早芙子は不屈の闘志を燃やして立ち上がった。
そんな様子を見て、獅乃神は安堵した様子で声を掛ける。
「おお、神為か。何だ何だ心配したではないか。しかし人をいきなり蹴るのは感心せんな。部屋に入る時からそうだが新華族の娘にしては少々不躾が過ぎるのではないか?」
早芙子は電光石火の速さで彼の後ろに回り込み、先程まで彼が酒を楽しんでいた小卓から足を引き抜いた。
「おいおい、さっきから他人の物をいくつ壊せば気が済むのだ?」
「貴様を討ち取るまで諦めはせん!」
愛刀を失おうが、思わぬダメージを受けようが、この程度で折れる彼女ではない。
それに能力を使う条件を満たすには、手に長物さえ持っていれば良い。
切れ味が悪くなると神為消費量が増えるので、普段は名刀を使っていたが、その気になれば刃すら必要無いのだ。
「今度こそ貴様に引導を渡す。覚悟っ!」
狙うは首である。
先程は袈裟斬りにしようとしたが、刀身が耐えきれず砕けた。
ならば今度は胴よりも細い首、それも骨の継ぎ目を狙い、確実に仕留める。
無論、儚い望みである。
繰り返すが皇族に特殊な能力は通用しない。
能力が作り上げる法則術理の束縛を無視出来る程、皇族の力が強大だからである。
そしてその現象は必ずしも神為に拠って成立するものではない。
もっと単純に、ただ力が強大であるだけで良いのだ。
獅乃神叡智は、神皇を含む皇族で唯一人、肉体の強度のみでそれを実現する存在である。
その出鱈目な存在そのものの力こそ、彼が『絶対強者』と呼ばれる由縁であった。
早芙子はそんな相手の首に再び光の筋を作る。
そして、小卓の脚を振るうという暴挙に出た。
「ぐぎゃあああああっ!」
部屋に早芙子の悲痛な叫び声が谺した。
先程脚が折れたのと同様、通用しなかった力はそのまま早芙子へと返ったのだ。
獅乃神は泣き叫ぶ早芙子を表情一つ変えずに見下ろしていた。
早芙子の試みが失敗に終わったのは当然のこと、その結果は更に深刻な損傷と苦痛を彼女に与えていた。
余りの事態に、早芙子は自分に恐ろしいことが起きた想像に苛まれる。
「おおおお体がっっ……右が無くなっ……たああっっ!?」
彼女が被った激痛は、右半身を失ったと錯覚させる程に壮絶なものだった。
獅乃神叡智の肉体という、余りの剛性をもつ物体に「絶対に切断する術理」という理外の力をぶつけ、通常ではあり得ぬ完敗を喫した結果、力はそのまま彼女の体に返ったのだ。
骨は砕け肉は裂け、内臓も大きく傷付いている。
しかしそれでも、神為は彼女の身体を修復する、してしまう。
「さっきから何を一人で遊んでいるのだ……」
獅乃神は呆れて溜息を吐き、早芙子を諭すように再び言葉を紡ぎ始めた。
「汝らが弱者を捨て置けんのは解る。だがそれは皇國の威光を更に輝かせ、その恩恵を満遍なく行き渡らせることで救済すべき話だ。特に救われぬ者がおるのであれば正当かつ穏当な手段で民衆や議会に訴えれば良い。誇り高き臣民達は世を動かし、選ばれし議員達も天下為公の義の下で十全に力を尽くすであろう。それこそが社会変革の王道と言うものではないか」
「黙れ黙れ黙れ!」
右半身の修復を終えた早芙子は獅乃神の言葉を遮り立ち上がった。
「もういい。この程度で屈する私と思うな! 勝負はまだまだこれからだ!」
しかし言葉とは裏腹に、早芙子の戦意は挫けかけていた。
全く勝ち筋が見えない。
そしてそんな彼女に追い打ちを掛けるように、相手である獅乃神から衝撃の言葉が飛び出した。
「勝負? そうか、汝は討論を挑んでいたのか。ううむ、受けてやるのは吝かではないが、その暴れ癖はどうにかせねばな」
獅乃神の言葉は、早芙子の心に大き過ぎる衝撃を与えた。
彼は抑も、勝負以前に他者と戦闘するという発想自体が無かったのだ。
それは彼女が命を削って尚揺るがない。
彼にしてみれば、早芙子は本当に唯、徒に自分を傷付けながら一人で癇癪を起こしているに過ぎなかったのだ。
早芙子の自信が、戦士の誇りが音を立てて崩れていく。
「ああああああっっ!!」
早芙子は叫ばずにいられなかった。
そしてその後、彼女は地獄を見る。
早芙子は獅乃神叡智に対し、無謀にも挑みかかっては一人で苦痛に喚き散らすという醜態を晒し続けなければならなかった。
そして強力な神為は、彼女の壊れた身体を綺麗に修復してしまう。
擦り減る一流剣士としての誇りが、革命戦士としての意地が彼女に「攻撃」と「自滅」を強い続けた。
「ぐああああっ!! あがああああああ!! うぎゃあああああ!! ひぎゃああああああぁぁっっ!!」
次第にみっともない喚き声に変わっていく彼女の悲鳴。
その試みは約束された敗北の時をただ先延ばしにしているに過ぎない愚行である。
そして彼女は、遂に決壊した。
「ああああもう無理いいいいイイイイッッッ!! 無理無理無理いいいいイイイイッッ!! こんなの勝てっこないよおお痛いのもう嫌だよおおおおお!!」
恥も外聞も無く幼児退行までして無様に喚き散らす降伏宣言である。
その結末は初めから決まっていたものだ。
そして何より悲惨なことに、獅乃神叡智は戦闘しているという自覚が全く無かった。
あくまで「説得しているだけ」なのだ。
「困った奴だな……」
故に、この感想である。
「なあ、そろそろ解ってくれよ。俺は別に汝の主張を否定しているわけではないのだ。唯やり方に問題があると言っている。それさえ認めてくれれば済む話ではないか。この際だ、汝の身は俺が預かろう。そうすれば叛逆者としての咎も赦免されよう」
弱り切った早芙子の心にその言葉は金平糖のように甘く響いた。
嗚呼、縋り付いてしまいたい。
その大いなる存在に身を委ねてしまいたい。
嘗て想ったように……。
しかし、一つだけ気がかりが残されている。
「でも夫が……。夫はどうなったのですか……?」
「夫……? 黄柳野……若しや黄柳野文也か。あの男なら姉上が預かっているぞ。今頃姉上の大いなる愛で身も心も清められているだろう。しかし、あの男との間に婚姻届が出せるとは思えんが……」
「それは……」
早芙子は思い止まった。
獅乃神の指摘通り、文也との関係はあくまでも事実婚であり、正式な婚姻関係を結んでいる訳ではなかった。
「まあ、それでも相手の身を案じる気持ちは解らんでもない。つい今し方、姉上から黄柳野文也免罪の証として目合いの映像を映像が送られてきたところだ。余り勧められはせんのだが、これを見れば安心してもらえるか?」
獅乃神は小卓から落ちたリモコンを拾い上げると、壁に掛けられた液晶大画面に向けた。
そこには女装して麒乃神聖花に抱かれる文也の姿が映し出された。
文也はだらしのない顔、端たない声、そしてあられも無い姿を晒していた。
(ああ、そうか)
早芙子は得心した。
(私には最初から彼に挑む理由など無かった。こんなにボロボロになってまで一人で突っ走って……莫迦みたいだ)
早芙子の目に涙が浮かぶ。
自分はあんな男が弄した言葉を信じ、青春を、人生を棒に振ってしまったのか。
もう叛逆を続けることは出来ない。
心が完全に折れてしまった。
「水徒端……」
獅乃神の憐れみが降り注ぐ。
早芙子は這い蹲って許しを乞うしか無かった。
「獅乃神殿下……。どうか、どうか度重なる数多くの御無礼をお許しくださいませ……。今私は、貴方様の完全無欠な正しさを心から理解いたしました……」
そんな早芙子に獅乃神は微笑んで手を差し伸べた。
彼女は震えながら、縋り付く様に手を取る。
大きな手の温もりに優しく包み込まれる様だった。
「大丈夫、案ずることは無い。これから汝は生まれ変わり、俺の為に尽くし生きるのだ。大逆の罪に問われぬ為の新たな人生と相応しき名をくれてやるぞ」
「ありがとうございます……ありがとうございます……。私は……私はあの頃、本当は貴方様に憧れていました。でも、想いを伝えるには余りにも遠過ぎて……」
「そうか……。辛い想いをしたのだな」
獅乃神は早芙子の手を引き、肩を抱えて共に立ち上がった。
「ならば抱いてやろう。今、此処で」
早芙子は獅乃神に身を委ねる他無かった。
どの道、最早このまま水徒端早芙子として生きていくことは出来ない。
文也に裏切られた今、道を踏み外したまま死罪に処されるのは耐え難かった。
彼女は獅乃神の好意に甘える道を選んだのだ。
水徒端早芙子は今、獅乃神叡智の意のままに生きる下僕として生まれ変わる。
この目合いは、謂わば儀式。
彼女は黙って脱ぎ、畳まれた衣服の横に正座して素肌を月明かりに曝した。
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事が終わり、早芙子は全裸土下座の姿勢で獅乃神の言葉を待っていた。
これから賜る新たな名は、今彼女の身を痙攣させている余韻と共に、心の奥底にまで定着する。
暴虐的な迄に何度も焼き付けられた、「絶対強者」に抱かれる悦び――魂に刻まれたその余韻は永久に消えることは無いだろう。
「うむ、我乍ら誠に美しき名だ! 生まれ変わった汝に此程似合う名もあるまい!」
獅乃神は無邪気な笑みと共に半紙に書かれた文字を早芙子に両手で見せつけた。
達筆であり、力強い線で堂々と書かれた線には自信と教養の深さが滲んでいた。
「見よ見よ。今より汝は敷島、敷島朱鷺緒だ」
「私のような者には勿体無いほどの素晴らしき名に御座います。与えられた名に恥じぬよう新たな生を精一杯全うさせて頂きます」
「汝の新たな職務は俺の近衛侍女としてその刃で俺の身を守ることだ。砕けた刀に代わるより良い名刀をやろう」
「恐悦至極に御座います。胸一杯の誇りと共に全身全霊を以て務めて参ります……」
窓の外では空が白んでいた。
「敷島、丁度日の出だ。汝は今まで本当によく頑張った。さ、近う寄れ」
「はい……」
獅乃神叡智は彼女を傍らに座らせて肩を抱く。
女は虚ろな目で淡々と男の気を惹く愛の言葉を囁き続けた。
男は穏やかに目蓋を閉じてその声に聞き入っていた。
朝焼けが二人の姿を煌びやかな金色に染める中、彼らは微睡の中へ包まれていった。