秋の夜長、惨劇の鸙屋敷伯爵邸を遠巻きに見詰める一人の偉丈夫が居た。
推城朔馬――元皇道保守黨青年部長として、彼は嘗て偶に荒木田将夫や鸙屋敷伯爵と酒を酌み交わしたことがあった。
「撒いた種が漸く芽吹いた、か……。少々時間が掛かってしまったな……」
今回の狼藉、首謀者は伯爵令息・鸙屋敷氷である。
そして若き嫡男に過激な思想を吹き込み、憎悪を煽り続けた男こそ推城朔馬であった。
現神皇の皇太子時代より、「大御心を私議し君側の奸を廃す」者達を育て、彼が世界に対し怒りと不信感を抱く種を撒いていたのだ。
しかし、推城自身が言う様に、本来は日本人に怒りの矛先を向けるつもりが、全く逆に日本人を守る意志を固めてから、今更当初の思惑通りに暴走し始めた。
「道成寺太の様にもっと早く動いてくれれば良かったものを……」
『全くだわ、朔馬君……』
嘆息混じりの呟きに割入る様に、推城の脳内に彼の同志、『神瀛帯熾天王・広目天』こと貴龍院皓雪の声が聞こえてきた。
『大体、的外れも良い所だわぁ。自分に忠義を尽くされて怒る君主なんている訳が無いじゃなぁい。ちゃあんとあの御方に刃向かう逆賊を育てなきゃあ。貴方って本当に、物事の道理が解っていない無能なのね』
推城の網膜には声の主、貴龍院皓雪が嘲笑を浮かべる虚像が浮かび上がっている。
尤も、当の貴龍院は八社女征一千の忠義をどう考えていたのか。
貴龍院の考えとは異なり、逆賊の存在が神皇の怒りを日本人に向けるどころか逆の結果となったところを考えると、的外れな無能は果たして何方なのだろう。
だが推城は弁明をしない。
「……面目次第も無い」
推城は目蓋を閉じて謝罪の言葉を口にした。
だが、言葉や映像とは裏腹に推城が想っているのは貴龍院のことではない。
彼は唯、亡き盟友である八社女征一千に黙祷を捧げたのだ。
『無駄な事を……』
貴龍院は推城の胸の内を察したのか、鼻を鳴らして彼を見下した。
『征一千君はもう居ないわ』
「承知の上だ」
推城はもう彼女の姿を見たくなかったのか、薄目を開いて鸙屋敷邸に視線を移した。
だが、彼女の声まで遮ることは出来ない。
『それで、貴方はどうかしら? 征一千君同様、私に失望だけを残して消えてしまうのかしら?』
「ふ、それならそれで構わない、とでも言いた気だな……」
先日、貴龍院は八社女の事を内心疎んじていたことを彼に吐露した。
それと同じ口で、彼の働きについても痛烈に皮肉っている。
何百年という時の中で、彼もまた貴龍院の信頼を失っていることを否が応にも思い知らされた。
しかし、推城もこのまま終わるつもりはないらしい。
「案ずることは無い。次の手は既に考えてある」
推城は鸙屋敷邸に目を遣った。
丁度、書斎の窓に鮮血が飛び散っている。
伯爵・鸙屋敷唯織が息子の氷に惨殺されたところだろう。
『だったら直ぐに打ちなさい。口先だけの男は好みじゃないの』
「無論、無論そのつもりだ。私は神瀛帯熾天王・多聞天。同志の為に力の限り義を尽くすことに変わりは無い。これまでも、これからも……」
『朔馬君、御託は沢山だと言っているの。解らないかしら?』
うんざりした様に吐き捨てる貴龍院に、推城は溜息を一つ吐いた。
二人は遠く離れているが、どうやら互いに「相手への不信と苛立ち」という同じ感情を共有しているらしい。
「そう思うなら黙って見ているが良い。その『尋常ならざる眼』でな……」
丁度その頃、鸙屋敷邸からは館の主を殺害した四人の青年達が足早に飛び出して来た。
推城は彼等から身を隠すようにその場を離れる。
「八社女はもう居ない、か……」
貴龍院が推城に突き付けた言葉は、単に八社女が死んだという意味ではない。
八社女の魂は汎ゆる世界から完全に切り離され、この世の摂理、還るべき場所への道を永久に失ってしまったのだ。
近い概念で言えば「魂の追放」と言えば良いか。
「消滅であれば、それが救いであるという教えも仏法にはあるのだがな……」
無論、これは仏教でいうところの「解脱」や「涅槃寂静」とは程遠い状態である。
還るべき場所に還れない、というのはその逆で、穢れという苦しみの中に独り永久に囚われてしまうのだ。
これこそは、穢詛禍終に手を出した者の終焉である。
高天原と葦原中國の神の摂理に背き、「黄泉戸喫」を喰らった彼らが向かう先は、神話でいうところの「根之堅洲國」などではない、もっと悍ましい死後であった。
「我々に魂の安らぎなど無い。唯只管、あの女と共に冥府魔道を突き進むのみよ。解っていた筈だ……」
推城は思い起こす。
荒木田・鸙屋敷と囲んだ酒――勿論利用する為に近付いた、苟且の宴会を。
暴走する皇道保守黨の青年将校達は、近い内に荒木田のことも手に掛けるだろう。
「荒木田将夫・鸙屋敷唯織……。この私が真に若武者であれば、間違い無く親しみの念を抱くに値する人物達であったろうに……」
推城の脳裡に浮かぶ記憶が切り替わる。
それは昔日の、酷く色褪せた記憶。
情に厚い為人であった、彼が心から慕い尊敬した人物の面影だ。
「そうだ、あの時私は誓った筈だ。彼の者達と冥府魔道を突き進むと、そう覚悟を決めた筈なのだ」
同時に忌まわしき記憶も思い出したのか、彼の双眸には憎しみの焔が宿る。
推城朔馬、彼には既に退路は無い。
そんなものは何百年も昔に棄て去っている。
「今更になって胸に生じた唯少しばかりの雑念が何だというのか……! 私には増長天の死に報い、広目天の大望に尽くす義理がある……! 明日だ……明日は久々に、吉野朝の頃の動乱から久方振りに、一人の武士として大暴れしてやろう……! 広目天よ、この私の、まさに多聞天宛らの立ち振る舞い、しかと目に焼き付けるが良い……!」
推城はそう一人で呟くと夜の闇に消えていった。
⦿⦿⦿
軍服に外套を羽織った老翁が、アメノミナカヌシ内部「皇祖皇宗の廻廊」を歩いている。
中央制御室「高御座の間」に続くこの広々とした道は、入り口の反対側から部屋を取り囲む様に二手に分かれ、日本国と神聖大日本皇國、二つの日本に於ける歴代の皇尊の像が並べられている。
「忌々しい……」
日本国側の天皇像を通り過ぎる老翁・閏閒三入は顔を顰めた。
廻廊を進む程に天皇の時代が下って行くということは、この先には彼が恨んでいるあの人物の像も待っているのだろう。
貴龍院の呼び出しでなければ、彼はこんな場所には足を踏み入れなかったに違い無い。
無窮為動機神体・アメノミナカヌシは地表より遙か、宇宙空間の静止軌道上に在る。
本来ならば大気圏を離脱して其処まで到達しなければ機内には入れないが、一つだけ地上から直接内部へ入る方法がある。
操縦者で或る神皇が許可した人物に限り、巫璽山頂から直接「皇祖皇宗の廻廊」へ往来することが可能なのだ。
尤も、標高一一九四一米にもなる山頂は宇宙空間程ではないにせよ苛酷な環境なので、専ら回転翼機内から直接入退室することになるが。
「畏れながら失礼致します、陛下。閏閒三入、只今参りました」
『うむ、入れ』
中央制御室「高御座の間」の大扉がゆっくりと開く。
完全に開き切るのを待たず、閏閒はその広大な室内へと足を踏み入れた。
周囲には、様々な日本が歩んできた歴史の再現光景が代わる代わる映し出されている。
「お初の拝謁と相成ります、神皇陛下。貴龍院皓雪が配下・閏閒三入と申します」
閏閒は歩き切った先に待ち構えていた神皇の玉座、それを掲げる階段の下で跪き、玉座に坐って見下ろす神皇に恭しく挨拶をした。
「よく来たな、閏閒よ。貴龍院から話は聞いている。汝は嘗て鬼獄魅三郎を名告り、父上を皇國への還御へと導いたそうだな。その節は誠、大儀であった」
「はは、勿体無き御言葉……」
「決して大袈裟でないぞ。汝が居なければ俺が生まれることは無かった。それに……」
神皇は立ち上がり、周囲に映し出される光景を仰ぎ、両腕を拡げた。
「皇國が数多の世界を巡り、数多の日本に出会うことも無かった。今俺が自分の生まれた意味を知ったのも、偏に汝の働きがあってこそだ。感謝が尽きぬ」
「恐縮で御座います。何せこの閏閒、生まれは明治日本です故」
「その話も聞いておる。父上より以前に異なる世界を行き来していたとはまさに破天荒」
「重ね重ね、恐れ入ります」
閏閒は深く縮こまった。
そんな彼の下へ、神皇はゆっくりと階段を下りて来る。
近くに寄ると、その猛々しき巨躯が一層の威圧感と威厳を持って迫る様だ。
「このアメノミナカヌシは元々、皇國をより遠くの世界へ転移させる橋渡しをする為に作り出したものだ。まさにこの俺の最高傑作だろうな」
「遠くの世界、で御座いますか?」
「うむ……」
神皇は閏閒の頭上で掌を上へ向けた。
掌の上には一本の小さな木の像が浮かび上がる。
「世界が辿る歴史はその過程で幾多の分岐点を通り過ぎる。その分岐毎に幾つもの選択肢が生じ、その数だけ辿る可能性のある未来が枝分かれしていく。これが多元宇宙理論の一つである『並行世界』だ。皇國と明治日本、或いはこれまで皇國が巡ってきた様々な世界は、歴史の異なる枝ということになる」
「はい。この閏閒、明治日本より未来の可能性を求めて異なる枝を渡りました。その先で巡り会いましたのが、貴方様の御父上で御座います」
「うむ。実はそれこそ、皇國が今まで天日嗣を殆ど見付けられなかった理由、そして俺がアメノミナカヌシを生み出した動機、更には俺の目的を叶える原理なのだ」
神皇の掌の上に映し出された木は細部を拡大され、枝の先端を映し出した。
「言う迄も無いことだが、枝と枝の距離は近い程行き来し易く、遠い程行き来が困難になる。皇國は今まで、極めて近代で分岐した枝同士を行き来してきた。父上の力と事績は偉大だったが、一方でその神為で往来可能な範囲には限界があった」
「は、はぁ……」
「俺は最初、アメノミナカヌシは父上に献上するつもりであった。このアメノミナカヌシは、異なる枝同士――『並行世界』同士を中継する『飛び地』的な宇宙を創造する機能を持っているのだ。この『飛び地』を経ることで、皇國は何処までも遥か遠くまで父上の威光を届かせることが可能になる筈だった」
神皇の言葉に閏閒は息を呑んだ。
神皇の側に控える貴龍院も、目を皿の様に見開いている。
「う、宇宙を創造する機能!?」
神皇は木の映像に添えられた手とは逆の、もう片方の手を顔の横に翳した。
今度は彼の周囲に三種の神器と思しき映像が浮かぶ。
彼にとって、閏閒と貴龍院の驚愕など大した問題ではないらしい。
「皇國より失われし天日嗣を見つけ出すには、より遠くへ行かなければならないと考えたからだ。だが予想に反し、偶然にも皇國は汝の元居た世界に通じた」
「申し訳御座いません、陛下。この閏閒がもう少し早く貴方様の下へ馳せ参じていれば、要らぬ手間を掛けさせずに済んだものを……」
「良い。御陰で多くの日本を救済し、皇國の果たすべき大義を見出すことが出来た。汎世界的大日本連合の建設という大偉業を……」
「貴方様の寛大なる御慈悲に感謝いたします」
「それに、アメノミナカヌシ建造に向けて演算を繰り返すうちに、面白いことが解った」
神皇が顔の横の手を下ろすと、三種の神器の映像は天井へ向かって消えていった。
「どうやら異なる宇宙同士は或る距離を保たなければ互いの力が作用し合って消滅してしまうらしい。つまりこれを歴史の分岐に当て嵌めれば、切掛となる出来事が些細なことではその先の世界は壊れてしまう。異なる歴史に分かれる切掛となり得るのは、大きな歴史的転換でなければならぬのだ。だが、能く考えれば不思議だとは思わんか? 二つの世界で二つの日本が辿った歴史がよく似ているのは」
「それは……確かに」
神皇の言うとおり、日本国と皇國はよく似た歴史を辿っている。
これが、極々近代で枝分かれしたのなら話は簡単だ。
だが、日本国と皇國は少なくとも幕藩体制の時点で既に枝分かれしている。
否、摂関家の名前まで異なるところを見ると、その分岐は遙か以前――少なくとも平安時代まで遡らなくてはならない。
「そこで、もう一度最初の、歴史の大樹に戻ってみるが良い。この枝同士を見れば気付く筈だ。幹の近くで分かれた枝は抹消へ向かう中で更に分岐を繰り返す。その結果、或る二つの枝同士は偶然にも幹の近くで程良い角度に分かれ、その後も同じ様な角度で分岐を辿り続け、最後の分岐で程良く接近する。分岐はあまりにも無数に存在するが、充分な距離を保ってもいる。それ故に逆に、この様な二つの枝の組み合わせが生じる試行回数と余地があった。これが皇國と明治日本だ。遙かなる太古に分岐した枝同士が、偶々同じ様な角度の歴史を経て、最後に偶々近傍に達した二つの世界、それが俺と汝の世界なのだ!」
閏閒の全身から汗が噴き出した。
彼は全くの偶然から、とんでもない世界を引き当て、そしてとんでもない怪物を生み出してしまったのだ。
更に、真に恐ろしいのはここからである。
「そしてもう一つ。このアメノミナカヌシは宇宙の『飛び地』を創造すると言ったな? 俺は今までに皇國が転移した宇宙間の距離から、『飛び地』を創っても互いの存在を保てる臨界座標を既に算出している。ならば、意図的にそれを超えた近傍に『飛び地』の座標を設定すると、どうなると思う?」
神皇は翳した手を握り締め、木の映像を粉々に破壊した。
それを目の当たりにして青褪める閏閒。
しかしその傍らで、貴龍院は人知れず悍ましい歓喜の笑みを浮かべていた。