、折れ……たぁっ……!」
「おい大丈夫か? 寝台を貸してやるから安静にしろ。直ぐ侍医を呼んでやるからな」
獅乃神は転げ回る早芙子に慌てて声を掛けた。
しかし、彼女の脚からは腫れが引いていく。
強力な神為の持ち主である彼女の場合、骨折程度の怪我ならばすぐに修復されるのだ。
(負けるか……! 私は革命戦士……! あの頃の……理不尽な権力に対して何も出来ず、体制に迎合することしか出来なかった脆弱な御嬢様とは違うんだ……!)
早芙子は脚の修復を待つ。
彼女は諦めるつもりなど毛頭無かった。
まだ手段は残されているのだ。