貴龍院皓雪は永過ぎる人生の殆どの期間を自ら付けた名で過ごしてきた。
彼女が親から最初に付けられた名は、彼女自身も覚えていない。
そこで便宜上、貴龍院皓雪を名乗る以前の彼女の呼び名の表記は、彼女自身が名乗った名から「告雪媛」に統一することにする。
告雪媛は物心付いた時には既に自身の「尋常ならざる眼」を自覚していた。
彼女は野を越え山を越えた遥か遠くで起きている事も、少し未来に起こるであろう事も、どういう訳かその眼で見通すことが出来た。
そんな彼女にとって、周囲の人間を手玉に取ることは容易かった。
何せ、相手に対してどう振る舞えばどう反応するか、全て事前に把握しているのだ。
告雪媛が生まれた集落の女首長に収まるのも、当然の成り行きだったのかも知れない。
統一された秩序の存在しない古代の世界で、危機管理能力は何よりも重要だからだ。
邑の全ての男達が、彼女を崇拝していた。
年頃になった告雪媛は、こう考える様になる。
この世界は自分の為に用意されたものだ。
世界は自分を中心に回っている。
自分は世界の御媛様だ。
彼女にとって、全ての男は手に入れて当然のものだった。
全ての財宝は貢がれて当然のものだった。
そして彼女自身は、この世界で最も上等な男に見初められ、寵愛される――これも当然のことだった。
全ては自分の為の物語である。
この世界は、その様に設計されている。
だから周囲の男に物足りなければ、簡単に騙して棄てた。
首長として治めていた筈の邑も簡単に棄てて滅ぼし、別の集落に身を寄せた。
そこに取り入るのも容易かった。
ただ、告雪媛はそれで満足などしていなかった。
何せ、彼女は世界の全てを献上されて当然だと思っていたのだ。
それが可能な、最上級の男が得られなければ、夢見た頂には程遠い。
彼女は全ての男に愛の限りを以て尽くされたが、それでも只管に不満だった。
もっと、この世界の御媛様に相応しい扱いを。
世界はそれを約束し、自分をこの場所に産み落とした筈だ。
軈て彼女は、その眼で許せない未来を見た。
遠くない未来に、西方は日向の国から「この世界」即ち「葦原中國」の帝となる男がやって来る。
そして、自分以外の小娘を皇后として娶るのだ。
しかもその女は、自分が偽っていた素性――事代主神の娘という出自を持つ「本物」だった。
告雪媛はすぐに動いた。
かの憎き邪魔者を、媛蹈鞴五十鈴媛を亡き者にし、自分こそが初代皇后になろうとした。
だが、失敗した。
その後も汎ゆる手で初代天皇・神日本磐余彦尊と媛蹈鞴五十鈴媛が結ばれるのを妨害したが、結局二人は橿原に都を立て、日本の統一を完成させた。
『どうしてなのよ! この世界は私の為の世界なのに! 私こそがこの世界の御媛様なのに! こんなの間違っているわぁ!』
告雪媛の行動理念は、常にそれだった。
その身勝手な逆恨みは募るばかりで、増幅の果て、遂に彼女は穢詛禍終に開眼した。
以後、彼女は日本国に厄災を振り撒き続け、実に二千七百年近くもの時が流れた。
今、彼女の妄念は日本国のみならず、世界に厄災を齎している。
憎き日本の国を滅ぼし、真に最上級の男である神皇・叡智の后となり、有るべき地位を漸く手に入れる――そんな思惑で始めた陰謀だったが、神皇は彼女の思惑すら超えて暴走している。
そして、貴龍院皓雪は麗真魅琴の前に立っている。
またしても、本来自分が手に入れる筈の地位を奪おうという女が現われた。
許せない、許せない、許せない、許せない。
自分を有るべき地位から遠ざけようとする者は、みんな殺してやる。
貴龍院はずっとそうしてきたのだ。
自分に本来有るべき、自分を中心に回る世界の為に、汎ゆる男を使い捨てにして暗躍し、誰であろうと殺し尽くしてきた。
「神皇陛下を誑かす女狐、斬り殺してやるわぁ……!」
舌舐めずりをする貴龍院に対し、魅琴は呆れた様子で溜息を吐く。
「別に私は心に決めた相手も居るし、そんなつもりは毛頭無いのだけれど」
「あら、それは今し方三入君に囚われた、如何にも貧相で貧弱そうな男かしらぁ?」
貴龍院は可笑しみから思わず岬守航を嘲笑した。
彼女の価値観では、最上位の男である神皇よりも何処にでも居る凡夫の航を選ぶとは、この上なく滑稽に思えたのだ。
「何処までも御莫迦さんなのねぇ。どう考えてもあんな男よりも陛下の方が上等に決まっているのに、男を見る眼が無さ過ぎるわぁ。そんなことだから、有り余る才能を持ちながら下らないところで終わって死ぬことになるのよぉ。見合った男を追い掛けていれば、もっと素晴らしい人生があったでしょうに、本当に救えない」
「フン……」
しかし、そんな貴龍院を魅琴は鼻で笑った。
「それは単に、お前の感性が薄っぺらいだけよ。年齢四桁でこの程度だなんて、自分の百分の一程度しか生きていない男に媚びる恥知らずなだけあるわ。その癖、相手にもされていない」
「何だと……?」
貴龍院の額に青筋が浮かぶ。
「下らないことを。貴方が選んだ男は既に三入君が二度と出て来られない闇に捕えてしまったわぁ。貴女の運命を決定付けた因縁の相手との決着を貴女自身の手で付けることも出来ないなんて、本当憐れな小娘だこと」
「あら、何を言っているの? あんな男とはいえ、彼は私の御先祖様なのよ? 敬うべき相手に拳を向けるなんて、とてもとても……」
魅琴は貴龍院を指差した。。
「私が討つべきは、そんな大切な御先祖様を誑かし、道を誤らせた不届きな傾国気取りに決まっているでしょう」
「減らず口を……。身の程知らずな女狐だこと」
貴龍院は魅琴をその尋常ならざる眼で睨み、刀を構えた。
「その口を永遠に塞いでやるわぁ! 陛下より賜りし名刀『文殊丸恒次』でねぇっ!」
彼女は考える。
自分の穢詛禍終の能力を使えば、魅琴を殺すことなど容易い。
しかし、ただ殺すのでは駄目だ。
(陛下への言い訳は用意しないといけないからねぇ。相手から仕掛けてきて、応戦するうちに、うっかり斬ってしまったという形にしないと……)
貴龍院は魅琴に向かって一歩踏み込む。
(まあ、どちらが先に仕掛けたかはいくらでも誤魔化せるけどねぇ!)
鋭い剣の一閃が魅琴を襲う。
しかし、魅琴は軽やかな身の熟しであっさりと回避。
貴龍院から距離を取って様子を窺う。
(チッ、反撃くらいしてきなさいよ)
貴龍院は苛立ちを覚えながらも次々に斬撃を繰り出す。
これは魅琴の反撃を誘う挑発だ。
しかし、魅琴は綺麗に躱しはするものの一向に攻撃を放っては来ない。
ただ下がるばかりで、戦いの舞台を通路の奥へ奥へと変えていく。
(腹が立つわぁ。このまま廻廊を進もうという腹かしらぁ? だったらこれならどう?)
貴龍院は渾身の力を込めて刀を振るった。
凄まじい一太刀は空気を斬り裂き、旋風を生み出す。
彼女は古代の乱世を生き抜き、二千七百年も暗躍し続けたのだ。
戦う術も自然と鍛錬され、常人離れした領域に達している。
(部屋を覆う程の斬撃の塊よぉ! 躱しようが無いわぁ! どうするつもりぃ?)
通常ならば魅琴は万事休す、絶体絶命だ。
だが、彼女もまた常人離れした領域に達している。
否、常識離れと言った方が正しいか。
魅琴は腕一本で廻廊を覆い尽くす旋風を容易く振り払ってしまった。
(フン、知っていたわよ、そうなることくらいはね!)
そう、貴龍院にとってこの攻撃は囮だった。
間髪を入れず、貴龍院は鋭い突きを繰り出す。
魅琴は跳び上がって後を取ろうとする――これこそが貴龍院の狙いだ。
貴龍院はそのまま振り向き様に二の太刀を、空中で身動きの取れないであろう魅琴に向けて振るった。
(さあ、反撃してきなさぁい!)
が、魅琴は貴龍院の刀を指先だけで止めてしまった。
正に神業、これには流石の貴龍院も驚愕を禁じ得ない。
「なっ!? くっ……!」
貴龍院は刀を引き戻そうとするが、ピクリとも動かない。
魅琴は地に足を着けておらず、空中の指二本だけで貴龍院の全身の膂力を軽く凌駕しているのだ。
「は、離しなさいよ!」
「どうぞ」
魅琴の指が刀身から離れた。
全力で引っ張り続けた貴龍院の腕が勢い余り、額に柄の頭をぶつけてしまう。
「痛ぁ……!」
貴龍院は涙目で着地した魅琴を睨み付ける。
「この臆病者! 少しくらい自分から攻めてきたらどうなのよぉ!」
「あら、良いの?」
魅琴が不敵な笑みを浮かべる。
それはどこか、心の底から恐怖の根源を呼び覚ます様な不気味さを孕んでいた。
次の瞬間、魅琴は一瞬にして貴龍院との間合いを詰める。
そして拳の一撃を貴龍院の顔面に向けて放った。
「ふっ!」
貴龍院は紙一重でこれを躱した。
「あらなあに、その蠅が止まりそうな拳打は? そんなのじゃあ蚊も殺せないわぁ」
「ま、でしょうね。今のは単なる最終確認だから」
「は?」
貴龍院の反撃を、魅琴はこれまたあっさり躱して跳び退く。
「最終確認って、何よ?」
「お前にそれが解らないことを確認したのよ。御爺様から伝え聞いた、お前が長年暗躍し続ける上で頼りにし続けた力がどれ程のものなのか、知っておきたかったのでね」
「何を訳の解らないことを言って……!」
貴龍院が堪らず叫んだ、その時だった。
貴龍院の身に纏っていたゴシックロリータ服が細切れになって吹き飛び、彼女は上下の下着姿を曝す羽目になってしまった。
「なっ!?」
突然の辱めを受けた貴龍院だったが、羞恥心よりも驚愕と恐怖に青褪める。
(みっ、見えなかった! 見えなかったですってぇ!? この私の眼に!!)
もうお解りだろう、魅琴はこれまで、防戦一方と見せかけて確りと貴龍院を攻撃していたのだ。
目にも留まらぬ速さで繰り出された手刀は貴龍院にすら見抜けぬ僅かな傷を彼女の衣装に刻み続けた。
そして最後の拳を繰り出した際も、実は一撃では無く何十発もの拳が風圧を起こし、貴龍院の服に止めを刺していたのだ。
「お前の『尋常ならざる眼』とやらが何処まで見えるのか、気になって色々試してみたけれど、思っていたより大した事はないのね」
「う、くっ……!」
貴龍院は魅琴の迫力に気圧されて後退った。
そんな彼女を追い詰める様に、魅琴は一歩一歩躙り寄る。
「扨て、と。お前の眼力がどの程度のものか解った以上、もう手を抜く理由は無い。という訳で、覚悟しなさいね」
魅琴は別人のように厳しく鋭い眼光を貴龍院に向けた。
そして、貴龍院の全く反応できない速度で間合いを詰め、脇腹に極めて重い拳を突き刺した。
「ぐほっ……ぉおっ!?」
激しい、余りにも激しい拳と蹴りの連打が貴龍院に浴びせられた。
その凄まじさは貴龍院の刀「文殊丸恒次」をあっさりと叩き折り、粉々に砕いてしまう。
貴龍院は悲鳴を上げながら壁際に追い詰められる。
更に、逃げ場のなくなった彼女に苛烈な連打が幾度となく叩き込まれた。
「ごばばばばッッ……うげえええぇェッッ!!」
魅琴は貴龍院の、余りの苦痛に醜鬼の如く歪んだ顔面に一際強烈な拳を撲ち込む。
打ち上げられた貴龍院は天上に激しく衝突し、そのまま跳ね返って受け身も取れずに床に全身を叩き付けられた。
「あっ、あがあああっっ!! 痛い! 何これぇ!? 痛過ぎるううっっ!!」
魅琴の拳や蹴りが尋常ではない威力を誇るのは言うまでもない。
だが彼女の真の恐ろしさは、生まれ付きの感覚で人体の構造を知り尽くしているところにこそ有る。
彼女は人体をどう打てばどう響き、どう壊れ、どう感じさせるのか、それを完璧に把握出来る。
つまり、どの様に拳を打ち込めば効果的に相手を苦しめることが出来るか熟知しているのだ。
魅琴の攻撃は、その絶大なる破壊力以上に、この世のものとは思えぬ苦痛を与える。
彼女はそれを好んで行う、真性の嗜虐倒錯女なのだ。
「うぐおおおっっ、おげぇぇっ……! 痛い! 痛いいいいいいっっ……!」
よって、貴龍院が地面を悶絶躄地するのも無理からぬことであった。
彼女は今、文字通り地獄を味わっている。
(こ、こんなの耐えられない! これ以上やられたら私は!)
魅琴は足を高々と挙げる。
「そういえばお前、先刻この私に向かって色々言ってくれたわね。身の程知らずですって? お前の方こそ……」
魅琴の足が勢い良く貴龍院の後頭部に叩き付けられ、激しく踏み付けた。
「ゴバアッッ!?」
「頭が高いのよ、雑魚が」
「ひぎいいいいッッ!! こっ、壊れる! 顔が壊れる! 脳味噌擦り潰れる! 頭が莫迦になるううううぅぅぅ!! おッごおおおおおッッ!!」
貴龍院の顔面から流れる血が地面を伝い、悲鳴と共に飛び散る。
凄惨――歪んだ叫びがただそれだけで彼女の心象風景を地獄絵図だと雄弁に語っていた。
そんな彼女の頭上から、魅琴は恐ろしい宣告をする。
「今までの情報を総合するに、お前には人の寿命を弄ぶ能力があるのでしょう。その能力で自分自身を対象にし、二千年以上もの長きに亘り死を遠ざけてきた。だったら、攻略法は生きているのが嫌になるくらい痛めつける、これに限るわよねえ? 楽しみだわ。久々に思う存分壊して良い人間に出会えたのだもの」
魅琴は指の関節を鳴らし、これからの凄惨な暴力を予告する。
だがそんな示威行為に対し、貴龍院は不気味な笑い声を漏らした。
「ふふ、ふふふふふ……! 手を出しちゃった、手を出しちゃったわねぇ……!」
貴龍院はその「尋常ならざる眼」で魅琴のこれまでの行動を見てきた。
その言葉が単なる誇張ではないと充分に知っている。
しかし、それでも彼女には一つ、絶対的な勝算があるのだ。
(これ以上やられるなんて御免だわぁ。もう充分体裁は整ったことだし、この女を殺して良いわよねぇ!)
今、貴龍院の真に恐るべき能力が魅琴に襲い掛かろうとしていた。