神聖大日本皇國の前身は安槌幕府から王政復古を果たした神和維新によって統治された日本であり、皇國はこの時代以前の日本を「神和日本」と呼んでいる。
その神和政府がヤシマ人民民主主義共和国に国を簒奪されたのは、世界大戦での敗北が切掛であった。
「王政復古により神和政府が誕生したあの時代、俺達の世界は帝国主義の駆引に参加し資源を奪い合う列強国と、奪い合いの対象となる弱小国に二分されていた。そして列強国とは専ら欧米諸国のことを指し、彼方の国々の外側は概ね奪う対象となる弱小国と見做されていた。駆引に参加する資格があるのは彼ら内輪の倶楽部に限られる、という世界が、文明力を背景として強固に完成されていたと云うべきか……」
皇國が元々在った世界に於ける歴史は、此方側の世界と類似している部分が大きいが、明確に異なっている部分もある。
その典型例が、彼らの前身「神和日本」が維新後に辿ってきた歩みである。
「神和日本はそんな世界に対する挑戦者だった。列強国の脅威にさらされた日本人は維新と近代化を経て奇跡の様な成長を遂げる。それは欧米の内輪と比して日本が、延いては外側の世界が決して劣ってなどいないという証明に他ならなかった」
神皇の語っている歴史は、皇國で教えられている歴史観を大掴みしたものである。
彼らの歴史観には一つの物語が通奏低音として存在している。
「翻って日本の歴史とは常に、巨大で傲慢な文明国・覇権国に対して、化外の身から学び追い付き、一方で己の何たるかという問いを立てて独自性を打ち立てる、そしてそれが充分熟した頃に大国の傲慢を掣肘する――そういった歩みであったと言えよう。時代が降り、極東から世界へ飛び出してもそれは変わらなかった。神和政府は文明開化と富国強兵を掲げて列強国に比肩し得る国家を育て上げ、遂には相対する時を迎えたのだ」
神和日本は先ず、露西亜と衝突することになった。
戦いは此方の世界の歴史と比べて更に絶望的なものだった。
神和日本は同盟を組むことが出来なかったのだ。
しかし近代化を歩み始めた時代が早かった分此方の世界よりも発展度合いが高く、国力も大きかったが為、緒戦で快進撃を繰り広げた。
「日露の戦いは長きに亘った。情勢が此方側に傾くにつれ、味方となる国も増えていったが、同時に敵も増えていった。並行して欧州ではこれまでに無い大規模な戦争『世界大戦』が勃発。日本の戦線もそれに巻き込まれる形で勢力図へと組み込まれていく。そんな中で敵陣営から海路の封鎖を受けた日本は、起死回生の手段として亜細亜に対列強の旋風を起こし生存圏を確保するという選択を採った。それまで奪い合いの対象物としてしか見られていなかった弱小国を率い、列強支配の時代に風穴を開ける偉大なる戦いに打って出ようとしたのだ」
神皇は溜息を吐いた。
結果、神和日本に何が起きたかは、今まで散々語り尽くされたとおりである。
「しかし、志は叶わなかった。神和日本は敗戦し、更には革命によって国家をヤシマ人民民主主義共和国に簒奪され、地獄の日々が始まった。皇國が再び栄光を取り戻すのは、父上の帰還を待たなければならなかった」
「そして、嘗ての偉大なる志を継ぐ新たな歴史が始まるのですね、陛下」
貴龍院はわざとらしく両眼を輝かせている。
「そんな素晴らしい歴史を、狼ノ牙はどのように捉えていたのかしら? ねえ、敷島ちゃん?」
「それは……」
敷島は眼を伏せて躊躇っている。
彼女は皇國の歴史観と真っ向から対立する狼ノ牙の史観を語ることは出来るが、それが神皇の気分を害することを憂いているのだ。
しかし、そんな彼女を貴龍院は追い詰める。
「まあ、言いたくないのも無理は無いかも知れませんわねぇ。しかし、そうなると彼らは皇國と同じ歴史観を共有しながらあの様な蛮行に及んだ、単に欲の深い不届き者共に過ぎなかったと解するしかなくなってしまいますわぁ。神皇陛下がその様なこと、望まれる筈が無いのに……」
「う……!」
苦い表情を浮かべる敷島、冷笑する貴龍院。
そんな二人の様子を、神皇は横目で一瞥した。
「良い、二人共、良いのだ」
神皇の言葉に敷島は胸を撫で下ろし、貴龍院は口角を下げる。
彼は硝子杯に映る自分の眼を見詰めていた。
「俺が求めるのは日本民族の心靖らかなること、これに尽きる。その中には敷島も当然に含まれる。態々己を苦しめ、苦い記憶を呼び起こす必要など無い。もう済んだことだ、全てはな」
「それで宜しいのですか、陛下?」
「構わん。これ以上の苦しみはもう沢山だ」
神皇は卓上に硝子杯を置いた。
「二人共、外してくれ。今宵は一人で過ごしたい」
「あら、暫く国を離れる前に一晩お供出来るかと思いましたのに……」
「そういう気分ではなくなった。その望みは帰国後に叶えるとしよう」
「畏まりました。ではお下げしましょう」
敷島は盆の上に瓶と杯を載せ、片付けようとする。
そんな彼女の振る舞いを見て、貴龍院が慌てた様子で制止する。
「敷島ちゃん、待ちなさぁい。貴女にさせてまた落とされては大変だわぁ。私がやるから敷島ちゃんは部屋に戻ってなさぁい」
敷島は近衛侍女として仕える身ではあるが、戦闘面は兎も角家事や事務といった身の回りの世話に関してはポンコツという他無い。
普段はよく失敗をしては貴龍院から叱責を受けているが、今回は神皇の雰囲気が只事でないと貴龍院が気を遣ったらしい。
しかし、敷島はそんな気遣いも腑に落ちない様子だ。
「そういう訳には。貴龍院殿と違い、私はあくまで過去の罪をこの場で濯ぐ身の上なのだから」
「だったらその硝子杯だけ持ってきて頂戴。それ以上は任せられないわぁ」
「私とて陛下のお役に立ちたいのだが……」
「人間には得手不得手というものがあってよぉ」
「敷島、良い。あまり貴龍院を困らせるな」
主に諫められ、敷島は消沈した様子で立ち上がった。
その手には硝子杯が一つ、貴重品を預かるように胸の前で両手に収まっている。
「では陛下、失礼致しますわ。おやすみなさいませ」
「失礼致します、どうか良い夢を」
「うむ、おやすみ」
二人の近衛侍女は深々と頭を下げ、寝室を後にした。
一人残された神皇は、夜空に浮かぶ月を眺めていた。
「歴史……。過去の罪、か……」
虫達が静まり返った夜に、月を取り巻く雲が闇空の深さを醸し出していた。
⦿⦿⦿
寝室を去った敷島と貴龍院は夜の回廊を歩いている。
「それにしても、敷島ちゃんはあの御方のこととなると過剰なほど臆病ねぇ……」
「私には貴女が軽率に過ぎるように思えるが、貴龍院殿?」
敷島は先程の貴龍院の態度に強い不信感を覚えていた。
そして今一度、侍従長の言葉を思い出す。
『絶対強者・獅乃神叡智殿下にお仕えする者は心せよ。其方の主となる御方のお怒りは、三千世界を畢らせる』
『大覚寺殿、どういうことでしょう?』
当時の彼女は、獅乃神叡智の力に捻じ伏せられ、その凄まじさを充分思い知らされていた。
だがそれでも侍従長・大覚寺常定のこの表現は大仰に聞こえた。
『どうもこうも、言葉のままだ。三千世界、森羅万象、その全てを容易く滅せる力をあの御方は御持ちだ。今は神皇陛下がその力を抑えるために神為を封じ、獅乃神殿下御自身もまたそれを快く受け容れてくださっている。しかし全てはあの御方の気分次第、いつ封を解かれてもおかしくは無いということを忘れてはならぬ』
『神皇陛下の……封印……』
他ならぬ皇國の大帝、神為の大師父、神皇がそう考え対策を施しているのであればその見立ては正しいのだろう。
だが、一つこの時の敷島には疑問が浮かんだ。
『しかし大覚寺殿、陛下が戒めておられるのであれば、殿下も態々御父上の御意志に背いてまで力を解放なさらぬのでは?』
『うむ、確かにお前の言うことも一理ある。だが私には一つ気になることがあるのだ』
『気になること……?』
『いや、陛下が目を光らせておるのだからそんなことは不可能だとは思うのだが……』
大覚寺には何か大きな懸念があるらしかった。
しかし、同時にそれを確信できず言い淀んでいた。
そんな大覚寺に対し、敷島は一つだけ問い掛けた。
『私はどうすれば宜しいのでしょうか?』
『うむ……』
少し考え込む様子を見せた後、大覚寺はこう言った。
『貴龍院皓雪の動きに気を付けよ。あの女を第一皇子殿下の近衛としたのは他ならぬ陛下の采配。故に間違いは無いと思いたい。だが、もし陛下の御聖体に万に一つ御不予ありしとき、あの女が佞臣の動きを見せたならば……』
『私に貴龍院殿を斬れ、と?』
大覚寺はそれ以上何も言わなかった。
だがその無言を敷島は肯定と捉え、大覚寺の忠告を心の片隅に留めていた。
今、敷島は大覚寺との遣り取りを強く思い起こしていた。
貴龍院皓雪――敷島朱鷺緒にとって彼女は相棒であると同時に監視対象であった。
先代神皇が健在の時は鳴りを潜めていたが、どうにも今、貴龍院は不気味に思えるほど現神皇に阿っている。
例えば、本来は止めなければならない首相への立候補宣言を持ち上げた時などは、諫めようとする当時の都築廉太郎首相を寧ろ妨害したようにも見えた。
もし、貴龍院が神皇に媚びを売る振りをして都合の良い方向に誘導して操ろうとしているのなら、これはとんでもなく恐ろしいことだ。
敷島は鋭い眼で貴龍院を睨め付ける。
しかし一方で、迂闊に貴龍院に手を出すわけにもいかない。
神皇は貴龍院のことも信用しているので、その世界観をぶち壊しにすることも又あってはならないのだ。
そんな敷島の葛藤を見透かすように、貴龍院は不敵に妖艶な笑みを浮かべている。
「あのねえ敷島ちゃん、考えてもみなさい。あの御方が教わらなければ何も知らないままでいるとでも思うかしら」
「そ、それは……」
神皇は並外れて高い知能の持ち主である。
とすれば、狼ノ牙の主張などその気になれば自分で探り当ててしまえるだろう。
敷島は貴龍院の言葉に反論出来ず、青褪めていた。
「寧ろ親しい貴女の口から言って差し上げるべきだったのではないかしら? それならばあの御方が良からぬ思想に惑わされる心配は低くなる。逆に自分で探し当ててしまった方が、納得してしまったあの御方を軌道修正するのは困難だわぁ……」
「た、確かに……」
敷島は自分の胸に過去を問い掛ける。
武装戦隊・狼ノ牙が、道成寺太が嘗て唱えたのは、神和政府が敗戦までに歩んだ歴史を欲望による周辺国からの収奪と、狂気による周辺国の侵略と見做す思想だ。
それは嘗ての敷島を腹落ちさせ、一人の革命戦士へと変えるだけの説得力を持っていた。
もし神皇が同じ思想に染まってしまったとしたら、それは日本人に対する死刑宣告にも等しいかも知れない。
「今から戻って説明する訳にも行かないわねぇ。どうするつもり?」
「ぐ……」
敷島は己の失敗に眉根を寄せた。
そんな彼女の手から、貴龍院は硝子杯を取り上げる。
「部屋へ戻って反省していなさぁい。私はこれを洗って来るから」
貴龍院はそう言い残すと、敷島を置いてさっさと歩いて行った。
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回廊を曲がった貴龍院は、敷島から死角になったところで小さく呼び来かける。
「征一千君、朔馬君、三入君、誰でも良いわ。これ、お願いするわね」
彼女の呼び掛けに応える様に、黒い靄が彼女の手に持たれた盆を覆う。
そして靄は消える際に貴龍院から食器を全て持ち去った。
「よく出来ました。扨て、ここからが正念場よ。三人とも、沢山手伝ってねぇ……」
神皇の訪日を前に、皇國では不穏な思惑が錯綜していた。