目を覚ました貴龍院は、すぐに状況を察した。
(此処は……?)
痛みを堪えつつどうにか顔を上げると、そこには「高御座の間」の荘厳な扉が堂々たる姿で聳え立っていた。
それを彼女は「実際に顔を上げて初めて見ることが出来た」のだ。
更に、傷が治っておらず、崩れた顔のせいで視野が著しく狭くなっている。
以上の事実より、貴龍院は自らの置かれている異常事態を理解した。
(あの女……! よくも出鱈目な莫迦力で殴ってくれたわねぇ……!)
貴龍院の「尋常ならざる眼」を支えていた神為が消えている。
生まれ付いて神為に恵まれていた彼女は、一度それが失われると、自然回復までに長期間を要する。
また、肉体が傷付いたままになっているのは「穢詛禍終」の再生も機能していないということだ。
これは、魅琴の絶大なる力が「不死」を中途半端に捻じ伏せ、損傷度合いが再生の許容量を超えてしまった為だろう。
(とはいえ、生きている……! だったらこっちのものだわぁ)
貴龍院は折れて隙間だらけになった歯を見せて笑った。
潰れた鼻から流れる血が口に入る。
だが、彼女は寧ろそれを好都合に思っていた。
(私の顔、悲惨なことになっているわよねぇ……。屹度神皇陛下は憐れんでくださる。私をこんな目に遭わせたあの女に、麗真魅琴に幻滅して考え直してくださるわぁ)
この期に及んでまだ神皇を恃み、悪巧みを目論む貴龍院。
そんな彼女の頭上に、待ち望んだ男の声が降り注ぐ。
『貴龍院よ』
「へ、陛下ァ……」
貴龍院は涙目で媚びた笑みを浮かべ、扉を見上げる。
今迄、彼女の周囲には真面に頼れる男など居なかった――彼女はそう認識している。
しかし、「絶対強者」たる神皇だけは別だ。
彼を味方にさえ付ければ、憎き者など容易く葬り去ってくれる。
「陛下、陛下ァ……」
貴龍院は甘えた声で扉に縋り付く。
しかし神皇の声は、そんな彼女に不快な言葉を続けた。
『貴龍院よ、来客はどうなった?』
貴龍院の表情に屈辱が滲む。
神皇が、自分を痛め付けた「客人」のことを気に掛けている。
とはいえ、甚だ気に食わないが、ここは神皇の意に沿うよう努めるしか無い。
「はい……。御報告……いたします。今……御側に……」
貴龍院は重い扉を押し、ボロボロになった体を引き摺る様に「高御座の間」へと進む。
野球場程の室内に聳える鳥居、周囲に映し出される「数多の日本」のそれぞれの歴史――傷付いた貴龍院にとって何もかもが輪を掛けて不愉快だが、その本心は押し殺さなければならない。
貴龍院は息も絶え絶えになりながら、階段上の玉座に坐る神皇の足下に辿り着いた。
「貴龍院、手酷くやられたようだな」
神皇・叡智は巨大な玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りる。
貴龍院は主の憐れみを得ようと、迫真に演じる。
「申し訳御座いません、陛下。やはり了承は得られませんでした……。そればかりか私に対しこの仕打ち……。榊御門様も菊屋敷様も敗れました……。最早岬守航と麗真魅琴を相手に出来るは陛下のみ……。貴方様の御力に御縋りするより他にありません……」
弱々しい声で訴える貴龍院は、主の竜顔を仰ぎ見ながら擦り寄る。
「陛下、どうか貴方様の御力で仕返しをしてください。陛下にお悦びいただく為の私の体にこんなことをしたあの女に相応しき罰を。でなければ私、悔しくて悔しくて堪りません……!」
貴龍院の哀願に対し、神皇は無言で彼女を見下ろしている。
何を考えているのだろう。
早く首を縦に振り、憎たらしいあ奴等を鏖にしてほしい――そんな邪な想いが貴龍院の内心に沸々と込み上げてくる。
しかし、神皇の回答は意に沿うものではなかった。
「芯の強さは相変わらずのようだ。益々気に入った。ならばこの俺が改めて直々に口説かねばならぬな」
「は……?」
俄かには信じられない言葉を受け、貴龍院は戸惑いに腫れた目を可能な限り見開いた。
「へ、陛下? 何の世迷い事を……?」
「麗真魅琴の意志は確かに固いのだろうが、それでも尚、いやだからこそ口説き落とす価値があるというもの」
「あの女はこの私を痛めつけたのですよ!?」
貴龍院は抗議の声を上げた。
神皇の秀麗な眉目がぴくりと動いたが、最早そのような顔色など窺っていられない程に貴龍院は取り乱していた。
「ならば二人の間に和解の席を設けねばならんな」
「わ、和解って……! 一体何を仰いますか、陛下!」
「当然だろう。皇后と近衛侍女の間に蟠りがあってはならぬ。凡ての日本人が汎ゆる遺恨を超えて宥和することこそ、俺が麗真魅琴を立后しようとする目的なのだからな。無論、汝もその一人だ」
「ありえません! いくらなんでもそれはあんまりでございます!」
神皇の無体な言葉に、貴龍院は涙を流して訴える。
「私は唯の侍女では御座いませぬ! お忘れですか? 私は貴方様が赤子の頃よりずっとお仕えし、御身の御世話を誠心誠意務めて参りました! 幼い時分には息子と思い、御立派に成長なさって初めての御相手を務めさせていただいてからは恋人と思い……! なのにどうして! 貴方様はいつも私の想いを二の次になさるのですか! 私はこんなにも、誠心誠意貴方様をお慕い申し上げ、忠誠の限りを尽くしてきましたのに!」
それはただ、現在の態度だけに対する抗議ではなかった。
思えば貴龍院は神皇の近衛侍女――実質的な愛人に敷島朱鷺緒が加わって以来、何かと「二番手の愛人」の座に納まってきた。
自身を「御媛様」と考える彼女にとって、その扱いは極めて屈辱的であったが、神皇の機嫌を損ねる訳には行かず耐えることを余儀無くされてきた。
敷島が神皇の許を去り、漸く「最も近しい女」に返り咲いたというのに、尚も自分は神皇に「二の次」扱いをされている――その事実は貴龍院を何よりも打ちのめしたのだ。
「忠誠の限り、か……」
「然様で御座います! 然様で御座いますとも! なのに貴方様はそれに報いてくださらないのですか!」
貴龍院は今、はっきりと神皇に自らの怒りを剥き出していた。
普段の彼女は決してこの様な態度で主に臨まないだろう。
対して神皇は、そんな彼女に驚くでもなく、実に落ち着いた様子で問い掛ける。
「ところで貴龍院よ、刀はどうした?」
貴龍院は一瞬呆けたが、すぐに自身の腰に目を遣った。
そこには中身を失った鞘だけが佩かれている。
貴龍院は頭から一気に血が引ける感覚に襲われた。
彼女の刀は「文殊丸恒次」と呼ばれる、他ならぬ神皇――第一皇子時代の獅乃神叡智から賜った、紛失すること罷り成らぬ逸品である。
「こっ、これは……! う、麗真魅琴です! あの女、事もあろうに陛下に賜りし名刀を台無しにしたので御座います! 私にとって、何よりの宝物を!」
貴龍院は咄嗟に言い繕う。
嘘は言っていない。
現に、刀を叩き折ったのは魅琴で間違いは無い。
だが、神皇は冷静に追い打ちを掛ける。
「鞘には傷一つ付けずに、か?」
神皇の言葉に貴龍院は凍り付いた。
同時に、彼女は漸く気が付いた。
神皇の両眼――真紅と柳緑の双眸は宛ら獲物を仕留めに掛かる猛禽類の様に獰猛な視線を貴龍院に向けていた。
「は……ぐっ……!」
射竦められた貴龍院は満足に息も出来なくなっていた。
三千世界に於いて、比肩するものの無い恐怖が彼女の全身を鷲掴みにしている。
事此処に至り、貴龍院は最大最悪の過ちを犯してしまったのだ。
「貴龍院よ、刀を抜いたな? 俺が丁重に持て成すよう命じた客人に対して……。何ぞ申し開く言葉はあるか?」
「あ……かっ……!」
今や貴龍院は、魅琴に打ちのめされて傷付いた体の汎ゆる部位よりも無傷の肺と心臓に激痛を覚えていた。
神皇の、「絶対強者」獅乃神叡智の不興を買ってしまった――誰よりも長く神皇を側で見続けた彼女にとって、これ以上の危機的状況は存在しないだろう。
「貴龍院よ、どうやら貴様は随分と思い上がっているようだな」
「ぐっ……がっ……」
「貴様は俺を恣に操らんと試み、面従腹背の態度で側仕えしていたらしい。誰よりも信を寄せてる貴様がどういうことかと疑問に思っていたが、漸く本心を聞くことが出来た。貴様はこの俺を自分だけのものにしようとしていたのだな」
重苦しい、今にも圧し潰されそうな空気が貴龍院に伸し掛かる。
この時を過ごす全ての刹那が、彼女にとって恐ろしい拷問だった。
「しかし、言うに事欠いて俺のことを『息子』と称したか。貴様、俺の母親を気取っていたのか。心して聴くが良い。俺は母親のことを、嘗て皇國の行く末を憂い父上に卵子を提供し、俺達六人の皇子皇女をこの世に降ろした『臥龍飛鳥』なる女のことを心より敬愛している。顔も辿ってきた人生も何も知らぬ女だが、唯一人の母として父上と同じ様に今も心を寄せている。その母・臥龍飛鳥を差し置き母を騙るなど、甚だ烏滸がましきこと」
神皇の言葉の一つ一つが貴龍院を追い詰め、三千世界の隅に追い遣り、鋭角の奥に圧し固めていく。
臥龍飛鳥の卵子を先代神皇に提供したのは他ならぬ貴龍院だ。
貴龍院は神皇の母親を言葉巧みに仲間へ引き込み、利用するだけ利用して棄てて殺したのだ。
彼女は今、この事実すらも神皇に見抜かれている様な気がしてならなかった。
(あああああ駄目! 畏ろしい! 畏ろし過ぎる! 耐えられない! 私が此処に居ることが、私がこの御方に背いた私として此処に平伏していることが、到底耐えられない!)
貴龍院は今、心の中に悍ましい光景を見ていた。
一人の女が、二千七百年を生きてきた貴龍院皓雪――告雪媛が棘の付いた鎖で雁字搦めに縛られ、吊るし上げられている。
「お、おゆっ……、おゆっ……!」
「どうした? 何ぞ言いたいことでもあるのか?」
言葉が上手く発せない。
先程からずっと、息も満足に出来ないでいた。
それは心象風景と重なり、鎖で締め上げられて肺が膨らまないのだと錯覚しいた。
そんな彼女に、神皇は打って変わって穏やかに語り掛ける。
「貴龍院よ、何も俺は汝を取って食おうという訳ではない。ただ汝が心を入れ替えてくれればそれで良い」
しかし、貴龍院は神皇の「赦し」とは裏腹に、全く別の光景と感覚を認めていた。
(あがっ! あがあああああっっ!! 骨が! 骨が砕けるうううううっっ!!)
貴龍院は今、自身を締め上げる棘突きの鎖で体の形を無理矢理直されていた。
背景には巨大な二つの眼が、真紅と柳緑の虹彩が貴龍院の姿を映している。
それは宛ら、捩じ曲がった性根を真直ぐに矯正しているかの様である。
そう、骨を砕き、「貴龍院皓雪」「告雪媛」という存在そのものを造り変えているかの様な……。
「貴龍院よ、今迄の自分を改め、今度こそ俺に、本当の意味での忠義を尽くしてくれるか?」
「はい! はいいいいいいっ!!」
「貴龍院よ、麗真魅琴と仲直りし、皇后たる彼女に対しても俺に対するものと同じ忠誠を誓ってくれるか?」
「はい! はい喜んでええええっっ!!」
今、貴龍院は「絶対強者」の神髄を見ていた。
神皇・獅乃神叡智は夢の中で生きている。
世界の全てが自分にとって愛すべきものだと疑いなく信じ切っている。
そして彼は強く望めば、「こうなって欲しい」と相手に強く訴えかければ、ただそれだけで自らの思いを実現してしまえるのだ。
普段の彼は、この様な現象など起こさない。
自ら「望む」までもなく、誰もが彼の願いを叶えるべく齷齪動いてくれるからだ。
彼はそれを、誰もが自由意志で喜んで自分に従ってくれているのだと思い込んでいる。
恐ろしいことにそれは皇國に於いて基本的に正しく、彼もまたそんな臣民達を心の底から愛し、望ましい主君であろうと務め、そこに至福を感じている。
だが彼はその「美しい世界」を無自覚に強制している。
そしてそこにどうしても相容れぬ者には、自由意志を捻じ曲げる「無為の支配力」を意図せず発揮してしまう。
これは叛逆者や逆賊の様な、信念を持って敵対する者に対してではなく、貴龍院の様な、特に確固たる芯も無くただ不満を抱いている者に対して覿面に効く。
何故なら、信念を持って敵対するのは彼にとって「別の正義を貫こうとする、好ましい日本人」だからだ。
(ひぎいいいいいっっ!! 痛い! 痛いいいいいいいッッ!! 笞打! 石抱! 海老責! 釣責! 木馬責! 水責! 火責! 駿河問! あぐおああああああああっっ!! 駄目! 駄目駄目駄目えええっっ!! 私が私じゃなくなる! 日本を、世界を呪い続けられなくなるうううううっっ!! 救われてしまううううウウウッッ!! ありがとうございますうううううっっ!!)
貴龍院にとってそれは正に、究極の「矯正」だった。
その絶対的な力の懲戒の前では、二千七百年の呪詛など塵滓に等しい。
彼女は今、本当の意味で死の危機に瀕していた。
恨み憎しみを忘れ、世を呪い続けられなくなれば、穢詛禍終は、彼女の永遠を支えていた力は失われるのだ。
「貴龍院よ、これからは俺と一緒に、日本と日本人を誠心誠意愛してくれるな?」
「はい! 愛しますっ!! 日本最高! 日本大好きいいいっっ!!」
「そうか、それなら良いのだ」
神皇は貴龍院に屈託の無い微笑みを向けた。
貴龍院は新しい自分を心の底から悦び、感涙しながら、深い闇に包まれていく。
神皇が怪訝そうに見下ろす足下で、貴龍院皓雪は蜘蛛の子を散らす様に消滅していく。
宛ら、初めから居ても居なくても変わらぬ塵芥の様に……。