日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第百十一話『忘恩』 破

 推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)に一人の女が語り掛ける。

 

『どういうことなの、朔(さく)馬(ま)君? 自らの優位を態(わざ)々(わざ)棄(す)てるなんて……』

『岬(さき)守(もり)に呉(く)れてやった二つの条件のことか?』

 

 推(つき)城(しろ)は無言で念じて問い返す。

 空気を読まずに割り込んできた貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)だが、煩わしくて仕方が無い。

 折(せつ)角(かく)数百年振りに血沸き肉躍る戦いに興じているのに、水を差すとは無粋も良い所だ。

 

『当たり前じゃなぁい。あの時の誓い、まさか忘れてしまったの?』

『フン、どうやら思っていたよりまだ私(わたし)の動向が気に掛かるらしい。とうに見限られたものだと思っていたから嬉(うれ)しいぞ』

『は?』

 

 どうやら貴(き)龍(りゆう)院(いん)は気分を害したらしい。

 勿(もち)論(ろん)、推(つき)城(しろ)の言葉が心にも無い皮肉だと簡単に解(わか)ったからだろう。

 推(つき)城(しろ)には神(しん)瀛(えい)帯(たい)熾(し)天(てん)王(のう)として、嘗(かつ)て同じ道を歩むと決めた同志として、それを与えた恩人として、貴(き)龍(りゆう)院(いん)の為(ため)に尽くす義理がある。

 

 だが義理はあっても、最(も)早(はや)心は無かった。

 八(や)社(おと)女(め)征(せい)一(い)千(ち)をあっさり切り捨てた女だ、宜(むべ)なることである。

 

『心配せずとも岬(さき)守(もり)は殺す。それで奴(やつ)らは最早我らを邪魔することなど出来ん。ならば文句は無かろう。黙って見ているが良い』

『あらそう……』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)はそれを最後に何も言ってこなくなった。

 それで良い――今はただ、岬(さき)守(もり)航(わたる)とのこの戦いに集中していたい。

 

 ここから、奴は全てを懸けた一撃を狙ってくる筈(はず)だ。

 通常の砲撃なら残る弾数は三発といったところだが、神(しん)為(い)を大量消費する「金(きん)鵄(し)砲(ほう)」ならばそれすら怪しい。

 

(虎の子の一発だ、狙ってくるならば確実に中(あ)てられる策を講じてくるだろう)

 

 すぐに思い付くのは、久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)の能力で体を縛り上げることだ。

 或(ある)いは他の道具を形成して使ってくるのか。

 推(つき)城(しろ)は、航(わたる)の厄介さが光線砲だけでなくその多様な能力にあることも承知していた。

 

(面白い、見せてもらうぞ。貴様の知略、その最(さい)期(ご)の輝きを……!)

 

 推(つき)城(しろ)は槍(やり)の柄を強く握り締めた。

 武(ぶ)装(そう)神(しん)為(い)「菊(きく)水(すい)龍(りゆう)尾(び)ノ(の)長(なが)鑓(やり)」が変貌していく。

 鋒(きつさき)に棘(とげ)が逆立ち、殺傷力を上げていく。

 

『武(ぶ)装(そう)神(しん)為(い)・菊(きく)水(すい)龍(りゆう)尾(び)ノ(の)長(なが)鑓(やり)延(のび)助(すけ)』

 

 新たな槍の鋒(きつさき)が航(わたる)に向けられる。

 この一撃で確実に仕留める――そう高らかと宣言するかの様な、凶悪な形状だった。

 武具としての美しさは見られない、怨恨と殺意の塊。

 それは推(つき)城(しろ)が世界に向ける形だろうか。

 

「いざ!!」

 

 推(つき)城(しろ)は航(わたる)に向かって飛び出した。

 さあ、航(わたる)はどう出るのか。

 木の蔓(つる)か、吸引モップか、それとも日本刀で突き刺してくるのか。

 或いは鏡の反射を使って不意を突いてくるのか。

 

 全ての対応は万全だ。

 不死身といえど、危機に対応する感覚はあの頃と変わらず研ぎ澄まされている。

 さあ、どう出る。

 

(なんだ? 何故(なぜ)何もしてこない?)

 

 不可解なまま、推(つき)城(しろ)は刺突を繰り出した。

 全力の一撃、これまでに無い強力な衝撃波――航(わたる)はこれを後跳びで躱(かわ)す。

 

(どういうことだ……?)

 

 その時、推(つき)城(しろ)は気が付いた。

 航(わたる)は推(つき)城(しろ)の刺突をギリギリの間合いで躱している。

 そして、そこから一歩踏み出してくる。

 

「まさか貴様!」

 

 航(わたる)は推(つき)城(しろ)の槍が伸び切った瞬間、つまり完全に静止した瞬間を狙って、自分から腹を鋒(きつさき)に突き刺してきた。

 そして空(す)かさず片手で槍を掴(つか)み、同時に木の蔓で推(つき)城(しろ)の手を槍の柄に縛り付ける。

 これでもう推(つき)城(しろ)は逃げられない。

 

「莫(ば)迦(か)な、正気か貴様!」

「推(つき)城(しろ)、お前不用意だよ。僕(ぼく)が何も仕掛けてこなかった時点でおかしいと思っただろう? どうして攻撃を踏(ふ)み止(とど)まらなかったんだ? 自分の槍の形状が命取りになっていることに気が付かなかったのか? 態々抜け難(にく)い鋒(きつさき)に変形させるなんて自殺行為だと思わなかったか?」

 

 航(わたる)の眼(め)には何(ど)処(こ)か愁(うれ)いの色が宿って見える。

 推(つき)城(しろ)の失態を、その為体(ていたらく)を憐(あわ)れんでいるかの様だ。

 

(まさか、まさか私(わたし)は……!)

 

「お前は長く不死身で生き過ぎたんだ。相手の攻撃への対応は反射が染み付いていても、根本的な危険予知能力は完全に錆(さ)び付(つ)いていた」

 

 航(わたる)の拳が、備え付けられた「金(きん)鵄(し)砲(ほう)」の砲口が向けられる。

 

「お前の負けだ、推(つき)城(しろ)」

 

 砲口が金色の光を放った。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 南北朝時代、南朝方の英雄として真先に名が挙げられるのは楠(くすの)木(き)正(まさ)成(しげ)だろう。

 卓越した知略と用兵によって幕府の大軍を幾度も翻弄し、後(ご)醍(だい)醐(ご)天皇の悲願であった倒幕を支えた稀(き)代(たい)の名将である。

 その忠義と覚悟は後世に「大(だい)楠(なん)公(こう)」と讃(たた)えられ、湊(みなと)川(がわ)で最期を迎える際に弟と交わしたと伝わる「七(なな)生(しよう)滅(めつ)敵(てき)」の誓いは、幾度生まれ変わろうとも国と君の為に戦うという不屈の精神の象徴として、今(いま)尚(なお)語り継がれている。

 

 一方、正(まさ)成(しげ)の三男・楠(くすの)木(き)正(まさ)儀(のり)の名は、父や「小(しょう)楠(なん)公(こう)」と称(たた)えられた兄・正(まさ)行(つら)程の勇名を轟(とどろ)かせてはいない。

 しかし、南朝最後の柱石として各地を転戦し、幾度もの離反と帰参を繰り返しながらも朝廷の命脈を繋(つな)ぎ続けた彼は、軈(やが)て南北朝合一へと至る「明(めい)徳(とく)の和(わ)約(やく)」の実現に大きく力を尽くした人物として歴史にその名を刻んでいる。

 武名こそ父兄に譲るものの、乱世を終わらせた功績は決して小さくない。

 

 正(まさ)儀(のり)には後に津(つ)田(だ)氏を興すこととなる正(まさ)信(のぶ)とその弟・正(まさ)熊(くま)という二人の養子が居た。

 兄の正(まさ)信(のぶ)は家を継ぎ、一族の礎を築いた人物として知られる。

 

 一方、弟の正(まさ)熊(くま)は表舞台に立つことなく歴史の闇へと消えた。

 津(つ)田(だ)正(まさ)熊(くま)――後の推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)の、人としての晩年――それは無念と恨みに塗れた恐ろしいものだった。

 

 嘉(か)吉(きつ)三年――西暦でいうところの一四四三年初夏の夜、京都は嵯(さ)峨(が)のとある寺院、巨(きよ)躯(く)の老僧が俯(うつむ)いて、一人の男の最期を看(み)取(と)った。

 

「主上様……」

 

 この老僧の戒(かい)名(みよう)は推(すい)丞(じよう)といい、嘗て楠(くすの)木(き)氏の当主だった楠(くすの)木(き)正(まさ)儀(のり)の養子として猛威を振るった武将・津(つ)田(だ)正(まさ)熊(くま)その人である。

 彼は同年二月に室町幕府への叛(はん)乱(らん)を企(くわだ)てて、たった今入滅した男を担ごうとしたものの、頼みの男が既に病に伏せっていた為断念していた。

 その後、叛乱首謀の累が男に及ぶことを憂いた彼は虚報を装う為に自らも出家し、以来男の晩年を支え続けたものの、甲斐(かい)も無くたった今それが終わったという訳だ。

 

「おのれ持(じ)明(みよう)院(いん)……! 足(あし)利(かが)……!」

 

 推(すい)丞(じよう)は怒りの余り床を指で毟(むし)った。

 既に齢(よわい)七十を超える彼であるが、その巨躯には老いと飢えで痩せて尚(なお)往年の剛力の片(へん)鱗(りん)があった。

 彼の怒り、全ての所以(ゆえん)は荒くれ者だった自分を兄と共に養子に取り立ててくれた大恩人・楠(くすの)木(き)正(まさ)儀(のり)が生涯を懸けて成した「明(めい)徳(とく)の和(わ)約(やく)」を反(ほ)故(ご)にされたところから来ている。

 

 明(めい)徳(とく)の和(わ)約(やく)――それは南朝こと大(だい)覚(かく)寺(じ)統と北朝こと持(じ)明(みよう)院(いん)統が神(じん)器(ぎ)を以(もつ)て皇統を一つに戻し、以後は両(りょう)統(とう)が交互に皇位を継承することで、六十年近く続いた争乱に終止符を打つ約(やく)定(じよう)であった。

 楠(くすの)木(き)正(まさ)儀(のり)は血で血を洗う戦を終わらせるため、その実現に心血を注いだのである。

 だが、和約は程無くして持(じ)明(みよう)院(いん)統と足(あし)利(かが)幕府によって反故にされ、皇位は北朝――持(じ)明(みよう)院(いん)の系統へと固定された。

 南朝方が流した幾万の血も、正(まさ)儀(のり)が命懸けで繋いだ和平も、何もかも裏切られたのであった。

 

「推(すい)丞(じよう)殿」

 

 襖(ふすま)扉(とびら)の向こうから、推(すい)丞(じよう)を呼ぶ声がした。

 彼は立ち上がると、襖扉を開けて呼び主の下へ顔を出す。

 

「推(すい)丞(じよう)殿、聖(せい)承(しよう)様は?」

「たった今身(み)罷(まか)られた」

「然(さ)様(よう)で御(ご)座(ざ)るか……。四方や大(だい)覚(かく)寺(じ)統の御(み)子(こ)が斯(か)様(よう)な末路を辿(たど)ろうとは……」

 

 全く以てその通りだ――推(すい)丞(じよう)は拳を握り締めた。

 聖(せい)承(しよう)は北朝による継承の固定を不服として出奔し、叛乱の旗頭となったものの願い叶(かな)わず、その後は将軍足(あし)利(かが)義(よし)教(のり)の弾圧もあって食うにも困る悲惨な境遇に陥り出家、全ての望みを絶たれて此(こ)処(こ)に最期を迎えた。

 両(りょう)統(とう)迭(てつ)立(りつ)の約定が履行されていれば、今頃は聖(せい)承(しよう)こそが日(ひ)嗣(つぎ)となっていた筈だ。

 否(いや)、それ以前に足(あし)利(かが)尊(たか)氏(うじ)が後(ご)醍(だい)醐(ご)天皇に反旗を翻していなければ、両統迭立などと言わず皇統は大(だい)覚(かく)寺(じ)統一本に絞られていた。

 

「推(すい)丞(じよう)殿、某(それがし)と共に来ませぬか?」

「どういうことか、尊(たか)秀(ひで)殿?」

「万(まん)寿(じゅ)寺(じ)と相(しょう)国(こく)寺(じ)に御兄弟の宮様があらせられまする。某(それがし)は御(お)二(ふた)方(かた)を奉じ、今一度持(じ)明(みよう)院(いん)様と室(むろ)町(まち)殿(どの)に謀(む)叛(ほん)を起こす所存。推(すい)丞(じよう)殿、否、津(つ)田(だ)左(さ)馬(ま)権(ごんの)助(すけ)正(まさ)熊(くま)殿、貴方(あなた)が来てくだされば百人力だ」

「この老兵が?」

「御(お)言(こと)葉(ば)だが正(まさ)熊(くま)殿、南朝には嘗て齢七十を超えて八(はち)面(めん)六(ろっ)臂(ぴ)の活躍をしたという忠臣・結(ゆう)城(き)上(こう)野(ずけの)介(すけ)宗(むね)広(ひろ)公がいらっしゃったというではありませぬか」

「私(わたし)も結(ゆう)城(き)公に倣って、か……」

 

 それも良いかも知れない――推(すい)丞(じよう)は考える。

 老いたとて、その心には尚も戦う気概と怒りが沸々と込み上げてきている。

 楠(くすの)木(き)の恩も、未(いま)だ返し終えてはいない。

 今一度この命を賭し、正(まさ)儀(のり)公の無念を晴らせるというのであれば、それ以上に望むことなどあるまい。

 

「……承知した。残る命、御二方の宮様に捧(ささ)げよう」

 

 そう答えた推(すい)丞(じよう)の声には、久しく失われていた覇気が宿っていた。

 

「有り難い。正(まさ)熊(くま)殿がおられるならば、必ずや……」

 

 が、尊(たか)秀(ひで)が言い終えるより早く、不意に推(すい)丞(じよう)の視界が大きく揺らいだ。

 足元から力が抜ける。

 膝が畳を打ち、次いで巨躯が前のめりに崩れ落ちた。

 

「正(まさ)熊(くま)殿!」

 

 尊(たか)秀(ひで)が慌てて抱き起こす。

 その肩は岩の如く逞(たくま)しいままであったが、脈は乱れ、額には脂汗が滲(にじ)んでいた。

 明(めい)徳(とく)の和(わ)約(やく)から既に五十年余――如(い)何(か)に不死身の猛将といえど、等しく無常である。

 七十余年という歳月は、戦場で数(あま)多(た)の兵を血祭りに上げてきた肉体を、知らぬ間に内から病に蝕(むしば)んでいたということか。

 

「ぐううっ……!」

 

 正(まさ)熊(くま)は立ち上がろうとするも、脚は己の意思に応えなかった。

 拳を畳に突き、歯を食い縛っても、身体は動かない。

 

(駄目か……! もう私(わたし)に機は残されてなどいないというのか……!)

 

 朦(もう)朧(ろう)とした意識の中、無念が幾度と無く去来する。

 津(つ)田(だ)正(まさ)熊(くま)、病床に伏す。

 源(みなもとの)尊(たか)秀(ひで)は彼の復帰に僅(わず)かな希望を抱いていたものの、病状は悪化するばかりで、結局叛乱は正(まさ)熊(くま)抜きで行われた。

 彼らは皇居内裏へ押し入って神器を盗み出すことに成功したものの、担がれた皇族の兄弟はそれぞれ弟宮は戦死、兄宮も刑死の憂き目に遭った。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 同年秋、病床の正(まさ)熊(くま)は愈(いよ)々(いよ)自分に最後の時が訪れようとしていると予感していた。

 既に目も見えず、意識は闇の中を彷(さま)徨(よ)っている。

 地獄へ落ちる時が来た――彼は最期の時の中、只管(ひたすら)に無念を反(はん)芻(すう)していた。

 

『兄弟宮、金(こん)蔵(ぞう)主(す)と通(つう)蔵(ぞう)主(す)は死んだわよぉ』

 

 意識の中に女の声が響く。

 夢(ゆめ)幻(まぼろし)か、将(はた)又(また)魔(ま)魅(み)の類か――定かでない中、恨みの狂気に陥りつつあった正(まさ)熊(くま)は問い掛ける。

 

「何者か」

『私(あたくし)の名は貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)。そうねえ……多(た)聞(もん)天(てん)に準(なぞら)えられた貴方(あなた)の御(お)爺(じい)様(さま)に倣い、広(こう)目(もく)天(てん)王(のう)の化(け)生(しょう)とでも名乗っておこうかしら……』

「大(だい)楠(なん)公(こう)か……。七(なな)生(しよう)滅(めつ)敵(てき)の誓いとやらも最早遠い夢(ゆめ)幻(まぼろし)だ。御二方が薨(こう)ぜられたということは、乱は実らなかったのだな。何とも口惜しいことだ」

『そうねえ。和約の結果がこの様となれば、亡き貴方(あなた)の御(お)義(と)父(う)様の名誉も地に落ちるでしょうねぇ……。まあ既に南朝方からの評価は悪そうだけれども』

 

 やはり、やはりそうなるか――正(まさ)熊(くま)の心に怒りの焔(ほのお)が宿る。

 しかしこの女はその焔に薪(まき)を焼(く)べる様な真(ま)似(ね)をして、何を望んでいるのか。

 

『……望むならば、復(ふく)讐(しゆう)の機会を与えましょうか?』

「復讐?」

『ええ。貴方(あなた)、このままでは死んでも死に切れないでしょう? 足(あし)利(かが)も持(じ)明(みよう)院(いん)統も、呪い殺さなくては気が済まないでしょう? その為には七度生まれ変わる程度では足りないのでしょう? だったら私(あたくし)がその力を、永遠の命を与えようというの』

 

 何を世(よ)迷(ま)い言(ごと)を――そう吐き捨てることも出来た正(まさ)熊(くま)だったが、今の彼は追い詰められていた。

 そんな彼の意識に、女の姿が浮かび上がった。

 背の高い、背筋が凍る程に色白で美しい女だった。

 この世のものではないかの様な雰囲気――やはり妖の類なのか。

 

「……ならば寧(むし)ろ好都合かも知れんな」

 

 正(まさ)熊(くま)は心に決めた。

 どうせこのままでは何も為(な)せずに唯(ただ)死を待つばかりなのだ。

 確かに、七度生まれ変わったところで、忠を尽くすべき者はその前に死に絶えるだろう。

 ならば一層この魔女の世迷い言に乗ってみるのも悪くはない。

 

「良いだろう、女。いや、貴(き)龍(りゆう)院(いん)か。貴様の誘いに乗ってやろうではないか」

『結構! さあ、冀(こいねが)うなら貴方(あなた)にも授けましょう。憎みなさい、世界を。呪いなさい、大地を。怨(うら)みなさい、人々を。殺しなさい、神々を。さあ、今こそ魅惑の果実、黄(よも)泉(つ)戸(へ)喫(ぐひ)を求めなさぁい!』

 

 正(まさ)熊(くま)は口の中に屍(し)臭(しゆう)が充満する感覚を抱いた。

 何かを喰(く)らわされた様だ。

 そして瞬間、弱って死に掛けていた総身に力が漲(みなぎ)る。

 老いさらばえていた肉体に若さが舞い戻る。

 

「こ、これは……!」

「おはよう、津(つ)田(だ)正(まさ)熊(くま)。いや……」

 

 思わず立ち上がった正(まさ)熊(くま)の目の前には、幻覚に見た女がそのままの姿で立っていた。

 

「私(あたくし)の盟に加わり、天地神明に仇(あだ)なす貴方(あなた)には新しい名を与えましょう。呪いに塗れた晩年、月明かり無き闇に籠(こも)っていた悲劇の猛将の名は『推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)』!」

「ほう、名を棄てよと、我が『正』の字を……」

『不服かしらぁ?』

「いや、寧ろ良い。今(こ)宵(よい)、津(つ)田(だ)正(まさ)熊(くま)は死んだのだ。最早楠(くすの)木(き)には仕えぬ、大(だい)覚(かく)寺(じ)統にも尽くさぬ。ただ世を恨む鬼として、天(あま)津(つ)日(ひ)嗣(つぎ)を未(み)来(らい)永(えい)劫(ごう)に呪い続ける冥府魔道へと踏み出そうではないか」

 

 斯(か)くして、津(つ)田(だ)左(さ)馬(ま)権(ごんの)助(すけ)正(まさ)熊(くま)は推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)として生まれ変わり、深(しん)淵(えん)の闇へと堕(お)ちた。

 しかし後南朝から歩み始めた彼の五百年に及ぶ冥府魔道も今や断絶を迎えようとしていた。

 そして嘗てと同じ様に、猛将として最後に死に花を咲かせようとしている。

 彼はその相手を岬(さき)守(もり)航(わたる)と決めたのだ。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 金(きん)鵄(し)砲(ほう)が発射される刹那、推(つき)城(しろ)は悟ってしまった。

 

(嗚呼(ああ)そうか、私(わたし)は既に武士(もののふ)ではなかったのだ。南北朝の動乱に暴れ回った武士(もののふ)としての私(わたし)は「津(つ)田(だ)正(まさ)熊(くま)」。その名はあの時、自ら棄ててしまった……)

 

 金色の光が推(つき)城(しろ)の体を突き抜け、空の彼方(かなた)へと消えていった。

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