魅琴の祖父・魅射は更に驚くべきことを語り続ける。
『告雪戸畔が何時どうやって穢詛禍終に身を染めたのかは定かではない。じゃが、事実として彼女は己の生を神の摂理をも捻じ曲げて延ばし、しかも度々皇位継承者問題に裏から介入して五十鈴媛の血を絶やそうとした。そしてその中で一つ、彼女はあまりにも恐ろしい所業に手を出した……』
「まだあるのですか……?」
『はっきり言えば、これが何よりも恐ろしい所業と言えるじゃろう。時は第十代崇神天皇陛下の御代、告雪戸畔は当時の都に大いなる穢れを蔓延させ、甚大な犠牲を伴う疫病を流行らせた。この大厄災を受けた皇尊は皇居に祀られていた八咫鏡を移す勅を出し、伊勢神宮の建立に繋がる訳じゃが、他に一つ、とんでもない影響が引き起こされた……』
「それは……どの様な……」
そう尋ねかけた魅琴は、祖父の眼に生前にも見なかった怒りを帯びているのを認めた。
その理由、彼女はすぐに察した。
「皇國が……神聖大日本皇國に行き着く歴史が枝分かれした、ということですか?」
『少し違う。正確には既にあった可能性が形になった、と言うべきか。尤も、本流が日本国か皇國のどちらか、将又全く別の世界線なのかは実のところ判らん。はっきりしておるのは、この大厄災が過去八代の伝承を混乱の渦に巻き込み、無数の歴史を混雑させたということじゃ、神武聖帝が崩御してから崇神帝が即位されるまでに何が起きたのか、混乱の後に殆どの伝承が失われ、血筋しか辿れなくなってしもうた。その理由は、この間に生じていた数多の歴史分岐が悉く枝として顕現したが故に、正確な事績を口伝出来る者が居なくなってしまったのじゃ』
「その一つが、後の神聖大日本皇國へと繋がる訳ですか……」
魅射も触れたことではあるが、正確にはこの世界が本流であるという確証は無い。
ただその時の混乱が、多くの分岐点で枝分かれした歴史を具現化させたということだ。
その枝の先に現在の日本国と神聖大日本皇國へ繋がるというのは、以前に別のところで神皇も語っていたとおりだろう。
『我が父、閏閒三入は穢詛禍終に目覚めた折にその事実を、そして日本国を滅ぼし得る枝として皇國を見つけ出し、貴龍院から最大限の賛辞と信を贈られたのだ』
祖父の言うことが本当なら、日本の皇室の歴史に於いて貴龍院以上の朝敵は居るまい。
日本三悪人が可愛く見えるレベルである。
『扨て、伝承によると、神武天皇の崩御後に謀叛を起こそうとした多研美美命、その寝室に押し入った二皇子の内、多研美美命を誅殺した弟宮・神渟名川耳尊が二代綏靖天皇として即位したという。だがもしも、この時殺ったが兄宮の神八井耳命だったとしたら? 兄宮は殺せなかったことを恥じて皇位を譲ったのだから、そのもしもが、躊躇わずに誅殺した可能性あったとしたら、神八井耳命が皇位を継承した世界も在り得るとは思わんか?』
「……大厄災から遡って分岐した枝にも新たな歴史が生じたのなら、確かに考えられますね。というか、二代から九代までの、所謂欠史八代で分岐する可能性はそこくらいしか考えられない」
『そう、そうだ』
魅射は力強く頷いた。
『儂は皇國に渡り、向こうの記紀からその事実を知った。神聖大日本皇國は弟宮の神渟名川耳尊ではなく兄宮の神八井耳命が二代天皇となった世界なのだ』
「つまり、神武天皇を共通の初代としつつも完全に分かれた系統……。されどやはり天壌無窮の神勅を受け継ぐ神國、それが神聖大日本皇國であり、現在の神皇……」
魅琴は今初めて漸く、己が命を賭けて戦った相手が何者だったのかを知った。
「そして、その全ての元凶が貴龍院皓雪こと告雪戸畔であり、彼女は今尚日本国に、三千世界に仇なそうとしているということですね」
しかし、祖父は渋い顔をして首を振る。
『魅琴、お前も薄々解っていよう。黒幕と言っても所詮裏方で蠢く輩など表で暴威を振るう巨悪と比べれば小悪党に過ぎん。今更奴らを誅したところで事態は何一つ好転せんのじゃ。それは先代神皇の頃から変わらん。だからこそ、儂はお前に神皇を、偽りの帝こそを討てと言い続けた……。その使命は尚もお前の双肩に伸し掛かり、更なる絶望として聳え立っておる……』
魅琴は祖父の言葉を否定できず俯いた。
だがその時、祖父の双眸に焔が、狂気の燦めきを帯びた静かな灼熱の燈が点った。
『しかし、儂は信じておる。誰が何と言おうと、時代がどう変わろうと、依然変わることなく信じ続けておる……』
この後、魅琴は祖父の狂信、妄執、情念ともいうべき発言を聞き、戦慄した。
それは嘗て否定された筈の教えであり、今尚、死して尚そんなことを本気で言っているとしたら、笑うことすら出来ず彼女と同じ反応を示すだろう。
如何なる道化師をも真顔にし、空気をも凍て付かせる、内容とは裏腹に漆黒の意思から発せられた言葉――それをこの期に及んで孫娘に向けるという狂気……。
しかしそれは、同時に再び死地へと赴く彼女に無理矢理勇気を呼び起こさせる様な、そんなある種の檄言だった。
⦿⦿⦿
同じ頃、中庭は物思いに耽る人物を引き付けていた。
男と女が偶然時を同じくして中庭で鉢合わせることとなった。
「貴方は……」
繭月百合菜は歩みを止めた。
皇弟・蛟乃神賢智――兄である神皇・獅乃神叡智に対抗し、廃位を迫る為に必要とされた、表向きの彼らの頭目である。
そしてその彼に、繭月はある人物の面影を重ねていた。
「やはり……僕は似ているのですね。貴女の喪った誰かに……」
蛟乃神はあの時とは違い、今度は確信した面持ちで繭月に問い掛けた。
繭月はその姿に戸惑いながらも、俯き思う。
確かに、彼女の死んだ恋人・紅夜こと有明孝也と蛟乃神賢智はとてもよく似ている。
バンドマンだった彼はステージでは強気で過激で、そして何処か刹那的なパフォーマンスを繰り広げたが、その実性格の根は繊細で少し臆病な、しかし儚さを伴う優しさがある人物だった。
蛟乃神は彼が繭月だけに見せていた素の姿を彷彿とさせるところもあった。
だが、この青年は彼とは違う。――彼女は自分に言い聞かせるように念じた。
まず、蛟乃神は彼と比べて若過ぎる。
それに、否が応にも立ち振る舞いから感じさせる育ちの良さは彼に無かったものだ。
もし彼が生きてどれだけ大きな存在になってもおそらくは身に付かなかったであろう「本物」の仕草が、蛟乃神の一挙手一投足から垣間見える。
(嗚呼、どれだけ似ていても、どれだけ重ねても、彼はもう居ないのね……)
繭月の目が涙で潤む。
そんな彼女に、蛟乃神は慣れた様に優しい声を掛ける。
「あの、大丈夫ですか?」
「はい……。すみません、急にこんな……」
ある程度の事情を察している蛟乃神は、繭月を縁側に誘導し、彼女を座らせ寄り添うように隣に腰掛けた。
蛟乃神は目の前の女が傷付いている時、悪意無く自然にその心の隙間に入り込もうとする悪癖がある。
しかしその気遣いさえ、繭月には彼との差を感じさる材料となってしまう。
そんな彼女を慮ってか、蛟乃神は切り出した。
「貴女が僕を見て大切な人を思い出してしまうのは無理も無いかも知れませんね……」
「え……?」
繭月は不思議に思い、蛟乃神の方へ顔を上げた、
彼は優しく微笑みながら反対方向を向くように促している。
宛ら、そこに誰かがいるかの様に……。
「ほら、先程から其処に……」
「あ……」
朧気な光を放ち、彼は確かに立っていた。
繭月の目尻から大粒の涙が零れ落ちる。
「紅夜君!」
繭月は思わず彼の許へと駆け寄った。
夢か、幻か――その様な迷いは些細なこととして、簡単に振り切れてしまった。
『おいおい、そんなに泣いてちゃ俺のことが能く見えないだろ?』
「ええ……ええ……!」
繭月は上手く思いを伝えられず、ただ感嘆を漏らす事しか出来ずにいた。
彼との邂逅は彼女にとって、それ程の事だったらしい。
『すまないな、一緒に居てやることが出来なくて……』
「いいえ……」
少しずつ、繭月は落ち着きを取り戻し始めていた。
どうやら本当の意味で彼女の喪失感を慰める事にかけて、喪われた彼本人の右に出る者はいないらしい。
「紅夜君、逢いに来てくれてありがとう。けど今でもまだ心配を掛けていたのね……」
『気にするな。俺が勝手に未練を残していただけだから』
彼はそう言うと、繭月のよく知る優しくも儚げな微笑みを浮かべた。
『そうそう、それともう一つ伝えとくことがある。俺、君の弟にも逢ったよ』
「え?」
『ちょっと気恥ずかしいらしくて出ては来れないみたいだけど、気に病まないで欲しいと言っていたよ。僕は微塵も気を悪くしていないから、だそうだ』
「そう……」
繭月は後ろめたさを覚え、悟られまいと誤魔化すように小さく微笑んだ。
彼女が弟に抱いた感情、いや劣情は、決して肯定できるものではない。
弟本人が許していたとしても、何とも思っていなかったとしても、それは屹度、充分に理解し切っていないからだ。
ただ、弟が傷付いていないということだけは救いだった。
繭月にとってそれは充分過ぎる程に有り難く、更に多くを求めるのは度が過ぎると思っていた。
『何かまた思い詰めているな……』
「ええ、流石に。紅夜君は知っているからね、騙せないね」
『まあな。だが、少しだけすっきりした感じもする。何処か晴れ間が差したというか……。どうやら答えを見つけたらしいな』
やはり彼には敵わないと、繭月は改めて思い知った。
全てお見通しの様だ。
そして、繭月は彼と再会できたことで、少しずつではあるが確実に気持ちに整理を付け始めていた。
「紅夜君、逢えて嬉しかった。私はもう大丈夫だから……」
『ああ。もう行くよ。じゃあな』
「ええ……」
そう、どれほど大切に思っていた人とも、いつか必ず別れの時が訪れる。
ただ彼女にとって、それが余りにも突然に理不尽に齎されたから完全に割り切るのに時間を要しただけだ。
だが、もう大丈夫だ。
薄れていく彼が見えなくなれば、全てを思い出に変えることが出来る。
もう蛟乃神に彼の面影を重ねることは無いだろう。
一陣の風が吹き、彼女の恋人は完全に姿を消した。
それを裏付けるように、恋人を見送って振り返った彼女は先程までとは全く別人を見る目を蛟乃神に向けていた。
恋人に似た人を見る目ではなく、恩人を見る感謝の目だ。
「殿下、御世話と御心配をお掛けしました。有難うございます」
その言葉を聞き、蛟乃神は安心した様に、何処か寂し気に笑顔を返した。
若い彼には未来がある。
その為にも、兄である神皇の暴挙を阻止しなくてはならない。
その後、彼は自分とは全く無関係な、相応しい縁によって誰かと結ばれるのだろう。
そんなことを考えながら、繭月は蛟乃神に一礼して寝室へと戻っていった。
⦿
そんな繭月を見送り、蛟乃神は溜息を吐いた。
「良かった。神為を貸してあげた甲斐があった」
「本当にな」
背後から掛けられた声に、蛟乃神は不穏な気配を感じた。
能く知る声、数少ない、彼に惑わされない女の声だ。
「ね、姉様……いつから居たの?」
「君が彼女を口説こうと企み始めたところから、かな」
「何のことか解らないな。今来たところ、ということで良いの?」
「白々しい……」
彼の姉・龍乃神深花は呆れ果てた様子で、弟に白い眼を向けていた。
「呉々も言っておくけれど、君はこれからあの兄様と戦うんだ。それに、事が済んだら君が皇位を継ぐことになる。流石に好い加減、言動に慎みを持って自分を強く戒めておいた方が良い。口説くなら真剣に、本気で相手に向き合い覚悟を持って愛するべきだ」
「肝に銘じるよ」
「妾は本気だからな。もう君の女癖に甘い顔はしない」
姉の視線に、蛟乃神は思わずたじろいだ。
強く睨まれている訳ではないが、有無を言わさぬ迫力がある。
「わ、解ったって……」
「賢智、これが最後だ。次からは妾の説教を受けてもらう。みっちりとな」
「うひぃ……」
案外これから先、彼は姉が苦手になるのかも知れない。