推城朔馬に一人の女が語り掛ける。
『どういうことなの、朔馬君? 自らの優位を態々棄てるなんて……』
『岬守に呉れてやった二つの条件のことか?』
推城は無言で念じて問い返す。
空気を読まずに割り込んできた貴龍院皓雪だが、煩わしくて仕方が無い。
折角数百年振りに血沸き肉躍る戦いに興じているのに、水を差すとは無粋も良い所だ。
『当たり前じゃなぁい。あの時の誓い、まさか忘れてしまったの?』
『フン、どうやら思っていたよりまだ私の動向が気に掛かるらしい。とうに見限られたものだと思っていたから嬉しいぞ』
『は?』
どうやら貴龍院は気分を害したらしい。
勿論、推城の言葉が心にも無い皮肉だと簡単に解ったからだろう。
推城には神瀛帯熾天王として、嘗て同じ道を歩むと決めた同志として、それを与えた恩人として、貴龍院の為に尽くす義理がある。
だが義理はあっても、最早心は無かった。
八社女征一千をあっさり切り捨てた女だ、宜なることである。
『心配せずとも岬守は殺す。それで奴らは最早我らを邪魔することなど出来ん。ならば文句は無かろう。黙って見ているが良い』
『あらそう……』
貴龍院はそれを最後に何も言ってこなくなった。
それで良い――今はただ、岬守航とのこの戦いに集中していたい。
ここから、奴は全てを懸けた一撃を狙ってくる筈だ。
通常の砲撃なら残る弾数は三発といったところだが、神為を大量消費する「金鵄砲」ならばそれすら怪しい。
(虎の子の一発だ、狙ってくるならば確実に中てられる策を講じてくるだろう)
すぐに思い付くのは、久住双葉の能力で体を縛り上げることだ。
或いは他の道具を形成して使ってくるのか。
推城は、航の厄介さが光線砲だけでなくその多様な能力にあることも承知していた。
(面白い、見せてもらうぞ。貴様の知略、その最期の輝きを……!)
推城は槍の柄を強く握り締めた。
武装神為「菊水龍尾ノ長鑓」が変貌していく。
鋒に棘が逆立ち、殺傷力を上げていく。
『武装神為・菊水龍尾ノ長鑓延助』
新たな槍の鋒が航に向けられる。
この一撃で確実に仕留める――そう高らかと宣言するかの様な、凶悪な形状だった。
武具としての美しさは見られない、怨恨と殺意の塊。
それは推城が世界に向ける形だろうか。
「いざ!!」
推城は航に向かって飛び出した。
さあ、航はどう出るのか。
木の蔓か、吸引モップか、それとも日本刀で突き刺してくるのか。
或いは鏡の反射を使って不意を突いてくるのか。
全ての対応は万全だ。
不死身といえど、危機に対応する感覚はあの頃と変わらず研ぎ澄まされている。
さあ、どう出る。
(なんだ? 何故何もしてこない?)
不可解なまま、推城は刺突を繰り出した。
全力の一撃、これまでに無い強力な衝撃波――航はこれを後跳びで躱す。
(どういうことだ……?)
その時、推城は気が付いた。
航は推城の刺突をギリギリの間合いで躱している。
そして、そこから一歩踏み出してくる。
「まさか貴様!」
航は推城の槍が伸び切った瞬間、つまり完全に静止した瞬間を狙って、自分から腹を鋒に突き刺してきた。
そして空かさず片手で槍を掴み、同時に木の蔓で推城の手を槍の柄に縛り付ける。
これでもう推城は逃げられない。
「莫迦な、正気か貴様!」
「推城、お前不用意だよ。僕が何も仕掛けてこなかった時点でおかしいと思っただろう? どうして攻撃を踏み止まらなかったんだ? 自分の槍の形状が命取りになっていることに気が付かなかったのか? 態々抜け難い鋒に変形させるなんて自殺行為だと思わなかったか?」
航の眼には何処か愁いの色が宿って見える。
推城の失態を、その為体を憐れんでいるかの様だ。
(まさか、まさか私は……!)
「お前は長く不死身で生き過ぎたんだ。相手の攻撃への対応は反射が染み付いていても、根本的な危険予知能力は完全に錆び付いていた」
航の拳が、備え付けられた「金鵄砲」の砲口が向けられる。
「お前の負けだ、推城」
砲口が金色の光を放った。
⦿⦿⦿
南北朝時代、南朝方の英雄として真先に名が挙げられるのは楠木正成だろう。
卓越した知略と用兵によって幕府の大軍を幾度も翻弄し、後醍醐天皇の悲願であった倒幕を支えた稀代の名将である。
その忠義と覚悟は後世に「大楠公」と讃えられ、湊川で最期を迎える際に弟と交わしたと伝わる「七生滅敵」の誓いは、幾度生まれ変わろうとも国と君の為に戦うという不屈の精神の象徴として、今尚語り継がれている。
一方、正成の三男・楠木正儀の名は、父や「小楠公」と称えられた兄・正行程の勇名を轟かせてはいない。
しかし、南朝最後の柱石として各地を転戦し、幾度もの離反と帰参を繰り返しながらも朝廷の命脈を繋ぎ続けた彼は、軈て南北朝合一へと至る「明徳の和約」の実現に大きく力を尽くした人物として歴史にその名を刻んでいる。
武名こそ父兄に譲るものの、乱世を終わらせた功績は決して小さくない。
正儀には後に津田氏を興すこととなる正信とその弟・正熊という二人の養子が居た。
兄の正信は家を継ぎ、一族の礎を築いた人物として知られる。
一方、弟の正熊は表舞台に立つことなく歴史の闇へと消えた。
津田正熊――後の推城朔馬の、人としての晩年――それは無念と恨みに塗れた恐ろしいものだった。
嘉吉三年――西暦でいうところの一四四三年初夏の夜、京都は嵯峨のとある寺院、巨躯の老僧が俯いて、一人の男の最期を看取った。
「主上様……」
この老僧の戒名は推丞といい、嘗て楠木氏の当主だった楠木正儀の養子として猛威を振るった武将・津田正熊その人である。
彼は同年二月に室町幕府への叛乱を企てて、たった今入滅した男を担ごうとしたものの、頼みの男が既に病に伏せっていた為断念していた。
その後、叛乱首謀の累が男に及ぶことを憂いた彼は虚報を装う為に自らも出家し、以来男の晩年を支え続けたものの、甲斐も無くたった今それが終わったという訳だ。
「おのれ持明院……! 足利……!」
推丞は怒りの余り床を指で毟った。
既に齢七十を超える彼であるが、その巨躯には老いと飢えで痩せて尚往年の剛力の片鱗があった。
彼の怒り、全ての所以は荒くれ者だった自分を兄と共に養子に取り立ててくれた大恩人・楠木正儀が生涯を懸けて成した「明徳の和約」を反故にされたところから来ている。
明徳の和約――それは南朝こと大覚寺統と北朝こと持明院統が神器を以て皇統を一つに戻し、以後は両統が交互に皇位を継承することで、六十年近く続いた争乱に終止符を打つ約定であった。
楠木正儀は血で血を洗う戦を終わらせるため、その実現に心血を注いだのである。
だが、和約は程無くして持明院統と足利幕府によって反故にされ、皇位は北朝――持明院の系統へと固定された。
南朝方が流した幾万の血も、正儀が命懸けで繋いだ和平も、何もかも裏切られたのであった。
「推丞殿」
襖扉の向こうから、推丞を呼ぶ声がした。
彼は立ち上がると、襖扉を開けて呼び主の下へ顔を出す。
「推丞殿、聖承様は?」
「たった今身罷られた」
「然様で御座るか……。四方や大覚寺統の御子が斯様な末路を辿ろうとは……」
全く以てその通りだ――推丞は拳を握り締めた。
聖承は北朝による継承の固定を不服として出奔し、叛乱の旗頭となったものの願い叶わず、その後は将軍足利義教の弾圧もあって食うにも困る悲惨な境遇に陥り出家、全ての望みを絶たれて此処に最期を迎えた。
両統迭立の約定が履行されていれば、今頃は聖承こそが日嗣となっていた筈だ。
否、それ以前に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻していなければ、両統迭立などと言わず皇統は大覚寺統一本に絞られていた。
「推丞殿、某と共に来ませぬか?」
「どういうことか、尊秀殿?」
「万寿寺と相国寺に御兄弟の宮様があらせられまする。某は御二方を奉じ、今一度持明院様と室町殿に謀叛を起こす所存。推丞殿、否、津田左馬権助正熊殿、貴方が来てくだされば百人力だ」
「この老兵が?」
「御言葉だが正熊殿、南朝には嘗て齢七十を超えて八面六臂の活躍をしたという忠臣・結城上野介宗広公がいらっしゃったというではありませぬか」
「私も結城公に倣って、か……」
それも良いかも知れない――推丞は考える。
老いたとて、その心には尚も戦う気概と怒りが沸々と込み上げてきている。
楠木の恩も、未だ返し終えてはいない。
今一度この命を賭し、正儀公の無念を晴らせるというのであれば、それ以上に望むことなどあるまい。
「……承知した。残る命、御二方の宮様に捧げよう」
そう答えた推丞の声には、久しく失われていた覇気が宿っていた。
「有り難い。正熊殿がおられるならば、必ずや……」
が、尊秀が言い終えるより早く、不意に推丞の視界が大きく揺らいだ。
足元から力が抜ける。
膝が畳を打ち、次いで巨躯が前のめりに崩れ落ちた。
「正熊殿!」
尊秀が慌てて抱き起こす。
その肩は岩の如く逞しいままであったが、脈は乱れ、額には脂汗が滲んでいた。
明徳の和約から既に五十年余――如何に不死身の猛将といえど、等しく無常である。
七十余年という歳月は、戦場で数多の兵を血祭りに上げてきた肉体を、知らぬ間に内から病に蝕んでいたということか。
「ぐううっ……!」
正熊は立ち上がろうとするも、脚は己の意思に応えなかった。
拳を畳に突き、歯を食い縛っても、身体は動かない。
(駄目か……! もう私に機は残されてなどいないというのか……!)
朦朧とした意識の中、無念が幾度と無く去来する。
津田正熊、病床に伏す。
源尊秀は彼の復帰に僅かな希望を抱いていたものの、病状は悪化するばかりで、結局叛乱は正熊抜きで行われた。
彼らは皇居内裏へ押し入って神器を盗み出すことに成功したものの、担がれた皇族の兄弟はそれぞれ弟宮は戦死、兄宮も刑死の憂き目に遭った。
⦿⦿⦿
同年秋、病床の正熊は愈々自分に最後の時が訪れようとしていると予感していた。
既に目も見えず、意識は闇の中を彷徨っている。
地獄へ落ちる時が来た――彼は最期の時の中、只管に無念を反芻していた。
『兄弟宮、金蔵主と通蔵主は死んだわよぉ』
意識の中に女の声が響く。
夢幻か、将又魔魅の類か――定かでない中、恨みの狂気に陥りつつあった正熊は問い掛ける。
「何者か」
『私の名は貴龍院皓雪。そうねえ……多聞天に準えられた貴方の御爺様に倣い、広目天王の化生とでも名乗っておこうかしら……』
「大楠公か……。七生滅敵の誓いとやらも最早遠い夢幻だ。御二方が薨ぜられたということは、乱は実らなかったのだな。何とも口惜しいことだ」
『そうねえ。和約の結果がこの様となれば、亡き貴方の御義父様の名誉も地に落ちるでしょうねぇ……。まあ既に南朝方からの評価は悪そうだけれども』
やはり、やはりそうなるか――正熊の心に怒りの焔が宿る。
しかしこの女はその焔に薪を焼べる様な真似をして、何を望んでいるのか。
『……望むならば、復讐の機会を与えましょうか?』
「復讐?」
『ええ。貴方、このままでは死んでも死に切れないでしょう? 足利も持明院統も、呪い殺さなくては気が済まないでしょう? その為には七度生まれ変わる程度では足りないのでしょう? だったら私がその力を、永遠の命を与えようというの』
何を世迷い言を――そう吐き捨てることも出来た正熊だったが、今の彼は追い詰められていた。
そんな彼の意識に、女の姿が浮かび上がった。
背の高い、背筋が凍る程に色白で美しい女だった。
この世のものではないかの様な雰囲気――やはり妖の類なのか。
「……ならば寧ろ好都合かも知れんな」
正熊は心に決めた。
どうせこのままでは何も為せずに唯死を待つばかりなのだ。
確かに、七度生まれ変わったところで、忠を尽くすべき者はその前に死に絶えるだろう。
ならば一層この魔女の世迷い言に乗ってみるのも悪くはない。
「良いだろう、女。いや、貴龍院か。貴様の誘いに乗ってやろうではないか」
『結構! さあ、冀うなら貴方にも授けましょう。憎みなさい、世界を。呪いなさい、大地を。怨みなさい、人々を。殺しなさい、神々を。さあ、今こそ魅惑の果実、黄泉戸喫を求めなさぁい!』
正熊は口の中に屍臭が充満する感覚を抱いた。
何かを喰らわされた様だ。
そして瞬間、弱って死に掛けていた総身に力が漲る。
老いさらばえていた肉体に若さが舞い戻る。
「こ、これは……!」
「おはよう、津田正熊。いや……」
思わず立ち上がった正熊の目の前には、幻覚に見た女がそのままの姿で立っていた。
「私の盟に加わり、天地神明に仇なす貴方には新しい名を与えましょう。呪いに塗れた晩年、月明かり無き闇に籠っていた悲劇の猛将の名は『推城朔馬』!」
「ほう、名を棄てよと、我が『正』の字を……」
『不服かしらぁ?』
「いや、寧ろ良い。今宵、津田正熊は死んだのだ。最早楠木には仕えぬ、大覚寺統にも尽くさぬ。ただ世を恨む鬼として、天津日嗣を未来永劫に呪い続ける冥府魔道へと踏み出そうではないか」
斯くして、津田左馬権助正熊は推城朔馬として生まれ変わり、深淵の闇へと堕ちた。
しかし後南朝から歩み始めた彼の五百年に及ぶ冥府魔道も今や断絶を迎えようとしていた。
そして嘗てと同じ様に、猛将として最後に死に花を咲かせようとしている。
彼はその相手を岬守航と決めたのだ。
⦿⦿⦿
金鵄砲が発射される刹那、推城は悟ってしまった。
(嗚呼そうか、私は既に武士ではなかったのだ。南北朝の動乱に暴れ回った武士としての私は「津田正熊」。その名はあの時、自ら棄ててしまった……)
金色の光が推城の体を突き抜け、空の彼方へと消えていった。