日付は十一月二十三日月曜日に変わった。
静止軌道上、無窮為動機神体・アメノミナカヌシ内部。
「少々事を急ぎ過ぎたか、何もやることが無くなってしまったな……」
神皇は硝子杯を傾け、葡萄酒を揺らす。
彼はこの三週間余り、年明けと同時に行われる勅命の遂行に向け、アメノミナカヌシの演算を調整していた。
その目途が昨日立った今、後は時が来るのを待つばかりとなっていた。
壁に映る様々な世界に於ける日本の歴史映像を肴に、神皇は杯の葡萄酒を飲み干した。
「では陛下、一度地上にお戻りになり、政務を執り行われますか?」
近衛侍女・貴龍院皓雪は杯に追加の酒を注ぎつつ尋ねる。
「うむ、それが良いかも知れんな。余り皇宮を空けても臣民が不安を覚えるだろう。皇道保守黨の様子も見ておきたい」
神皇はゆっくりと立ち上がった。
彼の頭には二つの選択肢がある。
一つは、このまま勅命の遂行までアメノミナカヌシで待ち構えるというものだ。
神皇は信じていた。
弟妹や皇國正統政府、そして岬守航ら日本国の戦士達が自分を止めようとしている以上、勅命遂行までに何かを仕掛けてくる筈だ、と。
彼にとって、敵対者もまた日本人である以上、相手なりの正義に基づいて動いている筈であり、ならばそれを受けて立つことは吝かではなかった。
対してもう一つは、先程の貴龍院の提案通り、地上の皇宮に戻ることだ。
彼としてはやはり、皇國の様子が気掛かりだった。
留守の間、政務は皇道保守黨に任せてあり、困りごとは貴龍院に取り次ぐよう命じてはいるし、臣下を十全に信用している彼ではあるが、それでも自分が取り纏めるに超したことは無いのも確かだ。
しかし、そんな神皇に一人の男が声を掛けた。
髭を生やし、洗練された出で立ちは三十代後半を思わせるが、倍近く生きている貫禄を醸し出すダンディなナイスミドルといった様相の男だ。
「お待ちください、陛下」
「紫桐か、よく来たな」
公爵・紫桐玄貴――現神皇・獅乃神叡智の御代となり、新侍従長に着任した男である。
紫桐公爵家は皇國で六摂家に次ぐ家格を持つ「青華家」の一角であり、更に六摂家と同じ氏族から分かれた「観院流」を汲む現存唯一の公爵家である。
つまり、皇國社会に於ける地位は元々六摂家当主に次いで高い。
「陛下、畏れながら申し上げます。私と致しましては、陛下はアメノミナカヌシを離れられるべきではないかと」
「どういうことだ?」
「はい……」
紫桐の視線が貴龍院を捉えた。
どうやら彼は彼女の存在を快く思っておらず、今回貴龍院が神皇にアメノミナカヌシを離れるよう上奏したことを不審に思っているらしい。
しかし、紫桐はそれを口には出さない。
神皇が信を置く近衛、それも先代神皇の嫡男として降誕した時から仕えている貴龍院を表立って誹ることは、紫桐を以てしても難しかった。
とはいえ、紫桐としてはこのまま貴龍院の思い通りにさせる訳にはいかない。
貴龍院に佞臣の動きがあるという懸念は、先代侍従長の頃より囁かれていたことだ。
紫桐は神皇の側に貴龍院一人であるという状況を憂い、態々標高一一九四一米にもなる巫璽山を山頂まで登り、アメノミナカヌシに通じる入り口を潜ってきたのだ。
「陛下がアメノミナカヌシを離れられますと、逆賊共がその隙を突いてアメノミナカヌシの破壊を試みる可能性が非常に高いかと思われます」
「それならば問題は無かろう。アメノミナカヌシを墜とすとなると、先ず静止軌道まで到達せねばならん。更に、耐久力はこれまでの特別機の比ではない。破壊される危険は極めて低い」
「しかし、敵には龍乃神・蛟乃神両殿下と、先帝陛下が伏せる原因となった麗真魅琴、更にはこれまで散々皇國軍に煮え湯を飲ませてきた明治日本の英雄・岬守航まで揃っています。此方の予想だにしない手を打って来ることも考えられます。決して侮るべきではないかと……」
「ふむ、成程。汝の言うことも一理あるな……」
神皇は考え込む仕草で玉座に再び腰掛けた。
そんな彼に向け、紫桐は更に言葉を加える。
「今回の陛下の御大望、何としても果たさなければなりませぬ。既に貴方様を想う忠臣に尊き犠牲が出ております。万に一つも、彼らの死を無駄にすることは、如何に陛下と雖も罷り成りませぬ」
「嶼津、それに靜業か……」
嶼津寅宗・灰祇院靜業――常立研究所で二人が犠牲になった件は、既に神皇の耳に入っていた。
二人は何れも紫桐玄貴の派閥に於いて強い発言力を持っていた人物で、大きな戦力でもあった。
そして同時に、神皇にとっても顔馴染みの臣下だ。
特に旧皇族で同い年の灰祇院靜業は、彼にとって親戚である以上に親友と言って過言でも無い、莫逆の友であった。
「嶼津、彼は武家としての誇りを持った一本気な、見ていて気持ちの良い男であった。武士道の精神というものを、彼から大いに学ばせてもらったものだった。そして靜業は……飄々とした振る舞いの裏に熱き魂を持つ男だった。性格は異なるところもあったが、不思議と馬が合った。何れの喪失も、俺にとって極めて重い……」
神皇は目を細め、二人の死に哀悼を捧げていた。
そしてそのまま紫桐に鋭い視線を向ける。
「あいわかった。ならば紫桐、地上は汝に任せる。荒木田による皇道保守黨の統制を貴族社会に伝を持つ汝が助けるのだ。貴族院を掌握出来れば大きな力となろう。また貴龍院と並び、汝も地上の問題を俺に逐一報告せよ」
「へ、陛下!?」
驚いて声を上げたのは貴龍院である。
神皇の決定は、事実上自分の上奏を却下するものだった。
のみならず、これまで貴龍院が独占していた報告の窓口を紫桐にも分け与えようというのだ。
貴龍院としては面白い訳が無い。
「陛下への報告、私では不足だと?」
「そうは思わん。だが、報告を取り扱うに於いて等しく信の置ける者が並立すれば体制はより盤石となるだろう。皇國の為、日本人の為、互いに手を取り合って協力するのだ」
貴龍院は表情に浮かんでいた不服を押さえ込んで笑顔を作る。
「成程……素晴らしい……御叡慮ですわ」
「そうだろうそうだろう」
貴龍院としてはこう言うしか無い。
神皇は満足気だった。
彼は他者の悪意というものを知らず、言葉を言葉通りに受け取る。
一方で紫桐は対照的に、転び出そうな笑みを抑えて神妙な面持ちを作り、恭しく頭を下げる。
「畏まりました、陛下。必ずや、陛下のご期待に添いましょう」
「うむ、頼んだぞ、紫桐」
貴龍院と紫桐の権力争い、この場は紫桐に軍配が上がった。
⦿⦿⦿
同じ日の夜、麗真魅琴は一人、龍乃神邸の風呂に浸かっていた。
来たる作戦決行の刻に向けて鍛錬を積み重ねる彼女の入浴は大抵一日で最後になる。
(まさか今更航に格闘の稽古を付けることになるなんてね……)
彼女の鍛錬形式は主に個人訓練と実戦組手である。
と言っても、組み手の方は実質航の為に行われている様なものだ。
しかしこれが、彼女にとって迷惑ではない。
(やはり航には戦いの才能が無い。相手をすればする程実感する。軽く、極限まで手加減して軽くやってあげているけれど、それでも今日だけで何回気絶させたか……)
案の定、航では魅琴の相手にならず、何度も伸されているらしい。
魅琴にとって、これは日々の楽しみであった。
(いけないとは思いつつも、やっぱり航を虐めるのは、心が昂ぶって、体が火照ってきて、愉しくなってしまう。向き合って殴り掛かった時のあの顔、気絶した航のあの顔、起こしてまた相手をしてあげる時のあの顔、どれも情けなくて愛おしい……)
魅琴は此処へ来て航を相手に自身の嗜虐欲を満たしていた。
不謹慎ではあるが、こればかりは持って生まれた「邪悪な獣」の性なのでどうしようも無い。
とはいえ、ただ徒に欲望に身を任せる訳でもなかった。
(まあ、あまり自信を失くされて神為が弱くなってしまっても本末転倒だから、一度フォローはしてあげた方が良いかも知れない……。何だかんだ言って航も頑張っているし、少しずつマシにはなってきているし……)
魅琴はそんなことを考えながら、湯船から上がった。
「扨て、と……。明日もたっぷり、可愛がってあげなくっちゃね……ふふふっ」
声に出した言葉が届いたのか、隣の浴室で大きな水音がした。
同じ時間に入浴しているとすれば、魅琴と同じく鍛錬を積んでいる者しか居ない。
そんな隣の様子を尻目に、魅琴は上機嫌で浴室から出て行った。
⦿⦿⦿
浴場から上がった魅琴が部屋へ向かって歩いていると、彼女の前に雲野幽鷹・雲野兎黄泉の兄妹が神妙な面持ちで立ち塞がった。
この二人もまた、戦闘訓練は行っていないものの、神為を上昇させる特別な訓練を日々積んでいる。
故に、この時間に出くわすこと自体は珍しくない。
しかし、どうも今夜は様子が違う。
「どうしたの?」
魅琴は腰を屈め、二人に問い掛ける。
すると兄の幽鷹が魅琴に手を差し伸べてきた。
取れということなのだろうか。
だとすれば、目的は神為の貸与だろうか。
「……誰かいるの?」
死者の誰かが霊魂となった今に魅琴へ伝えたいことがある――彼女はその推察に行き着き、笑顔を保てず、思わず真顔で幽鷹に問い質してしまった。
彼は少し怯えた様に震えたて手を引っ込めようとしたが、妹の兎黄泉に肩を小突かれて踏み止まった。
そして、幽鷹は一言だけ答えた。
「お爺さん……」
それを聴き、魅琴は瞠目した。
彼女に何かを伝えようとする、老いて死んだ男。
思い当たる心当たりは、一人しかいない。
「御爺様……」
彼女の祖父、麗真魅射――皇國による日本侵略を止める事に生涯を懸け、その為に娘や息子、そして孫娘である魅琴をも捧げようとした狂人である。
そして、神瀛帯熾天王の一人、持国天・閏閒三入の息子でもある。
今更何の用だろう。――魅琴は訝しんだ。
彼女の祖父は今際に彼女を巻き込んだことに対し謝罪の意を述べたが、同時に最期まで血の宿命に絡め捕ったまま放そうとしなかった。
魅琴自身もそう強く願った事ではあるが、結果として彼女は無謀な戦いに身を投じ、命を落としかけた。
だが、同時に只事ではないとも思えた。
今更、麗真魅射という男を知っていれば尚のこと、今更弁解を述べるとも思えない。
何か余程の事を伝え忘れたのだろうか。
「幽鷹君、逢わせてくれる?」
魅琴は幽鷹の手を取って願う。
彼は小さく頷くと、光る神為を掌伝いに彼女に受け渡した。
魅琴は感じていた。
自身の中の認識能力が大幅に啓いていく。
五感を超えた感覚が翼を持って羽撃く様だ。
そして、振り向くと確かに、そこには懐かしい顔をした老翁が立っていた。
「お久しぶりです、御爺様」
そこに淡く佇んでいた老翁は、彼女の知る祖父とは思えぬ程穏やかな表情をしていた。
『魅琴、よく生き延びてくれたの……』
第一声は意外な言葉だった。
しかし潤んだ瞳は彼の言葉が偽りの無い本心だということを言葉以上に雄弁に物語っている。
そういえば確かに、出来れば強要はしたくないとも言っていた気がする。
あれは魅琴を自分の意志でその気にさせる為の一手かと思っていたが、どうもそれだけではなかったらしい。
「はい。しかし、まだ終わっていません」
『うむ。まさか二度二代に亘って神皇と決死の戦いに向かわせることになろうとは思わんかった。信じて貰えぬとは思うが、生前からずっと毎日毎時間毎分毎秒、代われるものならば代わってやりたいと思い悩み続けておった……』
「はい……」
魅琴はただそう答える他無かった。
祖父が身内を巻き込んだのは、己の力不足故だった――それはとうの昔に承知している。
かといって、気安く慰めの言葉を投げるには、余りに重過ぎる。
しかし、彼が孫娘に逢いたいと希ったのはただそれだけを言いたいが為ではあるまい。
「御爺様、何か大事はお話でも……?」
『うむ。儂はずっと、お前に皇國を、神皇を、偽りの帝を討てと言い続けた。しかし、それに固執するあまり肝腎要の我が父、閏閒三入について余りに多くを伝え漏らしておった……』
考えてみれば、祖父の言う通りだ。
彼は経歴上、父と共に皇國へ行く為に世界線を渡っている。
ならば皇國で彼女の曾祖父が何をしていたかについて、少なからず情報を持っていた筈である。
しかし、魅琴は再従妹である鬼獄東風美から聞くまで、曾祖父である閏閒三入が生きていることも、神瀛帯熾天王についても全く知らなかった。
「御爺様、神皇の陰で陰謀を張り巡らし蠢く者がいます。四名居た内の二名は既に討伐しましたが、残るの二名について何か御存じなのではないですか? 内一人は他ならぬ曾祖父、閏閒三入こと鬼獄魅三郎なのですから」
『然様……』
彼は静かに語り始めた。
『父の事は勿論、儂が死した今ならばその裏の黒幕であるあの女についても支障無く語ることが出来る』
閏閒三入の裏で動く女――貴龍院皓雪を措いて他には居まい。
今、魅琴の祖父、麗真魅射の口から彼女の正体、その一端が語られようとしていた。
『心して聴け、魅琴。神州日本、その真なる敵の正体、貴龍院皓雪こと告雪戸畔について今からお前に教える……!』
魅琴は息を呑み、祖父の言葉に聴き入った。