根尾の石化能力は相手に触れた場所を起点として進行していく。
それは宛ら、色付きの水に浸した脱脂綿が水を吸い上げ染まっていく過程に似ている。
一つの角に浸せばその角から徐々に染色は進行するだろう。
両端を浸せば両端から色が付き、その進行速度は片端よりも倍は速いだろう。
そして、脱脂綿の全面を色水に浸した場合は……。
今、根尾は八社女を羽交い締めにし、体を密着させて石化能力を発動させた。
当然、石化は彼が触れていた部位、即ち背中全面から一気に進行する。
声を発する暇も無い程、八社女の体はあっという間に石と化した。
「なんだと……?」
しかし、根尾は驚愕していた。
傍らに提灯大の物体が、悍ましい死の気配を漂わせて落下している。
白檀と求来里も瞠目を禁じ得なかった。
「そんな……勝っていたのに……! 根尾さんは八社女を、完全に石化出来ていたのに……!」
目の前で、一本の長槍が土瀝青に突き刺さっている。
根尾が捉えている石の体には首が無い。
そして、地面で提灯大の生首がごろりと転がり、狂気の笑みを根尾に向けた。
「ヒャハハハハハハハハ!!」
石化した八社女の体が砕け、無数の赤い蜘蛛となって散らばる。
蜘蛛は八社女の首元に集まっていき、彼の新たな体を模っていく。
軈て蜘蛛は肉に変わり、八社女は新たな肉体を得て完全復活した。
「やれやれ、完全に終わったと思ったよ」
死から復活したせいか、八社女は正気に戻っていた。
神為の増幅が元の状態に戻ったのだろう。
だがそれでも、根尾は絶体絶命の危機に追い込まれている。
先程の石化発動で、根尾の神為は完全に尽き果ててしまったのだ。
「くっ……!」
万事休す、為す術の無くなった根尾は後退る。
この事態は完全に想定外であった。
事実、八社女は完全に詰んでいた。
独力での逆転は絶対に不可能な筈だった。
八社女は助けられたのだ。
文字通り横槍を入れられ、投擲された刃で石化させられる直前に首を刎ねられた。
投げられた長槍の持ち主――助けた人物の答えは一人しか居ない。
「推城……手を出すなと言っておいたのに……! だが今回もまた助けられた! 感謝してやらないとな!」
八社女は根尾を蹴り飛ばした。
「ぐはっ!!」
「あいつの義理堅いところは嫌いじゃない。今も陰から手助けするに留めるつもりらしいし、そうやって出しゃばり過ぎない態度を貫けば今後も同志でいてやるとしよう。なァ!!」
「ぐああっっ!!」
八社女はこの状況を心底喜び、勝利を噛み締める様に何度も何度も根尾を踏みつけにする。
「がッ!! ぐっ!!」
「いい気味だ! 最高の気分だ! これでもう僕の負けは無くなった! 貴様の神為さえ削り切ってしまえば、もう不死身の僕を斃す手段は無い! 貴様はこのまま嬲り殺しにしてやる!」
「や、やめろ!!」
白檀は八社女に音の衝撃波を向けた。
八社女の上半身が砕ける。
「ハア……ハア……」
白檀は息を切らす。
基よりこの技も神為の消耗が激しく、何度も使えるものではない。
彼女もまた二度の攻撃で神為の底を突いてしまった。
「無駄無駄、この通り……」
しかし、残酷なことにこの攻撃には何の効果も無い。
消し飛んだ筈の八社女の上半身はあっという間に再生し、嘲ら笑いが再び三人の前に現れた。
「フフフフフ、生憎僕には君達と違って再生の限度が無いのさ。どれだけバラバラにされようが、跡形も無く消し飛ばされようが、死なずにいつでも全恢復だ。痛覚はあるからあまり繰り返して欲しくはないけどね。でも、君ももう撃ち止めらしいな」
八社女は再び根尾の背中を踏み締める。
「根尾弓矢、貴様さえ消えれば不死身である僕達の脅威は消え去る。きっと広目天の御媛様も喜んでくれるだろう。後は他の連中を鏖にすれば、彼女の願いは全て僕が叶えてあげられる」
根尾は堪らず吐血した。
ここまでの戦いで既に彼は満身創痍、いつ力尽きてもおかしくない状態だ。
だが、根尾は強がり、八社女に予想も出来ない言葉を吐く。
「そんなに好きか? 貴龍院皓雪、広目天の御媛様とやらの事が」
「何だと……?」
この期に及んで挑発してきた男の態度に、八社女は苛立ち歯噛みした。
そんな八社女の神経を、更に根尾は逆撫でする。
「母性でも感じたか? どん底の時、手を差し伸べてくれた女に……」
八社女は凄まじい憤怒の形相を浮かべた。
あろうことか色恋の感情で動いていると看做されたことが許せなかったのか。
そして根尾の指摘はまさに図星であった。
「この小童が!」
八社女は再び根尾の身体を蹴り飛ばした。
「ぐはあっ!!」
根尾は吐血しながら道路を転げ回る。
そんな彼を八社女はゆっくりとした足取りで追い、彼の間の前に膝を突いて囁く。
「無駄に苦しませずさっさと殺して欲しかったか? それは悪いことをしたね。ではお望み通りこの手で頸を刎ねてやろう。貴様らの如き只人ならばその程度で死ねるだろう? 地獄に仏、僕の慈悲深さに感謝するんだね」
八社女の手刀が振り上げられた。
「根尾さん!」
八社女の止めを防ごうと、求来里が彼に向かって行った。
鍛えられた格闘術が八社女を襲う。
だが八社女は彼女の拳をあっさり受け止めると、逆に鳩尾へ拳を減り込ませた。
「ぐふっ……!」
「中々鍛えているようだが所詮君は根尾と違い凡人。鍛錬の歳月差を埋められやしない。術識神為も無いなら大人しくしてなよ。こいつの後で君達のこともちゃんと殺してあげるから」
八社女は求来里を殴り飛ばすと、根尾を斬首しようと再び手刀を振り上げる。
白檀も彼らに駆け寄るが、彼女に出来ることは何も無い。
もうこの止めの一撃はこの場の誰にも阻止出来ない――間違い無くその筈だった。
が、その瞬間に一陣の風が吹き抜ける。
「そこまでだ」
八社女が根尾の頸筋に目掛けて手刀を振り下ろすその刹那、凄まじい力の塊が通り抜けた。
それは八社女の腕を無造作に捥ぎ、彼に悲鳴を上げさせた。
「ぐあアアアアッッ!! な、何だ!?」
何が起きたか理解できない八社女は周囲を見渡し、首を振る。
そしてすぐに、彼は更なる異変に気が付いた。
「う、腕が再生しないッ!?」
そんな莫迦な、と八社女は動揺して後退る。
丁度その時、彼は偶然にも攻撃してきた者を視界に認め、その正体を思い知らされた。
「お、お前はっ……!!」
「お前? 妾に対し、随分とまあ無礼な男だ……」
その女はゆっくりと此方へ歩いて来る。
八社女は両の血眼を皿の様に見開き、千二百年分の焦燥を青褪めた顔の全面に押し出していた。
「しかし確かに、貴様の素性を思えば皇族に敬意が無くとも当然か。そうだな、武装戦隊・狼ノ牙、首領補佐・八社女征一千よ」
「龍乃神……深花……!」
皇國皇妹・龍乃神深花。
皇族の圧倒的な神為はありと汎ゆる異能の制約を力尽くで捻じ伏せる程に強大である。
彼女ならば、八社女の不死身の再生能力を捻じ伏せたとしても頷ける。
「莫迦な、何故貴様が此処に……!」
「少し前に其処の白檀揚羽から妾へ連絡があってね。急ぎ発信場所を調べて皇都府から遙々駆け付けたという訳だ。いや、間に合って良かったよ」
そう、白檀は求来里と共に不時着した直後、先方へ連絡を入れていた。
その先方というのは十桐ではなく龍乃神だったのだ。
襲撃に遭って不慮の事態に陥った彼女は万が一の時を考えて、考え得る最も強力な援軍を要請していたという訳だ。
それが可能だったのは偏に、白檀の持つ術識神為以上の最大の武器「人脈形勢能力」の為せる業である。
「糞!!」
余りにも分が悪い相手に、八社女はその場から逃げようと後ろへ振り向く。
石化に伴う根尾の命令は未だ有効だが、それは自爆による逃亡や石化攻撃からの避難を禁じているだけで、単に戦闘そのものからの逃走は対象外だ。
だが八社女に残されたそのような逃げ道は全くの無意味である。
彼が振り向いた刹那の内に、龍乃神は目の前に回り込んでいた。
「くっ!」
追い詰められた八社女は、残された左手で龍乃神に対して貫手を振るった。
千二百年鍛えられた指は、並の相手ならば楽々貫通する。
しかし龍乃神には傷ひとつ付けられず、逆に指の方が圧し折れてしまった。
「ぎゃああああっ!!」
痛みから悲鳴を上げる八社女。
それは絶望的な絶叫だった。
そんな八社女の頸を、龍乃神は冷徹に掴み、持ち上げた。
「皇族たる妾が、叛逆者の破落戸如きに後れを取るとでも思ったか?」
冷酷な殺意を帯びた鋭い眼光が八社女を射竦める。
ミシミシと、彼女の指が物凄い力で八社女の首の肉に食い込んでいく。
その行為は完全に八社女の命運が尽きた事を彼に突き付けていた。
「こんな……ところで……!」
「そうだ、随分と長旅ご苦労。此処が貴様の終着だ、終焉の地だ!」
八社女は全てを暴虐に平伏させる様な圧倒的な迄の力の津波、筆舌に尽くし難く凄まじい光の迸りに呑み込まれ、その呪詛に満ちた千二百年の歳月ごと塵に帰す様に、跡形も無く消し飛ばされてしまった。
皇族の絶大な神為によって叩き付けられた死は、彼の「不死身の力」を圧倒的に上回って捻じ伏せる。
最早彼が蘇ることは出来ない。
八社女征一千の千二百年の生涯は最期、実に呆気ない形でその血塗られた幕を下ろした。