不思議な雰囲気の女だった。
彼女だけ、この世界から切り取られているかの様に、人との関わりから絶たれていた――そんな空気を纏っていた。
その麗真魅弓という女が何故自分に近付いてきたのか、その答えが廣坂には解る気がした。
『貴方は何処か……私と同じ雰囲気を感じるんです』
『貴方は御自身の過去に罪悪感と後悔を抱いている……』
そういうことか――廣坂は黙って酒に口を付ける。
つまり、彼女もまた大きな罪を犯したのだ。
その罪が、他人と交わること、繋がることを許さない。
「私は……息子を棄てました」
暫しの後、魅弓が沈黙を破って語り始めた。
「棄てたってのはまた随分な言い様ですな」
この時、廣坂は少々下衆なことを考えてしまっていた。
成程、子供と離れ離れになったというのは自分と似ているかも知れない。
だが、それがどれ程の罪だというのか。
言っては難だが、子供を手放した過去を重く受け止めているだけではないのか。
果たしてその罪は、自分の罪と天秤に乗せる程のものなのか。
呉々も、虚仮威しでがっかりさせてくれるなよ。
「とはいえ、そう思っているのは案外貴女だけかも知れませんよ?」
「確かに、貴方の言うことも一理あるかも知れません」
意外な答えだった。
普通、罪悪感に対する慰めの言葉をこうも簡単に受け容れるだろうか。
「私は息子を手放さざるを得なかった、それそのものは確かに、棄てたとまでは言い切れないかも知れない」
「どういうことです?」
「手放さざるを得なかった、その理由こそが私の罪なのです」
廣坂は眉を顰めた。
子供と離れ離れになったことより、そうなるに至った自分の所業こそが罪――奇妙な重なりを感じずにはいられない。
嫌な気分だった。
しかし、そんな彼に追い打ちを掛ける様に、彼女は思いも懸けないことを言いだした。
「貴方もそうなのでしょう。貴方は許されざる所業の因果により、我が子を手放した……」
「なっ!?」
廣坂は勢い良く立ち上がる。
椅子を倒し、そしてその音以上の剣幕を魅弓にぶつけずにはいられなかった。
「なんなんだ貴方! 一体、俺の何を知って……!」
「分かるんです、昔から色々なことが。私にはそういう力があるんです」
「ふ、ふざけたことを……!」
「見せましょう、貴方には特別に……」
その瞬間、廣坂と魅弓だけを残して世界が暗転した。
闇の中で唯二人、静寂の中に置き去りにされたかの様だ。
「な、なんだこれは!?」
「これが私の能力。私の過去や現在、更にはそのもしもの可能性を垣間見、そして共有することが出来る」
「の、能力だって?」
信じられない事態だった。
何が起きているのか解らない。
しかし、魅弓が嘘を言っていないことは解る。
何故なら、魅弓の背後に一つの映像が流れているからだ。
更に、自らの背後にも。
自分が背にしているのは、まさに自分が元妻・岬守湊に犯した所業だった。
「み、見るな……!」
廣坂は狼狽を禁じ得なかった。
「頼む、見ないでくれ! 見たくもない! やめろ、やめてくれ!」
「それは違います」
魅弓が廣坂に言い宥めてくる。
「私は貴方の過去を見てはいない。唯、罪の意識を抱えているが判るだけ。そして、自分の過去を見続けてきたのは貴方自身。それが罪の意識というものです」
「うぅぅ……」
「自分の過去を見続けた眼には独特の闇が宿ります。貴方も屹度、私の眼にそれを見たでしょう」
廣坂は憔悴の果てに魅弓の方へと振り向いた。
「そして、今日貴方と私が出会ったのは何かの縁だと思っています。貴方には私の罪を見せるべきだと、私の力がそう囁くのを聞きました。ですから、お見せしましょう。私が何をしてしまったのか……」
魅弓の背後に移っているのは、家族の確執だった。
彼女には弟が居た。
弟の名は麗真魅弦、つまり父親は麗真魅射である。
二人は父親から秘密政治結社「崇神會」の後継者として思想を吹き込まれ、戦う術を叩き込まれたが、そんな父に彼女は反発していた。
「そして、十八の時でした。私は父の配下から一部の者達を引き連れて離脱しました。離脱した者達は父の組織の分派として『廻天派』を結成した」
「それが……どうしたってんだ?」
「廻天派は崇神會の本流とは比較にならない、邪悪なテロリストに成り果てたのです。大勢の人間が彼らのテロに、そして本流との『内ゲバ』に巻き込まれて死にました。私の愛した人も……」
一人の青年の死に様が大きく映し出された。
これは屹度魅弓の記憶であり、他に何も見えない程に彼だけを見ていたのだろう。
この大きさは彼女の後悔の大きさそのものなのかも知れない。
「私は……息子の父親を……殺してしまったんです……」
「そう……か……」
廣坂は胸が締め付けられる様だった。
未来の息子の母親を自殺未遂に追い込んだ自分も同じ様なものだ。
ただ偶々、相手が助かっただけに過ぎない。
互いの罪を比べようと、少しでも過ってしまった自分が恥ずかしい。
いや、既にこれ以上無く恥ずかしい存在だったか。
いつの間にか、周囲が許の居酒屋に戻っていた。
夢にしては現実感の強い体験だった。
「背負っていくしかないのか……俺達は、罪を……」
「かも知れません」
廣坂は溜息を吐くと、椅子を立て直して再び腰掛けた。
「過去は変えられない。時計は左回りでも、犯した罪は……」
「過去を変えたとしても、やっちまった俺はずっと残り続けるんだ。あいつが、息子が許しても! 誰だろうが、神様だろうがそれだけは変えられやしない!」
「許されることに意味など無い、と……?」
「ねえさ! 在る訳がない! 俺は俺なんだ! 罪を犯した俺だ! あの時から! 今でも! これからも! 死ぬまで! 死んだ後も!」
廣坂は勢い良く酒を飲み干し、コップで食卓を叩いた。
「っと、すみません、つい……」
しまった――彼はつい耐え切れず、罪悪感を酷い言葉にして吐き出してしまった。
隣に居る人間の事情も気持ちも考えず、軽率な発言だった。
「相手のことを何も考えちゃいない。こういうところが碌で無しなんだ、俺は……」
「私も……そうです。自分一人で罪を抱え込むのが辛くて、貴方に八つ当たりをしてしまったのかも知れない……」
八つ当たり――廣坂の吐露も同じ様なものだった。
結局の所、彼には、彼女には、苦しむ資格すら無いのだろう。
重い沈黙が続く。
廣坂には次の言葉が見付からなかった。
全て無かったことにして、消えてしまいたい。
一層、今から彼女を誘ってみるか。
もしかすると、同じ気持ちかも知れない。
二人が出会ったのは、死に場所を求める心に引き合わされたのかも知れない。
廣坂が魅弓に声を掛けようとした、その時だった。
「私は何度も、自分の過去から逃げようとしました」
「俺もだよ……」
そして、何度も思い知らされた。
逃げ場など無いのだ、自分から逃げることは出来ないのだ。
「先程、私には『もしもの可能性を見る』ことも出来ると言いました」
「つまり、自分がやらかさなかったらどうなってたか、ってことか?」
「ええ。その先に良い未来があれば、それだけで救われる気がしたんです。でも駄目でした。都合の悪い過去を変えたところで、理想の未来など在りはしなかった……」
「そうか……」
酒を飲み干してしまった廣坂は、瓶から自分のコップに注ぎ直した。
そして、魅弓の分も。
「気が利かなかったな。貴女も気を紛らわした方が良い」
「ええ……」
魅弓は少量飲んだ。
「いつだったか、こんなことを聞いたことがあります。時の流れ、歴史には無数の可能性があり、可能性の数だけ世界は分岐し得るのだと。しかし同時に、近すぎる世界は同時に存在し得ない。実体化出来るのは、遠くかけ離れた世界線だけのようです」
「どういう意味だ?」
「日本と皇國の様に、異なる歴史を歩んだ世界があるとします。しかし、二つの世界には同じ人間が居ないんです。つまり私達はこの世界、この歴史上にしか存在しない」
「つまり……罪を犯さなかった俺や貴女は何処にも居ない、あり得ないってことか」
「ええ、残念ながら……」
「考えようによっちゃ、俺があいつを陥れて、結婚して、子供が生まれる、それ以外の可能性は無いってことか。俺が居て息子が居ない世界も存在しない」
「そうですね……」
「息子にとっちゃ最悪な話だ。こんな俺の最低の罪とセットにされるなんて」
廣坂は酒を一気に飲み干した。
「しかし、御陰で判ったことがある」
「なんでしょう?」
「噂が本当なら、息子は真当に育った、立派に育った。そうならなかった息子も存在しない。ひょっとすると、こんな俺に救いがあるとすれば、その事実だけかもな……」
「成程……」
初めて、魅弓の表情に微かな笑みが浮かんだ。
「確かに……弓矢も真面な人間に育ってくれました。こんな女の息子なのに。父親の遺伝かも知れませんが……」
「願わくはあいつらだけは、幸せになってほしいもんだ……」
廣坂は魅弓と出会って、一つの確信を得た。
屹度、自分には幸せな未来などもう訪れない。
しかし、誰かの幸せを願うことは、それだけは今も許されている。
「貴女、これからどうするね?」
「さあ、どうしましょう? 御一緒しても構いませんが?」
「それはどっちの意味かね?」
魅弓は廣坂の問いに厭世的な微笑みを返した。
そうか――廣坂には解った。
やはり魅弓もまた同じ気持ちだったのだ。
共感のある美しい女――共に暗黒の海へ船を出すには、悪くない相手だ。
(ただ、このまますぐに出ちまうのも、な……)
廣坂は考える。
もう少しだけ待ってみたい。
微かな未練が消えるまで。
「どうせなら、もう少しゆっくりしていきませんか? せめて今の世の中が落ち着くまで……」
「落ち着くでしょうか?」
「落ち着きますよ。でなければ、困るじゃありませんか」
噂が本当なら、世界の行く末は息子の運命と重なっている。
だったらもう少し、信じて待ってみよう。
心を決めるのはそれからでも遅くはない。
「そうですね……」
その後、二人は来るべき時の為に、連絡先を交換して別れた。