麗真魅射――魅琴の祖父にして、神瀛帯熾天王の一人、閏閒三入の長男。
その彼が、神瀛帯熾天王の首魁である貴龍院皓雪の正体を知っていても何ら不思議はない。
彼の父、閏閒三入は他の二人とは別格に貴龍院から信頼を寄せられている。
魅琴が祖父の口から出た貴龍院の真名を聞き、最初に受けた印象はこうだった。
「告雪戸畔……。かなり古い、神話に出て来そうな名前ですね……」
『然様』
祖父は何やら満足気に頷いた。
『嘆かわしいことに、近頃の学校では日本国の興りを教えんからの。お前がこの名を聞き、そう思い至っただけでも、儂の教育は必ずしも間違ってはいなかったと確信出来る』
「そうですか……」
そうだ、と魅琴は呆れながら思い出した。
祖父はこういう人だった。
一九三四年生まれ、国民学校教育の直撃世代。
そして彼は終戦を待たずして父に連れられ皇國に渡っている。
その後、彼が日本国に返ってきたのは二年後、既に終戦を迎えた後であった。
故に、彼は国民学校教育の価値観をそのまま維持し続けていた。
『解るか、魅琴よ? 神代は確かに日本の地にあったのだ。大日本は誠に神の国であったのだ』
「それで御爺様、その神代に貴龍院は、告雪戸畔はどういった人物だったのですか?」
『ふむ、そうだったの』
話が脱線しそうになったと察知した魅琴は強引に話題を貴龍院の素性に戻した。
どうも魅射には、昔から他人を「教え諭し」、「思想に引き込もうとする」悪癖がある。
死して尚それが改まっていない様子の祖父に、魅琴はある意味懐かしさを覚えていた。
一方で孫娘に水を差された祖父の方は気を取り直し、改めて話し始める。
『告雪戸畔、神武聖帝の東征を阻んだ敵は、何も記紀に登場する者達ばかりではない。抑も記紀には様々な伝承から当時に確証ありとして載せるべきとされたものが取捨選択されており、各地の伝承には編纂に漏れたものが数多く存在する。彼女もそんな敵対する匪賊の首長であったと思われる。尤も、本人は告雪媛と名乗っておったそうじゃがな』
「思われる、ですか……」
『うむ、彼女の生まれについてははっきりしていない。しかし解っていることには、大層見目麗しき乙女として邑では評判者だったそうじゃ』
「まあ、見た目は確かに悪くないですからね……」
魅琴は貴龍院の顔を思い浮かべながら渋々そこだけは認めた。
とはいえ、伝承の時代に生きたという貴龍院の過去に客観的な資料や証人が存在する筈もない。
まず間違い無く、自画自賛であろう。
『だが彼女はそんな地元の男達には目もくれなかったらしい。求婚してくる男も後を絶たなかったそうじゃが、彼女は地元から遠く離れ、丁度現在の奈良県辺りにあった規模の大きな集落に身を寄せ、首長の後継息子を狙った。しかし、神代に整備された道は無く、女一人で集落を移るのは困難じゃ。そこで、求婚してきた男の中から一番強そうな者と苟且に婚約し、故郷を鏖にさせた後、目当ての集落が見えるや否や婚約者のことも寝込みを襲って殺してしもうたらしい』
開幕から危険な匂いのする話である。
神代の、治安も倫理観も現代とは程遠い昔の話とはいえ、なんとも物騒な話だ。
「しかし、集落には何と言って擦り寄ったのですか?」
『自分の邑は天災と狼の群に襲われ全滅した。命辛々逃げてきたからどうか身を置かせて欲しい、と言ったそうじゃ』
「よく信じて貰えましたね……。当時に女の身一つでしょう?」
『勿論、それだけではない。彼女が求めた集落に入り込み、剰え後の長と婚約まで漕ぎ着けた理由にはもう一つ、彼女が不可思議な力を持っておったことがあった。遠く地平線や水平線を越えて離れた場所をはっきりと認め、朧気ながら近い将来すらも見通す尋常ならざる眼力……。集落の長はそれを欲したのじゃ。彼女はその力によって難を逃れたと嘘を吐いた』
成程、と魅琴は得心した。
嘘の中に僅かながらの真実を混ぜ、信憑性を高めて相手を騙す。
現代でも有効な手段であるのだから、神頼みや呪事が迫真であった当時ならば効果覿面だったのだろう。
『その時、彼女はこう名乗った。自分は国津神の一柱、事代主神と勢夜陀多良媛の間に生まれた娘。雪の降る夜、寒さに凍える母の許に顕れた事代主神と母が一夜を共にし、生まれたのが自分、告雪媛であると。それ故に、自分には神の声が聞こえるのだと』
「勢夜陀多良媛……?」
『またの名を玉櫛媛とも云う。玉櫛媛は音に聞く美女で、告雪戸畔が入り込んだ集落にもその評判は伝わっておった。神に見初められたという話も確かに信憑性のある物だったのだろう。後で判るが、無理も無い事じゃ……』
玉櫛媛、その名前が魅琴の中で引っ掛かる。
同時に、事代主神との間に儲けられた娘という話にも何処か心当たりがあった。
当然のことだ。
他でも無い、祖父によって聴かされた昔話の中に出てきたのだから。
「御爺様、私の記憶力はそこまで悪くはありません。貴方から昔話として散々、何度も何度も聞かされたではありませんか。日本の国の興り、その神話を」
『そうだったの。しかしまあ、今は少し話を聴け。そうして手段を択ばず有力者の妻という地位を手に入れ、彼女も安泰かと思われた。だが、ある夜彼女は義父となる長を唆し、ある別の邑を攻め滅ぼすよう助言した。近く脅威となるという神の御告げがあったと言い包めてな。当時の日本、葦原中國では平和などあったものではなく、匪賊による略奪や流血沙汰など日常茶飯事じゃったし、匪賊によって残虐な支配を受ける集落も少なくはなかった。彼女の助言は何も不自然ではなかった』
つまり、当時の貴龍院、告雪戸畔にとってその邑には都合の悪い何かがあり、それが持ち前の尋常ならざる眼に見えたのだろう。
『しかし、彼女のいた集落にとって、相手を攻め滅ぼすのは無理があった。相手の方が強大な武力を持っておったのじゃ。そこで彼女は集落の若い男を誑かし、暗殺者に仕立て上げることにした。彼女は若い男に、富登蹈鞴五十鈴媛という娘を殺してくれたら自分はその男の物になる、と言い包めたらしい』
「五十鈴媛……。ああ、やはりそういうこと……」
魅琴はその名を聞き、事の裏、告雪戸畔の思惑を察した。
「初代皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命……。確か日本書紀によると、彼女は事代主神と玉櫛媛との間に産まれた娘……。そういうことだったのね……」
『うむ。告雪戸畔は自分が名乗った偽りの素性を真に持つ娘の存在を知った。そこで自分の正体が明かされぬように五十鈴媛を闇に葬ろうとしたのじゃ。しかし、ここで一つ問題が起こる。同じ時期、五十鈴媛は名を富登蹈鞴五十鈴媛から媛蹈鞴五十鈴媛と変えておった。しかも、同じ邑には五十鈴の名を持つ女が他にも何人かおったが為、放った男は誰を狙えば良いか判らんかった』
何とも間の抜けた話である。
五十鈴媛がその後皇后となった事を考えると、当然暗殺は失敗に終わったのだろう。
『そして殺す女を決めあぐねている内に、男は邑に見つかってしもうた。しかも告雪戸畔の放った刺客だともばれた。つまり、逆に告雪戸畔が身を寄せている集落の方が攻められる口実を相手に与えた事になる。皮肉なことに、彼女自身の行動が彼女の予言を真にしてしまった』
集落からしてみれば、とんだ災難である。
貴龍院皓雪、告雪戸畔の行為は恩を仇で返したとしか言いようが無いものだった。
しかし、事はそれだけでは済まなかったらしい。
『告雪戸畔自身は戦いのどさくさに紛れて集落を離れ、命辛々逃げ延びたらしい。しかし、この所業は彼女の予想以上に天津神の怒りに触れた』
「どういうことです?」
『どうもこうも、五十鈴媛は神々に選ばれた乙女だったのじゃよ。予てより、高天原の神々には葦原中國を天照皇大神の子孫である血族の一つ、日向国の王に統治させようという御意向をお持ちじゃった。五十鈴媛はその后となる候補の一名だった』
「そんな御方を、ただ能く視えるだけの何処の馬の骨とも知らぬ女が殺そうとした……」
『天津神の意見は二つに分かれていた。日向の王太子、磐余彦尊か将又その御次男、岐須美美命の何れが大日本の皇尊に相応しいか。五十鈴媛と歳近く妃もいない岐須美美命を推す声もあったそうじゃが、此処へ来て急転直下、悠長なことは言っていられなくなってしもうた。岐須美美命が後を継ぐのを待っていては遅い、父親の代で決着を付けねばならん、とな』
彼が岐須美美命を皇尊の候補と言っているのは、後の事を考えると兄である多研美美命では都合が悪いからだろう。
何れにせよ、告雪戸畔の所業は東征を間接的に磐余彦尊――後の神武天皇の代に早める切掛を作ったということらしい。
『斯くして、後の神武聖帝・神日本磐余彦尊に明確な東征の神託が下った。塩土老翁の語った美地に都を築かんと、長く険しい船旅に連れて行けぬ妃の吾平津媛と次男の岐須美美命を日向に残し、三名の兄君と長子・多研美美命、そして忠実なる軍勢を率いて東を目指し、風が丁度良い塩梅になった夜に出港した……』
此処へきて、祖父の眼は夢物語を謳う様に輝いて見えた。
昔から、生前から祖父は神武東征の話が大好きだったと、魅琴は思い出してまた呆れ果てた。
「御爺様、また脱線しそうになっていますよ。神武東征の話はもう何度も聴かせていただいて完璧に頭に入っていますから御安心ください」
『そうかそうか。祖父として鼻が高いことだの。お前さんも立派な愛国者に育ってくれたということか』
「でなければ、御国の為に神皇と刺し違えろなどという教えに従ったりはしませんよ」
魅琴は少々棘のある言葉で魅射を突き刺してみた。
しかし祖父の顔色は変わらず、意地悪が不発に終わった魅琴は呆れる他無かった。
「まあつまり、神武東征は結果的に当時の貴龍院、告雪戸畔の蛮行に急かされたことが最後の引き金になったということですか?」
『尤も、神武聖帝は御自身も明達なる御意志を御持ちで、匪賊凶徒入り乱れ流血の絶えぬ神代に在って唯一、葦原中國そのものの統一と調和という御大望を求められた空前絶後の英傑であらせられた。結局、天下平定の大偉業は神武聖帝でなければ成し遂げられんかったじゃろう』
「御爺様、それは既に骨髄まで染みています。貴龍院の方はどうなったのですか?」
『おお、そうじゃった』
またもや脱線の気配を感じ、魅琴が話を戻す。
「どうします? そんなに神武聖帝のお話がしたくて堪らないのなら、一層のこと貴龍院の話は後日改めてにしますか? 私としても、有難いお話を遮るのは心苦しい」
『お前さん、言うようになったの。良いやら悪いやら……。勿論、最早死人の儂にはお前と簡単に話す機会を持つことなど出来ん』
魅射は咳払いをして、話を再開する。
『貴龍院――告雪戸畔には優れた眼があった。これには神々も難儀したらしくての、神罰の悉くを逃れて別の邑に落ち延びたらしい。しかしそこでも、彼女は懲りもせずある時は五十鈴媛を害そうとし、ある時は磐余彦尊の進軍を阻もうとした。どうやら彼女の目にも五十鈴媛の辿る運命が見えたらしく、自分の居場所を奪った娘が葦原中國の皇后となることが余程許せんかったらしい』
「完全な自業自得じゃないですか……」
『そうじゃの。しかし貴龍院は、告雪戸畔はそう思っておらんかった。結局彼女の企みは悉く挫かれ、媛蹈鞴五十鈴媛は神日本磐余彦尊の后となり、橿原に日本で最初の都が立ち、東征は完了した。我らが日本の初代天皇・神武天皇陛下の誕生というわけじゃ。告雪戸畔はというと現在の京都に逃れ、懲りずに淤加美神の神託を受ける巫女を自称してその地の権力者に取り入りひっそりと生き延びたらしい』
あまりにも凄まじい半生と図太い根性に、魅琴は慄くべきなのか呆れるべきなのか少々困った。
しかし、貴龍院の所業はこれだけに留まらなかったのである。
続いて祖父の口から語られるのは、今の世界に繋がる戦慄の蛮行であった。