何はともあれ、早辺子が「扇小夜」として介入したことで、航はどうにか一命を取り留めた。
駆け付けた四人の仲間達も、目が覚めて状況を察した二人も、航の無事を喜んでいた。
だが屋渡はそんな安堵の雰囲気が気に入らないのか、早辺子に下衆の勘繰りをぶつけはじめる。
「ククク、しかしあれだな、扇よ。そんなにこの情けない男を守りたかったのか? 随分とまあ仲睦まじく、公転館を切り盛りしていたそうじゃないか」
早辺子の表情が強張った。
不快感からか、普段よりも厳しさを増しているように見える。
屋渡の下卑た邪推は更に続く。
「お前の好みはこういう軟弱で頼りない優男だったか、成程なあ……」
「屋渡様、私に対して何の侮辱ですか?」
「いやいや、そういう訳ではないぞ。寧ろ、そんなお前に喜ばしい妙案を思い付いた」
瞼を痙攣させる早辺子に、屋渡はゆっくりと歩み寄る。
「岬守のことは正式にお前の下へ付けてやろう。お前の小間使いとして精々扱き使ってやると良い。愛しい思いを込めて、手取り足取り仕事を教えてやっても良いと言うのだ」
「な、何を勘違いしているのですか?」
「勘違い? 俺にはそうとも思えなかったがな? 俺に縋り付いて問うのはこいつらの処遇のことばかり。特に、岬守の不出来に話が及ぶと目の色を変えて慈悲を懇願し、必死に奉仕してきたよなァ? 中々に淫靡で、興奮させてもらった、気持ち良かったぞ?」
早辺子の表情が激しく引き攣った。
屋渡の言葉は、航にとってショックの大きいものだった。
だが、よく思い出してみると、屋渡は訓練中何度も抜け出している。
その間、屋渡が公転館へ行って、言葉通りの行為に及んでいたとしたら――航は口内に妙な酸味が広がるのを感じた。
いや、早辺子の言葉から察するべきだったのかも知れない。
少し考えれば分かることから、目を背け続けていたのか。
「で、返事は?」
屋渡は航を横目に一瞥すると、醜悪な蛇の様な笑みを浮かべて「扇小夜」に答えを催促した。
精神的に嬲るような詰め方だが、指示の中身自体は航と早辺子の目論見通りである。
ならば、彼女にも断る理由は無い。
「畏まらせていただきました。謹んで承り……っ!?」
早辺子の承諾の言葉が終わらないうちに、屋渡は彼女の唇を塞いだ。
その肢体の所有権を周囲に見せ付けるように舌を絡める、長く、ねちっこい接吻である。
屋渡の視線が蛇の様にぎょろりと動き、その瞳に航の顔を映す。
唇を奪う相手の「扇小夜」よりも、航の方ばかりを横目に見ていた。
この時、その場に居た全員が、屋渡の航に対する当たりの強さ、その感情を察した。
航に対して「脱走を企てた」「訓練の成果が出ない」というだけでは説明が付かないくらい執拗に甚振り、処刑しようとすらしたその理由を理解した。
嫉妬。
自分の隣で寝る女が、他の男の身を案じている――それが鬱屈した思いとなり蜷局を巻き、胸の中で絡み付く灼熱の闇となって航に激しく牙を剥いていたのだ。
故に、彼女の表情が苦しそうに歪んでいることなど、屋渡は気にも留めない。
節榑立った手が彼女の後頭部を鷲掴みにし、長く美しい髪を乱している。
この女は自分の手中にあるのだ――そのアピールの為だけの、長い長い接吻である。
「ぷはっ! げほっ、はぁ……はぁ……」
解放された早辺子は瞳を潤ませ、肩で息をしている。
屋渡は彼女と、それを見て表情を曇らせる航を見て満足げに歪んだ笑みを浮かべる。
「尤も、あまりに色惚けられて、革命の本分を忘れても困る。今日からは俺も公転館に寝泊まりするとしよう。勿論、父親の俺は子供部屋には泊まらん。寝室は扇、お前の部屋だ。ククク、毎晩お楽しみだなァ!」
高笑いしながらワゴン車の助手席に乗り込む屋渡の背中を、早辺子は激しい憎悪に満ちた眼で睨んでいた。
航はいつだったか、早辺子に聞かされた身の上話を思い出す。
『狼ノ牙にとって、姉は嘸かし都合の良い女だったのでしょう。何と言っても、水徒端家の令嬢ですからね』
『水徒端家……すみません、皇國の家柄には疎くて……。名家なんですか?』
『由緒ある貴族、とまでは胸を張って言えません。しかし、私の高祖父が畏れ多くも神皇陛下の復権と皇族の再興へ多大なる貢献があったと認められ、新たに華族の末席を汚すお許しを賜ったのです』
因みに、このような華族を皇國では「新華族」、対して、革命以前から華族待遇だった貴族や元大名を「旧華族」と呼んでいる。
皇國に於いて「新華族」はそういう意味で「成り上がり者」なのだが、社会制度上も格が低いとはいえ貴族として扱われる。
この様に、同じ日本の名を冠しても、社会制度は別の歴史に大きく影響されて異なる。
『成程。忠義の一族だからこそ、それを仲間にしたことは良い広告になると……』
『はい。ですから、何としても連れ戻さなければならないのです。水徒端家の誇りと名誉の為にも……』
そんなことを話していた早辺子が屋渡に抱かれていた、その屈辱は察するに余りある。
航は居た堪まれなくなって彼女に声を掛ける。
「水徒端さん……」
「人前では扇でお願いします。聞かれたらどうするのですか」
気丈さを装う早辺子だったが、乱れた髪が隠しようのない綻びを示している様だった。
「約束を果たす為ですからね。岬守様が気に病むことでは御座いません。今夜よりお休みの際はまた私の術識神為をお掛けしましょう。何に悩んでも煩わされず、深い眠りに浸れるように。何があっても魘されず、朝まで目を覚まさぬ様に……」
自分の無力さに打ちのめされた航は運転席に乗り込む早辺子に対し何も言えなかった。
彼女に続き、仲間達も暗い表情を浮かべてワゴン車に乗り込んでいく。
繭月は涙を流し、折野に慰められていた。
新兒と虎駕は怒りに満ちた眼で助手席の屋渡を睨んでいた。
双葉は航を一瞥し、早辺子の方へ視線を移した。
椿はずっと早辺子を見ていた。
「早くお乗りください。置いて行きますよ」
一人取り残された航に、早辺子が乗車を催促する。
闇に沈んだ丘陵を背に、航達は公転館へ戻された。
⦿⦿⦿
その夜、航は揺り籠の中で子守歌を聴かされる様に心地良い、しかし強制的な眠りの中にあった。
その子守歌に注意深く聞き耳を立てると、何やら女の悲鳴と男の笑い声がノイズとなって混じっている。
(誰の声だ?)
『私は、岬守航様をお慕い申し上げております』
(誰だっけ?)
ふと、瞼の裏に女の顔が浮かぶ。
『いつまで寝ているの?』
酷く責める様な、怒りと失望の混じった哀しげな表情で魅琴が見下ろしていた。
(起きないと……。……糞、起きられない……! 起きろ……!)
『あの男、彼女に酷い事をしているわ』
(何だか思い出してきたぞ。だけど魅琴、なんだか変なんだ)
航とて、今すぐ起きたかった。
だが、意識に分厚い膜が張っていて、体に力が入らない。
『関係無いわ、とっとと起きなさい』
魅琴の手が航の髪を鷲掴みにし、頭を無理矢理持ち上げる。
『ほら、聴きなさい。手遅れになるわよ』
その時、叫び声が瞑闇を切り裂いた。
『助けてェッ!!』
航の意識は現実へと戻された。
⦿⦿⦿
気が付くと航は、裸の屋渡の後首を掴んでいた。
今居る場所が自分の部屋であること、裸で痣だらけの早辺子が尻を向けて四つん這いになっていたことから、全てを察した。
航は腸の底で激しい怒りが煮繰り、込み上げて来るのをはっきりと自覚した。
「あ?」
その瞬間、屋渡は完全に油断していた。
別のことに夢中で、航がこの様な行動に出るなど夢にも思っていなかった、といった様子だ。
そんな屋渡が振り向いて下卑た笑みを晒した瞬間、航は怒りにまかせて顔面を殴り飛ばした。
極めて強烈な拳だった。
あまりの凄まじさに筋骨隆々とした屋渡の体は宙に浮き、派手な音を立てながら壁に打ち付けられて尻餅を搗いた。
「出て行け」
航は五臓六腑に今にも爆発しそうな怒りが滾らせ、驚愕の屋渡を見下ろす。
異様な雰囲気に、実力では遙かに上を行く筈の屋渡は気圧されていた。
しかし、彼にも意地がある。
何より、彼にとっては子が親に手を上げて行為の邪魔をし、剰え見下して命令するなどあってはならない事だ。
「やっぱり死ぬか、岬守ィ?」
が、立ち上がろうとした屋渡に、今度はサッカーボールを蹴る様な金的が炸裂した。
「んおおおおッッ!?」
剥き出しの急所を力一杯蹴られた衝撃に、流石の屋渡も悶絶するより他は無かった。
そんな彼を、航は公転館ごとビリビリと震わせるほどの剣幕で怒鳴り付ける。
「今すぐ俺の前から消えろ!! さっさと出て行け!!」
如何に神為に守られていようと、金的のダメージは流石に深いらしい。
屋渡は分が悪いと踏んだのか、恨めしそうに顔を歪ませて捨て台詞を吐きながら這々の体で部屋から出て行った。
その後で聞こえた機関音から察するに、どうやら公転館からも立ち去ったようだ。
航は肩で息をしていた。
尚も収まらない怒りを必死に落ち着かせていた。
何度も、何度も深呼吸を繰り返す。
そんな彼の背中に、枕が弱々しく投げ付けられた。
振り向くと、そこには早辺子がベッドのシーツに包まっていた。
それは彼女自身が繕い、そして崩してしまったものだ。
「何なんですか貴方は! なんで目を覚ますんですか!!」
涙声で喚く早辺子を見詰める内に、航の怒りは収まってきた。
彼女の姿を見ていると、怒りよりも別の感情が芽生えたからだ。
それは、憐れみとも罪悪感ともまた違った。
「私のことなど放っておけば良いでしょう! 心に決めた女が居る癖に……!」
両手で顔を覆って泣く早辺子は、その胸の内を明かし始める。
「今、私がどれ程に惨めな想いをしているか、お分かりですか? こんな姿、貴方に見られたくなどなかった……。あんな想い、貴方に聞かれたくなどなかった……。貴方を愛したくなどなかった……」
思わず、航は跪いて早辺子の肩に手を置いた。
早辺子は涙に濡れた顔で微笑み返す。
「水徒端早辺子は、岬守航様のことを、心よりお慕い申し上げております」
改めて思いを打ち明けた早辺子に対し、航はもう一方の手で彼女の手をそっと握った。
「ごめんなさい。僕は貴女の思いには応えられない」
「はい、承知しております」
「でも一つ、貴女の為にこれだけは約束します」
早辺子は赤く腫れた目を見開いた。
「脱出の時、貴女が教えてくれた全てを駆使して、ここにあるあいつらの設備施設を、貴女を苦しめてきたものを滅茶苦茶にしてやります。だから知っている限りの標的を僕に教えて欲しい。全部壊しますから。最後に屋渡が何の言い訳も出来ない程の大暴れを、貴女に捧げますから」
航に芽生えた想いとは、強い感謝と決意だった。
早辺子は自分が決して持たない強さを秘めている。
関係が壊れるのを恐れ、ずっと魅琴との距離を詰められなかった自分には無い強さを。
そう思うと、彼女への尊敬を禁じ得ない。
「僕が、屋渡に引導を渡します」
航の眼を、早辺子はじっと見詰め返している。
彼女は小さく微笑むと、航の胸に寄り掛かり、強く抱き締めた。
「突然の無礼をお許しください。そして叶うならば一度だけでも、たった一度だけでも私を『早辺子』とお呼びください。それだけで、私は生きていける」
航は早辺子を抱き返した。
「どうもありがとう、早辺子さん」
どうにか静寂を取り戻した夜は、月明かりでそっと二人を包み込み、更けていった。
脱出決行日まで、残すところは後四日である。