夜を迎えた。
皇宮宮殿は寝室に、窓から月の光が差し込んでいる。
虫の音が秋の夜長に静けさを際立てていた。
神皇・叡智は硝子杯を片手に罷蘭地を揺らして寛いでいる。
宮殿は夏まで先代神皇・大智が居所としており、全ての家具は身長一四四糎と小柄な彼に合わせて遇われていた。
しかし、代替わりした彼は打って変わって二一六糎と大柄な体格をしていた為、それに合わせるべく日用品の殆どは旧獅乃神邸と入れ替えられている。
この部屋にある物は全て、数年来の長きに亘って彼に愛用されていたものである。
「明後日より明治日本か。愈々だな……」
神皇ははいに青い唇を付けて酒を注ぎ込んだ。
物憂げな横顔が月明かりに照らされて、紫色に彩られている。
「陛下は戦争を終わらせ、日本民族に平和を齎そうという御方。そう御心配なさらずとも、屹度大歓迎の下で迎えられるに違いありませんわ」
彼の傍らには相変わらず二人の近衛侍女が控えている。
「しかし陛下、この部屋は陛下がご緩りと過ごされるには些か狭いですわねぇ。一層宮殿ごと立て替えられては如何でしょうか?」
「貴龍院、この宮は父上が皇國への御帰還を記念して建てられたものだ。様式は神和政府以前、未だ皇國の都が皇都府にあった頃の伝統的建築を可能な限り再現されている。如何に神皇に即位したとて、俺の一存で軽々に塗り替えるべきものではない」
「これは失礼致しました。開闢以来の絶対的現人神たる御身でありながら連綿と受け継がれし歴史と伝統への敬意を失わぬその大いなる御心、私はまたしても感激に身震いを禁じ得ませんわ」
「ふむ……」
いつもの通り、貴龍院は主君を過剰なまでに褒め称える。
しかし、相手の神皇は普段と異なり、反応に乏しい。
ただ物思いに耽る様に酒を嗜み続けていた。
「歴史と伝統、か……」
空になった硝子杯に、敷島が追加の罷蘭地を注ぐ。
神皇はそんな彼女をまじまじと見詰めていた。
敷島はそんな彼の視線にすぐ気が付いた。
「如何なさいましたか、陛下?」
「敷島よ……」
神皇は彼女に問い掛ける。
「汝は俺に仕えて何年になる?」
突然の問いに、敷島は少し驚いた様に瞠目した。
しかし、遅れたのは一瞬に留めてすぐに答える。
「六年目です。忘れようが御座いません」
「そうだな。無論、俺も能く覚えている。あれは八月の革命動乱までは皇國で起きた最大の内乱であった」
「恥ずべき過去です。しかし、何故今その様なことを?」
敷島の問いに、神皇は溜息を吐いた。
「先日、武装戦隊・狼ノ牙が明治日本で壊滅したことは聞いているな?」
「はい。道成寺は遂に引導を渡された。一つの歴史が漸く幕を下ろしたといったところでしょうか」
「うむ。そして先の動乱で自ら降った地上ノ蠍座の二人だがな、俺の即位の礼と時を同じくして拘置所内で急死したそうだ」
「日下部と月夜が?」
敷島は怪訝そうに眉根を寄せた。
神皇は黙って頷く。
そして貴龍院はそんな二人を横目に窓の外の月を眺めていた。
日下部光郎と月夜萌以は、地上ノ蠍座の七曜衆でも良識派として水徒端早芙子と比較的話の合った者達だった。
そんな二人はこの宮殿に攻め込んで先代神皇を皇國議会の議場へと連行したが、その際に先帝の人柄に触れて感化され、一足先に革命を放棄していた。
その二人が謎の急死を遂げた。
しかし、皇國に於いてこの様な不審死はそれ程珍しいことではなかった。
敷島も多少驚きはしたものの、大きな衝撃は受けずにただ事実を呑み込んでいた。
「然様で……御座いますか」
「敷島にとっては因縁浅からぬ者達だ。手放しに喜ぶことは出来まいな」
「あの二人は……そうですね……。道成寺は如何なさるおつもりですか?」
「どうもこうも、明治日本に任せる他あるまい。引き渡し要求の根拠は無いからな」
日本と皇國は犯罪人引渡の条約を締結していない。
また、講和の条件に入れることも、両国とも望んでいなかった。
「犯罪人引渡条約を結んでしまうと、皇國としては父上に狼藉を働いた麗真魅琴やその逃亡を手引きした岬守航の引き渡しを要求せねばならん。だが、俺はそれを避けたいと思っている。向こうの立場に立てば、あの二人は英雄に他ならん。此方としては憎むべき者でも、彼岸では讃えられて然るべき者も存在する。互いが互いの立場で誇りを胸に抱き、尊重し合い解り合うことこそ、平和への第一歩ではないかと、俺はそう思う」
「相変わらず、陛下の御心は遠大無窮に御座いますねぇ」
貴龍院が、彼女の方こそ相変わらずの調子で主君に媚びを売った。
だが神皇は敷島から目を離さない。
「敷島よ、俺と汝はあの時、確かに解り合ったよな?」
「……はい」
実際には戦いにもならない程の圧倒的な力に因って屈服させたのだが、神皇にはその自覚が無い。
そして敷島も、その認識を否定する訳には行かなかった。
主君の機嫌を損ねない為でもあるし、自分の納得を守る為でもある。
敷島は今、一人の男の言葉を思い出している。
獅乃神叡智に仕えるに当たって、彼女は今は亡き侍従長から厳命されていたことがある。
『絶対強者・獅乃神叡智殿下にお仕えする者は心せよ。其方の主となる御方のお怒りは、三千世界を畢らせる』
敷島は主の力を骨の髄まで思い知っていた。
そして、彼が夢の中に生きていることも。
ならば彼女の使命とは、この男の怒りが世界に向かうことが無いように、夢を見せ続けることに他ならなかった。
「勿論で御座います、陛下」
敷島は念を押す様に言葉を重ねた。
神皇はそんな彼女の瞳をじっと覗き込む。
敷島の言葉は完全な出任せではない。
実際、圧倒的な力に屈服することで救われた面も確かにあったのだ。
敷島朱鷺緒の忠誠心は本物である。
そして神皇もまた、そんな彼女を疑っているという訳ではなかった。
「敷島よ、俺はな、出来れば道成寺とも解り合いたかった。だがそれはどうやら叶わぬ願いらしい。奴だけではない。日下部と月夜もこの世を去った。革命動乱の中で対峙した戦士とも、何時ぞや街中で汝らが斬り伏せた単独の叛逆者とも、誠に遺憾ながら解り合うことが出来なかった。何故なのだろうな……」
神皇は注がれた酒を一気に飲み干した。
いつもよりも青い顔は冷ややかな悲しみの色に見える。
彼の中で世界が揺らめいている。
それは敷島にとって、凄まじく恐ろしい予兆であった。
「そういえば陛下は狼ノ牙の大義を知りたいと、あの議場で仰っていましたわね」
貴龍院が思い出した様に言った。
彼女が無遠慮に吐いた言葉に、敷島は眉を顰める。
しかし、貴龍院はそんな彼女の憂いを踏み躙る様に続ける。
「そういうことでしたら、陛下、あの者達の理念を語ることが出来る者がまさに居るではありませんか。今この場、貴方様の隣に……」
「貴龍院殿っ……!」
敷島の顔から血の気が引いた。
確かに、元々地上ノ蠍座に最高幹部として所属していた彼女なら、狼ノ牙や地上ノ蠍座が何を掲げていたのか十全に語ることが出来る。
しかし、敷島の口からそれを語ることはかなりの危険を伴う。
神皇は自分が助けたいと思ったものに対して何処までも甘い。
敷島が今、名を変えて彼に仕えていられるのも、彼の個人的な温情によって生かされたからだ。
そしてそれ程思い入れのある彼女語られた言葉なら、万に一つの可能性として真に受けてしまうこともあり得る。
「貴龍院、それは俺も考えた。しかし、敷島に訊くのは酷な気がする」
「そうですか? 敷島ちゃんなら何よりも陛下の為に言葉を尽くしてくれると思いますけれど……」
「っ……!」
敷島は躊躇う。
何より恐ろしいのは、神皇が狼ノ牙に理解を示してしまうことだ。
日本人を罪深き狗の民族と蔑む上で、道成寺太はかなりの理論武装をしている。
もし、神皇がその論理に腹落ちしてしまったら……?
貴龍院は脳天気に笑っている。
どこか作り笑いに思える表情だ。
「敷島ちゃん、陛下をどうか助けてあげて」
「貴龍院殿……!」
敷島は迷っていた。
語れば大惨事の危険があり、逆に語らねば彼の不興を買ってしまう。
敷島にとって、進むも地獄退くも地獄を思わせる状況だ。
そんな彼女に、神皇は穏やかな口調で言い聞かせる。
「心配することは無い。生前の日下部と月夜が獄中で語った言葉から、概論だけは察している。何故彼らが皇國と相容れないか、その理由が何処にあるのか……」
「陛下……。二人から何を聞かされたのですか……?」
「うむ……」
少しの間を置き、神皇は敷島に一つのことを確かめてきた。
「道成寺がヤシマ人民民主主義共和国を建国したのは何故か? それは皇國の前身たる神和政府が倒れたあの世界大戦、その評価に対する俺達と相容れない断絶があったからだ。敷島よ、俺が知りたいのは、奴らが神和政府の歴史と戦争に何を見たかだ。そこに俺が抱える汎ゆる疑問の答えに繋がる何かがあるのではないか?」
敷島は息を呑んだ。
秋の夜長、寝室のただならぬ空気が漏れたのか、虫達すら歌を忘れて静寂を深めていた。