あられも無い姿、とは当に今の貴龍院のことをいうのだろう。
瀟洒な黒で固めた衣装が剥ぎ取られ、下着姿を曝しながら、腰を抜かして失禁までしている。
彼女が錯乱して喚き散らすのも無理は無い醜態だ。
しかし航はそんな彼女を見て、驚く程何の感情も湧いていない自分に気が付いた。
憐れだとか、居た堪れないだとか、或いは目のやり場に困るだとか、そういったものが何一つ湧いてこない。
精々、鼻に付く尿の臭いが気になる程度で、心には漣一つ立っていない。
そんな航の心境など知る由も無い貴龍院は、耳障りな金切り声で二人に訴える。
「なんなのよ貴方達! 余計な真似ばっかりして、何処まで私の邪魔をすれば気が済むのよぉ! どうして毎度毎度出しゃばって来るのよ! 日本と皇國が戦争になろうが、日本以外は全部鏖にされようが、貴方達に何の関係があるのぉ!? 高々国が滅びようが、世界がどうなろうが、勝手に生きていけば良いじゃない!」
貴龍院の言い分は、人によっては尤もだと感じる者も居るかも知れない。
だが航はこの時、彼女との間に決定的な断絶を感じた。
立場が相容れないというだけではない、もっと根本的な部分で「この女は違う」と確信を持ったのだ。
それはこれまで敵対したどの相手にも抱かなかった感想だった。
(こいつ……もしかして自分のことを被害者だと思っている? 僕達を加害者だと思っている? 嘘だろ? 二千七百年も生きて、ずっと日本に害を為し、数え切れない程の人間を死に追い遣ってきた女なんだろ、こいつ?)
そんな航の困惑を余所に、貴龍院の発狂はまだまだ続く。
「本当に本当に鬱煩雑いのよぉ! 気持悪いのよぉ! ずっとずっと、ずぅーっと私の邪魔をするわ足を引っ張るわ! 愚かで卑しい野蛮人共! 猿以下の劣等民族共! 貴方達が自分の鬱煩雑さと気持悪さと雑魚さを自覚して引っ込んでいれば全部上手く行っていたのに! とっくに私の願いは叶っていたのに!」
貴龍院は両の拳を固め、何度も床を叩く。
その様は宛ら、聞き分けの無い駄々子の様だ。
「私の為の世界なのに! 私は世界の御媛様なのに! 私はただ、幸せになりたいだけなのにぃぃッッ!」
この女は本当に何を言っているのだろう――航は心底から呆れる他無かった。
なんという底の浅さだろうか。
この貴龍院皓雪という女は、八社女征一千の様などん底に生まれた悲哀とそこから救い出してくれた恩人を貶められ自らも再び泥の中に落とされたという呪詛も、推城朔馬の様な敬愛する主君の願いを踏み躙られその無念を晴らすことも出来ずに惨めな最期を辿ったという慚愧も、閏閒三入の様な一応は忠君愛国の下に立った心意気を酌まれなかったという怨恨も、何一つとして持ち合わせていない。
唯々身勝手な嫉妬と逆恨みだけを背景に、しかもそれを自覚せず寧ろ自分以外の凡ての日本人に己の性根を投影し、二千七百年も捩じ曲がった心を煮詰めてきたのだ。
「っはぁー……っっ」
そんな貴龍院を前にして、魅琴は露骨に声まで出して溜息を吐いた。
「お前、何処までもしょうもない女ね」
「は、ハァ!?」
「お前が願いを叶えられない理由、それはとても簡単で、単純で、自明なたった一つの答えで説明出来るわ」
「な、何ィ……?」
魅琴は貴龍院を見下し、鼻で笑った。
「だってお前、無能だもの。人の一生の何十倍もの時間を掛けて、人並みの願い一つ叶えられない……そんな、箸にも棒にも掛からない無能」
「なっ……!?」
貴龍院は怒りで体をわなわなと震わせ、全身に血管を浮き立たせ、顔をこれ以上無い程に顰めた。
「何だと!? 誰に物を言っているのよ! 私じゃない! 私の周りの男共がどいつもこいつも使えないせいだわ! 揃いも揃ってみんなみんな気の一つも利かせられないんだから! 私のせいじゃないもん!」
「そういうところよ」
魅琴は静かに、しかし強く、問答無用に貴龍院の癇癪を遮った。
「要するにお前は他人に何かをしてもらうことしか考えていない。蝶よ花よと持て囃されて、尽くされて当然だと思っている。その癖、少しでも自分の希望が叶えられないともう許せなくなる。どんなに尽くされても少しでも気に入らなければあっさりと棄て、より強い他の相手に擦り寄る。けれどもどれだけ擦り寄る相手を変えても決して満足しない。お前はほんの僅かでも自分の思い通りにならないことさえ許せない。そんな人間が幸せを感じられる訳が無いでしょう」
魅琴の言葉は冷徹だが、航の感じたことをそのまま言語化していた。
尤も、航自身もこれくらいは言えただろう。
というより、そう難しい理屈でも無い。
だが貴龍院には通じない。
「幸せを感じる以前に、幸せにしろと言っているのよぉぉ……! 私は与えられた糞みたいな環境で自分を納得させる様な、奴隷根性が染み付いた貴方達とは違う……! 私は御媛様なんだからぁっ……! 国如きの為に、親に言われるがまま命まで棄ててしまう貴方達なんかとは違うのよぉぉっ……!」
「でしょうね。お前は自分が全てだものね。自分の持っている何かを誰かに捧げようなどとは思わない。命懸けで誰かを愛そうなどとは考えも付かない。只管に我儘で、自分勝手。お前はそういう女よ」
「だから愛するに値する男を寄越せって言っているのよぉぉっっ!」
「やっぱり話にならないわね……」
魅琴は再び露骨な溜息を吐いた。
「愛するというのは、受け容れるということなのよ。相手の素敵なところも、駄目なところも併せ呑み、存在そのものを抱き締める。お前にはそんなこと、逆立ちしても出来ないのでしょう。何もかも完璧で初めて愛することが出来るなんて、つまり愛が無いということ。そんなお前だから、世界を愛することも出来ないのでしょう。だって、そうよね?」
冷徹な指摘が貴龍院に突き刺さる。
「お前は人の身でありながら『自分が死ぬ』ということすら許せないのだもの」
「何よぉぉっっ……!」
「そんなお前に、日本の国の美しさなんて解りはしないでしょうね」
魅琴の指摘は只管に容赦が無く、無情だった。
とはいえ、航はその言葉を一言一句正論だと感じていた。
口を挟む余地が無い。
「そうそう、そういえばお前はこう言っていたわね。『生きとし生ける者の誰も逃れられない死こそが絶対であり、それを統括する自分は凄いんだ』……。私に言わせれば、それこそがお前の一番大きな勘違いだわ。確かに、『結果としての死』は誰にも等しく訪れる。でも、かといってその恐怖に唯唯諾諾と従うばかりが人間ではない。人間には死への恐怖に勝る心がある。お前自身も幾度と無く見せられたでしょうに、理解出来ていないところ、やはり無能なのよね」
一呼吸置き、魅琴は静かにその答えを告げる。
「『人の情の感ずること、戀にまさるはなし。されば物のあはれの深く、忍びがたきすぢは、殊に戀に多くして、神代より、世々の歌にも、其すぢをよめるぞ、殊におほくして、心ふかくすぐれたるも、戀の歌にぞ多かりける』――本居宣長『源氏物語玉の小櫛』。……人は限りある命の中で誰かを愛し、想う。桜の花の一輪一輪は満開の季節を過ぎれば儚く散ってしまうけれど、それでも咲き誇る。散った花の枝は季節が巡るとまた色を変え、蕾を付け、再び儚い花を咲かせる。色鮮やかな山桜が朝日に輝き、そして風に舞い散るその美しさ――その心象風景に日本人の心が重ねられているとするならば、万朶の桜には数多の愛こそが宿っており、限りある季節に儚い命を懸けて咲き誇る。死を遠ざけ人の命を弄ぶお前には解らないでしょうね。お前には自分しか見えていないから」
魅琴の隣で、航は彼女の言葉に嘆息していた。
しかし、そんな魅琴の世界を色鮮やかに染め上げたのは他ならぬ彼であると、以前彼女が述懐している。
それ以前の麗真魅琴の世界はモノクロームであったと、岬守航に出会い世界の美しさを知り、人を愛する事、国を愛することを知ったからこそ、彼女は過去と現在、二度に亘り命を賭して、二代に亘る神皇と戦うのだ。
「孰れ滅び行く定命の中で愛する誰かの末永き息災を願い、その為に我が身を尽くし祈りを捧げるのが私達日本人の心。お前の中には無限に愛されたい、尽くされたい、只管に、何処までもそれしかない。空虚なものよね」
限りある命だからこそ万物に感じる美意識。
即ち貴龍院の世界とは、本質的には何も見ることが出来ない暗黒一色なのだろう。
だがそんな彼女にも、はっきりと解ることがある。
「ま、無能だからといって迷惑なことには変わりは無いわ。別にお前如きが日本の歴史に何か出来たとは思わない。お前が何をしようがすまいが、日本の歴史は結局のところ日本人が心に抱いた愛や勇気、憎悪や保身、或いは嫉妬や欲望が行動となって築いたもの。然りとてそれを歪めようとしてきたお前の行いが免罪される筈も無し。醜悪な御婆さんにはさっさと御退場願おうかしらね」
魅琴は右の拳を握りしめる。
為す術の無い貴龍院は今から自分に振るわれる拳がこれまでと全く違う事に気が付いたのか、両目を皿の様に見開く。
「ヒッ……し、神為をっ……!」
貴龍院はその意味を悟り、そして青褪めた。
彼女の能力は自らの死を遥か彼方に遠ざけるものであり、死そのものを消し去る訳ではない。
そして、穢詛禍終もまた異能である以上、有無を言わさぬ力をぶつけられては道理が引っ込み、捻じ伏せられてしまう。
神為の込められた魅琴の拳の威力は、貴龍院が喰らってきたこれまでの比ではない。
それは彼女を充分死に追い遣るだろう。
「待って! ねえお願い、待ってよ!」
貴龍院は慌てて魅琴に懇願する。
「貴方達、神皇陛下を止めたいんでしょう? 私が説得するわぁ! 誰よりも付き合いの長い私の言うことなら、陛下も屹度無下にはしないから!」
「無理ね。実の弟や妹が命懸けで訴えても聞かなかったのよ? お前如きが今更何を言ったところであの男は止まりはしないわ」
「そ、そうだわ! 貴方達二人に永遠の若さと命をあげる! 愛し合っているのでしょう? 二人でいつまでも幸せな時を過ごせるわぁ!」
「人の話を聞いていないようね。不老不死なんて興味無いわ」
取りつく島もない魅琴。
貴龍院は尚も諦めず、今度は航に縋り付いてきた。
「お願い貴方、この女を止めて! 助けてくれたら何でもするわ! 奴隷にでも肉便器にでも、貴方の望む何にでもなるからぁっ! お願いします助けてください! 本当に何でもしますからぁ!」
あまりにも恥も外聞も無い貴龍院の態度に、航は嘗て無い嫌悪感を覚えた。
基本的に、航が女に悪感情を抱くことは稀だ。
冷たい女、意地悪な女、支配的な女――そういった者達に対して、寧ろ好意を抱くことさえ少なくない。
偏に彼が被虐嗜好の持ち主であるからだ。
しかしだからこそ、この女は「無い」。
強者の自負も支配者の矜持も持ち合わせておらず、立場が悪くなれば散々見下していた相手にすら平気で媚び、自分の価値さえ売り渡そうとする――そんな貴龍院に対し、航は今迄に出会った誰にも況して侮蔑の感情をはっきりと抱いた。
「んぐひっ……!」
そんな航の顔を見て、貴龍院は衝撃を受けた様に固まった。
どんな表情をしているか、自分でも解る。
航は今、意識して貴龍院に「塵を見る眼」を向けていた。
「汚い手で航に触るなよ」
そんな貴龍院の髪を、魅琴は怒りの表情と共に鷲掴みにして自分の下へ引き寄せる。
「ひいいいいいっっ!! 嫌! 嫌ああああああッッ!! やめてやめてやめてやめて!! 死にたくない! 死にたくないいいいいッッ!!」
「消えなさい」
魅琴の痛烈無比な拳が貴龍院の顔面に減り込んだ。
彼女はそのまま拳を振り抜いて貴龍院を廻廊の奥へと殴り飛ばす。
貴龍院は殴られた一瞬、二目と見られない無残な顔面を曝して弾丸の様に吹き飛んで行った。
「うわぁ……。ひ、悲惨……」
「もっと悲惨なのはこれからよ」
貴龍院は壁を破壊することなく奥へ奥へとピンボールの様に跳ね返って行く筈である。
つまり、彼女は最終的に「高御座の間」の扉の前へと到達する。
「でも拙いな。最奥には幽鷹君と兎黄泉ちゃんを待たせてあるんだよ」
「大丈夫よ。目を覚ましたところで力を使い果たしている。何も出来はしないわ」
それもそうか、と航は納得して安心した。
抑も、双子を連れていない時点で、何処かに置いてきたと察する筈だ。
魅琴なら、それも計算に入れて殴り飛ばすだろう。
「さ、行きましょう」
「ああ」
二人は「皇祖皇宗の廻廊」の最奥へと向かった。