日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第十一話『約束』 急

 何はともあれ、早(さ)辺(え)子(こ)が「扇(おうぎ)小(さ)夜(よ)」として介入したことで、航(わたる)はどうにか一命を取り留めた。

 駆け付けた四人の仲間達も、目が覚めて状況を察した二人も、航(わたる)の無事を喜んでいた。

 

 だが屋(や)渡(わたり)はそんな安(あん)堵(ど)の雰囲気が気に入らないのか、早(さ)辺(え)子(こ)に下衆の勘繰りをぶつけはじめる。

 

「ククク、しかしあれだな、扇(おうぎ)よ。そんなにこの情けない男を守りたかったのか? 随分とまあ仲(なか)睦(むつ)まじく、公(こう)転(てん)館(かん)を切り盛りしていたそうじゃないか」

 

 早(さ)辺(え)子(こ)の表情が強(こわ)張(ば)った。

 不快感からか、普段よりも厳しさを増しているように見える。

 屋(や)渡(わたり)の下卑た邪推は更に続く。

 

「お前の好みはこういう軟弱で頼りない優男だったか、成程なあ……」

「屋(や)渡(わたり)様、私(わたくし)に対して何の侮辱ですか?」

「いやいや、そういう訳ではないぞ。寧(むし)ろ、そんなお前に喜ばしい妙案を思い付いた」

 

 瞼(まぶた)を痙(けい)攣(れん)させる早(さ)辺(え)子(こ)に、屋(や)渡(わたり)はゆっくりと歩み寄る。

 

「岬(さき)守(もり)のことは正式にお前の下へ付けてやろう。お前の小間使いとして精々扱(こ)き使(つか)ってやると良い。愛(いと)しい思いを込めて、手取り足取り仕事を教えてやっても良いと言うのだ」

「な、何を勘違いしているのですか?」

「勘違い? 俺(おれ)にはそうとも思えなかったがな? 俺(おれ)に縋(すが)り付(つ)いて問うのはこいつらの処遇のことばかり。特に、岬(さき)守(もり)の不出来に話が及ぶと目の色を変えて慈悲を懇願し、必死に奉仕してきたよなァ? 中々に淫(いん)靡(び)で、興奮させてもらった、気持ち良かったぞ?」

 

 早(さ)辺(え)子(こ)の表情が激しく引(ひ)き攣(つ)った。

 屋(や)渡(わたり)の言葉は、航(わたる)にとってショックの大きいものだった。

 だが、よく思い出してみると、屋(や)渡(わたり)は訓練中何度も抜け出している。

 

 その間、屋(や)渡(わたり)が公(こう)転(てん)館(かん)へ行って、言葉通りの行為に及んでいたとしたら――航(わたる)は口内に妙な酸味が広がるのを感じた。

 いや、早(さ)辺(え)子(こ)の言葉から察するべきだったのかも知れない。

 少し考えれば分かることから、目を背け続けていたのか。

 

「で、返事は?」

 

 屋(や)渡(わたり)は航(わたる)を横目に一(いち)瞥(べつ)すると、醜悪な蛇の様な笑みを浮かべて「扇(おうぎ)小(さ)夜(よ)」に答えを催促した。

 精神的に嬲(なぶ)るような詰め方だが、指示の中身自体は航(わたる)と早(さ)辺(え)子(こ)の目(もく)論(ろ)見(み)通りである。

 ならば、彼女にも断る理由は無い。

 

「畏(かしこ)まらせていただきました。謹んで承(うけたまわ)り……っ!?」

 

 早(さ)辺(え)子(こ)の承諾の言葉が終わらないうちに、屋(や)渡(わたり)は彼女の唇を塞(ふさ)いだ。

 その肢体の所有権を周囲に見せ付けるように舌を絡める、長く、ねちっこい接(せっ)吻(ぷん)である。

 屋(や)渡(わたり)の視線が蛇の様にぎょろりと動き、その瞳に航(わたる)の顔を映す。

 唇を奪う相手の「扇(おうぎ)小(さ)夜(よ)」よりも、航(わたる)の方ばかりを横目に見ていた。

 

 この時、その場に居た全員が、屋(や)渡(わたり)の航(わたる)に対する当たりの強さ、その感情を察した。

 航(わたる)に対して「脱走を企(くわだ)てた」「訓練の成果が出ない」というだけでは説明が付かないくらい執(しつ)拗(よう)に甚(いた)振(ぶ)り、処刑しようとすらしたその理由を理解した。

 

 嫉妬。

 

 自分の隣で寝る女が、他の男の身を案じている――それが鬱(うっ)屈(くつ)した思いとなり蜷局(とぐろ)を巻き、胸の中で絡み付く灼(しゃく)熱(ねつ)の闇となって航(わたる)に激しく牙を剥(む)いていたのだ。

 故に、彼女の表情が苦しそうに歪(ゆが)んでいることなど、屋(や)渡(わたり)は気にも留(と)めない。

 節(ふし)榑(くれ)立(だ)った手が彼女の後頭部を鷲(わし)掴(づか)みにし、長く美しい髪を乱している。

 この女は自分の手中にあるのだ――そのアピールの為だけの、長い長い接吻である。

 

「ぷはっ! げほっ、はぁ……はぁ……」

 

 解放された早(さ)辺(え)子(こ)は瞳を潤ませ、肩で息をしている。

 屋(や)渡(わたり)は彼女と、それを見て表情を曇らせる航(わたる)を見て満足げに歪んだ笑みを浮かべる。

 

「尤(もっと)も、あまりに色惚(ぼ)けられて、革命の本分を忘れても困る。今日からは俺(おれ)も公(こう)転(てん)館(かん)に寝泊まりするとしよう。勿(もち)論(ろん)、父親の俺(おれ)は子供部屋には泊まらん。寝室は扇(おうぎ)、お前の部屋だ。ククク、毎晩お楽しみだなァ!」

 

 高笑いしながらワゴン車の助手席に乗り込む屋(や)渡(わたり)の背中を、早(さ)辺(え)子(こ)は激しい憎(ぞう)悪(お)に満ちた眼(め)で睨(にら)んでいた。

 航(わたる)はいつだったか、早(さ)辺(え)子(こ)に聞かされた身の上話を思い出す。

 

『狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)にとって、姉は嘸(さぞ)かし都合の良い女だったのでしょう。何と言っても、水(み)徒(と)端(はた)家の令嬢ですからね』

『水(み)徒(と)端(はた)家……すみません、皇(こう)國(こく)の家柄には疎(うと)くて……。名家なんですか?』

『由緒ある貴族、とまでは胸を張って言えません。しかし、私(わたくし)の高祖父が畏れ多くも神(じん)皇(のう)陛下の復権と皇族の再興へ多大なる貢献があったと認められ、新たに華族の末席を汚すお許しを賜ったのです』

 

 因(ちな)みに、このような華族を皇(こう)國(こく)では「新華族」、対して、革命以前から華族待遇だった貴族や元大名を「旧華族」と呼んでいる。

 皇(こう)國(こく)に於(お)いて「新華族」はそういう意味で「成り上がり者」なのだが、社会制度上も格が低いとはいえ貴族として扱われる。

 この様に、同じ日本の名を冠しても、社会制度は別の歴史に大きく影響されて異なる。

 

『成程。忠義の一族だからこそ、それを仲間にしたことは良い広告になると……』

『はい。ですから、何としても連れ戻さなければならないのです。水(み)徒(と)端(はた)家の誇りと名誉の為にも……』

 

 そんなことを話していた早(さ)辺(え)子(こ)が屋(や)渡(わたり)に抱かれていた、その屈辱は察するに余りある。

 航(わたる)は居(い)た堪(たま)まれなくなって彼女に声を掛ける。

 

「水(み)徒(と)端(はた)さん……」

「人前では扇(おうぎ)でお願いします。聞かれたらどうするのですか」

 

 気丈さを装う早(さ)辺(え)子(こ)だったが、乱れた髪が隠しようのない綻(ほころ)びを示している様だった。

 

「約束を果たす為ですからね。岬(さき)守(もり)様が気に病むことでは御座いません。今夜よりお休みの際はまた私(わたくし)の術(じゅつ)識(しき)神(しん)為(い)をお掛けしましょう。何に悩んでも煩わされず、深い眠りに浸れるように。何があっても魘(うな)されず、朝まで目を覚まさぬ様に……」

 

 自分の無力さに打ちのめされた航(わたる)は運転席に乗り込む早(さ)辺(え)子(こ)に対し何も言えなかった。

 彼女に続き、仲間達も暗い表情を浮かべてワゴン車に乗り込んでいく。

 

 繭(まゆ)月(づき)は涙を流し、折(おり)野(の)に慰められていた。

 新(しん)兒(じ)と虎(こ)駕(が)は怒りに満ちた眼で助手席の屋(や)渡(わたり)を睨んでいた。

 双(ふた)葉(ば)は航(わたる)を一瞥し、早(さ)辺(え)子(こ)の方へ視線を移した。

 椿(つばき)はずっと早(さ)辺(え)子(こ)を見ていた。

 

「早くお乗りください。置いて行きますよ」

 

 一人取り残された航(わたる)に、早(さ)辺(え)子(こ)が乗車を催促する。

 闇に沈んだ丘陵を背に、航(わたる)達は公(こう)転(てん)館(かん)へ戻された。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 その夜、航(わたる)は揺り籠(こも)の中で子守歌を聴かされる様に心地良い、しかし強制的な眠りの中にあった。

 その子守歌に注意深く聞き耳を立てると、何やら女の悲鳴と男の笑い声がノイズとなって混じっている。

 

(誰の声だ?)

 

『私(わたくし)は、岬(さき)守(もり)航(わたる)様をお慕い申し上げております』

 

(誰だっけ?)

 

 ふと、瞼(まぶた)の裏に女の顔が浮かぶ。

 

『いつまで寝ているの?』

 

 酷(ひど)く責める様な、怒りと失望の混じった哀(かな)しげな表情で魅(み)琴(こと)が見下ろしていた。

 

(起きないと……。……糞(くそ)、起きられない……! 起きろ……!)

 

『あの男、彼女に酷い事をしているわ』

 

(何だか思い出してきたぞ。だけど魅(み)琴(こと)、なんだか変なんだ)

 

 航(わたる)とて、今すぐ起きたかった。

 だが、意識に分厚い膜が張っていて、体に力が入らない。

 

『関係無いわ、とっとと起きなさい』

 

 魅(み)琴(こと)の手が航(わたる)の髪を鷲掴みにし、頭を無(む)理(り)矢(や)理(り)持ち上げる。

 

『ほら、聴きなさい。手遅れになるわよ』

 

 その時、叫び声が瞑(くら)闇(やみ)を切り裂いた。

 

『助けてェッ!!』

 

 航(わたる)の意識は現実へと戻された。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 気が付くと航(わたる)は、裸の屋(や)渡(わたり)の後首を掴(つか)んでいた。

 今居る場所が自分の部屋であること、裸で痣(あざ)だらけの早(さ)辺(え)子(こ)が尻を向けて四(よ)つん這(ば)いになっていたことから、全てを察した。

 航(わたる)は腸(はらわた)の底で激しい怒りが煮(に)繰(く)り、込み上げて来るのをはっきりと自覚した。

 

「あ?」

 

 その瞬間、屋(や)渡(わたり)は完全に油断していた。

 別のことに夢中で、航(わたる)がこの様な行動に出るなど夢にも思わなかったといった様子だ。

 そんな屋(や)渡(わたり)が下卑た笑みを振り向かせた瞬間、航(わたる)は怒り任せに顔面を殴り飛ばした。

 

 極めて強烈な拳だった。

 あまりの凄(すさ)まじさに筋骨隆々とした屋(や)渡(わたり)の体は宙に浮き、派手な音を立てながら壁に打ち付けられて尻餅を搗(つ)いた。

 

「出て行け」

 

 航(わたる)は五(ご)臓(ぞう)六(ろっ)腑(ぷ)に今にも爆発しそうな怒りが滾(たぎ)らせ、驚(きょう)愕(がく)の屋(や)渡(わたり)を見下ろす。

 異様な雰囲気に、実力では遙(はる)かに上を行く筈の屋(や)渡(わたり)は気(け)圧(お)されていた。

 しかし、彼にも意地がある。

 何より、彼にとっては子が親に手を上げて行為の邪魔をし、剰(あまつさ)え見下して命令するなどあってはならない事だ。

 

「やっぱり死ぬか、岬(さき)守(もり)ィ?」

 

 が、立ち上がろうとした屋(や)渡(わたり)に、今度はサッカーボールを蹴る様な金的が炸裂した。

 

「んおおおおッッ!?」

 

 剥(む)き出(だ)しの急所を力一杯蹴られた衝撃に、流石(さすが)の屋(や)渡(わたり)も悶(もん)絶(ぜつ)するより他は無かった。

 そんな彼を、航(わたる)は公(こう)転(てん)館(かん)ごとビリビリと震わせるほどの剣(けん)幕(まく)で怒鳴り付ける。

 

「今すぐ俺(おれ)の前から消えろ!! さっさと出て行け!!」

 

 如(い)何(か)に神(しん)為(い)に守られていようと、金的のダメージは流石に深いらしい。

 屋(や)渡(わたり)は分が悪いと踏んだのか、恨めしそうに顔を歪ませて捨(す)て台(ぜ)詞(りふ)を吐きながら這(ほう)々(ほう)の体(てい)で部屋から出て行った。

 その後で聞こえた機関(エンジン)音から察するに、どうやら公(こう)転(てん)館(かん)からも立ち去ったようだ。

 

 航(わたる)は肩で息をしていた。

 尚(なお)も収まらない怒りを必死に落ち着かせていた。

 何度も、何度も深呼吸を繰り返す。

 

 そんな彼の背中に、枕が弱々しく投げ付けられた。

 振り向くと、そこには早(さ)辺(え)子(こ)がベッドのシーツに包(くる)まっていた。

 それは彼女自身が繕い、そして崩してしまったものだ。

 

「何なんですか貴方(あなた)は! なんで目を覚ますんですか!!」

 

 涙声で喚(わめ)く早(さ)辺(え)子(こ)を見詰める内に、航(わたる)の怒りは収まってきた。

 彼女の姿を見ていると、怒りよりも別の感情が芽生えたからだ。

 それは、憐(あわ)れみとも罪悪感ともまた違った。

 

「私(わたくし)のことなど放っておけば良いでしょう! 心に決めた女(ひと)が居る癖に……!」

 

 両手で顔を覆って泣く早(さ)辺(え)子(こ)は、その胸の内を明かし始める。

 

「今、私(わたくし)がどれ程に惨めな想(おも)いをしているか、お分かりですか? こんな姿、貴方(あなた)に見られたくなどなかった……。あんな想い、貴方(あなた)に聞かれたくなどなかった……。貴方(あなた)を愛したくなどなかった……」

 

 思わず、航(わたる)は跪(ひざまず)いて早(さ)辺(え)子(こ)の肩に手を置いた。

 早(さ)辺(え)子(こ)は涙に濡(ぬ)れた顔で微(ほほ)笑(え)み返す。

 

「水(み)徒(と)端(はた)早(さ)辺(え)子(こ)は、岬(さき)守(もり)航(わたる)様のことを、心よりお慕い申し上げております」

 

 改めて思いを打ち明けた早(さ)辺(え)子(こ)に対し、航(わたる)はもう一方の手で彼女の手をそっと握った。

 

「ごめんなさい。僕(ぼく)は貴女(あなた)の想いには応えられない」

「はい、承知しております」

「でも一つ、貴女(あなた)の為にこれだけは約束します」

 

 早(さ)辺(え)子(こ)は赤く腫れた目を見開いた。

 

「脱出の時、貴女(あなた)が教えてくれた全てを駆使して、此処にあるあいつらの設備施設を、貴女(あなた)を苦しめてきたものを滅(め)茶(ちゃ)苦(く)茶(ちゃ)にしてやります。だから知っている限りの標的を僕(ぼく)に教えて欲しい。全部壊しますから。最後に屋(や)渡(わたり)が何の言い訳も出来ない程の大暴れを、貴女(あなた)に捧(ささ)げますから」

 

 航(わたる)に芽生えた想いとは、強い感謝と決意だった。

 早(さ)辺(え)子(こ)は自分が決して持たない強さを秘めている。

 関係が壊れるのを恐れ、ずっと魅(み)琴(こと)との距離を詰められなかった自分には無い強さを。

 そう思うと、彼女への尊敬を禁じ得ない。

 

「僕(ぼく)が、屋(や)渡(わたり)に引導を渡します」

 

 航(わたる)の眼を、早(さ)辺(え)子(こ)はじっと見詰め返している。

 彼女は小さく微笑むと、航(わたる)の胸に寄り掛かり、強く抱き締めた。

 

「突然の無礼をお許しください。そして叶(かな)うならば一度だけでも、たった一度だけでも私(わたくし)を『早(さ)辺(え)子(こ)』とお呼びください。それだけで、私(わたくし)は生きていける」

 

 航(わたる)は早(さ)辺(え)子(こ)を抱き返した。

 

「どうもありがとう、早(さ)辺(え)子(こ)さん」

 

 どうにか静寂を取り戻した夜は、月明かりでそっと二人を包み込み、更けていった。

 脱出決行日まで、残すところは後四日である。

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