貴龍院皓雪は急ぎ足で「皇祖皇宗の廻廊」入り口の彫刻前まで辿り着いた。
榊御門と菊屋敷では航と魅琴の足止めにもならないだろうとは予測していたが、それでも僅かな衝突さえ生じればそのどさくさに紛れて航と魅琴を殺害することなど訳は無い――その能力が貴龍院にはある。
だが、現実はそんな彼女に厳しかった。
榊御門と菊屋敷は貴龍院が到着した瞬間、介入する間もなく殴り飛ばされて気絶してしまったのだ。
(何やってるのよぉ! どいつもこいつも、本当に使えないわぁ!)
貴龍院は日本国側第十の天皇像「十代・崇神天皇・御間城入彦尊」の彫刻の前で焦燥と苛立ちに激しく歯噛みしていた。
皮肉にも、これより前の二代から九代の八天皇こそ、彼女が崇神帝の御代に犯した所業により事績の口伝が失われた「欠史八代」である。
(本当、私の周りの男共は役立たずばかり。いつもいつも、私に余計な仕事を残して居なくなる……)
内心で榊御門と菊屋敷のみならず、今まで消えていった男達を恨みがましく罵倒する貴龍院であったが、彼女はふと気が付いた。
そう、「尋常ならざる眼」を持つ彼女は当然すぐに見付けてしまう。
すぐ近くの像の陰、雲野兄妹がその身を隠していたのだ。
(あの餓鬼共は……)
凡そ世界の命運を懸けた死闘の場に似合わない、無力な幼い子供の姿――しかし、彼女は知っていた。
この双子は先代神皇の複製人間で、自ら戦う力は無いものの強大な神為を備えており、他者に貸し与えたり融合することでその相手に超常の補助を与えるのだ。
貴龍院は正に、幽鷹が魅琴と融合して先代神皇の撃破を助けたところをその「尋常ならざる眼」で見届けていた。
そして必然、二人がこの場に居る意味をも察する。
(そうか。今の神皇陛下に勝てる訳が無いのにどう戦うつもりなのかと思っていたけれど、あの餓鬼共の力を借りるつもりだったのねぇ。そして、陛下からはあの二人について特にどうしろとは言われていないわぁ……)
貴龍院は悪辣に口角を上げた。
今なら誰にも気付かれていない――つまり人知れず双子を殺し、航と魅琴の望みを絶つことが出来る。
(いや、でもただ殺すのは駄目だわぁ。そこから肝心の二人を殺す理由を捏ち上げないと。希望を失って自害したことにすれば良い? いやいや、殺すばかりが手段じゃないわぁ。死に掛けの状態まで追い込んで、取引を持ち掛ける。あの二人の命と餓鬼共を交換条件にする。でも待って? あいつらって餓鬼共のことも巻き添えに死ぬこと前提で来ているんだっけ? じゃあこれも駄目かしらぁ?)
思い掛けず転がり込んだ好機を前に、貴龍院は延々「ああでもない、こうでもない」と悩み続けていた。
彼女は今、雲野兄妹を利用するという一つの手段に拘泥し、抜け出せなくなっている。
折角「尋常ならざる眼」を持ちながら、時折とんでもない視野狭窄に陥ってしまう――もしかするとこれは、彼女が二千七百年もの間日本を滅ぼせない原因となっている悪癖なのかも知れない。
思えば彼女は「獅乃神叡智を利用して日本を滅ぼす」という手段に拘ってしまったが為に今の状況に迷い込んでしまったのだ。
(これは天啓よぉ、私が正しくこの世界の御媛様に返り咲く為の、そうに決まっているわぁ。なんとか、なんとかこの発見を生かさないとぉ……)
貴龍院の思考回路には「この方法は筋が悪いかも知れない」という発想が無かった。
要するに、損切りが出来ない。
延々と思考の泥沼に填まり込んでしまう。
そして、残念ながら時間はいつまでも待ってくれない。
「あっ……!」
航が貴龍院に気が付いて声を上げた。
魅琴の視線も同じく此方を向く。
「あら、久し振りじゃない。自らお出ましという訳ね、貴龍院皓雪」
「くっ……!」
航と魅琴に見つかって動揺する貴龍院。
その隙に、幽鷹と兎黄泉も再び航と魅琴の陰に隠れてしまう。
貴龍院の苛立ちは一気に膨れ上がった。
(なんなのよぉ! もっとゆっくり考えさせなさいよ、もう!)
貴龍院は腰の刀に意識を向けた。
最悪、相手から仕掛けてきたことにすれば言い訳は立つ。
理由さえ付けられれば、貴龍院には相手を確実に殺す能力があるのだ。
(来るなら来なさぁい。私は今までの雑魚共とは違う、不死身なんだからぁ。仕掛けてきた瞬間、貴方達は終わりよぉ)
二千七百年もの間、日本の歴史の裏で暗躍してきた黒幕――それを可能にしてきた貴龍院の恐るべき能力とは、自分を含めた人の生と死の境界線を操るというものだ。
つまり、自分を含めて生かしたいと思う相手は何処までも生かすことが出来、また殺したいと思う相手は好きな時に殺せる。
ただ制約があるとすれば、神皇や皇族といった圧倒的上位者には通用しないこと、そして神皇に睨まれている以上その能力を自由に行使する訳には行かないことだった。
「こいつが全てを裏から操っていた黒幕・貴龍院皓雪か!」
魅琴は勿論、正体を知った航もまた貴龍院を警戒して自分からは仕掛けてこない。
である以上、貴龍院の方も手を出すことが出来ないでいた。
(早く来なさいよぉぉっ……!)
貴龍院は腰の刀に手を添え、指で鍔を押し上げる。
苛立ちの余り額に青筋を浮かばせる彼女は、後少し焦らされれば錯乱して抜刀してしまいそうな趣だった。
航と魅琴は一歩、また一歩と貴龍院に迫る。
張り詰めた空気は限界まで追い込まれようとしていた。
(もう良いわぁ、機序なんて後でどうとでも誤魔化せば良い! 兎に角戦いになれば此方のもの! 私から皇后の座を奪おうとするこいつらのことは殺してやらなきゃ収まらないわぁ!)
遂に貴龍院が刀を抜いた、その時だった。
『穢詛禍終・深膿』
突如、対峙する両者の間に黒い靄が現われた。
この靄を貴龍院は知っている。
「三入君……!」
貴龍院は歓喜に口角を歪み上げた。
靄が航と魅琴を一気に包み込む。
これは神瀛帯熾天王の一人、「持国天」閏閒三入が作り上げる異空間の入り口なのだ。
宇宙空間で為動機神体の戦闘に敗れ、壜級為動機神体・トミノナガスネヒコごと皇級為動機神体・カムヤマトイワレビコに一刀両断された閏閒は、その後復活して自らの異空間に逃れたのだろう。
『媛様、此処は儂にお任せください。儂の暗黒空間に閉じ込めてしまえば此方の物で御座いましょう』
「遅いわよ。でも、能くやったわ。流石、私の最も優秀な同志ね」
今まで散々罵倒しておいてこの掌返し――調子が良いとはこのことである。
しかし、確かにこれは貴龍院にとって奇跡の大逆転である。
閏閒の暗黒空間は彼の許可なしに出入り出来ない。
つまり、彼の言うとおりに閉じ込めさえすれば航と魅琴にはどうすることも出来ないのだ。
『くっ! 魅琴!』
『航、何をっ……!』
だが、少々様子がおかしい。
靄が消える寸前、魅琴だけが弾かれる様に飛び出たのだ。
彼女はそのまま、宙返りして足から着地した。
「航……私を突き飛ばすなんて、後で覚えていなさい……」
魅琴は立腹した様子で消え行く靄を見上げていた。
どうやら二人は分断され、航だけが閏閒の異空間に囚われたらしい。
「少し褒めたらこれとは、やっぱり使えないわねぇ……」
貴龍院は既に抜刀していた刀を構える。
「まあ良いわ。貴方をこの手で斬り殺せるなら、それはそれで一興、都合が良いわぁ」
「大きく出たわね。お前如きが私を斬るだなんて」
取り残された魅琴と、怒り心頭の貴龍院の戦いが幕を開けようとしていた。
⦿⦿⦿
航・幽鷹・兎黄泉の三人は闇の中に引き摺り込まれた。
周囲には茫々と照る篝火が焚かれ、僅かな近傍をどうにか視認することが出来る。
そんな状況下で、彼らの目の前には猫面を付け、旧日本軍の軍服の上に外套を纏った男が立っていた。
長身で逞しい体付きの、如何にも軍人と言った様相の男だ。
「閏閒……三入……!」
航はこの猫面をずっと知っていた。
高校襲撃の頃からの、因縁の相手だ。
「先刻はよくも儂を殺してくれたな」
閏閒はゆっくりと猫面を外す。
その下からは、これまでの彼とは全く違う若い男の顔が顕れた。
端正とも不気味とも、精悍とも悪辣とも取れる、そんな顔付きである。
それは正に、嘗て麗真家の写真に見た魅琴の曾祖父・鬼獄魅三郎そのものだった。
「他の方々と違い、儂が死ぬのは初めてだ。御陰で新しい、若い体に入れ替わった。成程、媛様の穢詛禍終による死と再生とはこの様な感覚なのかと、少しばかり感動したぞ」
白い手袋を嵌めた手が猫面を力強く握り潰した。
若く覇気溢れる肉体の力を誇示しているのだろう。
雲野兄妹は航の陰に隠れる。
勿論、今更この程度で動じる航ではなかった。
「へえ、そりゃ良かったな。で、礼に何かくれるのか? 出来れば此処から出してもらえると有難いんだがな」
閏閒の顔から笑みが消えた。
「自分が何を言っているのか解っておるのか? 察しの通り、この空間からは儂の許可が無い限り出入りすることは不可能。つまり、貴様はどの道死ぬまでこの場所に閉じ込められるしか無いのだ」
「そうでもないさ」
航は右腕にカムヤマトイワレヒコの光線砲ユニットを形成した。
そして素早く、閏閒の口の中を撃ち抜く。
「ゴバッ!?」
「だったらお前をぶちのめして、外へ出る許可を出させれば良い。簡単だろ?」
そう、航は実を言うとこういう暴力に物を言わせた強硬手段を選択肢から除外しない。
嘗て「館の主をとっちめて狼藉を不問にさせてしまおう」という、正気とは思えない展望で甲公爵邸に不法侵入して暴れ回ったことがある。
また、不当な暴力に脅かされる第三者を目撃した時は、考えるよりも先に体が動いて助けに入ってしまう。
優男風な印象とは裏腹に、航はそういう過激な男だった。
「ククク……」
しかし、閏閒は込み上げる様に嘲笑う。
彼は貴龍院の穢詛禍終で不死身の力を得ている。
仮令致命傷であろうと、再生にはそれ程時間が掛からないのだ。
「この儂に許可を出させるとは、面白い冗談だ」
閏閒は手袋で口を拭うと、見せ付ける様に指を鳴らした。
その瞬間、航の周囲を大量の弐級・参級為動機神体が取り囲む。
弐級はどこかで見たことがある型式だ。
「ふはははは! 儂の真骨頂は現代兵器を自在に操る多彩な技術力に在る! 即ち為動機神体を操るに於いて神瀛帯熾天王で随一よ! この世に超級から末級まで、汎ゆる為動機神体を操縦出来るのは輪田衛士と儂のみ! 超級相当の戦いでは不覚を取ったが、儂の穢詛禍終が作り上げた異空間での戦いならば負けはせん!」
しかし、航は落ち着いている。
既に弐級や参級など眼中に無い、と云った様相だ。
髪が静かに逆立ち、嵐を予感させる。
そして航の前身が光を放ったその瞬間、激しい放電が弐級と参級を悉く打ち砕いた。
「なっ、何ィィッ!?」
「椿の能力は便利だな。纏めて斃すのに最適かも知れない」
椿陽子の放電能力――扶桑丸を飲んで神為を失った本人には使えなくなったが、同時に航の術識神為によって手札に加わった能力だ。
航は特定の条件を満たした対象の術識神為を使うことが出来る。
航が神為を身に付けるまでに名告りを聞いた能力者が、発動を見せたことがある能力――それを、本人が使えなくなったと同時に身に付けることが出来る。
「おのれ……!」
相手を驚かせる筈の弐級が想定外の能力であっさり破られて逆に動揺を見せる閏閒、しかしすぐさま取り直す。
両手袋が光を帯び、大型の二丁拳銃が形成される。
『武装神為・奇門遁甲魔弾銃・晴卍道満』
それは余りにも大きな銃だった。
型式はおそらく「S&W・M500」――世界最大級の化物拳銃で、これを片手で使い熟すとなると超人的な腕力を要する。
それを当然の様に航に向ける構えは、神為の使い手特有の絶技だろう。
が、射撃で航に戦いを挑むなど無謀に等しい。
すぐさま航の光線砲が、冷徹に、問答無用に、二丁拳銃を撃ち抜いて爆発炎上させる。
「ぐあああああっっ!!」
「悪いが身を以て知っているんだ。どうすれば効果的に相手を痛め付けることが出来るか、屈服させることが出来るか……。身近な知り合いに詳しい奴がいて、体で嫌という程教わったからな」
更に航は、刹那にして閏閒との間合いを詰める。
そしてその顔面に、渾身の拳を叩き込んだ。
「ぐぼおおおオッッ!!」
「閏閒三入……いや鬼獄魅三郎。俺達の世界に皇國を呼び込み、魅琴に決死の戦いを運命付けた元凶。お前のことだけはこの手でぶん殴ってやりたいと思っていた。そして、まだまだ全然殴り足りない。覚悟するんだな」
その全身に静かな怒りを讃え、航は殴り倒した閏閒を見下ろす。
逆に閏閒は、驚愕と屈辱に両眼を血走らせて航を睨み上げていた。