敷島と貴龍院は主君たる神皇の背中を見送った。
二人は彼から書斎の片付けを命じられている。
「敷島ちゃん、私は他に行くところがあるのぉ。悪いけど、片付けは一人でやっておいてくれなぁい?」
「何?」
敷島は考える。
貴龍院が主の意を超えて勝手な思惑で動いていることは最早確定的だ。
だが、確証が無い。
である以上、ここで貴龍院を斬ってしまってはそれこそ主への背信となってしまう。
「やめておきなさぁい。貴女では私には勝てないわぁ。今はまだ貴女を殺すつもりなんて無いの。あの御方を悲しませたくないものぉ」
貴龍院は白い歯を見せて笑っている。
「それに、もう手遅れよぉ。あの御方は答えを出した。今の私達に必要な心構えとは、それが如何なる道であろうとあの御方への忠誠を貫き通し何処までも付き従う覚悟。貴女にそれがあるかしらぁ?」
敷島の鋭い視線が貴龍院を睨み付ける。
しかし、貴龍院は余裕を崩さない。
「私はあの御方の御心の儘に。求められれば侍女にでも愛人にでも奴隷にでも、懐刀にでも太鼓持ちにでも肉便器にでも、そして后にでも御母堂にでもなってみせるわぁ。貴女とはあの御方に付き従う年季も覚悟も、それに立場も違うのよぉ」
貴龍院の体を黒い靄が包み込んでいく。
「資料は棄ててしまって構わないわぁ。精々一晩、今後の振る舞い方についてよぉく考えることねぇ」
貴龍院は黒い靄と共に姿を眩まし、寝室には歯噛みする敷島だけが一人取り残された。
恐るべき厄災を齎す女を取り逃がしてしまった不穏極まり無い空気と共に。
⦿⦿⦿
翌日、十一月一日日曜日、昼過ぎ。
航と魅琴は霊園を訪れていた。
四十九日までに彼女の母・奏手が眠る墓地を見に行きたいという魅琴の願いだった。
航はなるべく彼女に付いて支えたいと思っていたこともあり、同行を買って出たのだ。
道行く人々はすっかり日常の休日を取り戻している。
まだ正式な講和は結ばれていないが、戦乱は過去になりつつあった。
「良い天気だ。雲一つ無い快晴じゃないか」
「そうね……」
航と魅琴は思わず空を見上げた。
それはまるで、奏手が二人の行く末を祝福しているかの様であった。
行く手を遮る者が何も無い、澄み渡った空模様。
そう、丁度あの日、皇國がこの世界に轟臨し、全世界の空に能條緋月の顔が映し出された時の様に……。
『世界よ、少し話がある』
突如、あまりにも都合良く雲一つ無い空に、一人の男のバストアップが映し出された。
今となっては日本国の大半が知っている人物の姿だ。
「神皇・叡智……!?」
「天空上映……一体どういうつもりかしら……?」
神皇・叡智――数箇月前に代替わりした皇國の君主であり、今最も世界を騒がせていると言っても過言では無い人物だ。
その彼が、皇國の世界に向けた発信に度々使われた大空の映像「天空上映」を使って何かを呼び掛けようとしている。
和やかな休日の空気から一変、航と魅琴は言い知れぬ不安に包まれていた。
『先ずは何より、我が神聖大日本皇國と日本国の間に生じた戦争事態が終熄に向けて滞りなく進んでいることを祝したい。抑も皇國の世界を跨ぐ長き旅は汎ゆる世界線の日本民族を救済する為の道であった。此度の戦争はその国是・大義に背いていたと言わざるを得ない。過ちが正されることは喜ばしいことだ』
言葉とは裏腹に、神皇の表情は硬く引き締まっている。
それは戦争という過ちへの沈痛と犠牲に対する哀悼というよりは、もっと別の深刻な感情が宿っているかの様だ。
「こんないきなりの天空上映で言うことか?」
「違うでしょうね。おそらく、これはほんの前振りよ」
航と魅琴の推察通り、神皇は言葉を続ける。
『両国の間に不幸な擦れ違いが生じ、互いに殺し合う事態に発展してしまったことはこの上無い悲劇だ。開戦以降そのことをずっと考えていた。何故この様なことになってしまったのか、と。惟えば日本人は和を以て貴しとなす民族であるにも拘わらず、同じ民族同士で争い続けていた。親しい者が犠牲になることなど、誰も望んでいる筈が無いのに。此度の戦争だけではない。皇國も、明治日本も、それ以前より多くの戦争を経験し、帝の赤子を多数犠牲にしてきた。皇國を振り返ると、世界大戦と第一次共産革命、叛逆勢力による幾多の内乱、此度の日本戦争と革命動乱など、血で血を洗う戦いを何度も繰り返してきた。何故、この様なことが起きてしまうのか。それをずっと考えていた』
映し出された神皇の眼に鋭い光が宿る。
『そして昨晩、遂に答えに辿り着いたのだ』
航は固唾を呑んだ。
思い出すのは、神瀛帯熾天王が告げたあの恐ろしい予言である。
『愚かな新神皇は、孰れ日本人への愛を反転させて避け得ぬ滅びを齎すじゃろう!』
航と魅琴が譬えようの無い不安と共に見守る中、神皇の言葉は続く。
⦿⦿⦿
同じ頃、皇國では予期せぬ神皇の天空上映により、主に皇族周りで騒動となっていた。
日本国とは三時間程の時差がある為、丁度夕刻に差し掛かっている頃合いだ。
「兄様は何処だ! 一体何処からこの天空上映を流している!」
皇妹・龍乃神深花は皇宮宮殿から御車止めへと出て来た。
彼女の侍従・灰祇院在清が龍乃神の元へと駆け寄る。
「殿下、私も侍従達と共に皇宮内を探し回りましたが発見に至っておりません。帝嘗本社内も社員達が隈無く探したのですが……」
「では兄様の旧邸宅は?」
「敷島殿と貴龍院殿が任っています。他、旧麒乃神邸は鬼獄東風美嬢・枚辻埜愛瑠嬢・別府幡黎子嬢が、旧鯱乃神邸は水徒端早辺子嬢が任っているのですが、今のところ発見の報告はありません」
灰祇院は珍しく焦燥を顔に浮き立たせていた。
彼もまた、突然の事態に嫌な予感を覚えているのだろう。
二人の頭上、夕刻の空には神皇の顔が大々と映し出され、世界中に向けて言葉を発信している。
『大きな手掛かりとなったのは先日の明治日本訪問だった。実に興味深いものを多々見せてもらったが、その中で一人の女と出会った』
神皇は訪日での経験を滔々と話している。
丁度そんな時、龍乃神と灰祇院の許へ一人の女が歩み寄ってきた。
神皇の近衛侍女・貴龍院皓雪である。
「貴龍院殿、陛下は見付かったのですか?」
「いいえ、灰祇院君。旧邸宅は引き続き敷島ちゃんが探しているわぁ。でも、私としては陛下が直々に伝え給う勅をじっくりと拝聴したいわぁ」
「貴龍院、それどころではないだろう」
「そうでしょうか、殿下。私としては、陛下の聖旨を確りと胸に刻んでおくべきかと存じますが。目の前の現実を把握しておかなければ対処も正しく出来ませんもの……」
「それは……そうかも知れないが……」
何処か腑に落ちない様子の龍乃神、そんな彼女を横目に、貴龍院は空を仰ぐ。
「さあ、眼に焼き付けましょう。陛下の御勇姿、私達に下されるの運命を……」
神皇の話は続く。
『あれは間違い無く褒め言葉だった。しかしでは何故、日本人離れしている、などという言葉が良い意味で使用されるのか。恰も日本人が劣っているかの如き言い種が罷り通るのか……。おそらく、元を辿れば日本人が歩んできた歴史に理由があるのだろう。日本人は有史以来、多くを海の向こうから学び、国を発展させてきた。島国であるが故に大陸の争乱からは隔離されていたが、一方で地政学的には要衝であり続けたが故に、多くの渡来人が、南蛮人が常に訪れた。世界線は数あれど、何れの歴史に於いても概ね日本人はその恩恵を受け続けたと言えるだろう』
そのような歴史の中で、日本人の中にいつしか「海の向こう側には優れた文明を持つ素晴らしい国がある」という意識が根付いた――神皇はそのような考えを述べ、更に続ける。
『しかし一方で、日本人は海外文化をそのまま取り入れるのではなく独自の解釈を加えてもいた。また、日本ならではの、独自の思想や文化も育み続けた。先人達は解っていたのだ。海の向こうの文明は、思想は、必ずしも日本人に利益を齎すばかりでは無く害にもなり得るのだと。元々日本の国風、日本人の文化を想定していないのだから当然だ。日本には元々、独自の信仰や精神性に基づいて紡いできた歴史があったのだ。それは舶来文明の影響を受けながらも、日本人の誇りとして形を変えながらも受け継がれてきた』
日本の文明史を語る神皇の表情はどこか夢見心地といった様子で陶酔感を帯びていた。
しかし、その表情に一転して影が差す。
『だが、その根底を覆される事件が起きた。皇國に於いても、明治日本に於いても、世界を支配していた秩序に戦いを挑み、そして敗れてしまったことで全てが狂ってしまったのだ。敗戦は両の日本の誇りを大きく傷付け、一つの病の影を落とした。皇國に於いて、そのような背景から生まれたのが革命思想であり、ヤシマ人民民主主義共和国であり、武装戦隊・狼ノ牙であった。彼らは日本人を狗の民族と蔑み、根本から精神性を改めなければならないと信じた。その結果、彼らは皇國に失政による厄災を齎した。また、天日嗣を破壊し、今日に於ける皇國の旅立ちの遠因を作った。皇國の歴史とは、旅路とは、まさに敗戦と彼らの手によって失われた日本の誇りを再び紡ぐ大事業に他ならなかった』
皇宮宮殿前では、神皇の様子を三人の男女が見上げている。
その中で唯一人、貴龍院だけは表情に笑みを湛えていた。
しかしこの時、彼女の口元が下がり、笑みから困惑の表情に変わっていた。
「何、この流れ……?」
神皇の話は続く。
『だがここで考える。果たして彼らは悪であったのだろうか、と。確かに叛逆者ではあった。しかし、彼らには彼らなりの信念があった。彼らもまた、己の正義に、大義に殉じたに過ぎない。では明治日本は? 彼らが皇國の大義を阻んだのもまた、かの国の理念を守り抜いたからに過ぎない。彼らの誰も、先の悲劇の元凶ではないのだ。明治日本も、狼ノ牙も、日本人の誰も悪くはない』
「待って? 一体何の話をしているの、陛下……?」
貴龍院は明らかに動揺していた。
彼の話す内容が想定外なのか、顔を引き攣らせている。
『悪は日本の精神文化を捻じ曲げた何かだ。では、それは何なのか。敗戦によって力を増し、日本人を決定的に捻じ曲げてしまったのは何か。それはまさに、日本人が取り入れ続けた舶来文化に他ならない。日本人を劣等、野蛮、罪人と貶め、誇りを奪った思想。それらに蝕まれた日本人は、何十年にも亘り深刻な病に冒されていたといえるだろう。この病は日本人の心を常に苛み、靖らかな幸福から遠ざけ続けた。その結果、日本人に生まれた祝福を忘れ誇り無き死に至る者が何億人と生まれたのだ』
神皇の表情が怒りに歪み、恐ろしい声を響かせる。
『よくも斯様な惨い仕打ちをしてくれたな、貴様ら』
映像の神皇は右腕を上げた。
『舶来文明の恩恵は認めよう。これまでの日本の発展には確かに必要ではあった。異質な文化から学ばねば社会は硬直し、緩やかな死へと向かう、それは間違い無い。だが、異なる世界線同士で接触することが可能な今に至っては、最早学びなど異界の日本同士で事足りる。今必要なのは病の恢復である。即ち、病原となる異国から永久に、絶対的に隔離して遠ざけることだ。今これより、日本人の治癒を実施する!』
天空の映像が神皇から遠離る。
引いて、引いて、彼の背後にある巨大な自然物を映し出す。
倭岡州・岾梨州境、標高一一九四一米――世界最高峰「巫璽山」である。
『起動せよ! 無窮為動機神体・アメノミナカヌシ!』
神皇の高らかなる叫び、大地が揺れる、霊峰が二つに割れていく。
そして天空に映し出されたのは、割れた巫璽山より浮上する巨大な球形の機械である。
全高八一二八米、無窮為動機神体・アメノミナカヌシ。
その形は宛ら、剥き出しの為動機神体操縦室「直靈彌玉」の様であった。
揺れが収まり、映像が神皇に戻る。
『これより全世界に勅を発する。起源は年内、年明けと共にアメノミナカヌシより遍く総てに伝達する』
神皇の声が世界の空を戦慄させる。
『日本以外全部死ね』
日は落ちた。
天空上映が終わり、世界は空前絶後の混乱に包まれる。
また皇國も、おそらくは殆どの者達がこう痛感した。
自分達はなんという怪物を育て上げてしまったのか、と。
「なんでっ……!」
そんな中、皇國の宮殿前では彼女もまた頭を抱えていた。
「なんでそうなるのよおおおおおおおっっ!!」
貴龍院の絶叫が、茜色の空に響き渡った。
⦿⦿⦿
日本国では、航と魅琴が驚愕に眼を見開いていた。
「なんてこった……! まさかこんなことになるなんて……!」
「もし日本以外の全ての国が滅んでしまったら、一国だけで立ち行かない日本も存続出来ないわ。そうなると、日本国は皇國に吸収されるより他に無くなる。これじゃあ、私達は何の為に……!」
この日、世界は変わり果てた。
世界各国の主要都市には、その日のうちに為動機神艦が展開された。
どうやらアメノミナカヌシによって全世界の座標が算出され、転移が可能になったのだ。
その脅威も然る事ながら、真に凄まじいのはそれを造り上げた圧倒的頭脳と唯一人で皇國の全軍を動かす絶大な神為の持ち主、神皇・叡智である。
日付はカウントダウンに変わった。
今、世界は絶滅に向けた支配へと陥ってしまった。
解放すべく戦えるのは、唯一国のみその影響を受けていない国。
まるで勝ち目の無い日本国を置いて他に無かった。
今、日本と皇國の正統を巡る真の戦いが始まろうとしていた。
――第四章『朝敵篇』完