結局、この日に行う筈だった芳原輝太郎の受け渡しと、カムヤマトイワレヒコの直靈彌玉の運搬は翌日に延期することとなった。
航や新兒・繭月の恢復も然る事ながら、推城との戦いで暴れすぎた為、目立った行動に移すことは避けた方が良いという判断だった。
航は常立研究所で待機する麗真魅琴と根尾弓矢に事情を話し、危険な賭けに出たことを咎められながらも、待機の日程を明日まで延ばす様了承を取り付けた。
夜になって、風呂から上がり、薄着で龍乃神邸の中庭に出て寛ぐ航は、推城から手渡された遺言――頭巾牌型の記録媒体をじっと見詰めている。
これには虎駕と能條の会談の真実が記録されているという。
「気になるかい?」
突然、女の声に話しかけられた航は心臓が止まるかというほど驚いた。
一切の気配を感じさせずいつの間にか航の背後に佇んでいたのは、皇妹・龍乃神深花だった。
「深花様、吃驚させないでくださいよ……」
「いやあ、悪い悪い」
龍乃神は悪戯っぽく微笑む。
その調子は一見すると初めて会った時と変わらないものの、どこか疲れても見える。
弟の蛟乃神賢智と衝突して気を失って以来、神為を失っているというのもあるだろう。
だがそれ以上に、自身の双肩に伸し掛かる重圧を感じているのだろうか。
「本当に良かったんですか?」
「何がだい?」
「神為の供給の話ですよ。なんだか大変なことになっちゃいましたけど……」
航は彼女の兄・神皇と弟・蛟乃神賢智の遣り取りを思い出していた。
『俺を排除すると言うが、その後の皇國はどうするつもりなのだ? 皇國は今、この俺の神為で保っている。俺にとって皇國を支えるのは容易いが、汝と深花の神為では安定させるのは極めて困難であろう。戦時中は能く頑張ったと思うが、これから死ぬまであの様なことを続けるつもりなのか?』
『兄様……僕は予てより、皇國が他の日本に有る天日嗣を求めて侵略を繰り返す様なことは終わりにすべきだと考えていました。その為には、神為に依存した現在の国家体制から脱却しなければならない』
『ほう……。立派な心掛けだが、一朝一夕で切り替えられるものでもあるまい。汝の構想が実現するには、まず間違い無く数十年の時を要するであろう』
『はい、そうでしょうね……だから僕と姉様はそれまでの間の繋ぎとなります。皇國が神為を脱却し、他国を侵略する必要の無い国になれるように……。僕達はその為に、残りの生涯の全てを捧げます』
龍乃神と蛟乃神は、兄と戦う為に人生を棒に振ったのだ。
これから先、皇族として恵まれた未来があっただろうに、その全てを棄ててでも世界の為に、そして日本国の為に新しい皇國を作ると云ってくれている。
「まあ、そう重く考えることはないよ。妾の人生など安いものだ」
「安いわけないでしょう」
「安いさ。何せ妾には生まれ付き卵巣が無いらしいからね。元々女としての幸福は得られないんだ」
「それは……おかしいでしょう。貴女の犠牲が必然だって理由になりはしない」
航は食い下がりながら遣る瀬なさを感じていた。
「いつもそうだ。みんな、僕の周りでいつの間にか体を張って自分を犠牲にする。強い人達ってどうしてそうなんだ。まるで自分の人生が自分のものじゃないみたいに……」
「君だってそうじゃないか。妾に言わせれば、君だって他人の為によく自分を投げ出しているよ。以前だって、折角妾が出した助け船を不意にしようとしてくれたよね」
「それは……手痛い竹篦返しを喰らったからもう良いじゃないですか」
痛いところを突かれた航は、仏頂面で頭を掻く。
話をはぐらかされている様で、どうにも腑に落ちない。
そんな航に、龍乃神は小さく微笑んだ。
「じゃあ君が妾を此処から連れ去ってくれるかい? いつか言った様に、君が妾に真実の愛を教えてくれても良いんだよ? 君が幸せにしてくれるなら、それもありかもね」
龍乃神は蠱惑的な笑みを航に向ける。
窓から差し込む星明かりに照らされた龍乃神は心に決めた相手がいる航ですらどきりとするほど美しい。
それこそ、普通の男なら心移りしてしまっても何らおかしくない雰囲気がある。
「え、いや……」
「ははは、冗談だよ」
航は彼女と初めて会った時の事を思い出していた。
あの時と今、これが彼女の素なのだとしたら、最近はずっと無理をしてきたのだろう。
「やっぱり、疲れてます?」
航の問いに、龍乃神は頷くように息を吐いた。
「少し、ね。でも、負けていられない」
「そう……ですか……」
自分以外にも、この異常事態に気と体を張る者達が大勢いる。
足を引っ張るわけにはいかない、のに……――航は自分の不甲斐なさに心を締め付けられる思いがした。
今夜、航が未だに龍乃神邸に留まっているのは、偏に航が推城を相手に大いに手子摺ってしまったからだ。
これから戦うべき相手を考えると、このままではいけない、いけないのに……。
「不安になるな、やっぱり……」
そんな航の様子を見て、龍乃神は一つの提案をした。
「それ、今から一緒に視ないかい?」
「え?」
「彼の一番の友人だった君には一番に知る権利があると思うんだ。ま、妾は設備を貸し出す者として、御一緒させて貰えないかと我儘くらい言わせておくれよ。個人的な領分に立ち入るなと言うなら、大人しく身を引くがね」
確かに、気になってはいる。
航は勿論、虎駕が皇國に日本を売ったわけではないと信じている。
では、一体真実はどうだったのか。
その答えが今、航の手の中にあるのだ。
「そうですね。能條さんは皇國の元首相ですから、深花様も御一緒にどうぞ」
「では、早速映写室へ行こうじゃないか。灰祇院に用意させよう」
愈々、あの日の真実が明かされようとしている。
虎駕は実際のところ、能條との対談で何と言ったのか――航はほんの少しの覚悟と共に、龍乃神の後に続き映写室へと向かった。
⦿⦿⦿
会談記録映像の中で驚かされたのは、虎駕が皇國に残る話は彼が首相官邸に向かう前から既に出ていたらしいということだった。
考えてもみれば、龍乃神邸にも申し出る相手はいるのだから、隣で席を共にしている龍乃神か、或いは十桐辺りに密かに相談していたと考えるのが自然だろう。
隣で航と同じく驚いている龍乃神の様子を見れば、相手は十桐だろうか。
『では、虎駕憲進さん。いや、正式に養子縁組が御成立となれば、貴殿は一桐憲進様となられる訳です。では、善は急げとも言いますし、先に、これをお渡ししておきましょう』
能條から虎駕へ東瀛丸の小瓶が手渡された。
これが後に虎駕の自害と、日本国の攻勢へと繋がるのだから運命とは分からないものだ。
『これから皇國は、貴殿の嘗ての祖国である明治日本の吸収合併へ動きます。平和裏に事を運ぶ為、貴殿には明治日本の勝手を知る者として是非お力添え頂きたい。その為に、尽力して頂けますな?』
やはり、能條は戦争には消極的だった。
虎駕の事もあくまで人脈として活用するつもりで、開戦の口実に利用しようとしているようには見えない。
しかし、その先には航と龍乃神にも予想の付かない展開が待っていた。
映像の中の虎駕は、意を決したように能條に切り出す。
『あの、その件ですが……』
『む、何でしょう?』
虎駕は一瞬、能條の鋭い視線にたじろいだ様に見えたが、一瞬の間を置いた後、ここで気後れするものかとばかりに続けた。
『皇國が日本国の吸収を求める理由はお聞きしました。しかし、本当にそれしか方法は無いのでしょうか? 皇國の独力で、神皇陛下の御力を千代に八千代に受け継ぐ方法が何か他には無いのですか?』
『虎駕様、貴殿のお気持ちも解らないではありません』
能條は静かに、諭すように言葉を返していく。
『しかし、残念ながらそのような希望的観測に国家の命運を託すわけにはいかないのです。現在、皇太子殿下の神為は未知数。陛下と同等以上であれば次の御代まで時間を稼げますが、最悪の場合も想定せねばならない。若し悠長に構えていて、最悪の場合が来てしまったとしたら、それこそ却って強硬手段に出ざるを得なくなります。何としても明治日本を併合すべく、出し得る最大級の戦力を差し向けようという決断を迫られることにもなりかねない。私は、それだけは避けたいと思っています』
航と龍乃神は互いの視線を見合わせた。
双方ともに、虎駕の言葉には多分に思うところがあるらしい。
だが、能條はあくまでも現実論を語り、譲らない。
『辿った歴史は違えども、明治日本もまた同じ日本である。それを信条として、私は明治日本のこともまた救いたい。貴殿に歴史のお話を聴き、その思いは益々強まりました。皇國は必ず明治日本を救い出そうと、その為に力を合わせようと……。全ては皇國の掲げる大義、汎世界的大日本連盟の理念の下に……』
『私も……この虎駕憲進も同じ思いです。ただ皇國の世話になり、庇護を求めたいわけじゃない! 私もまた、皇國の力となりたい! だから、能條閣下、今暫くの御猶予を貰えませんか? 一桐公爵家の養子として頂けるのならば、その力、吸収合併とは別の道を模索する事に注力したい』
『それが皇國の、日本の為になると、貴殿はそうお考えか……』
『はい、勿論です閣下……!』
航は中身を見て愕然としていた。
二人の論理は、あの日全世界の大空に晒されたものと全く違う。
「虎駕……。やっぱりお前……」
「ああ、妾も驚いた。もし彼が何事も無く皇國臣民、それも六摂家である一桐公爵家の一員となっていれば、心に秘めた妾の理念に共感するたった一人の心強い味方になってくれていたのか……」
映像はその後も数分続いたが、それ以上目を見張る情報は無かった。
虎駕は日本を売ってなどいなかった。
寧ろ、皇國の内側から日本を救おうとすら考えていた。
尤も能條の言う様に、それは至難の業だっただろう。
皇族である龍乃神ですら、弟以外に打ち明けることは躊躇われた理念である。
だが、その意思があったという事実は揺るぎ無い。
「推城……お前はこれを捻じ曲げたのか……。そして一方で、真実を残し僕達に託してくれたのか……」
「虎駕君だけでなく能條の名誉も思えば、彼のしたことは許し難い。だが、最後に良心が残っていたのもまた事実なのだろうね……」
ふと、航は推城の言葉を思い出す。
穢詛禍終に身を染めた推城は物質的な肉体としてしか存在できないが故に、もうその霊魂は何処にも居ない。
だが、航の死んでいった仲間達はどうなのだろう。
あの時、死後の虎駕に束の間だけ逢えたように、今も何処かに存在しているのだろうか。
「深花様。これを取り戻せたこと、虎駕は喜んでくれますかね?」
「当然だろう、と思うよ。何処かで彼の魂に会った時に訊いておいてあげようか?」
龍乃神の答えに、航は例えようも無く救われた気がした。
龍乃神は莫大な神為があり、それ故に死者の霊魂が見える。
その彼女が言うのだから、間違いは無いだろう。
「虎駕、お前の名誉、取り戻したからな……!」
航は窓の外の星空を見上げ、小さく呟いた。