日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第百二十一話『物哀』 急

 目を覚ました貴(き)龍(りゆう)院(いん)は、すぐに状況を察した。

 

(此(こ)処(こ)は……?)

 

 痛みを堪えつつどうにか顔を上げると、そこには「高(たか)御(み)座(くら)の間(ま)」の荘(そう)厳(ごん)な扉が堂々たる姿で聳(そび)え立(た)っていた。

 それを彼女は「実際に顔を上げて初めて見ることが出来た」のだ。

 更に、傷が治っておらず、崩れた顔のせいで視野が著(いちじる)しく狭くなっている。

 以上の事実より、貴(き)龍(りゆう)院(いん)は自らの置かれている異常事態を理解した。

 

(あの女……! よくも出(で)鱈(たら)目(め)な莫(ば)迦(か)力で殴ってくれたわねぇ……!)

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の「尋常ならざる眼(め)」を支えていた神(しん)為(い)が消えている。

 生まれ付いて神(しん)為(い)に恵まれていた彼女は、一度それが失われると、自然回復までに長期間を要する。

 また、肉体が傷付いたままになっているのは「穢(え)詛(そ)禍(まが)終(つひ)」の再生も機能していないということだ。

 これは、魅(み)琴(こと)の絶大なる力が「不死」を中途半端に捻(ね)じ伏(ふ)せ、損傷度合いが再生の許容量を超えてしまった為(ため)だろう。

 

(とはいえ、生きている……! だったらこっちのものだわぁ)

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は折れて隙間だらけになった歯を見せて笑った。

 潰(つぶ)れた鼻から流れる血が口に入る。

 だが、彼女は寧(むし)ろそれを好都合に思っていた。

 

(私(あたくし)の顔、悲惨なことになっているわよねぇ……。屹(きつ)度(と)神(じん)皇(のう)陛下は憐(あわ)れんでくださる。私(あたくし)をこんな目に遭わせたあの女に、麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)に幻滅して考え直してくださるわぁ)

 

 この期に及んでまだ神(じん)皇(のう)を恃(たの)み、悪巧みを目(もく)論(ろ)む貴(き)龍(りゆう)院(いん)。

 そんな彼女の頭上に、待ち望んだ男の声が降り注ぐ。

 

『貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ』

「へ、陛下ァ……」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は涙目で媚(こ)びた笑みを浮かべ、扉を見上げる。

 今迄(まで)、彼女の周囲には真(まと)面(も)に頼れる男など居なかった――彼女はそう認識している。

 しかし、「絶対強者」たる神(じん)皇(のう)だけは別だ。

 彼を味方にさえ付ければ、憎き者など容(た)易(やす)く葬り去ってくれる。

 

「陛下、陛下ァ……」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は甘えた声で扉に縋(すが)り付(つ)く。

 しかし神(じん)皇(のう)の声は、そんな彼女に不快な言葉を続けた。

 

『貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、来客はどうなった?』

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の表情に屈辱が滲(にじ)む。

 神(じん)皇(のう)が、自分を痛め付けた「客人」のことを気に掛けている。

 とはいえ、甚だ気に食わないが、ここは神(じん)皇(のう)の意に沿うよう努めるしか無い。

 

「はい……。御報告……いたします。今……御(お)側(そば)に……」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は重い扉を押し、ボロボロになった体を引(ひ)き摺(ず)る様に「高(たか)御(み)座(くら)の間(ま)」へと進む。

 野球場程の室内に聳(そび)える鳥居、周囲に映し出される「数(あま)多(た)の日本」のそれぞれの歴史――傷付いた貴(き)龍(りゆう)院(いん)にとって何もかもが輪を掛けて不愉快だが、その本心は押し殺さなければならない。

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は息も絶え絶えになりながら、階段上の玉座に坐(すわ)る神(じん)皇(のう)の足下に辿(たど)り着(つ)いた。

 

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)、手(て)酷(ひど)くやられたようだな」

 

 神(じん)皇(のう)・叡(えい)智(ち)は巨大な玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りる。

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は主の憐れみを得ようと、迫真に演じる。

 

「申し訳御座いません、陛下。やはり了承は得られませんでした……。そればかりか私(あたくし)に対しこの仕打ち……。榊(さかき)御(み)門(かど)様も菊(きく)屋(や)敷(しき)様も敗れました……。最(も)早(はや)岬(さき)守(もり)航(わたる)と麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)を相手に出来るは陛下のみ……。貴方(あなた)様の御(お)力(ちから)に御(お)縋(すが)りするより他にありません……」

 

 弱々しい声で訴える貴(き)龍(りゆう)院(いん)は、主の竜顔を仰ぎ見ながら擦り寄る。

 

「陛下、どうか貴方(あなた)様の御力で仕返しをしてください。陛下にお悦(よろこ)びいただく為の私(あたくし)の体にこんなことをしたあの女に相(ふ)応(さわ)しき罰を。でなければ私(あたくし)、悔しくて悔しくて堪(たま)りません……!」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)の哀願に対し、神(じん)皇(のう)は無言で彼女を見下ろしている。

 何を考えているのだろう。

 早く首を縦に振り、憎たらしいあ奴(やつ)等(ら)を鏖(みなごろし)にしてほしい――そんな邪(よこしま)な想(おも)いが貴(き)龍(りゆう)院(いん)の内心に沸々と込み上げてくる。

 しかし、神(じん)皇(のう)の回答は意に沿うものではなかった。

 

「芯の強さは相変わらずのようだ。益(ます)々(ます)気に入った。ならばこの俺(おれ)が改めて直々に口説かねばならぬな」

「は……?」

 

 俄(にわ)かには信じられない言葉を受け、貴(き)龍(りゆう)院(いん)は戸惑いに腫れた目を可能な限り見開いた。

 

「へ、陛下? 何の世迷い事を……?」

「麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)の意志は確かに固いのだろうが、それでも尚、いやだからこそ口説き落とす価値があるというもの」

「あの女はこの私(あたくし)を痛めつけたのですよ!?」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は抗議の声を上げた。

 神(じん)皇(のう)の秀麗な眉目がぴくりと動いたが、最早そのような顔色など窺(うかが)っていられない程に貴(き)龍(りゆう)院(いん)は取り乱していた。

 

「ならば二人の間に和解の席を設けねばならんな」

「わ、和解って……! 一体何を仰(おつしや)いますか、陛下!」

「当然だろう。皇后と近衛侍女の間に蟠(わだかま)りがあってはならぬ。凡(すべ)ての日本人が汎ゆる遺恨を超えて宥(ゆう)和(わ)することこそ、俺(おれ)が麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)を立(りつ)后(こう)しようとする目的なのだからな。無論、汝(なれ)もその一人だ」

「ありえません! いくらなんでもそれはあんまりでございます!」

 

 神(じん)皇(のう)の無体な言葉に、貴(き)龍(りゆう)院(いん)は涙を流して訴える。

 

「私(あたくし)は唯(ただ)の侍女では御座いませぬ! お忘れですか? 私(あたくし)は貴方(あなた)様が赤子の頃よりずっとお仕えし、御身の御(お)世(せ)話(わ)を誠心誠意務めて参りました! 幼い時分には息子と思い、御(ご)立(りつ)派(ぱ)に成長なさって初めての御(お)相(あい)手(て)を務めさせていただいてからは恋人と思い……! なのにどうして! 貴方(あなた)様はいつも私(あたくし)の想いを二の次になさるのですか! 私(あたくし)はこんなにも、誠心誠意貴方(あなた)様をお慕い申し上げ、忠誠の限りを尽くしてきましたのに!」

 

 それはただ、現在の態度だけに対する抗議ではなかった。

 思えば貴(き)龍(りゆう)院(いん)は神(じん)皇(のう)の近衛侍女――実質的な愛人に敷(しき)島(しま)朱(と)鷺(き)緒(お)が加わって以来、何かと「二番手の愛人」の座に納まってきた。

 自身を「御(お)媛(ひめ)様(さま)」と考える彼女にとって、その扱いは極めて屈辱的であったが、神(じん)皇(のう)の機嫌を損ねる訳には行かず耐えることを余儀無くされてきた。

 敷(しき)島(しま)が神(じん)皇(のう)の許を去り、漸(ようや)く「最も近しい女」に返り咲いたというのに、尚(なお)も自分は神(じん)皇(のう)に「二の次」扱いをされている――その事実は貴(き)龍(りゆう)院(いん)を何よりも打ちのめしたのだ。

 

「忠誠の限り、か……」

「然(さ)様(よう)で御座います! 然様で御座いますとも! なのに貴方(あなた)様はそれに報いてくださらないのですか!」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は今、はっきりと神(じん)皇(のう)に自らの怒りを剥(む)き出(だ)していた。

 普段の彼女は決してこの様な態度で主に臨まないだろう。

 対して神(じん)皇(のう)は、そんな彼女に驚くでもなく、実に落ち着いた様子で問い掛ける。

 

「ところで貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、刀はどうした?」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は一瞬呆(ほう)けたが、すぐに自身の腰に目を遣った。

 そこには中身を失った鞘(さや)だけが佩(は)かれている。

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は頭から一気に血が引ける感覚に襲われた。

 彼女の刀は「文(もん)殊(じゅ)丸(まる)恒(つね)次(つぐ)」と呼ばれる、他ならぬ神(じん)皇(のう)――第一皇子時代の獅(し)乃(の)神(かみ)叡(えい)智(ち)から賜った、紛失すること罷(まか)り成(な)らぬ逸品である。

 

「こっ、これは……! う、麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)です! あの女、事もあろうに陛下に賜りし名刀を台無しにしたので御座います! 私(あたくし)にとって、何よりの宝物を!」

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は咄(とつ)嗟(さ)に言い繕う。

 嘘(うそ)は言っていない。

 現に、刀を叩(たた)き折ったのは魅(み)琴(こと)で間違いは無い。

 だが、神(じん)皇(のう)は冷静に追い打ちを掛ける。

 

「鞘には傷一つ付けずに、か?」

 

 神(じん)皇(のう)の言葉に貴(き)龍(りゆう)院(いん)は凍り付いた。

 同時に、彼女は漸く気が付いた。

 神(じん)皇(のう)の両眼――真紅と柳(りゆう)緑(りよく)の双(そう)眸(ぼう)は宛(さなが)ら獲物を仕留めに掛かる猛(もう)禽(きん)類(るい)の様に獰(どう)猛(もう)な視線を貴(き)龍(りゆう)院(いん)に向けていた。

 

「は……ぐっ……!」

 

 射(い)竦(すく)められた貴(き)龍(りゆう)院(いん)は満足に息も出来なくなっていた。

 三千世界に於(お)いて、比肩するものの無い恐怖が彼女の全身を鷲(わし)掴(づか)みにしている。

 事此処に至り、貴(き)龍(りゆう)院(いん)は最大最悪の過(あやま)ちを犯してしまったのだ。

 

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、刀を抜いたな? 俺(おれ)が丁重に持て成すよう命じた客人に対して……。何ぞ申し開く言葉はあるか?」

「あ……かっ……!」

 

 今や貴(き)龍(りゆう)院(いん)は、魅(み)琴(こと)に打ちのめされて傷付いた体の汎ゆる部位よりも無傷の肺と心臓に激痛を覚えていた。

 神(じん)皇(のう)の、「絶対強者」獅(し)乃(の)神(かみ)叡(えい)智(ち)の不興を買ってしまった――誰よりも長く神(じん)皇(のう)を側で見続けた彼女にとって、これ以上の危機的状況は存在しないだろう。

 

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、どうやら貴様は随分と思い上がっているようだな」

「ぐっ……がっ……」

「貴様は俺(おれ)を恣(ほしいまま)に操らんと試み、面従腹背の態度で側仕えしていたらしい。誰よりも信を寄せてる貴様がどういうことかと疑問に思っていたが、漸く本心を聞くことが出来た。貴様はこの俺(おれ)を自分だけのものにしようとしていたのだな」

 

 重苦しい、今にも圧し潰されそうな空気が貴(き)龍(りゆう)院(いん)に伸(の)し掛(か)かる。

 この時を過ごす全ての刹那が、彼女にとって恐ろしい拷問だった。

 

「しかし、言うに事欠いて俺(おれ)のことを『息子』と称したか。貴様、俺(おれ)の母親を気取っていたのか。心して聴くが良い。俺(おれ)は母親のことを、嘗(かつ)て皇(こう)國(こく)の行く末を憂(う)い父上に卵子を提供し、俺(おれ)達六人の皇子皇女をこの世に降ろした『臥(が)龍(りゅう)飛(あ)鳥(すか)』なる女のことを心より敬愛している。顔も辿(たど)ってきた人生も何も知らぬ女だが、唯一人の母として父上と同じ様に今も心を寄せている。その母・臥(が)龍(りゅう)飛(あ)鳥(すか)を差し置き母を騙(かた)るなど、甚だ烏(お)滸(こ)がましきこと」

 

 神(じん)皇(のう)の言葉の一つ一つが貴(き)龍(りゆう)院(いん)を追い詰め、三千世界の隅に追(お)い遣(や)り、鋭角の奥に圧し固めていく。

 臥(が)龍(りゅう)飛(あ)鳥(すか)の卵子を先代神(じん)皇(のう)に提供したのは他ならぬ貴(き)龍(りゆう)院(いん)だ。

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は神(じん)皇(のう)の母親を言葉巧みに仲間へ引き込み、利用するだけ利用して棄(す)てて殺したのだ。

 彼女は今、この事実すらも神(じん)皇(のう)に見抜かれている様な気がしてならなかった。

 

(あああああ駄目! 畏(おそ)ろしい! 畏ろし過ぎる! 耐えられない! 私(あたくし)が此処に居ることが、私(あたくし)がこの御(お)方(かた)に背いた私(あたくし)として此処に平伏していることが、到底耐えられない!)

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は今、心の中に悍(おぞ)ましい光景を見ていた。

 一人の女が、二千七百年を生きてきた貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)――告(つげ)雪(ゆき)媛(ひめ)が棘(とげ)の付いた鎖で雁(がん)字(じ)搦(がら)めに縛られ、吊(つ)るし上(あ)げられている。

 

「お、おゆっ……、おゆっ……!」

「どうした? 何ぞ言いたいことでもあるのか?」

 

 言葉が上(う)手(ま)く発せない。

 先程からずっと、息も満足に出来ないでいた。

 それは心象風景と重なり、鎖で締め上げられて肺が膨らまないのだと錯覚しいた。

 そんな彼女に、神(じん)皇(のう)は打って変わって穏やかに語り掛ける。

 

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、何も俺(おれ)は汝(なれ)を取って食おうという訳ではない。ただ汝(なれ)が心を入れ替えてくれればそれで良い」

 

 しかし、貴(き)龍(りゆう)院(いん)は神(じん)皇(のう)の「赦(ゆる)し」とは裏腹に、全く別の光景と感覚を認めていた。

 

(あがっ! あがあああああっっ!! 骨が! 骨が砕けるうううううっっ!!)

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は今、自身を締め上げる棘突きの鎖で体の形を無(む)理(り)矢(や)理(り)直されていた。

 背景には巨大な二つの眼が、真紅と柳(りゆう)緑(りよく)の虹(こう)彩(さい)が貴(き)龍(りゆう)院(いん)の姿を映している。

 それは宛ら、捩(ね)じ曲(ま)がった性根を真(まつ)直(す)ぐに矯正しているかの様である。

 そう、骨を砕き、「貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)」「告(つげ)雪(ゆき)媛(ひめ)」という存在そのものを造り変えているかの様な……。

 

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、今迄の自分を改め、今度こそ俺(おれ)に、本当の意味での忠義を尽くしてくれるか?」

「はい! はいいいいいいっ!!」

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)と仲直りし、皇后たる彼女に対しても俺(おれ)に対するものと同じ忠誠を誓ってくれるか?」

「はい! はい喜んでええええっっ!!」

 

 今、貴(き)龍(りゆう)院(いん)は「絶対強者」の神髄を見ていた。

 神(じん)皇(のう)・獅(し)乃(の)神(かみ)叡(えい)智(ち)は夢の中で生きている。

 世界の全てが自分にとって愛すべきものだと疑いなく信じ切っている。

 そして彼は強く望めば、「こうなって欲しい」と相手に強く訴えかければ、ただそれだけで自らの思いを実現してしまえるのだ。

 

 普段の彼は、この様な現象など起こさない。

 自ら「望む」までもなく、誰もが彼の願いを叶(かな)えるべく齷(あく)齪(せく)動いてくれるからだ。

 彼はそれを、誰もが自由意志で喜んで自分に従ってくれているのだと思い込んでいる。

 恐ろしいことにそれは皇(こう)國(こく)に於いて基本的に正しく、彼もまたそんな臣民達を心の底から愛し、望ましい主君であろうと務め、そこに至福を感じている。

 

 だが彼はその「美しい世界」を無自覚に強制している。

 そしてそこにどうしても相(あい)容(い)れぬ者には、自由意志を捻(ね)じ曲(ま)げる「無為の支配力」を意図せず発揮してしまう。

 これは叛(はん)逆(ぎやく)者や逆賊の様な、信念を持って敵対する者に対してではなく、貴(き)龍(りゆう)院(いん)の様な、特に確固たる芯も無くただ不満を抱いている者に対して覿(てき)面(めん)に効く。

 何(な)故(ぜ)なら、信念を持って敵対するのは彼にとって「別の正義を貫こうとする、好ましい日本人」だからだ。

 

(ひぎいいいいいっっ!! 痛い! 痛いいいいいいいッッ!! 笞(むち)打(うち)! 石(いし)抱(だき)! 海(え)老(び)責(ぜめ)! 釣(つり)責(ぜめ)! 木(もく)馬(ば)責(ぜめ)! 水(みず)責(ぜめ)! 火(ひ)責(ぜめ)! 駿(する)河(が)問(どい)! あぐおああああああああっっ!! 駄目! 駄目駄目駄目えええっっ!! 私(あたくし)が私(あたくし)じゃなくなる! 日本を、世界を呪い続けられなくなるうううううっっ!! 救われてしまううううウウウッッ!! ありがとうございますうううううっっ!!)

 

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)にとってそれは正に、究極の「矯正」だった。

 その絶対的な力の懲戒の前では、二千七百年の呪(じゆ)詛(そ)など塵(ごみ)滓(かす)に等しい。

 彼女は今、本当の意味で死の危機に瀕(ひん)していた。

 恨み憎しみを忘れ、世を呪い続けられなくなれば、穢(え)詛(そ)禍(まが)終(つひ)は、彼女の永遠を支えていた力は失われるのだ。

 

「貴(き)龍(りゆう)院(いん)よ、これからは俺(おれ)と一緒に、日本と日本人を誠心誠意愛してくれるな?」

「はい! 愛しますっ!! 日本最高! 日本大好きいいいっっ!!」

「そうか、それなら良いのだ」

 

 神(じん)皇(のう)は貴(き)龍(りゆう)院(いん)に屈託の無い微(ほほ)笑(え)みを向けた。

 貴(き)龍(りゆう)院(いん)は新しい自分を心の底から悦び、感涙しながら、深い闇に包まれていく。

 神(じん)皇(のう)が怪(け)訝(げん)そうに見下ろす足下で、貴(き)龍(りゆう)院(いん)皓(しら)雪(ゆき)は蜘蛛(くも)の子を散らす様に消滅していく。

 宛ら、初めから居ても居なくても変わらぬ塵(ちり)芥(あくた)の様に……。

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