時を遡り、十一月一日夜――神皇が「日本以外の鏖殺」を宣言して一時間程後。
神皇の近衛侍女、敷島朱鷺緒と貴龍院皓雪は彼の私邸の寝室で対峙していた。
「貴龍院殿、貴女はこれからどうするつもりだ?」
「行くしかないでしょう、陛下の処へ……」
天空上映の直後、侍従長・紫桐玄貴から全侍従侍女へ通達があった。
神皇曰く「アメノミナカヌシへは巫璽山頂から転移門が通じており、謁見を望むのならばいつでも馳せ参じよ」とのことだ。
「貴女は言っていたな。『自分は陛下が何を望まれようと、何処までも只管に忠誠を尽くすのみ』と。その言葉を貫くという訳か……」
「勿論よぉ……。そう言う貴女はどうするのぉ?」
「無論、私も陛下への忠誠は変わらん。巫璽山頂へ登ることも厭わない。しかし、事此処に至っては……唯の追従者では……いられまい。陛下にどうか……考え直していただけるように……諫言する他無いと思っている」
敷島は肩を震わせながら言葉を絞り出した。
彼女が神皇に仕えることになった切掛は、その絶対的な力に屈服した苦い経験である。
それ故に、神皇の宸意に異を唱えることはこの上無く畏ろしい。
だが一方で、彼女の正義感は神皇に世界の大半が滅ぼされるのを看過することも許さなかった。
「とはいえ、私がこれからしようとしている上奏が僭越極まり無いことであるとは百も承知。謁見には影腹を召して臨む」
「駄目よ。そんなこと、駄目に決まっているでしょう?」
敷島の覚悟を止める貴龍院――しかしその表情には不穏な微笑みを湛えている。
「陛下に逆らおうだなんて、そんなのは悪手も良いところだわぁ。やるなら陛下が自ずから『気が変わる』よう取り計らわないとぉ……」
「どういうことだ?」
敷島は眼を凝らして貴龍院の真意を見極めようとする。
貴龍院は得意気に考えを述べた。
「要するに、陛下は他の全てを排除してでも日本人を甘やかしたいのよぉ。日本人がそうするに値する、愛すべき民族だと心の底から信じている。その前提を覆すの」
貴龍院は口角を上げ、白い歯を見せて邪悪な笑みを浮かべた。
「私は陛下の許へ馳せ参じ進言するわぁ。『どうか皇國のことは皇道保守黨にお任せになって、貴方様はその偉大なる事業に御専念ください。彼らの心配はご無用です。私が常にこの尋常ならざる眼を光らせ、必要なことがあれば御報告いたします』」
「貴女が陛下と皇道保守黨の繋ぎ役になる、と?」
「ええ。陛下に入る情報のうち、宸襟を患わせるものを除き、伝えるべき事のみを伝える。その名目で陛下の元に届く情報を制御し、日本人に対する考え方の変わる様な情報を厳選することが出来るという訳よぉ……」
敷島は貴龍院を睨む。
思えば彼女は以前から、神皇が自分の思い通りに動くと確信している節があった。
だが天空上映の勅命の後は酷く狼狽していた。
(貴龍院は陛下に、今とは全く違う何かをさせようとしていた……? そういえば、どうも貴龍院は以前から陛下に入る情報を剪定していた様に思える……)
敷島は刀を握り締める。
今、彼女は先代侍従長・大覚寺常定の言葉を思い起こしていた。
『貴龍院皓雪の動きに気を付けよ。あの女が佞臣の動きを見せたならば……』
時が来たのかも知れない。
否、もっと早く、貴龍院が余計なことをする前に決心が付いていれば、違う未来もあったのではないか。
「貴龍院殿、私は反対だ。それは陛下を謀る行いに他ならない。主君と正面から向き合わず、宸意を恣にしようなどと、臣下にあるまじき不敬不遜だ」
「残念だけれど、これは譲れないわぁ。陛下にはもっとやるべき大切なことがあるのよ」
「ならばそうはっきりと申し上げるべきだ。それとも出来ない理由でも有るのか?」
貴龍院は答えず、刀に手を掛けようとしている。
今、二人の考えは重なった。
「この佞臣め!」
二人の刀が同時に翻り、刃と刃が合わさる。
遂に二人の近衛侍女は完全に決裂した。
「この私を斬ろうとするなんてね。だったら応戦するしか無い。始めたのは貴女よぉ」
貴龍院が突き放し、斬りかかる。
二人は一進一退の攻防の末、再び鍔迫り合いとなった。
「事此処に至った責任は傍に仕えたる貴様と、そしてこの私にも一端がある! 先ずはこの期に及んで尚も佞臣の動きを見せる貴龍院皓雪を斬る! そして私は命を賭して陛下に御変心を訴え腹を切る!」
二人の刃が離れ、再度の攻防が繰り広げられた。
次第に剣士としての地力の差が現れ始め、遂に敷島の刀が貴龍院の首を刎ねた。
「やってくれるじゃなぁい、敷島ちゃん……」
「何っ!?」
貴龍院の両腕が零れ落ちた頭を受け止め、切断された首の上に乗せた。
赤い蜘蛛が切り口から湧き、糸を吐き出して縫い付けていく。
「ば、莫迦な……! 貴様、一体何者だ!」
「私は殺した程度じゃ死なないのよぉ。言ったわよね、貴女に私を殺すことは不可能だって。確かに剣の腕じゃ貴女の方が上でも、斬っても死なない相手をどう誅殺しようというのかしらぁ?」
「くっ……!」
「そして万全の状態なら貴女の力が上でも、戦いが続けば次第に消耗していく。さあ、果たしていつまで保つかしらぁ?」
その後、戦いは日を跨いで続いた。
敷島は終始貴龍院を圧倒したが、殺せない相手には不毛な努力だった。
そして翌日、六摂家当主が集まる頃に、限界を迎えた敷島は遂に斬られてしまう。
こうして、敷島の身柄は貴龍院の手で六摂家当主の許に届けられた。
⦿⦿⦿
時を現在、大晦日に戻す。
今、敷島朱鷺緒は航と魅琴を只ならぬ眼で睨み付けている。
行き場の無い怒りと、悲しみと、慚愧が混濁した、痛々しい目付きだ。
「私は……私はずっとあの御方の美しい夢を守り続けてきた……。貴龍院の本性に気付きながら、それでもずっと……ずっと守り続けなければならなかった……。だが!」
敷島が己に課していた使命である。
だがそれは不可能な絵空事であると、魅琴に明かした時には即座に看破されていた。
それでも敷島は感情を抑えられずに刀を抜いた。
嘗て獅乃神叡智に与えられた名刀の鋒が航と魅琴に向けられる。
「だが貴様らが全て台無しにした!」
そう、獅乃神の美しい夢がいつから崩れ始めたかといえば、魅琴が先代神皇暗殺を試み、重傷を負わせた時からだ。
魅琴自身が後に彼を酷く裏切ると踏まえた上で敷島を諭したとすれば、それは彼女にとって憤懣やる方無い仕打ちだろう。
「御門違いの八つ当たりだと呆れたければ呆れるが良い! 滑稽な女だと嗤いたければ嗤うが良い! 無恥な女だと蔑みたければ蔑むが良い! 基より私に誇るべき振る舞いなど何も無し! 妹に合わす顔など有ろう筈も無し! 基より誰に解る心情など何も無し! この只管に愚かな女を煩わしいと思うならば縊り殺してみよ! だが! それでも猶この怒り抑える術は無いと知れ!」
しかし、航も魅琴も構えない。
彼女と戦うつもりなど無かった。
彼女自身も、魅琴はおろか今では航にも敵わないと悟ったのか、ただ目を血走らせたまま微動だにしない。
そんな彼女に、魅琴は穏やかに語り掛けた。
「敷島さん……いえ、水徒端早芙子さん。貴女は決して自分で思っている程弱くも浅ましくもない。何故なら、貴女はずっと孤独な重責に耐え続けていた。時に憎まれ口を叩き、彼の夢を庇い続けた。確かに、それを邪魔してしまったのはこの私。本当に申し訳ありませんでした……」
魅琴は敷島に頭を垂れた。
敷島はそんな魅琴の態度に動揺を隠せない。
「な……何を……」
「水徒端さん、もう御自身をお許しになって下さい」
航も彼女を諭す。
「全ては魅琴の言う通りだと思います。貴女はずっとこの世界、いえ全ての世界を守り続けて来たんだ。只管孤独に……」
敷島は脱力した手から刀を落とし、赤らんだ両目から涙を溢した。
「私は……あの御方に力で捻じ伏せられ、完膚無き迄に誇りを砕かれた……。何をどう取繕おうと、あの時から私はあの御方に媚を売るしか能の無い情婦、惨めな性奴隷に過ぎなかった……。ただ、それを恨むことも到底出来なかった。だってあの御方は悪くない。私が意気地無しで、自分を貶めることしか出来ず、あの御方への想いを棄てることすら叶わなかった……。不意に幸せを感じてしまうことすらあった。忠誠心すら抱いていた。感謝すら覚えていた」
敷島はその場に崩れ落ちてすすり泣いた。
「獅乃神様は私にとって、確かに愛すべき御方だった……! 永遠にそう在って欲しかった……! けれども今はもう……!」
腹の奥底から嘆きが絞り出される。
全ての醜い苦しみを絞り出し、そして額を床に擦り付ける。
「恥を忍んでの一生のお願いで御座います! あの御方を、嘗て私が愛した主君をどうか御止めください!」
縋るように絞り出した、心の底からの願いだった。
魅琴は膝を突き、頭を下げて彼女に近付く。
そして一言、静かに、だが力強く答えた。
「勿論です」
続いて航も屈み込み、彼女に一つ語り掛けた。
「ただ、どうか妹さんと、早辺子さんと一度よく話し合ってください。僕は彼女に大恩があります。彼女が居なければ今の僕は無かった。そして、彼女が突き動かされたのは貴女への強い想いがあったからです。屹度立派だからじゃなく、大好きなお姉さんだったから……」
敷島は消え入りそうな声で「はい」と答えた。
分かってくれただろうか、分かってくれたと思いたい。
「魅琴」
「ええ」
二人は頷き合い、敷島に一礼して踵を返した。
残りの時間、出来ることは殆ど無い。
悔い無く過ごすよう取り計らわれてもいる。
それでも二人は、最後の時まで戦いに備えることにした。
個室へ戻り、目を閉じた闇の中で来たる戦いに思い描く。
決死なれど敗けられない聖戦なれば、残る時間をイメージトレーニングに費やすのだ。
廊下を戻る二人は一人の背の高い女と出くわした。
ヴィクトリアンスタイルのメイド服を身に纏った、敷島の妹・水徒端早辺子である。
「岬守様、麗真様」
彼女は二人に深々と頭を下げた。
「御気遣い感謝いたします。どうか、御武運を」
「はい」
二人はそれぞれの個室へと戻った。
⦿⦿⦿
日本国東京都、皇國との時差は約三時間で、午前十一時三十分。
皇國では丁度、航と魅琴が出発に向けて十桐綺葉に甲邸跡地へと呼び出された頃だろう。
雲一つ無く晴れ渡った街中には、休日の午前だというのに、圧し潰れそうな程の人波が犇めき合い、大空に映し出された神皇の姿を仰ぎ見ている。
『汎ゆる世界、汎ゆる時代の日本人達よ、遂に時が満ちようとしている。汝らを凡ての苦しみから解き放ち、生の儘の世界、真の世界を再創する時は近い。新たなる年の訪れと共に、日本人を虐げる者、罵る者、誹る者、蔑む者、貶める者、陥れる者、急かす者、縛る者、憐れむ者、煽てる者、汎ゆる型に押し込める者、総てが消えて無くなり、心の奥底に固く鎖していた同胞への友愛、故郷への愛着、御祖への思慕、神々への畏敬、歴史への誇負、現代への感謝、未来への希望、自己への確信、國體への帰属、それらの心が枷を解かれ、檻を離れ、限り無き天空へと自由に羽撃くことが出来るようになる。眩い日輪は汝らの人生に遍く清輝を齎し、豊潤なる色彩で満たすであろう』
バスターミナル前で演説を見上げる群衆の中に、二人の対照的な男女が居た。
「何を言ってやがる、あの野郎……!」
一人の男は舌打ちした。
『無論、中には俺に賛同出来ぬ者も居るだろう。百億の日本人が居れば百億の正義が有る。ならば俺と相容れぬ正義もまた存在するのが道理。だが俺は斯様なる者を新世界より排除するつもりは毛頭無い。寧ろ誇るべきだ。一方で俺に付き従い、新世界の創造に邁進する者もまた同じ。輝ける明日には汎ゆる正義が相争うこと無く尊重され、讃え合われなければならない。総ての日本人には生の儘の己を誇る神聖不可侵なる権利が有るのだ。俺は唯、その邪魔立てをする者の総てを掃除し、世界を在るべき真の形へと作り変えようとしている。どうかそれを理解して欲しい。俺の願いはそれだけだ。汝らが一片の曇りも無き幸福に包まれる時代を築けるのなら、俺は汝らの許から永久に隠れても良いと思っている』
一人の女が両手で口を覆い、両目から涙を零している。
「なんという……あの御方は……!」
歓喜に震える女を、男は横目で睨んだ。
神皇の竜顔に眼を奪われた女は周囲の視線に何も気付いていない。
『俺は汝らに約束しよう。これだけは覚えて置いて欲しい。俺は未来にも、過去にも、現在にも、如何なる時代の如何なる汝らに対しても擁護者で在り続ける。何があろうと、俺は絶対に日本人の味方だ。願わくは新たなる年に訪れる新たなる世界で、総ての日本人に有るべき至福の光が永久に満ち、凡ての日本史に来たるべき大団円が訪れることを……』
神皇の映像がゆっくりと消えていった。
一呼吸置き、女が叫ぶ。
「じ……神皇陛下万歳! 神皇陛下万ざーい!!」
「なっ、何をふざけたこと抜かしやがる!」
男の怒号が女の歓喜とぶつかった。
「ふざけてなんかないわ! 世界からの抑圧が消えるのよ! 神皇陛下が消してくださるのよ!」
「余計なお世話だ!」
「あの御方は日本人の味方だと仰ってくださった! 私達を解ってくださっている!」
「この糞莫迦が! 良いか、日本政府は神皇の処へ為動機神体で使節団を送ると発表した! おそらくは討伐隊だ! 世界全部を絶滅前提の占領下に置いた空前絶後の大罪人から人類を解放する為に!」
男は更に声を荒らげ、全ての臓腑を吐き出さんばかりに大声を張り上げる。
「これは疑い様も無く聖戦だ! そして覚えとけ! 俺達日本人が萬歳を捧げる君主は! 天・皇・陛・下・だ・け・だ!!」
間も無く、人類解放の聖戦へと向かう者達が異国の地より飛び立つ。