日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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幕間十七『臥龍飛鳥』 上

 その女が生まれたのはまだ日本に元号が無かった時代である。

 彼女の母親は或(あ)る豪族の不義の娘で、認知されないまま奴(ぬ)婢(ひ)に落とされ、彼女自身もその身分を受け継いだ。

 その豪族は当時の朝廷でも有力な氏族だったが、仏教伝来を巡る政争に敗北し、財産の多くは対立氏族や後に建(こん)立(りゆう)される寺社に渡った。

 彼女は寺に寄贈された奴(ぬ)婢(ひ)の娘としてこの世に生を受けたのだ。

 

 しかし生まれつき奇妙な力を持っていた彼女は、仲間から気味悪がられて棄てられ、餓死寸前まで追い込まれていた。

 生前の母からは「我が一族祖(みをや)神(のかみ)の力が受け継がれたのだ」と聞かされていたが、己の出自については答えてもらえず、その「祖(みをや)神(のかみ)」が如(い)何(か)なる存在なのかも知らなかった。

 しかし実際、彼女は飲まず食わずにしてはあり得ないほど驚異的な日数を生存し続けていた。

 

 そんな彼女の許(もと)に「告(つげ)雪(ゆき)媛(ひめ)」こと後の貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)が現れたのは或る月夜のことだった。

 放っておけば屍(しかばね)と化すであろう、指一本動かせぬまま捨て置かれていた彼女の許に背の高い女が顕(あらわ)れたのである。

 女の装いは巫女(みこ)装束に似ていたが、その色合いは小袖を黒染めし、また袴(はかま)は実に見事な紫色であった。

 

「真なる日(ひの)神(かみ)の末(まつ)裔(えい)よ、あな哀しや……」

 

 彼女はその「黒い巫女」の美しき姿と甘い声に、天の遣いが舞い降りたのだと確信した。

 しかし声すら発せられず、ただ黙って女の言葉を聞いている他無かった。

 

「今の境遇が恨めしいと思うならばそれを強く念じ、私(あたくし)に伝えなさぁい。そうすれば黄(よも)泉(つ)戸(へ)喫(ぐひ)を与え、我が配下となる代わりに永遠にも等しい命を授けてあげるわぁ」

 

 女は動かせない彼女の手を握った。

 不思議な程に温(ぬく)もりを感じない、白く冷たい手だった。

 言葉を発せない彼女は天の助けと考え、万(ばん)感(かん)の思いを込めて全てを伝えようとした。

 暫(しばら)くすると女は顔を紅潮させながら本当に嬉(うれ)しそうに微(ほほ)笑(え)み、やや興奮を抑えるように彼女に告げた。

 

「よぉく解(わか)りました。貴女(あなた)はやはり素晴らしい……」

 

 気が付くと、彼女からは飢餓感や倦(けん)怠(たい)感(かん)、無力感といったあらゆる苦しみが消えていた。

 

「これは……?」

「一(ひと)先(ま)ず、飢えを恢(かい)復(ふく)させてあげたわぁ。今のままでは契りの証(あかし)を喰(く)らうことも出来ないでしょう」

「契りの証……?」

「ええ。先程も言った『黄(よも)泉(つ)戸(へ)喫(ぐひ)』よぉ。それを喰らえば、貴女(あなた)は老いることも、死ぬことも無くなるの。私(あたくし)の下で能(よ)く言うことを聞いている限りはねぇ……」

 

 月明かりに照らされた「黒い巫女」は宛(さなが)ら「闇の女神」であるように思えた。

 今、自分はこの女に手を差し伸べられ、救われようとしているのだ。

 

「巫女様の配下に……。私(わたくし)に何か出来ることが有るのでしょうか?」

「先程、貴女(あなた)の想(おも)いを受け取って解ったわぁ。どうやら貴女(あなた)、自分が何者の血を引いているか能く知らないでしょう? 教えてあげるわぁ」

 

 巫女は彼女を抱き起こし、南東の空を指し示す。

 

「貴女(あなた)は嘗(かつ)てあの空の向こうにある都で大(おお)連(むらじ)として権勢を振るった大豪族・物(もの)部(のべの)守(もり)屋(や)の曾(ひ)孫(まご)なのよぉ。それが海の向こうから来た教えを受(う)け容(い)れ、国の神々を蔑(ないがし)ろにしようという朝廷に抗(あらが)い、敗れてこの様な身分に落とされたのぉ」

「物(もの)部(のべ)……」

「そうよぉ。今から貴女(あなた)を都へ連れて行ってあげるわぁ。そこで私(あたくし)の言うことを聞いて一仕事してくれたら、本当の契りの証として『黄(よも)泉(つ)戸(へ)喫(ぐひ)』を食べさせてあげましょう。それは貴女(あなた)の先祖の恨みを晴らす意味もあるわぁ。やってくれるわよねぇ?」

 

 彼女は一瞬、女の笑顔を恐ろしく感じたが、自分を救ってくれた恩人である自称巫女を疑うまいと思い直し、この後一つの政変に乗じてとんでもない行為に及ぶ。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 期しくも彼女が「黒い巫女」と共に都へ辿(たど)り着(つ)いた時、自身の一族を没落に追いやった嘗ての敵対豪族本家が権力の座から追われようという事件があった。

 宮中で最高権力者となっていた息子・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(か)を討たれた男・蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(し)が邸宅に立(た)て籠(こも)っていた。

 彼女は蝦夷(えみし)を殺害して邸宅に火を放つように黒巫女から言い包められていた。

 後の歴史には「息子の死を受けて追い詰められ、最(も)早(はや)是(これ)迄(まで)と悟った父が自ら邸宅に火を放ち自害した」と記されることになる。

 

「よくやりました。仇(かたき)を討てたわねぇ……」

 

 黒巫女は全てを見通すような目で火を放った彼女に微笑みかけた。

 彼女は知る由も無かったが、黒巫女にとって蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(し)の暗殺などはどうでも良く、目的は別にあった。

 当時、蝦夷(えみし)の邸宅には朝廷に纏(まつ)わる多くの史書が蔵置されており、その焼失こそが真の目的であったのだ。

 実際、この時皇統譜の正統性を記したとされる史書『天皇記』が失われたとされている。

 

「では約束を守ってくれたお礼に、貴女(あなた)には正式な契りと新しい名を与えましょう」

 

 こうして彼女は「告(つげ)雪(ゆき)媛(ひめ)」を名(な)告(の)る黒巫女、後の貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)によって『黄(よも)泉(つ)戸(へ)喫(ぐひ)』を与えられ、「穢(え)詛(そ)禍(まが)終(つひ)」の契約を結ぶことになった。

 その折、新たに名(な)告(のり)るべきとして、腹心として機を待ち続ける「臥(が)龍(りゆう)」の姓、そして当時都が置かれたとされる地名に孰(いず)れ自分を飛(ひ)翔(しよう)させるという意味を込め「飛鳥(あすか)」の名を与えられた。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 その後、「臥(が)龍(りゆう)飛鳥(あすか)」は現在の京都に在る山の中に居を移した。

 そして永い永い時を俗世から離れて過ごすことになる。

 

 しかし、そんな中で彼女はある異変に襲われた。

 奇妙な事であったが、彼女は曾(そう)祖(そ)父(ふ)の夢を見たのだ。

 

『我が血を引く娘よ、心して聴くが良い』

 

 彼女にはどういう訳か、それが曾祖父・物(もの)部(のべの)守(もり)屋(や)だと思えてならなかった。

 父親の顔すら知らないにも拘(かか)わらず、その男のことは生まれた時から知っている気がしたのだ。

 

『我らの地に海の向こうから入ってきた教えを帝(みかど)すらも敬う始末。嘆かわしいことだ。我らが崇(あが)め奉(たてまつ)るべきは我らの神々以外に無いというのに……。我には見える。このままでは孰れ帝の誰も彼もが神勅の継承者という本質を忘れ、彼奴(きやつ)らの教えに帰(き)依(え)して憚(はばか)らぬ日が来るだろう。更には我らの神々を彼奴らに売り渡し、皇(すめら)祖(みをや)すらも貶(おとし)められる』

 

 男の眉(み)間(けん)に皺(しわ)が寄り、声には次第に怒りと憎しみが籠(こも)っていく。

 

『ええい、口惜しや! 我らの神を、御(み)祖(をや)を、帝を、仏に救われねばならぬ罪に穢(けが)れた者共と謂(いわ)れ無く辱められるのだぞ! 許せる訳が無い! これだから我らの国に我らの神以外在ってはならぬのだ! 我が敗れさえしなければ今も正しく我らの国の神々だけが敬われていた筈(はず)だ! 我が氏族の力が足りなかったばかりに! 日(ひの)神(かみ)の一柱・饒(にぎ)速(はや)日(ひの)命(みこと)の血を引きながら、不(ふ)甲(が)斐(い)無(な)いことこの上無し!』

 

 饒(にぎ)速(はや)日(ひの)命(みこと)――神(じん)武(む)東征の折に最大の敵となった登(と)美(み)能(の)長(なが)髄(すね)彦(ひこ)が仕えたとされる天津神で、後に天皇に恭順している。

 記紀に於(お)いて、饒(にぎ)速(はや)日(ひ)が日(ひの)神(かみ)に連なる一柱であることは否定されておらず、また文献によっては天孫・瓊(に)瓊(に)杵(ぎの)尊(みこと)の兄とされることもある。

 そして、物(もの)部(のべ)氏は饒(にぎ)速(はや)日(ひ)の子孫であるとされている。

 守(もり)屋(や)が廃仏に拘(こだわ)ったのは、もしかするとこの様な背景もあったのかも知れない。

 

『認めぬ、仏の教えなど絶対に認めぬ! 良いか、我が血を引く娘! 我らは彼奴らを我が国から再び追い出さなければならん! その為には大いなる、天(てん)地(ち)開(かい)闢(びゃく)以(この)来(かた)比類無く巨(おお)しき、新たなる神が必要だ! ならば我が血を引く娘よ、お前達が生むのだ!』

 

 自分が神を生む――それは余りにも荒唐無稽な話だった。

 尤(もつと)も、斯(か)様(よう)な夢を見ること自体が既に荒唐無稽と言えばそれまでである。

 しかし男は凄(すさ)まじい情念の籠った眼(め)で訴え続ける。

 

『何代要しても構わぬ! 帝が在る限り、我らの国は生き続ける! 悠久の時の果てに、必ず生み出すのだ! 仏の教えなどを崇め奉り広めようという者共になど、凡(およ)そ考えることも及びも付かぬ程に遠大無窮なる究極の神を! 必ずや我らの国に純潔を取り戻せ!』

 

 夢はその言葉で途絶えた。

 朝起きた彼女の寝(しん)衣(い)は汗でぐっしょりと濡(ぬ)れており、覚醒と同時に彼女は巫女を名乗る女に命を救われた時以来の途(と)轍(てつ)もない安(あん)堵(ど)感(かん)を覚えた。

 だが、程なくして彼女は体に違和感を覚えた。

 彼女が籠っていた霊山の洞穴には男子はおろか黒巫女以外の何物も発見出来ないような仕掛けが施されていたにも拘(かかわ)らず、彼女はすぐに確信した。

 

「巫女様……」

 

 彼女は恩人である黒巫女を名乗る女にこう切り出した。

 

「私(わたくし)は子を身(み)籠(ごも)ったようです」

 

 彼女にそう、一聴すると余りにも突拍子もない告白をされた女は神妙な面持ちとなり、彼女に言葉を返す。

 

「貴女(あなた)は男と一切触れ合っていないわぁ。にも拘わらず子を孕(はら)むなど、この世の摂理に反する事、在り得ぬ事態よぉ」

「はい、私(わたくし)もそう思うのですが……」

「つまり、貴女(あなた)はこの世の理に反する力を身に付けたということ。私(あたくし)との契約により、元々持っていた力が変容し、予期せぬもう一つの力が開花したのかもねぇ」

 

 臥(が)龍(りゆう)飛鳥(あすか)はこの時、一瞬だけ女の微笑みが不気味に見えたように思えたが、大恩ある彼女に対し失礼だ、気のせいであろうと思い直した。

 

「それで、如(いか)何(が)いたしましょう……?」

「お腹(なか)の子は天の意思に任せましょう。尤も、若(も)し産まれて来たとしても今のこの場所で貴女(あなた)に育てろというのも酷な話だわぁ。私(あたくし)が預かり、然(しか)るべき処(ところ)に送り届けてあげる」

「はい……有難うございます!」

 

 彼女は余りの感謝に涙を流した。

 何から何まで世話を焼いてくれる巫女様は何と素晴らしい御(お)方(かた)なのだろうと感激極まりなかった。

 

「良い、飛鳥(あすか)? 貴女(あなた)のその力は、孰れ必ず希求される時が来るわぁ。今は唯(ただ)その天命が下るのを、じっと待ち続けなさぁい。私(あたくし)達には永遠とも言える時があるから、いくら待っても待(ま)ち惚(ぼう)けということは無いわぁ」

「はい……!」

 

 これが後に神(しん)聖(せい)大(だい)日(につ)本(ぽん)皇(こう)國(こく)の神(じん)皇(のう)・大(だい)智(ち)に六人の子を儲けさせる臥(が)龍(りゆう)飛鳥(あすか)の力が初めて発現した出来事である。

 彼女はこの能力は天からの授かり物なのか、それとも天に背く禁断の穢れた力であるのか――今となってはそれは誰にも判(わか)らない。

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