雲野研究所の所長室は、二人の人間が暴れ回るには些か狭い部屋である。
そんな場所で戦う虻球磨新兒と鍛冶谷群護だが、状況は一方に頗る有利なものだった。
それを象徴するかの様に、鍛冶谷は余裕綽々と言った表情で血塗れの新兒を冷笑していた。
血は主に新兒の右腕から滴り落ちている。
鍛冶谷も決して無傷ではないが、ダメージ量は比較にならない。
この状態を作ったのは、偏に鍛冶谷の術識神為である。
「ッらァッッ!!」
新兒は果敢に鍛冶谷へと向かって行き、喧嘩で幾度と無く強豪不良を沈めてきた左拳を振るう。
対する鍛冶谷は、戦いの経験自体に於いては新兒の足下にも及ばないと見て取れる。
「ギャバッ!!」
新兒に顔面を殴り飛ばされ、鍛冶谷は打ち倒されて床を滑った。
この様に、新兒の攻撃自体は鍛冶谷に綺麗にヒットする。
だが、である。
『熱源を感知しました』
鍛冶谷の声が新兒の脳裡に響き、同時に左拳から赤黒い血が噴き出した。
新兒は苦痛に顔を歪め、これ以上追撃出来ない。
鍛冶谷は悠々と立ち上がる。
「君はまだ神為の第二段階で止まっているようだねえ。術識神為が使えないのは辛いなあ」
薄笑いを浮かべる鍛冶谷の折れた歯が再生する。
新兒と違い、鍛冶谷のダメージはすぐに恢復してしまう。
これは神為の覚醒段階、その深さの差異に原因がある。
「篦鮒飼育法はよく読んだかい? 術識神為に覚醒した者は、非覚醒の盆暗とは抑も神為の質自体が違うんだ。より深みに達した神為は、修復力や耐久力、身体能力の強化水準も高くなる。僕と君とでは、最初から格が違うってことさ」
勝ち誇る鍛冶谷だが、実際新兒は圧倒的に不利である。
単に鍛冶谷の方が格上であるならば、戦い方の如何によって新兒にもまだ目がある。
だが、それ以上に高い壁となって立ち塞がるのが鍛冶谷の術識神為である。
「触ったら傷だらけになっちまうってのは厄介だなあ……」
鍛冶谷の術識神為は、或る一定以上の熱量を持った生命体に触れられると自動的に発動し、触れた部位をズタズタに切り刻んでしまう。
神為による耐久力と回復力を備えた新兒の手は原形を保っているが、神為を持たない一般人であるならば全指を失うばかりか動脈を切断されて失血死してしまうだろう。
「扨て、今度は此方から行こうか!」
鍛冶谷は腕で頭を守り、体を丸めて真直ぐ突進してきた。
彼の能力を加味すれば、下手に殴る蹴るといった攻撃に出るよりも余程合理的である。
「くっ!」
新兒は咄嗟に背中を向けて急所への衝突を避けた。
更に、衝突の瞬間に後ろへ跳び退いて距離を取る。
『熱源を感知しました』
「ぐがぁッ!!」
新兒は背中から激しく出血して倒れた。
「なかなか良い勘してるじゃないか。体当たりから抱き付けば僕の勝利は確定だった」
「陰キャで発想が只管気持悪い上に犯罪者とか、マジで終わってるなお前……」
どうにか起き上がった新兒だったが、着実に追い詰められていた。
「攻撃しても防御してもダメージ喰らうのはこっちだけだもんなあ……」
血を流し過ぎて青褪めた新兒の額に嫌な汗が滲む。
損傷は明らかに神為による修復力を超過していた。
このままでは孰れ新兒は失血死してしまう。
「一方、術識が使えない君の神為では僕に有効打を与えられない。これははっきり言って勝負あったねえ」
「お前、喧嘩でこんな勝ち方して嬉しいのかよ。気持ち良くねえ奴だなあ」
「負けた方が一々相手に鶏知を付ける方が気持ち良くないと思うがねえ」
「それは……まあそうだな」
新兒は納得する他無かった。
単純に腕節の強い者が常に喧嘩で勝つとは限らない――新兒にとって、そんなことは今更言われるまでもない。
寧ろ、金属バットやナイフを持ちだしてきた相手よりは遥かに真当な戦い方である。
今までは、それでも新兒の方が圧倒的に強かったから問題無かった。
新兒はつい二・三年前まで、喧嘩に明け暮れる危険な日々を送っていた。
妹・虻球磨千草に止められなければ、破滅的な厄災に見舞われて死んでいたか、犯罪者として取り返しの付かないことをやらかしていただろう。
「真当に生きようと思ってるんだがな。まだ運命は俺を許しちゃくれないらしい……」
「じゃあ、ここで終わりにしてあげよう。もう一発喰らっときな」
再び鍛冶谷が突進してきた。
新兒は身を躱すものの、鍛冶谷は只管追い掛けてくる。
「気持悪っ! ダサッ! 酷え戦い方!」
「遠吠えの種類が多彩な負け犬だねえ!」
新兒は逃げ回った果てに所長席の机の上に登った。
折畳式個人計算機や紙の資料が土足で踏み荒らされる。
「あ、コラ! 僕の計算機から足を退けろ! 資料も! ふざけるなよ!」
鍛冶谷の手が新兒の脚に伸びる。
「おわっ!」
新兒は咄嗟に片足を退けたが、残った軸足に鍛冶谷の手が抜け目なく伸びてきた。
片足跳びで躱した新兒だったが、鍛冶谷は手当たり次第に新兒の脚を掴もうとする。
新兒は宛ら熱砂の上を裸足で踊る様に机の上を踏み荒らした。
「いい加減にしろこの!!」
鍛冶谷は両手で新兒の膝を狙ってきた。
「やべっ!!」
新兒は机から跳び退いて躱そうとしたが、片足首を掴まれてしまった。
『熱源を感知しました』
新兒は足首から脛に掛けて激しく出血した。
跳び降りる勢いと血の滑りで鍛冶谷の手は離れたものの、新兒は立っていられなくなって床を転げる。
「畜っ生……」
「さァて、これでもうちょこまかと逃げ回れないねえ……」
鍛冶谷は下卑た笑みを浮かべて新兒を見下ろす。
油濃い長髪と黄ばんだ博衣の不潔さが余計に不快さを引き立てる。
「そろそろ止めを刺してやろうか」
絶体絶命のピンチを迎え、新兒はこれまでの人生を走馬灯の様に思い起こす。
幼い頃は警察官の父に憧れていたこと。
いつも自分に懐いてくる妹が可愛くて仕方が無かったこと。
中学生の頃、上級生が妹にちょっかいを掛けてきたのでキレてボコボコにしてしまったこと。
それを切掛にズルズルと不良の道へ堕落していったこと。
三度目の留置所から戻ってきた時、妹に涙ながら平手打ちされ、説得されて我に返ったこと。
高校に行き直し、真当に生きようと決意した自分を家族みんなが応援してくれて堪らなく有難かったこと。
(嗚呼、出来れば千草がどんな大人になるか、真面な兄貴になって見守りたかったな)
新兒は自分の末路を自嘲した。
「畜生……出来ればもう一度親父とお袋、千草に会いたかったぜ……」
と、その時である。
新兒の呟きを聞いた鍛冶谷は、虫唾が走る様な悍ましい声で大笑いし始めた。
「ははははは! 君は故郷に帰れば家族にまた会えると思っていたんだねえ!」
「は?」
新兒は瞠目した。
頭の中に最悪の想像が過る。
「おい、どういう意味だ? どういう意味なんだよ!」
「頭悪いなあ。君の家族は僕がきっちりあの世に送ったから、故郷に帰っても会えないよって言ってるんだよ!」
新兒の頭から血の気が引いたのは出血だけが原因ではないだろう。
言葉を失った新兒に対し、鍛冶谷は更に追い打ちを掛ける。
「僕は他の奴らみたいに甘くないからねえ。その場に居た奴は一人残らず消しているんだよ。でもま、これが例えば同志土生じゃなくて良かったと思うよ? 君の妹、あんなに可愛い女子高生、間違い無く殺すだけじゃ飽き足りなかっただろうしね」
意識を失った訳でもないのに、新兒は目の前が真っ暗になる思いがした。
これまで感じたことの無い、どす黒い感情が心の奥の奥から湧き上がってくる。
「ま、だから感謝すると良い。お望み通り、あの世で家族と再会させてやるんだから」
「黙れ」
新兒は傍らにあった机の脚を持ち、鍛冶谷に向けて勢い良く投げ付けた。
「ぐえええエッッ!?」
突然のことに全く反応出来なかった鍛冶谷は、机の下敷きになって血を吐いた。
「ゴッフ、なんてことをしてくれるんだ。僕の机を、計算機を、資料をぉ……」
「そんなもん後でどうにでもなるだろ。だが、命は戻らねえ」
新兒は物凄い形相で鍛冶谷を見下ろしている。
傷の痛みも忘れ、血塗れの脚で歩を進め、血塗れの拳を握り締める。
鬼と形容するのも生温い凶悪極まる形相は、嘗て暴れ回った彼に完全に後戻りしていた。
嘗て、関東三大粗大塵と呼ばれた、どうしようもない三人の不良が居た。
一人は暴力団幹部の父親を持つ背景から、一人は関東最大の暴走族を束ねる数の力から手を出してはいけないとされていたが、そんな二人と個人の腕節だけで並び称された男がいた。
他の二人と違い、無闇矢鱈と暴力を振るうことは無かったが、キレると何をするか分からないので、三人の中でも特にアンタッチャブルな存在として恐れられていた。
そんな彼に対して、妹のことだけは最大の禁忌だと知られていた。
「手前だけは絶対に許さねえ!! ぶっ殺してやる!!」
今その男・虻球磨新兒は、あろうことか妹を殺害された怒りと憎しみを剥き出しにしていた。
事此処に至っては、彼が如何に暴れるか、誰にも想像だに出来ないだろう。