その女が生まれたのはまだ日本に元号が無かった時代である。
彼女の母親は或る豪族の不義の娘で、認知されないまま奴婢に落とされ、彼女自身もその身分を受け継いだ。
その豪族は当時の朝廷でも有力な氏族だったが、仏教伝来を巡る政争に敗北し、財産の多くは対立氏族や後に建立される寺社に渡った。
彼女は寺に寄贈された奴婢の娘としてこの世に生を受けたのだ。
しかし生まれつき奇妙な力を持っていた彼女は、仲間から気味悪がられて棄てられ、餓死寸前まで追い込まれていた。
生前の母からは「我が一族祖神の力が受け継がれたのだ」と聞かされていたが、己の出自については答えてもらえず、その「祖神」が如何なる存在なのかも知らなかった。
しかし実際、彼女は飲まず食わずにしてはあり得ないほど驚異的な日数を生存し続けていた。
そんな彼女の許に「告雪媛」こと後の貴龍院皓雪が現れたのは或る月夜のことだった。
放っておけば屍と化すであろう、指一本動かせぬまま捨て置かれていた彼女の許に背の高い女が顕れたのである。
女の装いは巫女装束に似ていたが、その色合いは小袖を黒染めし、また袴は実に見事な紫色であった。
「真なる日神の末裔よ、あな哀しや……」
彼女はその「黒い巫女」の美しき姿と甘い声に、天の遣いが舞い降りたのだと確信した。
しかし声すら発せられず、ただ黙って女の言葉を聞いている他無かった。
「今の境遇が恨めしいと思うならばそれを強く念じ、私に伝えなさぁい。そうすれば黄泉戸喫を与え、我が配下となる代わりに永遠にも等しい命を授けてあげるわぁ」
女は動かせない彼女の手を握った。
不思議な程に温もりを感じない、白く冷たい手だった。
言葉を発せない彼女は天の助けと考え、万感の思いを込めて全てを伝えようとした。
暫くすると女は顔を紅潮させながら本当に嬉しそうに微笑み、やや興奮を抑えるように彼女に告げた。
「よぉく解りました。貴女はやはり素晴らしい……」
気が付くと、彼女からは飢餓感や倦怠感、無力感といったあらゆる苦しみが消えていた。
「これは……?」
「一先ず、飢えを恢復させてあげたわぁ。今のままでは契りの証を喰らうことも出来ないでしょう」
「契りの証……?」
「ええ。先程も言った『黄泉戸喫』よぉ。それを喰らえば、貴女は老いることも、死ぬことも無くなるの。私の下で能く言うことを聞いている限りはねぇ……」
月明かりに照らされた「黒い巫女」は宛ら「闇の女神」であるように思えた。
今、自分はこの女に手を差し伸べられ、救われようとしているのだ。
「巫女様の配下に……。私に何か出来ることが有るのでしょうか?」
「先程、貴女の想いを受け取って解ったわぁ。どうやら貴女、自分が何者の血を引いているか能く知らないでしょう? 教えてあげるわぁ」
巫女は彼女を抱き起こし、南東の空を指し示す。
「貴女は嘗てあの空の向こうにある都で大連として権勢を振るった大豪族・物部守屋の曾孫なのよぉ。それが海の向こうから来た教えを受け容れ、国の神々を蔑ろにしようという朝廷に抗い、敗れてこの様な身分に落とされたのぉ」
「物部……」
「そうよぉ。今から貴女を都へ連れて行ってあげるわぁ。そこで私の言うことを聞いて一仕事してくれたら、本当の契りの証として『黄泉戸喫』を食べさせてあげましょう。それは貴女の先祖の恨みを晴らす意味もあるわぁ。やってくれるわよねぇ?」
彼女は一瞬、女の笑顔を恐ろしく感じたが、自分を救ってくれた恩人である自称巫女を疑うまいと思い直し、この後一つの政変に乗じてとんでもない行為に及ぶ。
⦿⦿⦿
期しくも彼女が「黒い巫女」と共に都へ辿り着いた時、自身の一族を没落に追いやった嘗ての敵対豪族本家が権力の座から追われようという事件があった。
宮中で最高権力者となっていた息子・蘇我入鹿を討たれた男・蘇我蝦夷が邸宅に立て籠っていた。
彼女は蝦夷を殺害して邸宅に火を放つように黒巫女から言い包められていた。
後の歴史には「息子の死を受けて追い詰められ、最早是迄と悟った父が自ら邸宅に火を放ち自害した」と記されることになる。
「よくやりました。仇を討てたわねぇ……」
黒巫女は全てを見通すような目で火を放った彼女に微笑みかけた。
彼女は知る由も無かったが、黒巫女にとって蘇我蝦夷の暗殺などはどうでも良く、目的は別にあった。
当時、蝦夷の邸宅には朝廷に纏わる多くの史書が蔵置されており、その焼失こそが真の目的であったのだ。
実際、この時皇統譜の正統性を記したとされる史書『天皇記』が失われたとされている。
「では約束を守ってくれたお礼に、貴女には正式な契りと新しい名を与えましょう」
こうして彼女は「告雪媛」を名告る黒巫女、後の貴龍院皓雪によって『黄泉戸喫』を与えられ、「穢詛禍終」の契約を結ぶことになった。
その折、新たに名告るべきとして、腹心として機を待ち続ける「臥龍」の姓、そして当時都が置かれたとされる地名に孰れ自分を飛翔させるという意味を込め「飛鳥」の名を与えられた。
⦿⦿⦿
その後、「臥龍飛鳥」は現在の京都に在る山の中に居を移した。
そして永い永い時を俗世から離れて過ごすことになる。
しかし、そんな中で彼女はある異変に襲われた。
奇妙な事であったが、彼女は曾祖父の夢を見たのだ。
『我が血を引く娘よ、心して聴くが良い』
彼女にはどういう訳か、それが曾祖父・物部守屋だと思えてならなかった。
父親の顔すら知らないにも拘わらず、その男のことは生まれた時から知っている気がしたのだ。
『我らの地に海の向こうから入ってきた教えを帝すらも敬う始末。嘆かわしいことだ。我らが崇め奉るべきは我らの神々以外に無いというのに……。我には見える。このままでは孰れ帝の誰も彼もが神勅の継承者という本質を忘れ、彼奴らの教えに帰依して憚らぬ日が来るだろう。更には我らの神々を彼奴らに売り渡し、皇祖すらも貶められる』
男の眉間に皺が寄り、声には次第に怒りと憎しみが籠っていく。
『ええい、口惜しや! 我らの神を、御祖を、帝を、仏に救われねばならぬ罪に穢れた者共と謂れ無く辱められるのだぞ! 許せる訳が無い! これだから我らの国に我らの神以外在ってはならぬのだ! 我が敗れさえしなければ今も正しく我らの国の神々だけが敬われていた筈だ! 我が氏族の力が足りなかったばかりに! 日神の一柱・饒速日命の血を引きながら、不甲斐無いことこの上無し!』
饒速日命――神武東征の折に最大の敵となった登美能長髄彦が仕えたとされる天津神で、後に天皇に恭順している。
記紀に於いて、饒速日が日神に連なる一柱であることは否定されておらず、また文献によっては天孫・瓊瓊杵尊の兄とされることもある。
そして、物部氏は饒速日の子孫であるとされている。
守屋が廃仏に拘ったのは、もしかするとこの様な背景もあったのかも知れない。
『認めぬ、仏の教えなど絶対に認めぬ! 良いか、我が血を引く娘! 我らは彼奴らを我が国から再び追い出さなければならん! その為には大いなる、天地開闢以来比類無く巨しき、新たなる神が必要だ! ならば我が血を引く娘よ、お前達が生むのだ!』
自分が神を生む――それは余りにも荒唐無稽な話だった。
尤も、斯様な夢を見ること自体が既に荒唐無稽と言えばそれまでである。
しかし男は凄まじい情念の籠った眼で訴え続ける。
『何代要しても構わぬ! 帝が在る限り、我らの国は生き続ける! 悠久の時の果てに、必ず生み出すのだ! 仏の教えなどを崇め奉り広めようという者共になど、凡そ考えることも及びも付かぬ程に遠大無窮なる究極の神を! 必ずや我らの国に純潔を取り戻せ!』
夢はその言葉で途絶えた。
朝起きた彼女の寝衣は汗でぐっしょりと濡れており、覚醒と同時に彼女は巫女を名乗る女に命を救われた時以来の途轍もない安堵感を覚えた。
だが、程なくして彼女は体に違和感を覚えた。
彼女が籠っていた霊山の洞穴には男子はおろか黒巫女以外の何物も発見出来ないような仕掛けが施されていたにも拘らず、彼女はすぐに確信した。
「巫女様……」
彼女は恩人である黒巫女を名乗る女にこう切り出した。
「私は子を身籠ったようです」
彼女にそう、一聴すると余りにも突拍子もない告白をされた女は神妙な面持ちとなり、彼女に言葉を返す。
「貴女は男と一切触れ合っていないわぁ。にも拘わらず子を孕むなど、この世の摂理に反する事、在り得ぬ事態よぉ」
「はい、私もそう思うのですが……」
「つまり、貴女はこの世の理に反する力を身に付けたということ。私との契約により、元々持っていた力が変容し、予期せぬもう一つの力が開花したのかもねぇ」
臥龍飛鳥はこの時、一瞬だけ女の微笑みが不気味に見えたように思えたが、大恩ある彼女に対し失礼だ、気のせいであろうと思い直した。
「それで、如何いたしましょう……?」
「お腹の子は天の意思に任せましょう。尤も、若し産まれて来たとしても今のこの場所で貴女に育てろというのも酷な話だわぁ。私が預かり、然るべき処に送り届けてあげる」
「はい……有難うございます!」
彼女は余りの感謝に涙を流した。
何から何まで世話を焼いてくれる巫女様は何と素晴らしい御方なのだろうと感激極まりなかった。
「良い、飛鳥? 貴女のその力は、孰れ必ず希求される時が来るわぁ。今は唯その天命が下るのを、じっと待ち続けなさぁい。私達には永遠とも言える時があるから、いくら待っても待ち惚けということは無いわぁ」
「はい……!」
これが後に神聖大日本皇國の神皇・大智に六人の子を儲けさせる臥龍飛鳥の力が初めて発現した出来事である。
彼女はこの能力は天からの授かり物なのか、それとも天に背く禁断の穢れた力であるのか――今となってはそれは誰にも判らない。