航は思い悩んでいた。
よりにもよって神為の才に乏しいと誰もが指摘する彼に世界の命運が託された不条理に思い詰めていた。
仮にこれが運命だとしても、他にもう少し適任者が居ただろうと。
或いは何か、もっと凄い類稀なる才能を与えてくれても良かっただろうと。
だが、魅琴は、航と同じく運命を委ねられ、汎ゆる才に神懸って恵まれた彼女は彼の心煩いを否定する。
そして、航に才能が無い事も全て運命は織り込み済みなのだという。
それを語る前に、彼女はまず祖父の霊魂と対話を交わしたと告げた。
「君のお祖父さんってことは、君を神皇との戦いに仕向けた張本人……」
航もまた、その人物に決して好い感情は持っていなかった。
麗真魅射――魅琴の祖父についてその断片でも聴いた者は、誰一人として手放しで賞賛したりはしない。
航は麗真家で夕食を一緒にした中学時代、一度もその男と食卓を囲んだことが無い。
だが時折、もう一人居る様な気配を感じてはいた。
しかし、それを口にすることは憚られた。
尤も、実のところ魅琴は祖父を一から十まで嫌っていたという訳ではない。
それこそ最初は、祖父の昔話を根気よく聴いていたし、彼から受け継いだ使命を全うする道を彼女自身が選び、後悔もしていない。
何より、死して尚この場に逢いに来た彼を拒まず、会話を交わしたと航に告げたこと自体が、祖父を全否定していない証左だった。
「そうね。勿論今回も、迷わず戦うように言われたわ」
「そうかい……。相変わらずなんだな……」
「ええ、本当に……」
孫娘を死なせかけた今になって尚そんなことを言う魅射に対し、航は嫌悪感を覚えた。
航にとって日本を守る為に命を賭けた尊敬すべき人物はあくまで魅琴であって、魅射には大した思い入れは無い。
そんな彼の思いを見越してか、魅琴は航に予め釘を刺す。
「言っておくけれど、私の見解は祖父の影響を強く受けたものよ。それでも聴く?」
そう言われると、航は躊躇いを覚えた。
だが、魅琴のことだから祖父の言葉を自分なりに咀嚼してはいるだろう。
その信頼感が、航を前に進ませた。
「聴かせてくれないか?」
「ええ」
魅琴の言葉を待つ航は息を呑んだ。
彼女の言葉は何か、自分に前へと進む光を、勇気をくれるのだろうか。
自分こそがこの戦いに相応しいと、心から確信させてくれるだろうか。
「祖父は貴方を見ていると、責められている様に感じるらしいわ」
「どういうことかな?」
「才能が無いのを言い訳に、自分の張るべき命を呪いに変えて下の世代に押し付けた自分の愚かさを思い知るようだって……」
「へえ……」
航は少しだけ魅射に対する見方を変えた。
自分の罪悪を見据え、反省するだけの人間性は備えていたのか。
「航、貴方が私と一緒に居ることが出来たのは、正に貴方が持たざる者だったからなのよ。そして、私に対しては早々に折られてしまった心は、他の何者に対しても折れない強さを得た。それは偏に、貴方が凡夫だったが故に見えないものがあったからなの」
「見えなかったもの?」
今一つ飲み込めない。
普通は、見えたものがあるから良かったという話ではないのか。
その答えは、一つの典型例が教えてくれた。
「貴方にもし中途半端に才能があったらどうなったか、知りたければ根尾さんを見れば良いわ。彼はね、才能があったからこそ限界が見え、私と共に戦う道は選べなかった。仮令運命と言われても無理だったでしょうね。それに貴方が有望なら、まず祖父が私の保険として貴方にも何かしら手を出したと思うの」
「会ったことも無い人間にすら見限られるレベルかよ……」
航は苦笑いを浮かべた。
そうなっていたら、今受けている拷問の様な訓練を中学時点で受けていたのか。
「根尾さんは伯母から麗真家や私の事を知って神為を鍛え、独学であそこまで力を付けた。彼は間違いなく天才だったのでしょう。でも、だからこそ早々に私の代わりにも助けにもなれないと悟り、裏方の道を選んだのよ」
魅射は言っていた。
裏方に回って動こうとする人物は、表に立てない人間なのだと。
それはこの世の全ての真理という訳では無いだろうが、彼が実際に言及した貴龍院皓雪や閏閒三入については間違いなく神皇を差し置くことなど到底出来ない。
また、孫娘の魅琴が言う根尾弓矢も彼女と比べればそうなのだろう。
「僕は才能が無かったから、君の隣に居られると?」
「そうよ。もっと言えば、今回の作戦のメインは寧ろ貴方の方。だからこそ貴方は悩んでいたのだろうけれど、でもその大役は才能が無い貴方にしか務まらないことだった」
一息置いて、魅琴は繰り返し強調する。
「才の無い、天与を持たざる貴方だからこそ、日本国を代表して世界の命運を賭けて、誰だろうと絶対に勝てない理不尽な才能そのものである神皇・叡智と戦うに相応しいのよ。勿論、凡人なら誰でも良い訳ではない。才能よりも確かな意志を持ち、私の隣に立ち続けた貴方だからこそ……」
航は魅琴の言葉に奇妙なものを感じていた。
内容そのものではなく、恐ろしい程すっと自分の中に入ってきた感覚が奇妙だった。
「そうか……」
航は自分の運命を驚くほどすんなり飲み込めた。
今まで悩み、思い詰めていたのが嘘の様に、全てを得心していた。
「魅琴、ありがとう」
見つめ合う二人を、青白い月明かりが優しく美しく照らしていた。
二人が互いに納得した運命は、おそらくはとても残酷なものだ。
航にとっては一度否定した決断。
魅琴にとっては一貫して避けたかった決断。
だが、それが二人に等しく降り掛かった今、二人には投げ槍な諦念ではなく、果敢に抗う意志が宿っていた。
それは絶望的な、先代神皇戦や日本戦争以上に絶望的な決死行になるだろう。
しかし、彼らは最早そこから逃げる事など露程も考えてはいなかった。
二人は互いの想いを確かめ合うように、長い長い接吻を交わした。
肩を抱き、互いの身を寄せ合う。
互いの存在を、温もりを感じ合い、そして絶え間無く反芻する。
柔らかな唇と肌の感触が、航の心を溶かしていた。
「ん……」
甘い声が骨を伝い、温かな吐息が鼻を擽る。
航は今、求めて已まなかった最果ての地へと辿り着いた気がしていた。
「ふふ……」
重なりが解け、秘めやかに咲いた蠱惑的な笑みが航に囁く。
「折角だから、今日はこのまま人気の無い場所へ抜け出しましょうか」
「え、それってどういう……?」
「今夜は可愛がってあげる、って言っているのよ」
突然の誘いに、航は全身の血管が脈打つ様な感覚に襲われた。
そういえば最近は全くの御無沙汰だった。
魅琴の指が航の肌をなぞるように滑っていく。
それだけで、航の体は目の前の女に好きなように弄ばれたいと、全ての生理現象を総動員して訴え始める。
「で、でも……」
「見つかったって開き直れば良いのよ。これから死地へと赴く恋人同士に禁欲を強いるなんて、道義的に許されないわ。それに、どうせ貴方が私にコテンパンに打ちのめされるという点では実戦訓練と同じだと思わない?」
「うぅ……」
「決まりね。たっぷりと哭かせてあげる。今宵の月は負け犬の遠吠えに彩られるわね、楽しみだわ」
こうなってしまったら、航は魅琴に逆らえない。
若しかすると、既に二人はMの奴隷とSの女王様になりかけているのかも知れない。
だがしかし、二人が挑む戦いを思えばこの世に未練は残さない方が良いだろう。
この夜、二人の心は長く険しい戦いに向けて、静かに船を出したのだった。
⦿⦿⦿
無窮為動機神体・アメノミナカヌシ内部、中央制御室「高御座の間」。
神皇は玉座に腰掛けたまま微動だにせず、只管に壁の映像を見詰めている。
昨日まで嗜んでいた酒も飲まず、ただ何かを待ち続けているといった様相である。
(暇ねえ……)
そんな主の傍らで少し疎々としているのは、近衛侍女の貴龍院皓雪である。
彼女もまた、神皇に構って貰えずに暇を持て余していた。
(夜伽の御相手すら出来ないだなんて、私、此処に居る意味あるかしらぁ?)
貴龍院は溜息を吐いた。
本来ならば、この様な時間は陰謀を進める絶好の機会である。
しかし今、彼女は大幅に手駒を減らしてしまっている。
(征一千君も朔馬君も役に立たずのまま死んでしまうし、腰巾着の兄祇院君は出落ちで退場しちゃったし……どいつもこいつも、どうして私の周りには碌に使えない男しか居ないのかしらぁ……)
そんな彼女の元に、一人の男から思念が届いた。
『媛様、たった今、皇道保守黨が荒木田将夫を始末いたしました。新総裁には超急進的過激派の鸙屋敷氷が着任したようです。儂はこれより鸙屋敷と接触し、手駒として確保しようかと存じますが、如何でしょう』
『へえ、丁度面白い話の一つでも欲しかったところよぉ。やはり貴方は頭一つ抜けて有能ね、三入君』
閏閒三入――神瀛帯熾天王の一人で、魅琴の曾祖父。
皇國を見つけ出した功績もあって、その手腕は貴龍院から唯一評価されている。
『御褒めに与り、光栄に御座います。序でで御座いますが、例の紫桐侍従長の件は如何致しましょうか? 始末しておきましょうか?』
『あっちは貴方一人じゃ厳しいでしょう。兄祇院君や嶼津の猪武者があっさり死っちゃったとはいえ、皇國でも有数の上位貴族からなる集団よ。特に、紫桐や玖我は六摂家当主にも匹敵するでしょうねぇ……。おまけに一々陛下に対して忠誠を誓っていて懐柔するのも無理そうだし、本当、面倒……』
再び、溜息。
貴龍院は現状に嫌気が差しているらしい。
抑も、頼みの綱の神皇も、皇統と日本人を根絶やしにするという彼女の目的とは真逆に動いてしまっている。
何もかもが上手く行かない状況に、彼女の苛立ちは募るばかりだった。
『媛様、どうやら紫桐一派は皇道保守黨の手綱を握りたがっている様子。ならば皇道保守黨経由で間接的に操作する方法があるかも知れません。其方から働きかけてみましょう』
『ああ、そう……』
『媛様、諦めるのはまだ早いですぞ』
閏閒の声に力が入る。
何やら熱意を持って訴えたいことがあるらしい。
だがそれは閏閒の悪癖であった。
『儂が心を寄せるあの御方は、民衆の為に叛乱を起こし、朝廷の心胆寒からしめたもので御座います。圧倒的に数的不利であるにも拘わらず最後まで諦めずに戦い続け、最終決戦では風を味方に付けて逆転勝利の一歩手前まで漕ぎ着けております。惜しくも最後は敗れてしまいましたが、死した後も朝廷を恐れさせ続け、今尚畏敬の念を忘れ去られておりません』
次第に熱が籠る閏閒の語り口とは逆に、貴龍院は眉を顰めて目付きを鋭くしていた。
また始まった――彼を取り入れて八十年以上、もう何度もこの話をされている。
貴龍院は内心うんざりしていた。
そんな彼女の心の内など露知らず、閏閒は続ける。
『あの御方が関東で立たれた様に、儂もまた関東で蹶起しました。あの御方が朝廷に抗われたように、儂も帝に御決断を迫った。これは決して偶然では御座いますまい』
貴龍院は相槌も打たない。
構わず話が続くことは解っていた。
『嘗て二・二六に於いて儂が立った時も、そう考えておりました。あの御方の末裔たる儂が再び関東に立ち、帝がその忠義を認め、千年の時を越えて朝廷と彼が和解する――それこそが、儂の望んだ真の皇道で御座いました』
最早閏閒の言葉は演説に近かった。
(自分に酔っているわねえ……これだけは、本当にどうにかならないのかしら……)
貴龍院は溜息を止めることが出来ない。
聞き飽きた話では退屈を埋めることなど出来なかった。
『しかし、あの愚かな帝はそれを拒んだ! ならば最早、儂にはあの御方と同じく日本民族に恐れられる荒神と成るより他に無い! ですから媛様! 媛様もどうか怒りの火を絶やさず、朝廷に目に物見せてやるのです! そう、あの御方の様に……!』
閏閒は最も大きな声で、その人物の名を謳い上げる。
『平将門公の様に!』
閏閒三入――鬼獄魅三郎は元々皇道派青年将校であったが、その思想は他の同志達と大きく異なっていた。
彼は実家に伝わる「平将門縁の武具」とされるものを本物と信じ、更に自身を将門の子孫であると信じていた。
そこに根拠は特に無い。
ただ、自身の信じる「関東蹶起の物語」に酔い痴れていただけである。
『……解ったから、その熱意を私の為に役立てなさぁい』
貴龍院は拒む様に、閏閒との話を打ち切った。
(ストレス溜まるわぁ……。一層、少々骨が折れるけれど紫桐の奴は私の能力で始末してしまおうかしらぁ……)
彼女が皇宮の紫桐を「尋常ならざる眼」の視界に捉えた、その時だった。
「貴龍院」
「は、はい」
「俺は果報者だな。此程の事を起こそうというのに、汝と紫桐という二人の優秀な臣下が付き従ってくれている。汝らが手を取り合えば、如何なる困難も乗り越えられよう。屹度、深花や賢智、敷島とも再び手を取り合える。明治日本とも共存共栄の関係を再構築し、汎世界的大日本連盟の夢が実現する。屹度、日本民族の未来は果てしなく明るいぞ。楽しみだな」
貴龍院は神皇の言葉に心臓を鷲掴みにされ、背筋が凍り付く思いがした。
此程の都合の良い希望的観測に、有無を言わさず従わせる迫力がある。
逆らうことが考えられない、心の底から納得し同調させられてしまう様な、絶対強者の暴力的懐柔力。
この一月足らずで神皇は大きく変容し、得体の知れない怪物に近付いている様な気がする。
(三入君、早くどうにかしなさぁい。あまり陛下と長く居ると、私の頭がおかしくなってしまうわぁ……)
貴龍院でさえ自身の魂を捻じ曲げられる感覚に襲われ、此処から逃げたいと願わざるを得なかった。