その後、黒巫女は生まれた子を引き取ると、「子を育ての親に届ける序に、未だ見ぬ恵まれぬ者を救う旅に出る」と言い残し彼女の許を去った。
彼女はその後も百年、二百年、何百年と洞穴の中で生き続け、巫女の帰りを待ち続けた。
余りにも永過ぎる時を孤独に過ごせば気が狂いそうなものだが、彼女の精神が限界を迎えそうになる度に「曾祖父の夢」が彼女を襲い、彼女を身籠らせた。
彼女は孤独を紛らわすために全てを受け容れ、子を儲け続けた。
子を孕めば、黒巫女が必ず帰って来たからだ。
産んだ子らは皆彼女の許を離れ、その時々の里親に届けられたと聞かされていた。
ただその中には動物との間に産まれた奇妙な妖怪の様な子もいた。
流石にこれには一抹の不安を覚えざるを得なかった。
そして時代の移り変わりなど何一つ知らぬまま実に千三百年の時が過ぎようとしていた。
或る日のこと、それまでとは違い、身籠っていない彼女の許に例の黒巫女が帰って来た。
これまでと違い、異国の装束なのか、奇妙な服を身に纏っていた。
黒を基調としているのは同じだが、異例のことだらけで、彼女は激しい不安に襲われていた。
「飛鳥、遂に時が来たわぁ。直ぐに此処から出て時空を越えた新天地へと共にたびだちましょう」
更に違っていたのは、巫女が若い男を伴っていたことだ。
彼もまた見たことの無い、皺一つ無く固そうな生地で仕立てられた服を着ていた。
「あの、巫女様……。其方の御方は……?」
「ああ、彼は……」
「鬼獄魅三郎と申します。貴女と同じく、貴龍院皓雪様に救って頂いた者ですよ」
「貴龍院……皓雪……?」
男が名告と素性語りをすると、女は見たことも無いような険悪な表情で男を睨みつけた。
何やら様子がおかしい。
いつもの優しい巫女様ではない。
若しやこの男に何か誑かされているのではないか――彼女はそう直感した。
「巫女様、私に此処を出よ、というのは確かに天の思し召しなのですか? 其方の方とは何か関係があるのですか? それに、貴龍院皓雪とは一体……」
此処へ来て自分を妄信していた臥龍飛鳥からまさかの疑いの眼を向けられ、貴龍院は頭を抱えて天井を見上げた。
「余計な事を言い過ぎるのは貴方の悪い癖の様ねぇ……」
「申し訳御座いません、媛様……」
「仕方が無いわねぇ。この際だから、全てお話ししましょうか。何故私が貴女を拾ったのか、帝の血筋とこの私の旧きより続く因縁、その全てを……」
鬼獄魅三郎――後の閏閒三入が貴龍院皓雪の素性を他の神瀛帯熾天王より詳細に知っていたのは、この時彼女自身の口から語られたことによる。
臥龍飛鳥は話を聴く内に見る見る青褪めていき、話が終わる頃には俯いたまま震えるばかりとなっていた。
「飛鳥、貴女の血筋、物部氏は遡るとこの大和の地で元々崇め奉られていた日神・饒速日命に辿り着くわぁ。即ち、あの日向から来た皇族に恭順を余儀なくされた本来の統治者よぉ。そして子孫である貴女の曾御爺様もまた、この地に伝わる神の信仰よりも天竺より来る仏の教えに傾倒する皇族により処された。だからこそ、私は貴方を誰よりも信頼に値する者として迎え入れたの。解るでしょう? 旧き神々への信仰を取り戻す為に、この地から帝の血筋は必ず除かねばならない……」
脇では男もまた顔を蒼くしていた。
彼もまた現代の帝を強く憎み、それ故に自称『告雪媛』、またの名を告雪戸畔、そして現代の名を貴龍院皓雪と道を共にすることを選んだのだろう。
だが、彼女は違う。
貴龍院に選ばれた者達の中で臥龍飛鳥だけは、帝に対する憎しみなど持ち合わせていなかった。
何故ならば彼女が憎んだのはあくまで蘇我馬子やその子らであり、帝の血筋は寧ろそれを彼女の時代に除いたのである。
「どうしても、私は行かねばなりませんか……?」
震える声を絞り出すように、彼女は貴龍院に尋ねた。
「私は貴女に返し切れないほどの大きな大きな恩があります。ですから、どうしても、と仰るのであれば最後までこの身を共にすることも吝かではありません……」
しかし、本心では貴龍院を信じる事など最早出来なかった。
これ程大事な目的を千三百年もの長きに亘り隠し続けた女の事を心の底から信じ切れという方が無茶な話である。
だが、彼女は貴龍院を裏切ることもまたそれ以上に出来なかった。
「巫女様、どうかいつものように笑ってください。いつもの巫女様に戻って頂けるのならば、私はこれまで通り貴女をお慕い申し上げます。この身を貴女の望みに何なりとお使いくださいませ! ですから、どうかたった一つの私の願いをお聞き入れください!」
臥龍飛鳥は切実極まりない想いを貴龍院に洗い浚い吐き出した。
しかし、返された貴龍院の視線は極めて冷たいものだった。
貴龍院は溜息交じりに吐き捨てる。
「何処までも面倒臭い娘……。これも全て貴方のせいよ」
「申し訳御座いません、媛様……」
「この娘が身籠る度に態々こんな狭苦しい洞穴に戻る破目になり、付きっ切りで世話をして産んだ子供の処分までさせられて……、その苦労を返して欲しいわね……」
貴龍院の言葉に、彼女は自分の耳を疑った。
それはどうしようもなく突き付けられた現実だった。
そう、彼女が慕い続けた「優しい巫女様」など最初から居なかったのだ。
思い返せば、最初に蘇我蝦夷を殺させ人の多くいる邸宅に火を放たせた時点で、彼女が人命を顧みない外道であることは明らかな筈だった。
それでも、彼女にとって救世主だった「巫女様」は余りにも眩しかったのだ。
その眩しさが、実に千三百年もの間彼女を盲目にさせ続けた。
いつだったか、彼女は貴龍院から「自分には尋常ならざる眼があり、それによって救いを求める者が見えるのだ」と教えられた。
貴龍院は確かにその力で彼女を救いはしたが、同時に自身の行く悪の路へと誘おうとしていたのだ。
「まあ、良いわ……」
貴龍院は彼女に手を翳した。
「もう充分、貴女の力は試された。貸していたものを返してもらう、それで手を打ちましょう……」
「え?」
どういうことか、と問いかける前に臥龍飛鳥は吐血した。
「あ、え? 巫女様……? 巫女様……!?」
困惑の表情を浮かべながら崩れ落ちる彼女の体を、貴龍院は冷たく見降ろしていた。
今際の中、彼女は考える。
自分の人生は一体何だったのか。
何の為に生まれてきて、この女に付き従って生きてきたのか。
産み落とした子供達さえ、無残に処分されてしまって……。
「どう……して……」
それを最期に、臥龍飛鳥は死んだ。
土塊に変わり果てた彼女の身体から、無数の蜘蛛の子が走り去っていく。
貴龍院は崩れゆく臥龍飛鳥の残骸から光り輝く何かを拾い上げた。
「私の真の力はあらゆるものの生と死の境界線を自由に操作できる……。果て無き彼方に追いやることも出来れば、今この時に振り被らせることも出来る。貴方も能く覚えておくことねぇ……」
「肝に銘じます。しかし媛様、それは……?」
鬼獄は貴龍院が拾い上げた光る何かが気になるようだ。
これこそ、貴龍院が臥龍飛鳥を求めた理由だった。
「先刻も言った通り、私はあらゆるものの生と死を操ることが出来る。本人が死んだ後でも、卵巣だけを生かし卵子を大量に生成させることも……」
「つまりそれは……」
「彼女の卵子、どれほど神の摂理に背く様な子でも産み落とすことが出来る彼女の力そのものよ。これさえあれば、彼女自身は別に要らない」
「成程……。しかしそれでは、今の今まで生かし勧誘せずとも良かったのでは?」
「卵子を私自身の力で生かし続けるのも骨でしょう? だから、出来れば彼女自身に生きていて貰った方が都合が良かったのよぉ。でも、彼女は私を信じられなくなったわぁ。あれだけ世話を焼かせておいてまだ一々好い顔をしろと要求してきたのも癪に障ったし、此処で切り捨てることにしたのよぉ」
斯くして、貴龍院皓雪は臥龍飛鳥の卵子という、後に神聖大日本皇國神皇に六人の子女を設けさせる至宝を手にした。
そして目論見通り、神皇に子が出来ぬと悩む皇國に「臥龍飛鳥」名義で提供した。
彼女の目当ては、神皇ですら叶えられぬ彼女の望みを実現できる力を持った子を神皇の世継として生み出すことにあった。
それは、第一皇子・獅乃神叡智の誕生によって早くも叶い、自身の眼で視た彼女は大喜びで神皇の許へと馳せ参じたという訳である。
六人の皇子皇女の母親である臥龍飛鳥の辿った奇妙で悲惨な運命を知る者は、日本国には勿論の事、神聖大日本皇國にも最早貴龍院皓雪と閏閒三入の他に居ない。
扨て、此処に一つ、獅乃神叡智が何故此程までに強大無比な「絶対強者」として生まれてきたのか、その理由の一端がある。
臥龍飛鳥は夢の中でこう託けられている。
『何代要しても構わぬ! 帝がある限り、我らの国は生き続ける! 悠久の時の果てに、必ず生み出すのだ! 仏の教えなどを崇め奉り広めようという者達になど、凡そ考えることも及びも付かぬ程に遠大無窮なる究極の神を! 必ずや我らの国に純潔を取り戻せ!』
彼は本当に物部守屋だったのか。
仏教の世界観を以てしても、想像すら及ばない「遠大無窮なる神」――それが何を意味するのか、果たして彼は知っていたのだろうか。
彼はその悲願が叶うまでに要する時として、どれ程の歳月を想定していたのだろうか。
臥龍飛鳥は「神の領域」に達した神皇との間に、漸くその目的に適う「究極の神」を生み出してしまったのかも知れない。
そしてその神・獅乃神叡智は今、日本の純潔を取り戻す為に他の汎ゆる人間・文化・歴史・思想……そして信仰を鏖殺しようとしている。