静止軌道――それは地球の赤道上空約三五七八六キロに位置する特別な円軌道の呼称である。
この高度では、重力と遠心力が釣り合う速度で周回すると、一周に要する時間が地球の自転周期と丁度一致する。
その為、この軌道上で地球の周囲を公転する人工衛星は、地上から見れば空の一点に静止している様に見えるのだ。
無窮為動機神体・アメノミナカヌシは現在、まさに一つの巨大な静止衛星となって皇國の上空に鎮座しているという訳だ。
「皇國は現在、国土の一部を赤道上に被らせた状態でこの世界に位置しておる。即ちアメノミナカヌシの位置は神児島州の離党・胤子島の上空。我々は先ず、其処まで到達しなければ話にならんのじゃ」
食卓の上方に投影された地球とアメノミナカヌシの映像は、地球の一点に向けて迫っていく。
先程十桐が話に出した皇國本土の南方、胤子島と呼ばれる離島が拡大され、其処に存在する一つの研究施設が映し出される。
「常立研究所飛翔体打上場――皇國最大の宇宙研究施設じゃ。我々は赤道直下のこの地点よりアメノミナカヌシの周回域に向けて東向きに金色の機体を発進させる。その為には先ず何より、この研究所を我々で制圧し、抑えておかなければならん」
「面倒臭えな。統京からじゃ駄目なのか?」
新兒が十桐の説明に首を傾げ、疑問を呈した。
「宇宙へ出るには常立研究所での機体改造が必要じゃ。皇國の為動機神体は宇宙空間にも対応しておるが、其方のものは予算を削減したせいで装甲に不備があるじゃろう?」
「耳が痛いですね……」
十桐の指摘を根尾が認めた通り、カムヤマトイワレヒコが起動時に金色に眩く光るのは、波動相殺機構を動かした際に神為の発光を抑えられないという欠陥があるせいだ。
これは試作の予算が不足していて性能を再現しきれなかった為で、当然他にも余計な機能は極力省かれている。
耐宇宙空間の仕様もその一つである。
「それに、目標到達までの燃費が全く違うのじゃ。静止衛星の最も効率的な打ち上げ法がこれで、特に西向きに発射するとなると段違いに神為を消耗してしまうじゃろう。アメノミナカヌシへの到達はあくまで前提であり、そこまでの余計な消耗はなるべく避けたい」
「つまり、カムヤマトイワレヒコを其処まで操縦する僕がそのまま神皇とも戦うということですか……」
航は映像に眼を凝らし、自分がやるべき事を脳内に思い浮かべて予習する。
所謂シミュレーション、或いはイメージトレーニングといったところか。
先ず胤子島までカムヤマトイワレヒコを運び、其処から東の空へ向けて旋回する。
そして大気圏を離脱し、アメノミナカヌシに追い付く――そんなところだろうか。
「アメノミナカヌシが静止衛星ということは、実際の速度は約マッハ九.一だな。通常、超級為動機神体の飛行速度はマッハ五程度だから追い付けない。でもカムヤマトイワレヒコの日神回路を発動させれば約三倍の速度が出せるから、アメノミナカヌシに追い付いて着陸出来るという訳か……」
「うむ。但し気を付けねばならんのは、アメノミナカヌシは自身の持つ万有引力を自在に操れる可能性があるということじゃ。ひょっとすると、着陸しようとした際に反重力を発生させて抵抗してくるかも知れん」
アメノミナカヌシは直径八一二八米にもなる巨大な鉄の球体である。
内部に神皇が構えている以上、完全な鉄球には程遠いだろうが、それでもかなりの質量を持っていると思われる。
つまり、本来はアメノミナカヌシ自身にそれなりの引力が発生する筈なのだ。
だとすると、奇妙なことがある。
「成程……俺の記憶が正しければ、皇國の胤子島は確か東経一四〇度線にかなり近かった筈。つまり、アメノミナカヌシの近辺には我が国の気象衛星『ひまわり』が周回している。しかし、そんな位置にアメノミナカヌシ程の大きさの天体が突然割り込んだとあっては、その引力がひまわりの軌道に深刻な影響を与える筈だ。にも拘わらず、今のところ気象庁からは何の発表も無く、気象予報も問題無く行われている……」
「そう、我らも根尾殿と同じ根拠で、アメノミナカヌシには重力操作機能が備わっていると考えておる。丁度、神皇陛下は以前に重力操作を用いた兵装を極級為動機神体・タカミムスビに備えておられたから、技術的には充分可能じゃろう」
「『天鳴砲』か……。あれは確かに厄介極まり無かった……」
航は鯱乃神那智との戦いを思い出した。
重力崩壊を利用した敵の光線砲「天鳴砲」は友軍の死と自身の苦戦を強いられたものだ。
もしかすると、アメノミナカヌシはそれ以上に厄介な相手なのだろうか。
航の背筋に冷気が被り、体の芯を緊張させる。
「で、カムヤマトイワレヒコでアメノミナカヌシまで到達しなければならない、というのは解りました。しかし問題はそこから先、神皇と戦って勝たなければならないということでしょう。申し訳無いが、僕に出来るとは到底思えない。今の神皇は魅琴が幽鷹君と融合してやっとの思いで打ち負かした先代よりも遙かに強いんでしょう?」
「そうね。私ですら困難極まり無いでしょうに、それより遙かに雑魚の航では力不足に過ぎるでしょう。息を吹き掛けられただけで跡形も無く消し飛ばされるのが関の山ですよ」
「またはっきり言うね、魅琴……」
久々の、婉曲の欠片も無く航を酷評する魅琴の物言いである。
航が神皇と戦う者として選ばれている――そのことが、先代に戦いを挑めたのは自分だけだったという彼女の自負心故に気に食わないのだろうか。
「十桐、ここからは妾と賢智から説明させてくれ」
龍乃神が話を引き継ぐべく名乗りを上げた。
「確かに、この先の話は我もあまり理解出来ておりませぬ。何せ、陛下の真の力について説明せねばなりませんからな。同じ皇族の殿下の方が正確な説明が出来るでしょう。お願い申し上げまする」
「ありがとう。では十桐に代わって妾から話させてもらう」
一同の視線が龍乃神に集まった。
「結論から言うと、兄様を止めるには岬守航・麗真魅琴両名の力が必要不可欠だ。どちらが欠けても不可能だし、その上で更に雲野兄妹の力を上乗せして尚現状では不可能だ」
「え、不可能なんですか?」
「今のところはね。君達四人には、今よりもずっと強くなるべく鍛えてもらわなければならない。少なくとも雲野兎黄泉の神為を雲野幽鷹と同程度にまで引き上げ、更に岬守君は二人何れかとの融合で神の領域に到達出来る程度には強くなってもらう必要があるんだ」
龍乃神の合図で映像が切り替わる。
映し出されたのは先代神皇・鳳乃神大智の姿である。
「先ずは御父様が到達していた『神の領域』から御温習いしていこう。と言っても、実際に体験したのは麗真さんと幽鷹君だけだったか。兎に角、岬守君は必ず理解してくれ」
「はい」
神の領域――それは殆どの者が知らない神為の「第四段階」である。
神為とは「内なる神」を呼び起こすものであり、覚醒した深層の段階によって一般に三つの段階が知られている。
第一段階では「生命維持」に関する力が飛躍的に向上し、常人離れした耐久力や恢復力、果ては生命力や不老長寿を得ていく。
第二段階では「身体」の各種能力が飛躍的に向上し、筋力や反射神経、視力や聴力、更には第六感のような理屈では説明出来ない個体値も人間離れしていく。
ここまでの段階でも既に「超人」と呼べるだろうが、第三段階に至ると更に「術識神為」と呼ばれる超常的な「異能」や、「武装神為」と呼ばれる強力無比な「武器」をも獲得する。
一般的に、神為の使い手達はこの段階を限界と考え、各々の能力を磨き上げて鎬を削っている。
だがその遥か先に、彼らには想像だに出来ない領域が存在するのだ。
「それは……異能の干渉を受け付けないという『皇族の神為』とは違うのですか?」
「ああ、妾や賢智の力は単に『第三段階』を他の者よりも遙かな深淵まで突き詰めたに過ぎない。第三段階を極めると、異能は逆に意味を成さなくなるんだ。結局のところそれは、超常的な理を発現させる程に強まった力の押し付け合いに過ぎないからね。神為の本質とは要するに、『力』に対する『認識』の拡大なのさ。故に麗真さんの様に『力』そのものが巨大過ぎるが故に神為が無くとも妾達をも凌ぐ者だって存在し得る」
「な、成程……」
航はふと、魅琴が今までに受けてきた弱体化の影響を思い出していた。
鷹番夜朗の、触れた相手で筋力を一秒につき二万分の一まで弱体化する能力に何秒も触れた時も、鬼獄東風美が用意した、一個につき感度が百倍になるあんぱんを十二個も食らった時も、推城朔馬の能力で弱体化した時も、全く平然と相手を圧倒していた。
確かにあの様子は、皇族の神為が異能の干渉を受け付けない様とよく似ている。
しかしその魅琴も、単独では先代神皇に手も足も出なかったという。
神為の第四段階「神の領域」は、それ程までに他と隔絶しているということか。
他の皇族ですら問題にならない程に……。
「神為に因る『認識力』の拡大が極まると、軈てその知覚は真空中の光速を超えた速度も認識出来るようになる。これはこの世界の物理量の限界値であり、物体が光速で移動する場合の能力量は無限大に達する。つまり、この世界の全ての理を超えた先こそが神為の第四段階『神の領域』なのだと、生前の御父様は仰っていた」
「気の遠くなる話だな……。僕に其処まで到達できるようになれ、と?」
「それはどちらかというと幽鷹君と兎黄泉ちゃんの仕事でしょうね。貴方も強くならなければならないでしょうけれど、私を含めて単独で出来る話ではないと思うわ」
「暗に『自分より強くなれると思うな』と言っているんだね……」
航は溜息を吐いたが、神皇と戦うならば当然に要求される条件だろう。
先の戦争で航は兎黄泉と融合したが、その時は麒乃神聖花と相打ちに持っていくので精一杯だった。
魅琴と互角だったという彼女に肉薄するのがやっとの状態で、魅琴を圧倒した先代神皇よりも更に強いという現神皇に勝てる筈が無い。
「しかし、実は兄様に勝つのは『神の領域』に達しても絶対に不可能だと思われる」
「は?」
話に割って入った蛟乃神の言葉は、航と魅琴を断崖絶壁から突き落とす様な爆弾発言だった。
「どういうことですか?」
「昔、御父様からこうも聞いたことがあるんだ。兄様の力は『神の領域』よりも更に上へ行くかも知れない、と」
「『神の領域』の……上……?」
魅琴すらも驚愕に目を瞠っている。
「簡単な話だ。有限の世界である神為の第三段階までを『人間の領域』とすると、その物理的限界を超えた『上の世界』が『無限の世界』である『神の領域』とするならば、その『神の領域』にも力の限界量が存在し、其処を超えた更に上の『無限の中の無限』が在るんじゃないか、ってことさ」
蛟乃神は深刻な顔で語る。
当事者の航と魅琴は息を呑んで話を聞いているが、他の者達は今一つピンと来ていないようで、微妙な表情を浮かべていた。
「『無限の中の無限』って何だよ、意味解んねえな」
新兒の反応も無理は無いだろう。
「虻球磨君、だったか。君の反応は尤もだ。でも、無限には階層があって『無限の中の無限』が存在するというのは、数学的に説明出来ることらしいんだ」
蛟乃神の合図で、映像がまた切り替わった。
そこには整数が小さい順に並べられている。
「当たり前の話だが、整数というのは何処までも無限に存在するよね? つまり、整数全体を数えた大きさは『無限』だと言える」
「おう、それくらいは解るぜ」
「一方で、0と1の間を見てみよう。0よりも大きくて1よりも小さい数字を分数で表わせば、この分数は0と1の間に無限に存在する。同じ事が当然、1と2の間、2と3の間でも成立する。つまり、『隣り合う整数と整数の組』は整数の数だけ『無限』に存在し、その『無限』の中にも分数が『無限』に存在するんだ。つまり、分数――より正確には『有理数の全体』は『整数の全体』にとって『更に上位の無限』と考えられるんだ」
この段階で新兒は既にチンプンカンプンといった様子だったが、付いて行ける者はその意味するところに戦慄を覚え、青褪めていた。
「そして、この『無限の階層』には上限が無い。つまり『無限』には『無限の段階』が存在するということも、数学的に証明されているらしい」
「ならば私達にとっての『無限』である『神の領域』にも更に上の『無限』が存在するという結論に論理的に至るという訳ね……」
魅琴は少し考え、何かに気付いた様に息を呑んだ。
そして蛟乃神に問質す。
「蛟乃神殿下、その話、どなたから教わったのですか?」
「兄様だよ。現神皇・獅乃神叡智。あの人の本業は数学者だからね。解り易く丁寧に教えてくれた。そう、貴女と同じ事を僕らも懸念している。つまり、数学者の兄様は『認識』しているんだよ。『無限の領域』を……」
それは恐るべき、あまりにも絶望的な推察だった。
「獅乃神叡智は『神の領域』の先を認識していた……。それも、その先が無限に存在することすら……」
「ああ。兄様は如何なる存在と相対しても、その相手にとって『無限大』たり得る。だから兄様は、獅乃神叡智は『絶対強者』なんだ」
沈黙が食堂を包み込んだ。
航や魅琴からすれば「何の為に呼び出されたのか」と言いたいところだろう。
だが、勿論無意味などではない。
「しかしだ、妾達は寧ろ其処にこそ兄様を止める鍵があると確信している。その鍵を抉じ開けることが出来るとすれば、岬守航・麗真魅琴、君達の力だとね」
窓から食卓に、一筋の光が差し込んでいた。
神皇が秘めた絶望の話は終わり、ここからは航達が担う希望の話である。