閏閒三入の異空間から脱出した岬守航と雲野兄妹は皇國側の歴代帝の像が建ち並ぶ廻廊を進んでいく。
その中で三人は、最後に拵えられた小柄な、しかし精細に彫刻された像の前を通りかかった。
名札は「光文神皇・鳳乃神大智」と表示されている。
「先代神皇、今の神皇の父親……」
航は、この像だけ他の像とやや色味が違うことに気が付いた。
おそらく、本来設置される筈ではなかったのだろう。
神皇にとって、父の崩御は不慮の事態だった。
「……行こう。神皇を止めないと」
航は右手に雲野幽鷹、左手に雲野兎黄泉の背中を押して、やや足早に奥へと進んだ。
もし父親が生きていたとしたら、息子の蛮行を咎めただろうか。
その死の遠因が戦争だとすれば、自分の戦い振りも今の状況を呼び込む一因になったのだろうか。
……考えても仕方が無いことだ。
一個の人間が責任を持てる因果には限界がある。
航に出来ることは、今まさに生まれようとしている戦慄の因果を自らの手で変えることだ。
「ふにゅ、ふにゅっ」
「そんなに押されても速くなりませんですよ」
「あ、ごめん……」
航は幽鷹と兎黄泉をついつい急かしてしまっていた。
二人の体はまだ子供なのだから、当然歩幅も狭い。
大人の航が急ごうとしても、付いて来られる訳が無いのだ。
「とはいえ、時間は無いんだよな。抱えるか?」
「大丈夫」
「その必要は無いです」
幽鷹と兎黄泉は斜め上を指差していた。
指の先に目を向けた航は季節外れの冷や汗を流し、強い緊張感と共に息を呑む。
黄金と白金で拵えられた、荘厳極まる大扉。
その上には右書きで看板が掲げられている。
『高御座の間』
どうやら航と雲野兄妹は「皇祖皇宗の廻廊」の最奥に辿り着いたらしい。
とはいえ、麗真魅琴を抜きにしてこの中へと足を踏み入れる訳にも行かない。
「心配は無いと思うが、迎えに行った方が良いよな……」
航が頭を掻いて溜息を吐いた、その時だった。
絹を裂く様な悲鳴が反対側の廻廊の奥から響く。
『あああああっっ! ひいいいいいっっ!! 陛下あああああっっ!!』
「あーあ、やっぱりこうなったのか。こりゃまた事件性の強い悲鳴だな。魅琴の奴、嘸かし滅茶苦茶に痛め付けたんだろうな……」
判り切っていたことだが、魅琴の無事を確信した航は安堵と呆れを同時に覚えた。
そして、このまま反対側――日本国の歴代帝側へ回って戻れば、魅琴と合流出来ることも判明した。
「行くか……」
振り向いた航は双子を前に屈んで片膝を突き、二人の肩に手を置いて言い聞かせる。
「僕は魅琴を迎えに行く。君達は此処で待っていてくれ」
「うん」
「解りましたです」
航は雲野兄妹に背を向け、一人魅琴の許へと駆けていった。
目を離したとて、二人を襲う敵などもう居ないことは明らかだ。
神皇に忠誠を尽くす者が控えているならば、彼の坐す「高御座の間」の扉の前まで航が来るのを指を銜えて見ている筈が無い。
襲うとすれば君側の奸だが、その佞臣二名の内一名は航が斃して二度と此方に顕れないだろうし、もう一名は現在魅琴から酷い目に遭わされている。
「待っていろよ、魅琴」
航は廻廊を足早に急ぐ。
⦿⦿⦿
命辛々逃げるなどという失態は果たしていつ以来だろうか。
すっかり戦意を失った貴龍院皓雪は、主である神皇・叡智の許へ逃亡しながら考えていた。
いつもいつも、何故自分がこんな目に遭わされなければならないのか。
あの麗真魅琴という小娘は何も解っていない。
「私は唯、幸せになりたいだけなのに!」
思い出すのは、遙かなる太古の記憶。
媛蹈鞴五十鈴媛の暗殺に失敗してからというもの、天津神の怒りを買った彼女は幾多の厄災に襲われ、必死の思いで生き延び続けた。
身を寄せた邑も滅び、身を挺して守る男も大して役に立たずに死に絶え、孤独の中で神武天皇と五十鈴媛の子孫を呪い続けた。
「こんなのおかしいっ! 絶対におかしいわぁ! 私は御媛様なのに! 私がこの世界の御媛様なのにぃぃっっ!」
貴龍院はその偏執的な、分不相応の自己愛を歪んだ怒りと恐怖の表情、その全面に滲み出させ、息も絶え絶えに走り続ける。
しかし、今の彼女は真面に走ることも覚束無かった。
足を縺れさせた彼女は、その場に転んでしまった。
位置は「後村上天皇・憲良」の像の前――向い合う様に並ぶ「光厳天皇・量仁」「光明天皇・豐仁」に囲まれ、宛ら冷ややかな眼で見下ろされているかの如き構図だ。
「うううっっ、許さない……!」
貴龍院は折れた刀を床に突き立て、震える足で立ち上がろうとする。
悪いことに、彼女は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
(私にはあの女を殺せないことは能く解ったわぁ。仮に今殺意を念じても、あの女が何処からともなく顕れて意識を飛ばされる未来が見える。でも、神皇陛下の御側に舞い戻りさえすれば……!)
そう、それが貴龍院の狙いだった。
神皇の庇護下に入れば、如何に魅琴であろうと自分に手出しは出来ない。
そうなってしまえば此方のもの、貴龍院は安心して魅琴に殺意を向けることが出来るという訳だ。
(もう廻廊の七分を過ぎた……。後少し、後少しで……)
足を前に進める貴龍院――しかしそんな彼女の前方から、一人の男が駆けてきた。
「あっ!」
「くっ! 岬守航!」
魅琴と合流すべく走ってきた航と貴龍院が鉢合わせた。
これは彼女にとって想定外の事態である。
(何やってるのよ三入君っ! なんでこいつが外に出ているのぉ!? 本当にどこまでも使えない男!)
しかし、貴龍院は先刻まで程には取り乱していない――これは航にとって危機である。
貴龍院は航を突破すべく、咄嗟に殺意を念じようとする。
が、その瞬間、貴龍院の顎先に魚の疑似餌が激しく衝突した。
脳を揺さぶられた貴龍院の意識が一瞬飛ぶ。
(こ、こいつもかよぉ……!)
両膝を突いて気が付いた貴龍院は顔を上げ、航が何をやったのか理解して内心悪態を吐いた。
貴龍院を見掛けた航はすぐさま自らの能力――正確には二井原雛火の能力で釣り竿を形成して振るい、疑似餌を飛ばして貴龍院にぶつけたのだ。
尤も、これは魅琴の様に勘で貴龍院の不穏な行動を察知した訳ではなく、単に貴龍院との遭遇を予測していた航が出会い頭に予定通り仕掛けただけである。
「退きなさいよぉっ!」
貴龍院は航に折れた刀を振るった。
焦燥に駆られているとは言え、彼女の剣技は一流である。
しかし、魅琴との特訓で大きく力を上げた航には掠りもしない。
「はぁっ、はぁっ、ちょこまかとぉっ……好い加減に、死っ……!」
が、その瞬間、貴龍院の脳天に別の踵が減り込んだ。
凄まじい衝撃に、貴龍院の視界は暗転する。
「お前、私の航に何をしようとした?」
朧気に覚醒した意識の中、貴龍院は余りにも恐ろしすぎる声を聴いた。
彼女を此処まで無様な逃亡に駆り立てた張本人・麗真魅琴が追い付き、脳天に踵落としを喰らわせたのだ。
それに気が付いた彼女は、振り向いて魅琴の姿を認めた瞬間、勢い良く尻餅を搗いて壁際まで後退った。
「ひいいいいいっっ!! 嫌! 嫌ああああああああッッ!!」
恐怖一色に染まりきった貴龍院の悲痛な絶叫が、廻廊の壁という壁、像という像に反響し、空間を覆い尽くした。
神皇の許へ逃げ込むという彼女の最後の目論見は、脆く崩れ去ってしまった。
「あががががっ、あひいいいっっ……!」
貴龍院は顔中を汁塗れにして、絶望をこれ以上無い程に表情に出していた。
それだけではない。
彼女の股間からも生温い液体が染み出し、微かな臭気が立ち上り、航と魅琴は顔を顰める。
貴龍院は余りの恐怖に失禁してしまったのだ。
なんという失態だろうか。
御媛様の姿か、これが?
凡そ二千七百年にも亘って日本を呪い続けた世紀の黒幕とは思えない醜態だった。
「な、なんなのよ……!」
貴龍院は恥辱に歯噛みする。
「なんなのよ、貴方達!」
逆ギレ――貴龍院に出来ることは最早それだけだった。
そんな彼女を、魅琴は眉根を寄せつつ酷く冷たい眼で見下ろしていた。