無窮為動機神体・アメノミナカヌシ内部。
神皇・叡智の傍に控える貴龍院皓雪は一人の男から脳内に入った声を聞いていた。
『広目天よ、八社女が、増長天が死んだぞ』
八社女征一千の戦死を報告してきたのは多聞天・推城朔馬だった。
貴龍院はうんざりしたように目を細める。
『ええ、見ていたわぁ。ま、皇族相手じゃ私の生と死の境界を司る力も無意味ということねぇ』
神瀛帯熾天王が何百年も生き続け、何度殺しても死なない秘密は、彼らが手に入れた穢詛禍終の力に因るものではない――これは麗真魅琴が推察したとおりである。
八社女や推城、そして閏閒三入は、貴龍院と契約することで彼女の穢詛禍終の能力から恩恵を受け、「生と死の境界」を限りなく遠ざけられているのだ。
貴龍院はこの能力で、自身だけでなく他者の生き死にをも弄ぶ。
余り濫用出来るものではないが、彼女が持つ「尋常ならざる眼」で遙か彼方を見通す力と併せれば、恐るべき猛威を振るうこととなる。
『で、要件はそれだけかしらぁ? 私、いつでも陛下の御声に応え、いつでも御相手をしなければならないから、余り頻繁に連絡を入れて欲しくないのだけれど』
『貴龍院、千年来の同志が死んだのだぞ?』
責める様な推城の言葉に不快感を覚えた貴龍院の顔が僅かに歪む。
『じゃあ労ってあげましょうか? まあこれまで能く尽くしてくれたわぁ。余り役には立たなかったけれどねぇ』
『皇國を操る上で叛逆組織の影の首魁という一番損な役を自ら引き受けたのは奴だ』
『ええ、そうだったわねぇ。でも、その割には自分の立場も弁えず頻繁に私に会おうとするし、はっきり言って迷惑な所もあったわぁ。それで密会を素破抜かれたしねぇ。あと馴れ馴れしいし、偶に無礼なところも癇に障ったし。彼、それで時の帝の不興を買ってたじゃなぁい? 本当、自分がどう見られているか最期まで解っていなかったわよねぇ……』
どうやら、貴龍院は既に八社女のことを見限っていたらしい。
『私、慕われて尽くされるのは歓迎だけど、懐かれて甘えられるのは御免なの』
『……そうか』
多分に何かを含んだ相槌を打つ推城。
それに対し、貴龍院は彼にも釘を刺す。
『朔馬君、貴方ももう少し危機感を持った方が良いわよぉ。貢献度で言えば三入君に遠く及ばないのは貴方も同じなんだから』
『……確かにそうだな』
『もっと言えば征一千君が失敗した件、貴方は殆ど助けなかったばかりか皇族から逃げたわよねぇ?』
『……返す言葉も無い……』
貴龍院に逆に攻め立てられ、推城の語気が下がっていく。
『次連絡してくる時には何か成果を持って来なさぁい。でないと、殺される前に棄てちゃうわよぉ?』
『……あいわかった』
どうやら推城は引き下がったらしい。
貴龍院は深々と溜息を吐いた。
そんな彼女に、主である神皇・叡智が呼び掛ける。
「貴龍院よ」
「はい、何で御座いましょう、陛下?」
貴龍院の表情は先程までと打って変わって、まるで何事も無かったかの様ににこやかな笑みを咲かせている。
「どうやら俺にとって悪い報せがありそうだぞ?」
「それはまた、何事で御座いますか?」
「ふふ、程無く判ること。だが、だとすると此方も相応の出方をせねばならん」
然様で御座いますか、と貴龍院は主の言葉に相槌を打った。
神皇は何か動きがあったことを察しているらしい。
(何やら皇妹が皇弟の説得に動くようねぇ。上手く説得しなさぁい。二人して陛下と対立すれば、私の望む状況に近付く。陛下は孤立し、私だけが味方になるの)
貴龍院は邪悪に口角を上げる。
(自らの愛を理解せず、家族とすら敵対させる民族に対し、果たして陛下は愛を貫けるかしらぁ? 私の望みはまだまだ潰えてなんかいないのよぉ……)
夜は更けていき、皇國は運命の朝の訪れに着々と近付いていた。
⦿⦿⦿
翌日、皇弟・蛟乃神邸。
「殿下、飛燕寺で御座います。姉君がお見えですが……」
蛟乃神賢智の寝室の扉を叩き、来客を伝えに来たのは彼の新たな侍女、侯爵令嬢・飛燕寺霧花である。
飛燕寺侯爵家は灰祇院侯爵家と同じく旧皇族の侯爵家だが、現当主に男子が居ない。
しかし灰祇院家と同じく皇族と交流があり、霧花は蛟乃神の為人を能く知っている。
そこで、蛟乃神の悪癖に引っ掛からない人材として白羽の矢が立ったのである。
「誰にも会わないと言っただろう」
「姉君はどうしてもお会いしたいと仰っていますが……」
「ならば、『僕の方もどうしても会わない』と伝えておいてくれ」
「……本当に宜しいのですか?」
「ああ。寧ろ今、姉様と会うのは尚のこと嫌だね。どうせ碌なことが無い」
「畏まりました」
飛燕寺は扉の前で一礼し、来訪者に伝えるべく待合室へと戻って行った。
⦿⦿⦿
待合室の長椅子に腰掛けた龍乃神の許へ、蛟乃神を呼びに行った飛燕寺が戻ってきた。
「申し訳御座いません。やはり、お会いにならないと」
「どうしても、か?」
「龍乃神殿下がどうしても会いたいと仰るなら、蛟乃神殿下はどうしても会いたくないと、そう言伝を賜りました」
「そう……か……」
龍乃神は目を閉じた。
「ならば是非にも及ぶまい。賢智がそこまで言うならどうしようもない……」
「誠に申し訳御座いません」
今一度、飛燕寺は龍乃神に深々と頭を下げた。
溜息と共に立ち上がった龍乃神が、弟の説得を諦めた様に思えたのだろう。
しかし、龍乃神が決意したのは全く別のことだった。
「妾も出来れば手荒な真似はしたくなかった。飛燕寺、済まない」
「え?」
どういうことか、と問い返す前に飛燕寺は気を失った。
龍乃神は神為の力を使い、飛燕寺の頸動脈に圧を掛けて締め落としたのだ。
皇族の神為は扱い方の精密さと多彩さでも他と一線を画しており、簡単なものなら術識神為の能力と何ら遜色の無い使い方も出来る。
「扨て行くか、可愛い弟の許へ……」
龍乃神は早足気味に待合室を出て、弟の引き籠もる自室へと歩き出した。
騒ぎはすぐに使用人達に伝わり、主の姉の前に慌てて駆け付ける。
しかし、どれだけ精強な警備を動員しようと、皇族を止められる訳が無い。
龍乃神に止まる意思が無いと判ると、大人しく道を空ける他無かった。
だが彼女が愈々蛟乃神の部屋の前へ差し掛かると、その行く手を阻む者達も現われた。
彼女より若い三人の新家族令嬢が龍乃神の行く手を阻む。
「龍乃神殿下、何事で御座いますか!?」
「困ります」
新華族令嬢、「悪魔人形」こと金髪碧眼長身の別府幡黎子と「殺戮人形」こと銀髪白肌小柄の枚辻埜愛瑠、更にその後には「新華族令嬢三羽烏」のリーダー格・鬼獄東風美が控えている。
「殿下、御引き取り願えませんか?」
東風美は左手に隠した右手を握り締めている。
高まる闘気からそれに気付いた前の二人は慌てて彼女を制止する。
「だ、駄目ですよ東風美さん!」
「相手は皇族」
本来なら目の前に迫るのは三人にとって近寄ることも躊躇われる、そんな存在である。
それ故に、黎子も埜愛瑠も当然、本来は狼藉者である彼女に対して臨戦態勢を取らない。
東風美もまた、それは解っている。
だからあくまで拳は隠し、戦う姿勢を白地にはしていない。
しかし、苟且にも警護を任された対象もまた皇族である以上、黙って見過ごすわけにもいかないということだろう。
東風美の表情には葛藤が浮かび上がっている。
そして、彼女程ではないにせよそれは黎子と埜愛瑠も同様に抱いているのだろう。
それを慮り、龍乃神は三人に静かに告げる。
「十桐も公殿も今や妾の下に就いている。つまり、賢智の世話を君達に命じた最終的な権限者は妾だ。今暫くは大人しくその任を解かれてくれ。皇族同士が対立する特殊な状況下で多少の無礼には目を瞑るが、邪魔をするなら強制的に立ち退いてもらう」
皇族である龍乃神が言葉と同時に発した威圧感は容易に三人娘の意志を喪失せしめ、路を空けさせた。
力で来られたが最後、絶対に敵わないと三人ともが秒も無く察し、廊下の脇に寄った。
「済まない、ありがとう」
龍乃神は擦れ違い際に三人に礼を言うと、蛟乃神の寝室の扉に手を掛けた。
⦿
寝室で机に向かい、本を読んでいた蛟乃神は只ならぬ気配を感じ、『歴史の分水嶺』という題名の本を閉じた。
次の瞬間、部屋の扉が破られ、姉である龍乃神が強い足取りで入り込んできた。
「会いたくないと言うのに……。勝手な女だね、姉様も」
「どうしても会いたいと言っただろう」
弟・蛟乃神は背を向けて座ったまま、姉の顔を見ようともしない。
姉・龍乃神は構わず話を切り出す。
「他の選択肢は無くなった。君に此方側へ来て貰わなければならない」
「嫌だね」
素気無い、拗ねた子供の様な返答だった。
「兄様がどうかしてしまった事は論を俟たないけれど、姉様もどうかしているよ。兄様に勝てるわけがない。何方に付いても碌なものじゃない以上、僕は何方にも関わりたくない。明治日本と戦争になった時から感じていたけれど、僕はどうにもならない今の世の中、時代にほとほと嫌気が差してしまった」
蛟乃神は厭世的な言葉と共に、机に積んであった『煙管に殺された国』という題名の本を手に取った。
そんな弟の態度に、姉は全く変わらない低い声色で静かに語り掛ける。
「賢智、兄様を誑かしている者達が居る」
「だから? そんなこと判りきっているじゃないか。あの人は昔から人を見る目が無い。近付く者の悪意に無頓着だからだ。今回の件も、どうせ荒木田あたりから悪い影響を受けたんだろう? そういう、世の中の汚さが僕は嫌になったんだよ」
「……武装戦隊・狼ノ牙の首領補佐・八社女征一千が関わっていた。荒木田や皇道保守黨どころの話じゃない。もっと悍ましい邪悪が兄様を利用して暗躍している」
蛟乃神は本を閉じて机の上に置いた。
しかし、相変わらず姉と向き合わず背を向けたままだ。
龍乃神は構わず話を続ける。
「黒幕の正体はおそらく、貴龍院皓雪。あの女、兄様が生まれた時から側に付いて良からぬ事を吹き込んでいたんだ。その貴龍院の協力者が八社女だ。つまり兄様は、日本人を亡国に追い込もうと革命を試みた武装戦隊・狼ノ牙と同じ様な目的の為に利用されている可能性が高い」
「だとしたら間抜けな話だね。兄様はその全く逆に動いている。日本人を滅ぼすどころか、日本人の為に世界を滅ぼすつもりだ。貴龍院も今頃思い知っているんじゃないか? 世の中全然思い通りに行かないって……」
「賢智!」
龍乃神は語気を強める。
「君は本当にそれで良いのか? 前に妾に云っていただろう。『自国の都合で血が流れるのは恐ろしい、辛い』って! 君は明治日本から、力を超えた優れた精神を学んだ筈だ! それは全部嘘だったのか……?」
「嘘じゃない!」
蛟乃神は頭を抱えた。
「でも無理だよ! 僕なんかに出来ることなんか何も無いって、ここ数箇月で思い知らされたんだ! 兄様に逆らうなんて誰にも出来ない! だったら僕には尚のこと無理だって、普通に考えればそういう結論になるだろう!」
「賢智、大丈夫だ」
龍乃神は蹲る弟の方にそっと手を置いた。
「妾は解っているよ。賢智だって本当は戦いたいんだろう? そうじゃなきゃ、妾の言葉に取り乱したりなんかしない。大丈夫、お姉ちゃんが一緒だから……」
蛟乃神は頭を抱えたまま震えていた。
「賢智、兄様には廃位を迫らなければならない。その為には、皇位継承権者の君が必要なんだ。頼む、勇気を振り絞って立ち上がってくれ」
優しく諭す様な口調とは裏腹に、残酷な頼みだった。
皇族は例外無く幼い時分より現神皇・叡智に逆らってはいけないこと、機嫌を損ねることがそれだけで三千世界を畢らせる結果になりかねないこと、彼がどう足搔いても誰も勝てない『絶対強者』であることをよくよく教え込まれている。
言うなればこれは、姉が弟に対して一緒に死んでくれと言っているようなものである。
「姉様ごめん、帰ってくれ……」
拒絶、それはある意味で仕方のない答えだった。
今の世の中、誰が好き好んで勝ち目の無い戦いに命を張れるだろう。
況してや「虫も殺せない」と評された気の弱い彼ならば尚のこと無理な頼みだった。
「そうか……」
龍乃神は溜息と共に大きな大きな落胆を溢した。
皇族の中でも歳の近いこの姉弟は仲が良く、互いのことをよく解っている。
姉は弟の結論も想像していただろう。
しかしこの溜息は、もっと別の深い哀しみに満ちた覚悟を伴っていた。
「なら賢智、今死んでくれ」
そう言うと彼女は弟が反応する間も無く彼の首根っこを掴み、投げ飛ばして壁に打ち付けた。
「ぐあっ……! 姉様、何を!?」
「君が兄様にどうあっても歯向かえないことはよく解った。ならば妾は姉として、弟が空前絶後の大罪に手を貸すことが無いよう、先に御父様が待つ黄泉の国へ送ってやる」
龍乃神は蛟乃神に向けて手を翳した。
蛟乃神は今まで見たことも無い姉の姿に瞠目し、狼狽え、声を上ずらせる。
「姉様、冗談でしょう?」
「賢智、妾は既にどうかしてしまったんだよ。弟の君を手に掛ける覚悟が出来てしまう程にね。賢智、君の方はどうだ?」
「姉様、やめろ……!」
「悪いが賢智、もう無理だ」
刹那、絶大なる神為が放たれ、部屋を眩い光が包み込んだ。