それはまだ彼らの父親、先代神皇・大智が健在だった時のこと。
蛟乃神賢智は、兄から聞いた面白い話を父親に聞いてもらおうと、彼の寝室を訪れていた。
丁度十年前、彼がまだ小學生だった時のことで、兄も成人して統京皇國大學に入ったばかりの頃だった。
兄は既に数学者として幾つもの論文を発表しており、稀代の天才として名を馳せていた。
蛟乃神は覚えている。
あの頃、長兄・獅乃神叡智の話は難しいが面白かった。
数学や物理の深淵、生命や宇宙の神秘、文化や歴史の浪漫など、知的好奇心が沸き立つ様な話を沢山聞かされた。
そんな話の感想を父や長姉と共有するのが、彼の楽しみの一つだった。
『うむ、そうか。叡智がそんなことを……。実に興味深い話であるな』
父は、自らの子女以外に見せない柔和な表情で、蛟乃神の話を聞いていた。
『となると、やはり朕の予感は正しかったということか』
『予感、ですか?』
『実は朕も、無限の果てに更なる無限の領域があるのではないかと考えておった』
この頃から、蛟乃神は既に類い稀なる神為を身に付けていた。
しかし、自分よりも少し上の少年にも見紛う父に、その見目形からかけ離れた「大きさ」を感じて已まなかった。
幼かった彼はそのことを父に問い掛け、「神の領域」のことを教わっていた。
『御父様は神の領域に更なる先があると、そう思っているのですか?』
『然様。それが叡智の話で裏付けられた。尤も、朕に辿り着けるかは分からんがな。しかし、動もすると叡智は既に辿り着いているのかも知れん』
この時、蛟乃神は思った。
父がそう言うのならばそうなのだとして、兄は果たして何処まで行ってしまうのだろう。
『怖いか、賢智?』
『え?』
父は小さき微笑みかけた。
『実はな、朕も同じなのだ。神の領域の先があるとして、其処へ行ってしまったらどうなるのであろうかと、朕はずっと不安に思っておった。そして其処へ迫りつつある最近、その不安は確信に近付いておる。考えれば、彼の神為に戒めを与えておいて良かったのかも知れぬ』
『どういうことですか?』
『予感があるのだ。先程も言うたとおり、確信めいた予感がな』
父はそう言うと、紙と筆を執って蛟乃神に説明を始める。
時折、彼は父からも多くのことを教わっていた。
『朕は幼少の砌、甲の祖父から宇宙の面白い話を多く聞かせてもらった。その一部は爾にも語ったことがあるが、縮退星の話は覚えておるか?』
『はい。光すら抜け出せないという、宇宙にある黒い穴のことですね? 初めて教えてもらったときは何だか怖くなって、眠れなくなってしまいました』
『そう、重力が極めて巨大になった、星の成れの果てだ。そしてこういう話もしたことがあるな。宇宙には重力場と呼ばれる、重力の膜の様なものが張り巡らされているという考え方もある、と』
『はい。それは少し難しかったですが、なんとなくの抽象は覚えています。確か、卓球や鉄球などの重さで膜が沈む様な感じで、硝子玉を膜の上に置くと重い球に向かって転がっていく様なそういう譬え話ですよね?』
『うむ。重力が大きく、そして小さい星であれば、膜の沈み込みはその分深くなる。ならば極めて小さく、そして重力の極めて大きな縮退星の場合、どういうことになるのか』
『それは……物凄く深く沈んでしまうんじゃないでしょうか?』
『その通りだ。そしてその時、膜の斜面は殆ど真下に落ちる様な形になる。その穴の底ではまた面白い現象が起きるらしいが、今は然程関係無いのでまたの機会に話そう』
父は紙に、二つの曲線を描いた。
滑らかに、しかし段々と傾斜が大きくなっていく落とし穴を彷彿とさせる曲線だ。
最初は水平な地面から、広い入り口付近では緩やかだが徐々に深く沈んでいき段々と狭くなっていく。
そして最後には、針の糸程の真直ぐ下に落ちる穴になっている――そんな落とし穴を簡略化した二つの曲線である。
『朕は神為も同じ様なものではないかと考えている。神為とは己の中に坐す内なる神の深淵を呼び起こすものだと、そう言ったことがあるな』
『はい』
『ではその深みにあまりに迫り過ぎるとどうなると思う?』
『……抜け出せなくなる……?』
宛ら、縮退星からは光すらも抜け出せない様に、深みに向かって落ちていくしか無くなってしまう――それはまた、蛟乃神にとって恐ろしい想像だった。
『うむ。おそらくは神の領域の先というのはそういう場所なのだ。そこに至ったが最後、後は只管更なる深みの領域に向かって無限に落下し続ける他になくなってしまう。最早帰ってくることは出来ない、その様な場所だ』
『でも兄様は……』
『顕在化させておらんからだろう。朕も普段は神の領域の力を発揮せんようにしている。同じ様なことだ。しかし、愈々となったら潜在する力は自ずと発揮される。その時、どのような現象が起きるか……』
『……大きくなる……?』
父はゆっくりと頷いた。
『神為が巨大化すると、それに伴い巨大な器が必要だ。それ故、神の領域に至った朕はその力を発揮する際に通常よりも器を拡大させる。では神の領域の先に行った場合どうなるか。おそらく、器は際限無く巨大化し続け、軈て星よりも、宇宙よりも、遙かに想像を絶する程巨大化し続け、そして尚も無限に拡大し続けるであろう』
『それは……凄いけど恐ろしいですね』
『うむ。我々は自分よりもあまりにも小さな存在には干渉することも認識することすらも出来ぬ。そうなってしまったが最後、死ぬことすらなく永遠に無の世界を漂う孤独な巨神となってしまうであろう』
蛟乃神は嘗て無い恐怖を覚えた。
何も無い、誰も無い、ただ只管に大きく強くなり続けるだけの、永遠に孤独な虚無の存在になって、誰と交わることも愛し合うことも無くなるのは、どれ程の罪に見合った罰なのだろう。
それは神をも超えるという不遜を犯した者の末路なのだろうか。
父はそんな彼の頭に優しく手を置いた。
『だから、朕は彼に戒めを施しておいて良かったと安堵しておるのだ。しかし、その父もいつかは居なくなる時が来る。その時は賢智よ、爾ら弟妹が聖花と共に叡智を助けてやるのだ。道を踏み外し、叡智が己に秘められた無限の力を顕現させる事の無いように……』
そう、それが父である先代神皇の託けであった。
……今、蛟乃神は目を閉じて思い出す。
父は身罷り、兄は即位して道を踏み外した。
ならば最早、自分に出来ることは引導を渡すことくらいではないか。
それが考えることも恐ろしい罰になったとしても。
「……以上が、兄様を打ち破る方法だ。つまり貴方達には兄様の力を逆に解放させてもらいたい。そうせざるを得ない、兄様にとってあまりにも絶大な打点を叩き込むことによって。兄様は貴方達が叩き出した絶大な打点に耐える為、神の領域の上の力を顕在化させてしまう。そうすれば、兄様の存在は際限無く拡大し続け、三千世界と無縁の存在にまで巨大化するだろう」
苦渋の中、蛟乃神は航と魅琴に事の全てを託した。
それが出来るのはこの二人だけだと考えていた。
「成程、確かに私の能力ならば『神の領域』に至っても想像を絶する打点を叩き出すことは可能ですね」
魅琴の能力は、攻撃の度に打点を倍々にしていくというものだ。
先代神皇に劣っていた彼女は、この能力で最終的に勝利を掴んでいる。
そしてもう一人。
「後は僕の力、か……」
鍵となるのは航の能力である。
しかしそんなことが航にも可能なのか。
確かに航には、他者の能力を使用する能力がある。
だがそれで、果たして魅琴の様に戦えるのか。
「もう一度言うが、これは賭けだ。兄様を殺すことは決して出来ない。顕在化していないとはいえ、潜在的には無限の領域の力があるということは、どんな力でも上回れない、殺せないということだ。しかし、真に絶対的な力が齎すのは究極の孤高だ。兄様には其処へ至ってもらう。だが失敗すれば、ただ徒に兄様の力を増して為す術がなくなってしまうだけだろう。その為に、麗真さんの術識神為と岬守さんによるその模倣再現で少しでも可能性を上げなければならない」
「しかし、途方も無い挑戦ですね。やはり僕には荷が重そうだ……」
航は溜息を吐いた。
しかし、言葉とは裏腹に、彼の眼には焔が宿っている。
「でも、過ぎた重責は初めてじゃない」
「二度背負うことになるのは想定外だったけれどね」
航と魅琴はこの大役を受けると言っている、言ってくれている。
受けられてしまう、託せてしまう。
そこに何の干渉も覚えない蛟乃神ではなかった。
「両殿下、一応訊いておきましょう」
灰祇院がそんな彼と、姉の龍乃神に確かめる。
「今のお話ですと、貴方達は陛下に想像を絶する運命を与えることになる。決して不仲ではなかった実の兄に。本当にそれで宜しいのですね?」
蛟乃神は俯いて思い出す。
父が健在だった頃は、まさかこの様なことになるとは思わなかった。
彼は今、父が避けるように言付けた事態を自ら招こうとしている。
しかし、最早家族は元には戻れない。
「構わない」
そう、既に蛟乃神は理解している。
兄のことを許してしまえば、世界には嘗て無い甚大な破壊と殺戮を齎す。
そしてその先に待つ「日本しか存在しない世界」は、おそらく彼の考える様な王道楽土ではあり得ない。
誰もが兄の機嫌を損ねぬよう平伏して生きるしか無い、ただ彼が満足する為だけの世界だろう。
「ではこれより、戦いの為の準備を始めましょうかの」
一通りの話が終わったところで、十桐が今後の方針を取り纏める。
「先ず、我々正統政府は政界と法曹界の工作を行う。事を起こす前に我々が名実共に皇國の正統政府を名乗れる状況を作り上げ、国際的な連携を可能にしておきたい。明治日本側の面々は先ず今からお願いするそれぞれの仕事をやり遂げてもらい、その後で期限ギリギリまでの鍛錬を積み上げて来たる決行日に備えてくれ」
「仕事、ですか?」
「うむ、大きく分けて二つある。一つは、先程も話に出た常立研究所の制圧じゃ。此方は作戦実施の大前提である為、最高戦力の麗真魅琴を派遣して確実に成功させたい」
「成程、任せてください」
「次に、正統政府の要である芳原殿を一旦明治日本に亡命させておきたい。此方は、為動機神体が必要になる故、岬守航にお願いしたい」
「先程、芳原氏が世話になると言っていたのはそういうことですか。解りました」
「他の者達は、それぞれの仕事を補助してもらいたい」
航と魅琴、その他の日本国の面々に、次の任務が与えられる。
先ずはそれらを成功させ、それから各々鍛錬に入る。
決行日は遅くとも、神皇が下した勅命の日の前日――年が明ける直前の大晦日になるだろう。
そこまでにすべての準備を整えておかなければならない。
此処に居る者達は皆、既に覚悟が決まっている。
最後に締めるのは龍乃神だ。
「皆、宜しく頼むぞ!」
斯くして、来たる日に向けてそれぞれの準備が始まった。
この場はこれにて解散――かに思われた。
しかしその時、食卓上の映像が突如乱れた。
『其方の話は終わったようだな』
聞き覚えのある声が響き、食卓に一気に緊張が奔った。
映像が切り替わり、一人の男が映し出されていく。
「うぅっ……!」
辺りには一気に絶望が蔓延していく。
ここまでの話が筒抜けだったというのか、この男に。
「兄……様……!」
『陛下……!』
映像は渦中の男――今まさに打倒の為の方策を話し合っていた相手、神皇・叡智の姿に切り替わる。
絶対強者と呼ばれる男は、彼らの企みを全く歯牙にもかけないといった様子で、平然とこの場の全てを見下ろしていた。
『深花・賢智、二人揃っているならば丁度良い。俺からも汝らに話があったのだ』
神皇はあっという間に、自らに弓を引こうという者達が集う場を己の舞台に変えてしまった。
航や魅琴、そして龍乃神と蛟乃神の弟妹はただ屈服を示さず彼の像と向き合い続けるので精一杯だった。