龍乃神邸の庭園、敷島朱鷺緒はその一角で一人、刀を振るっていた。
近衛侍女の相方・貴龍院皓雪に斬り掛かり、返り討ちに遭ってしまった彼女だが、その傷はすっかり癒えたようだ。
その様を、二人の男女が遠巻きに窺っていた。
「姉さん、良かった……」
敷島朱鷺緒の名は今の神皇の近衛侍女となる際に主君から与えられたものである。
彼女の本来の身分は水徒端男爵家の令嬢・早芙子――岬守航ら拉致被害者を助けた水徒端早辺子の姉である。
その妹・早辺子とはつい先日、数年ぶりの再会と今生の別れを果たした筈であった。
それが今、何の因果か再び一つ屋根の下に居る。
「あの女が……早辺子さんのお姉さん……」
早辺子の隣でその演舞を見守る航は、一度だけ敷島と会ったことがある。
麗真魅琴を当時の皇太子――現神皇に会わせるべくこの邸から連れて行かれたあの時は、世界が闇に染まったかの様だった。
そういえば、甲公爵邸で早辺子は姉との面会を約束されていた。
あれから随分と経ってしまったが、早辺子の当初からの悲願が達成されたことを考えると、喩えようのない感慨が込み上げて来る。
「再会……出来たんですね、早辺子さん」
「ええ、漸く……」
思えば、二人の運命を結びつけたものこそが敷島朱鷺緒こと水徒端早芙子であった。
姉を巡る早辺子の願いが無ければ、航は今頃こうしてはいなかっただろう。
だが愁いを帯びた早辺子の眼は、姉妹の再会が彼女の望みを叶えるものではなかったことを十二分に物語っていた。
出来れば、早辺子にとって幸せな再会であって欲しかった。
しかしそれでも、早辺子は航に頭を下げる。
「御陰様で、誠に有難う御座いました」
「いえいえ、そんな……」
「大丈夫ですよ、御心配には及びません」
「え?」
「生きて再び会えた姉は、紛れも無く姉だった。今はそれがはっきりと解っているのですよ。だから屹度、私達の未来は明るい……」
「貴龍院皓雪と……袂を分かったことですか?」
嘗て、早辺子は姉を「正義感が強い才女」と評していた。
ここで神皇の許に残るようならば、彼女の評価は覆っていただろう。
だが今、姉妹はこうして一つ屋根の下に居る。
「ん……?」
その時、敷島の眼が航を捉えた。
何やらただならぬ視線だ。
無理も無い、航が皇國と敵対していたことは確かなのだ。
敷島も皇國への帰属心まで失った訳ではあるまい。
だが、手を取り合わなければならない。
その為に航は此処に居るのだ。
根尾弓矢達が皇國を訪れるまで、今暫く時間が掛かる。
⦿⦿⦿
貴龍院皓雪が訪れたのは、勿論龍乃神邸ではなく、何処かの闇の中だった。
この空間は神瀛帯熾天王の一人・閏閒三入の能力によって生み出されたものである。
彼らは皇國に纏わる一連の事件の裏で陰謀を巡らせるに当たり、時折この場所密会していた。
そういう意味では、皇國正統政府が十桐綺葉の異空間という密室で対応策を巡らせている姿は四人の鏡写しとも言える。
しかし、いつもと様子が違うのは、円卓を囲む同志達の視線が彼女に鋭く突き刺さっていることだ。
特に、閏閒よりも他の二人の纏う空気が刺々しい。
「なぁに、突然私を呼び出して? ま、敷島ちゃんを呼び戻すなんて真平だからいい時間稼ぎにはなるけれどぉ」
貴龍院は席に着くなり悪態を吐いた。
「媛様、態々御足労頂き申し訳御座いません。御二人が説明を求めております」
正面の軍服を着た老翁・閏閒は平静に今回の集まりの趣旨を告げる。
彼の両脇から、古代の朝服に似たを着た少年・八社女征一千と、中世の裃に似た装いの偉丈夫・推城朔馬が貴龍院を厳しい表情で、半ば睨み付けていた。
「御媛様、今の状況について、貴女はどう考えているんだい?」
「我々の夢見た樂園とは、朝廷を滅ぼし、日本人をも跡形も無く消し去った世界を意味していた筈だ。今起きていることは、それとはまるで正反対ではないか」
八社女と推城の問い掛けに対し、貴龍院は煩わしそうに顔を顰める。
「ああ、そういうこと……」
貴龍院の視線が八社女、推城、そして閏閒へと順に移る。
一周、二周、三人を巡る彼女の目付きは次第に鋭くなり、最後には舌打ちして溜息を吐いた。
「解っているわよ、そんなこと。私だってこのままで良いとは思っていないわぁ」
「当然だろう」
特に、推城が納得していない様で、更に貴龍院を問い詰める。
「貴様は言ったな。あの男を上手く誘導し、日本人への愛を憎しみに反転させてみせる、と。その結果がこれか。貴様、今まで何をしていたのだ? 私や八社女、閏閒が必死で御膳立てをしてきた意味は何だったのだ? 要するに貴様はしくじった。このままでは全てが台無しではないか。この落とし前、どう付けるつもりか答えてみろ」
「ち、ちょっと推城……」
逆に、八社女は少し日和ったのか推城を宥めに掛かる。
「何もそこまで言うことはないじゃないか。確かに反省は重要だけど、それよりもこの状況をどうするのか考える方が大事だ、そうだろう? 僕はその策を御媛様に訊きたい。何か次の手は考えてあるのかい?」
どうやら神瀛帯熾天王の間にも今回の事態についての考えには微妙な差異があるらしい。
彼らは皆、日本国の皇統に恨みを抱いてその断絶と日本人の殲滅を目論んでいるが、それぞれ生まれた時代も立場も異なり、その思いも同一ではない。
奈良時代に生まれた孤児の出である八社女征一千は、貴龍院に対して急ぎの対応を訴えている。
彼女が神皇の誘導と制御に失敗したとは思っているようだが、今まで通りに失態を同志として補い合い、団結して此度の難局に臨もうとしている、といったところか。
これは、彼が唯一「社会共同体の福祉」の恩恵を受けて育ったことも影響しているのかも知れない。
彼はこれまでも、主に推城と助け合いながら暗躍を続けてきた。
その推城朔馬は南北朝時代末期に生きた武将であるが、最も貴龍院の失敗を強く追求している。
それは宛ら、此度の決定的な不始末の責任を取って自決せよと迫っているかの様だ。
昭和初期に生まれたという閏閒三入は本心が見えない。
というより、八社女や推城からは一歩引いて様子を窺っている様に見える。
そんな彼は、軍帽の庇の奥で双眸に鋭い光を纏わせて、静かに口を開いた。
「ふむ、御二人が仰ることはそれぞれ道理でしょうな」
閏閒と貴龍院の視線が交錯する。
「媛様、我らは貴女様の『尋常ならざる眼』を一心に信じてここまで歩んで参りました。貴女様の見通す未来、展望こそが我らの道標であったのです。謂わば貴女は我らの総司令官であります。そして、神皇の操縦は我らの計画の根幹。御二方が狼狽なさるのも無理からぬ話」
「三入君、貴方までこの二人の肩を持って私を責めるわけぇ?」
貴龍院は眉根を痙攣させ、口角から吐き出す呪詛の様に閏閒へ問い返した。
しかし、閏閒は揺れない。
ただ淡々と、どこか不敵に言葉を続ける。
「滅相も無い。ただ、見方を変えればこれは我らにとって一大闘争で御座います。謂わば我らは大望が為に戦う闇の軍隊。ならば予定調和の勝利など稀であり、予期せぬ敗退の先にこそ、天を揺るがす真の成果を得ることもある。あの男が想定通りに動かなかった、考えようによってはそれもまた一興。寧ろこうなってこそ、貴女様の妙手が更なる圧倒的な勝利へと我らを導くやも知れませぬ。そう考えた方が面白いではありませんか?」
閏閒の言葉は、一見すると貴龍院を信頼している様に思える。
しかしその眼には同志への気遣いは見られず、ただただ冷たい光が帯びている。
それは宛ら、大きな物語を特等席で鑑賞するかの様な……。
或いはその流れの中に居る状況に陶酔しているかの様な……。
「フン、お目出度いことだな。これが戦なら貴様の討死は必至だろう。あまりにも戦を舐めている」
「多聞天様、これは手厳しい。肝に銘じておきましょう」
推城は鋭い目付きで閏閒を横目に睨み付けていた。
三人の連帯には明らかに亀裂が生じていた。
そんな状況に耐えかねてか、八社女は徐に口を開いた。
「あの、一層のことさ……」
この場の視線が八社女に集まる。
「神皇はもう放っておこうよ。あいつが世界中の人間を鏖にするって云うならさせてやれば良い。僕らの目的はあくまで『皇統の断絶』と『日本人の絶滅』でしょ? だったら全部終わってから僕らは僕らで大望を果たせば良いじゃないか。僕らは不老不死なんだから、神皇が寿命でくたばった後でまた動けば良いんだよ」
「何だと? 八社女、貴様本気で言っているのか?」
推城は、今度は八社女に詰め寄った。
どうやら彼は神皇が日本人を滅ぼさないことだけでなく、他の国の民に矛先を向けたことも問題視しているらしい。
「それは出来ないわ」
貴龍院が鮸も無く答える。
「今の神皇陛下は私が悠久の時に求めて已まなかった『絶対強者』なる男よぉ。私が隣に坐るに相応しき男。不死なる私が漸く手に入れた永遠の伴侶」
「そんなことを言ったって、これじゃ目的を果たせないよ。彼を穢詛禍終の力で不老不死にするのは諦めようよ」
「違うわ、違うのよ!」
貴龍院の声が荒くなる。
八社女は思わずたじろいだ。
「それで済むような相手を私が二千七百年も求めたと思う? 千四百年前に『あの娘』を拾って、途方も無い歳月の果てにやっと芽吹いた種なのよぉ! 棄てられる訳が無い! 精神的にも、そして物理的にもねぇ!」
「え?」
「何だと?」
八社女と推城は驚きの声を上げた。
目を瞠る八社女と眉根を寄せる推城は、目付きこそ対照的だが、彼女の言葉に動揺しているのは共通している。
そんな中、閏閒だけは冷静だった。
「臥龍飛鳥、今の神皇の母親ですか。懐かしいですな……」
八社女と推城の視線が閏閒の方へと移った。
「知っているのか、持国天」
「千四百年前ってことは僕が生まれるよりも前だ。御媛様、どういうことだい?」
貴龍院は大きく溜息を吐く。
「しょうがないわねぇ、この際だから教えてあげるわぁ。あの御方の出生の秘密、私が求めた究極の神秘をねぇ……」
闇の中、蝋燭の炎が揺らめく。
しかしその勢いは不自然に強く、何処か嵐に激しく靡く旗を彷彿とさせた。