八社女征一千が嘗て味わった破滅と絶望、その原因となった男は、後の世の歴史に於いて「日本三悪人」の一人に数えられ、稀代の怪僧として悪名を残したという。
その評価それ自体について、彼には特に何ら異論は無い。
あの男が権力者に取り入り、国を揺るがした大悪人であることは紛れもない事実なのだから。
抑も彼が孤児となった争乱の片側にあの男が居たことも、唾棄するに充分過ぎる理由だ。
ただ一つ、彼がこの千二百年という歳月でずっと違和感を覚え、胃液が溢れんばかりに波打つ程の嫌悪を抱き続けてきたのは、その男が悪人として論われる陰に隠れ、どこか批判に手心を加えられている女帝が居るということだ。
第一、国の頂点で最も権力を激しく争い、下々の生活を暴風雨の渦に巻き込んだ一番の責任者は誰だったのか。
悪が権力者の懐に入り込み、国を傾ける巨悪と化したとして、もしも権力者の側が「騙されていた」のであれば、まだ歴史の繕いようもあるだろう。
己を謀った悪を最終的に見抜き、正しく裁いたのだとすれば、その過程に瑕疵はあれど、権力者そのものは悪ではなかろう。
だが、事実はその何方でもないではないか――八社女は氷の論理でそう看破し、炎の感情でそれを批難する。
悪が悪を為せるよう便宜を図り、国を挙げて取り計らい、配下の血を吐く様な諫言にも耳を貸さず、ただ私情のままに一人の男に入れ上げ続けたとしたら。
況してや事もあろうに、その男に最高権力を譲ろうとすら計画したのだとしたら、その玉座に座る者こそが、最早諸悪の根源ではないのか。
八社女征一千は嫌悪する。
祀り上げられる資格もない癖に、情に狂い、己の眼を曇らせて弱者を踏み躙って憚らない最高権力者の性を、心底から厭悪する。
『何と憐れなる童か……』
脳裡に、嘗て自分を救った女の声が過る。
『何と利発なる童か……』
脳裡に、正しい国の形を求めて無道を除こうとして不興を買った、恩人の弟の声が過る。
失われたあの、苟且にも報われた日々の記憶。
それを切り裂く様に、傲慢な響きが鼓膜を打つ。
『何と無礼なる輩か……』
そしてそれら全ての過去を昏い歓喜で塗り潰す様に、彼女の声が甘く冷たく囁くのだ。
『では征一千君、貴方の能力をこれからはこの私の為に使いなさぁい。潰えさせてしまいましょう、こんな不条理な血筋など。亡ぼしてしまいましょう、こんな醜い国など……』
八社女は述懐する。
そうだ、あの地獄で絶望していた僕の手を引いてくれたとき、彼女の傍らにはまだ誰も居なかった、筈だ。
日本と皇統を滅ぼした先に築かれるべき真の樂園とは本来、僕と彼女が、二人切りで辿り着く筈だった静謐なる場所だ。
僕こそが最初の同志であり、誰よりも彼女を知っている。
誰よりもずっと、彼女を……。
しかし、永遠にも思える闇を歩む中で、僕の見る光景は変わっていった。
六百年程が経ち、彼女は僕の働きだけでは不満だったのか、新しい同志を一人、その円卓に招き入れた。
僕の持っていない勇壮な体躯を持つ武人だった。
真面目で忠実な男だったし、協調性もあって悪い奴ではなかったが、二人の場所に異物が入り込んできた感覚はどうしても拭えなかった。
更に五百年程が経ち、僕達の働きがまだ不満だったのか、もう一人妖しげな老翁を……。
こいつは何処までも胡散臭い男で、その癖僕達よりもずっと有能で、段々と彼女の歓心を買っていった。
彼女は結局、僕の十分の一にも満たない僅かな歳月しか共に過ごしていない、あの新参の男に、今や一番の信を置くようになってしまった。
これではまるであの男と同じだ。
彼女は無道の人に入れ上げ、真に心を向けるべき僕を蔑ろにしている。
掃除しなくては。
彼女を煩わせるもの、誑かすものを全て排除しなくては。
そしてもう一度、彼女を僕の方へ振り向かせる。
その為には、もうこれ以上彼女からの信頼を失うわけにはいかないのに。
岬守航、麗真魅琴、そしてこの男は……この男は殺す……!
殺す殺す殺す殺ス殺す殺ス殺スコロスコロス!――八社女は血走った目で男を凝視して叫んだ。
「根尾弓矢アアアアッッ!!」
八社女の絶叫、怒声が大気を震わす。
自身の器を超えて膨張した神為は凄まじい速度で内面の思考を巡らせるも、蝕まれた精神がそれに付いて行かない。
「オアアアアアアッッ!!」
それ故、出力されるのは覚束無い発語と、言葉にもならない絶叫ばかりである。
しかしそれは、彼が思考能力を失ったことを意味しない。
まだ八社女は破綻の一歩手前で踏み止まっていた。
この段階の道成寺陰斗が技術を失わなかった様に、八社女もまた策謀を残している。
「貴様の叫び声は聞き飽きた。さっさと来い」
対する根尾は傷だらけの体で尚も不敵に手招く。
こちらは既に神為が底を突きかけている。
この状態で今の八社女の相手をするのはかなり厳しいだろう。
しかし、根尾は揺るがない。
「お前もいい加減恨み飽きただろう? 此処で終わりにしてやろうというのだ」
根尾の言葉が八社女の神経を、感覚が暴走する神経系を逆撫でる。
無数の思考の果てに、彼は激昂した。
「フザケルナ! 僕ハ……僕ハマダ……! アノ女ニ何モ出来チャイナインダアアアァァアッッ!!」
八社女の体からどす黒い靄が一気に噴き出した。
その奔流が辺りを駆け巡り、崩壊した景色を塗り潰していく。
「くっ、マジかこいつ……!」
根尾は焦燥からか額に冷や汗を滲ませ目を眇めた。
それもその筈、彼の目には今、恐るべき光景が映っている。
紫色の闇は彼らの周辺から恐るべき兵士を蘇らせた。
もう動く筈の無い弐級為動機神体の機体が、申し訳程度に繋がった関節を闇で支えつつ立ち上がっていたのだ。
その数、二十七機。
但し、それだけのことであれば根尾にとって然したる脅威にはならない。
通常、複数の為動機神体を同時に操るのは至難の業である。
手動で制御すれば一機一機の操縦は粗雑になって戦力にならないし、自動操縦では決められた単純な動きしか出来ない。
また、最大の武器である光線砲は著しい神為を消耗する上に前述の操縦難度の問題がある為、通常は一機ずつ撃つことしか出来ない。
その上、直靈彌玉を持たない弐級以下の為動機神体は再生能力を殆ど持たない。
今、八社女はその限られた再生能力を増幅された膨大な神為に物を言わせ無理矢理発揮させ、辛うじて機体の体裁を保たせている状態だ。
故に回路を接続出来なかったようで、これらの機体には頭部が無かった。
つまり、最大の脅威である光線砲は一切使えない。
だがその代わり、形だけ復活した弐級は恐るべき武器を携えていた。
金属質な機体に似つかわしくない、大型の弓に数本の矢を番えている。
そう、八社女が巨大化した神為に物を言わせたのは機体の再利用だけではない。
彼は自らの武装神為を、通常では不可能な程に多重発動させ、二十七の「須彌削ノ弓」と「差魅魔ノ矢」を弐級に持たせたのだ。
「拙い……なんとか狙いを外させないと……。頼む、どうにか俺への狙いを外してくれ……!」
「ハハハハハ! 随分弱気ダナ! 神頼ミカ! 下ラン!」
八社女は勢い良く腕を突き出した。
それに合わせ、二十七機の弐級は矢を番えた弓を引く。
「頼む、奴が俺の姿を見失ってくれれば良い……! どうにかなってくれ……!」
「無駄ダ! 貴様如キ、神ガ託宣ヲ下スカヨ! 受ケロ! 弐級ノ馬力ト強化サレタ神為デ放ツ『差魅魔ノ矢』ノ雨霰ヲ!」
「くおおおおおっっ!!」
矢が放たれる直前、根尾は自棄糞になった様に跳び上がり、八社女目掛けて飛び掛かってきた。
高々と舞い上がった根尾に、機体が一斉に矢の照準を合わせる。
「血迷ッタカ! 死ネ!」
空中に飛び出して身を躱せなくなった根尾に、矢が一斉に放たれた。
根尾は為す術無く無数の矢に突き刺され、鮮血を撒き散らしながら地面に叩き付けられた。
「ぐあああああっっ!!」
「ハハハハハ!! 貴様ラシクナイ、トンダ間抜ケナ最期ダッタナ! ハハハハハ!! アーッハッハッハッハッハァーッッ!!」
勝利を確信した八社女は壊れた様な高笑いを挙げ続ける。
だがその時、彼は背後から迫る気配に気が付いていなかった。
「どうした八社女? 俺が死る『幻覚』でも見えたか?」
突如背後に顕われた根尾は、八社女が事態を理解する前に彼を羽交い締めにした。
八社女は背中全面に密着された形だ。
この状態で石化能力を使われたら、いくら神為を強化した八社女でも逃れようが無いだろう。
「幻覚……ダト……!? マサカ……!」
思考能力が強化されている八社女はすぐに気が付いた。
先程まで根尾が立っていた場所に視線を移すと、そこには二つの泥溜まりが横たわっている。
その内一つには、相変わらず白檀揚羽の顔だけが残されていた。
「種明かしだ、八社女。今あいつらの泥化を解く。言っておくが今更逃れようととは思わんことだ。解ったな?」
根尾は抜け目なく彼の能力――石化相手への「命令」の条件を満たした。
そして一方で白檀揚羽と求来里美乃に掛けられた泥化が解除され、二人は元の姿に戻る。
「上手く行きましたねー、根尾さん」
「あの状態からあれだけの指示で能く理解してくれた。本当に能くやったぞ、白檀」
「ずっと狙ってましたからねー。元々チャンスがあれば幻覚でサポートするつもりだったんですよー」
もう説明は不要だろう。
先程無謀に飛び出した根尾の姿は、白檀が能力で作り出した幻覚である。
八社女には「取るに足らない」と判断した相手を軽く見て足下を掬われる悪癖がある。
今回、そうやって白檀を警戒対象から外してしまったことが致命傷になったということだ。
「糞! 糞! 糞オオオオオオッッ!!」
最早八社女はどうにもならず、ただ狂った様に喚き叫ぶことしか出来ない。
如何に抵抗の手段が残されていようと、つい先程根尾の能力で「逃れようと思う」ことすら封じられている。
全ての状況が八社女に完全なる「詰み」を宣告していた。
「終わりだ、八社女!」
根尾は最後の神為を振り絞り、密着状態で石化能力を発動させる。
八社女の体を、背面から腕にかけての広範囲を起点として石化させる。
戦いはこれで終わり――誰もが、八社女さえもそう信じて疑わなかった。