十月二三日金曜日、岬守航と麗真魅琴は皇奏手の事務所に来ていた。
この場所の亡き主の遺品を整理する為だ。
皇奏手の通夜は十七日に、告別式は十八日に終えて、初七日も二十日に済ませてある。
「しかし、事務所というよりは放棄された住居って感じだな、こりゃ……」
「そうなのでしょうね。御母様にとって、長らく自宅はこの事務所だった。家に帰って来ることなんて全くと言って良い程無かったもの。そして、政治家として忙しくなるにつれこの事務所にすら帰って来なくなった……」
「働き詰めだったんだな。御陰で僕達は日本に帰国出来たって訳か。頭が下がるよ」
「私としては……もう少し家族との時間を大切にして欲しかったけれど……屹度私にそれは言えないのよね……」
魅琴は手に持ったマグカップを見詰めていた。
ダンボールの中にはもう一つ、全く同じマグカップが収められている。
二つ一組みの、古いマグカップ――ふと見つけたそれらに魅琴は何を想うのだろう。
物憂げな昼下がりの日差しが、彼女の横顔を白く眩く模っていた。
『もう間もなく、皇國から神皇・叡智が此処羽田に到着するとのことです』
何気なく付けられたテレビのニュースが、この日から四泊五日で予定されている神皇・叡智の来日を報じていた。
この一週間、日本国はこの神皇に関する話題で持ち切りだった。
つい数日前に皇奏手という閣僚を経験し戦争を乗り切った大物政治家が亡くなったばかりだというのに、新神皇が即位の礼を行った途端にトレンドは一気に塗り替えられた。
尤も、魅琴にとってはそれが却って有難かったかも知れない。
「静かなものね。屹度、彼の来日が終わったら何事も無かったかの様な日々が始まるんだわ」
「それ自体が君のお母さんの功績なんだろうけどな」
「ええ。でもその裏で、元の日々に帰れなかった人達も居るのよね……」
魅琴が母親と最後に話したのは、丁度久住双葉の告別式の翌々日だった。
彼女の葬儀は親族のみでひっそりと行われ、航と魅琴は参列出来ていない。
二人はもう少し時間を置き、遺族の気持ちが整理出来た頃に手を合わせに行こうと話している。
その時は、虎駕憲進の実家にも訪れることになるだろう。
「根尾さん達には助けられたわね。本当は葬儀のことも私がするべきだったのに……」
「とは言っても、一応あの人も親族だろ? こういうときは厚意に甘えちゃいなよ」
おそらく根尾弓矢は、身近な人物を立て続けに二人失った魅琴の胸中を慮ってくれたのだろう。
航は彼女の親族ではないが、尤も身近なものの一人である。
自分もまた、彼女を支える一人でありたかった。
『神皇は明日、天皇陛下との会談を予定しており、また来日中は靖国神社、伊勢神宮、広島平和記念資料館などの訪問を希望されています』
ニュース映像が来日した神皇の姿を映し出す中、二人は黙々と遺品整理の作業を続けた。
⦿⦿⦿
神皇の来日は、決して日本国民に歓迎されていた訳ではなかった。
如何に彼が平和を望み、講和成立に対する最大の影響力を発揮した人物といえど、敵国の元首であることに変わりはないのだ。
警備の方はそれを見越して厳重に固められる予定だったが、神皇側がこれを固辞。
なんでも「未来へ向けた友好の為の訪問なのだから、物々しい警備で相手側国民と距離を取りたくない」とのことらしい。
日本国側としては「何を言っているのか」という話だが、神皇側は頑なだった。
それで仕方無く、日本国側は何かがあった時に備えてSPを隠れて待機させるという対応を取った。
実際、予想通りに彼の訪問先には常に反対派のデモ隊が待ち構えていた。
SP達に緊張が奔り、無線の連絡が飛び交う。
いつ過激派が神皇に襲い掛かり、講和が台無しになるやも知れない――そのような事態を未然に防ぐ彼らの重責は計り知れないものだったろう。
銃撃、火炎瓶――汎ゆる最悪の襲撃、テロが予想された。
だが、各地の訪問は何事も無く、異様な程に静かなまま滞りなく済まされた。
詰めかけたデモ隊は皆、神皇の姿を一目見るなり一様に黙って俯いてしまったのだ。
デモに参加したうち何名かは、後の取材に対してこう答えている。
『一目見ただけで刃向かおうという意志が跡形も無く消し飛んでしまった。それ程特別な存在感だった』
『生まれて初めて畏怖という感情を理解した。一目見られて幸福とすら感じた』
『何故抗議しようとしてしまったのか、直前で止まれて良かった』
表現は様々だが、全員が最後にこの様な意味合いの言葉で締め括っている。
『あの男は人間ではない』
それはあまりにもオカルト染みた言葉だったが、取材内容が広まる頃にはこの上無い説得力を以て世間に受け容れられることになった。
事実、この時は日本国の誰もが神皇の神秘的な存在感にやられてしまい、悪意の一欠片も残さず消し飛ばされてしまっていた。
仮に彼を害せるものがあるとすれば、悪意よりも寧ろ善意からの言動だろう。
⦿⦿⦿
十月二四日土曜日、神皇は靖国神社への参拝を終えた。
彼は施設の各地点を隈無く巡り、一つ一つを熱心に見て回っていたという。
取分け、遊就館の展示物は大層興味を持った様子であったらしい。
参拝を終えて神域に一礼する彼の姿からは、混じり気無しの敬意を感じたと同行した者達は口を揃える。
『神皇陛下はその出で立ちから受ける印象と異なり、強い敬神の念をお持ちの御方だった。尊大な物言いになるのは目上の者が殆ど居ないからだと思われる。天皇皇后両陛下にも常に敬意を示され、接し方も非常に丁寧だった』
この様に、彼と接した者は皆好意的な印象を語っている。
その上で、こう付け加えるのだ。
『だから今でも、彼があんなことになってしまったことが全く信じられない』
しかし、その切掛となる事件はすぐそこまで迫っていた。
靖国神社の参拝を終えた神皇に、一人の女が接近していた。
殆どの者は神皇を遠巻きに窺うばかりだったが、彼女はそうではなかったのだ。
ここまであまりにも静かな行幸であったので、SPも油断していたのかも知れない。
「叡智さん、叡智さん、ちょっとお話を!」
神皇に近付いてきたのは、一人の女だった。
流石に半径数メートルの距離まで駆け寄ってきたところでSPに立ち塞がられたが、彼女の存在は神皇に認知された。
「何だ、あの女は?」
神皇は護衛の頭上から女の方を怪訝そうに窺う。
SPに取り押さえられた彼女は、尚も諦めずに食い下がろうとしている。
「叡智さん、お話をさせてください!」
「駄目ですって! 何考えてるんですか貴女は!」
揉め続ける女――紹介が遅れたが、彼女はフリー記者の綿貫千紗である。
久住双葉から訊き出した情報を元に、皇奏手のスキャンダルを週刊誌に売り込んだ人物で、独自の正義感に基づいて行動するきらいがある。
そんな彼女は、神皇の靖国神社参拝に際して、何を考えたのか、彼に突撃取材を試みたのだ。
「貴女ね、いい加減にしないと逮捕しますよ」
「は? 弾圧するんですか?」
「いや、公務執行妨害ですよ! 普通に考えてそうなるでしょうが!」
聞き分けの無い綿貫の様子に、SPは彼女を逮捕しようとしている。
しかし、そんな所に神皇本人が制止を振り切って歩み寄ってきた。
「まあ、時間も押していないし少しくらいなら……」
「ちょっ、神皇陛下!?」
「以前、街を歩いていたところ突撃を受けたことがあってな。あの時、禄に話も出来なかったことを悔やんでいたのだ」
神皇は困惑するSPを容易く押し退け、綿貫の眼前に迫った。
「先ずは名を訊こうか」
「フリージャーナリストの綿貫千紗です。叡智さん、本日は靖国神社を参拝されたということですが、遊就館には行かれたんですか?」
「うむ。中々興味深い内容だった」
「駄目ですよ、あんな所に行ったら!」
綿貫は神皇の言葉を遮る様に言い放った。
彼の背後では、皇國側から付き添っている侍従達が顔を青くしている。
「あんな所?」
「あれは侵略戦争を正当化する軍国主義者のカルト施設です! 現に、近隣諸国から問題視されていて、閣僚が参拝すれば公式に非難声明が出ますし、著名人が参拝すればキャンセルに繋がっています!」
「……そこまでのものだとは思えなかったが、国の為に戦った者を讃える施設であれば国の立場から戦いの意義を説明するのは当然では?」
「それが問題なんです! 抑も、国が犠牲を強いることを賛美するのがおかしい! 無理矢理戦地に送られた可哀想な犠牲者を英霊などと持ち上げるのは死者への冒涜です! 遺族の心は今も傷付き続けています!」
「国が犠牲を強いたのであれば、尚のこと然るべき名誉を与えるべきでは? 遺族の中にはやり切れない想いを抱いている者も居ようが、多くの遺品が寄贈され展示されていたところを見るに、鎮魂の為に必要としている者も多いように思えるが……」
「国は靖国に英霊として祀るからといって戦争に参加させたんですよ! あんなのは鎮魂の施設じゃありません! 全国に本物の慰霊施設もあります! 今すぐにでも解体すべき軍国主義の殿堂です!」
「同じことを繰り返すが、国がそう言って死なせたのなら、その言葉を守って英霊として祀り続けるのは寧ろ国の責務では?」
「天皇陛下だって参拝していません! つまりお認めになっていないんですよ!」
「帝の参拝せざる以てあれを悪しき施設とするならば、参拝客や玉串料の奉納者、それに遺品を寄贈した戦死者遺族もあれの存在に積極的に加担しているのだから朝敵ということになるのか? 汝らの帝がそれを良しとするのか?」
二人の話は平行線である。
神皇はこの世界の歴史を前提として共有しておらず、綿貫の言葉が感覚的に理解出来ないのだろう。
加えて、彼は生まれついての権力者であり、加えて皇國自体が非常に民族主義的・国家主義的な精神を称揚している。
唯でさえ偏っている綿貫の言葉が届かないのは無理からぬことであった。
「いい加減にしなさい!」
綿貫は再びSPに取り押さえられた。
言葉が通じない神皇の反応が癇に障ったのか、綿貫は仏頂面を浮かべている。
「申し訳御座いません、神皇陛下。すぐに排除いたしますので」
「いや、良い。この者の言うことに少し興味が湧いた」
すると、綿貫の表情が一気に明るくなった。
「後日皇國に来るが良い。時間を取って話をしようではないか」
「本当ですか!? なんと器の大きいこと!」
「はい、じゃあもう良いですね。公務執行妨害で連行しますよ」
SPが綿貫を排除しようとする。
どうなることかと思われたが、何事も無く済みそうだ――そう思われた。
「いやあ、流石はこの国の国民と違って柔軟性がありますね。うちの政治家にも見習ってほしいくらいだ」
「ん? どういうことだ?」
「日本人は思考の硬直性と同調圧力が強いですからね。私達、少数派の道理を聴こうともしないんですよ。ですが、貴方は違う」
「んん?」
神皇は綿貫の言葉を聞くにつれ、少しずつ表情を強張らせていく。
顔色が青白く変わっていき、空気が揺らぎ始める。
しかし、綿貫はそんな彼の変化を気にも留めていなかった。
「容姿もハンサムですしね! 背が高くて、立派な体格で、何もかも日本人離れしている!」
!
瞬間、空気が凍り付いて罅割れた。
神皇は眉間に深い皺を寄せ、割れんばかりに歯を食い縛り、この上なく露骨な表情で憤怒を見せ付ける。
「何だと、貴様!? 俺のことを何と言ったんだ? ええ? もう一度言ってみろ!」
侍従達が慌てふためき、神皇の許へと駆け寄る。
彼らは皆一様に、この世の終わりの様な絶望の表情を浮かべている。
一方の神皇は二一六糎・一四四瓩の筋骨隆々とした肉体の隅々にまで激しい怒りを滾らせている。
茶金色の肌が薄らと青みを帯び、血管を浮き立たせる。
白金色の毛は髪に留まらず、眉や睫までも逆立っている。
瞳孔が開き、眼球に青い毛細血管が奔る両眼が、真っ直ぐに綿貫を睨んでいた。
「俺の!! 何処が!! 日本人に見えないんだ!!」
凄まじい怒号は九段坂に振動を伝え、地震すらも起こす程だった。
武道館の内部で舞台の直前に居ても、此程の轟音は聞けないだろう。
これには流石の綿貫を面食らって腰を抜かしていた。
「陛下! 何卒お気を確かに!」
侍従達は神皇に群がり、どうにか彼を宥めようとする。
SPは追い立てられる様に綿貫をこの場から遠ざけていく。
そんな中、揺れが収まると同時に神皇は落ち着きを取り戻した。
「ふむ、妙な女だったな」
「へ、陛下?」
「驚かせたようだな。だが、もう感情は処理したから安心せよ」
何事も無かったかの如き神皇の様子に、侍従やSPはほっと胸を撫で下ろした。
その後、神皇は五日間の滞在で希望していた施設を訪れたが、これ以上大きな波紋は無く、無事全日程を終えた。
しかし、このたった一つの事件が後に大き過ぎる禍根となって世界に降り掛かることになろうとは、この時誰も予想だにしていなかった。