同日、夕刻。
栃樹州ではこの時間帯、航達も狼ノ牙側も動きを見せていない。
丁度、翌日の行動に向けて休み、力を蓄えている頃だ。
そんな方角へ、皇國首都統京から一本の高速列車「神幹線燕號」が北上していた。
乗客の中には、数時間前に皇國の政府筋から密かに連絡を受けた日本国からの使者が混じっており、上級客席に腰掛けている。
一列二人ずつの並びに三人が席を取り、前の窓際席に日本国防衛大臣兼国家公安委員長・皇奏手の秘書・根尾弓矢、後の窓際席に皇の娘・麗真魅琴、その隣に諜報員・白檀揚羽という風に坐っている。
後部座席で寝息を立てる魅琴、隣で弁当を食う白檀を差し置き、根尾は一人スマートフォンの画面を睨んでいた。
「なんだ、これは?」
前日より、根尾はもう一人の諜報員・仁志旗蓮からの連絡を待っていた。
その仁志旗から一日越しに届いたのが、添付画像だけのメッセージである。
根尾はその画像の意味に首を捻っていた。
仁志旗の術識神為は一瞬にして長距離を移動する能力で、本来の予定ならば既に合流している筈であった。
根尾の隣が空いているのは、仁志旗が坐る予定だったからだ。
「やっと連絡が来たと思ったら、これだけか。こんな画像だけ送ってきて、どういうことなんだ?」
画像には四人の人物が写っている。
「ファイル名に付いているのが四人の詳細か? それにしては、二人分しか判らない。これは何処で撮影されたものだ? 何やら豪勢な御屋敷らしいが……」
何一つ補足のメッセージが無いということは、仁志旗はどうしても先んじてこの画像だけは送りたかったということだろうか。
何か、続報を出せない事情があるのか。
「まさか、仁志旗の奴……」
もしや何か重要な情報を掴み、口封じの為に消されたのか――根尾の胸中で疑念が渦巻く。
彼は席を立ち、後部座席の白檀に声を掛けた。
「すまん、一寸電話を掛けてくる。麗真君を見ていてくれ」
「蓮君の件ですか?」
「ああ。ひょっとすると、最悪の事態も想定せねばならんかも知れん」
白檀は箸を置き、少し顔を伏せた。
彼女と仁志旗は同じ児童養護施設で育った旧知の仲だ。
諜報員になってからも、二人は互いを信頼し合っていた。
「すまん。確証が無いまま言うことではなかったな」
「いえいえ、大丈夫ですよ。私達、その覚悟だけは常にしていますから」
普段と違い、白檀に間の抜けた様子は見られない。
彼女なりに、諜報員としての危険性に自覚はあるのだろう。
「そうか……」
根尾は車輌を出て電話室に向かった。
⦿
電話室で、根尾は答えない電話を見詰めては耳に当て、それを何度も繰り返す。
だが一向に仁志旗からの応答は無かった。
状況から言えば、仁志旗が電話に出られない状態であることは間違い無いだろう。
メッセージは送付出来るのに、である。
「ここで仁志旗を失うのか……」
電話を切り、根尾は頭を抱えた。
仁志旗はプロフェッショナルを自認する、非常に優秀な諜報員だ。
根尾や白檀が不都合無く皇國で活動出来るのは、彼が齎した情報に依るところが大半である。
「だとすると、あいつが遺したこの情報は何としても解読せねばならん。この移動中に、取っ掛かりだけでも掴んでおけないものか……」
写真に並んで何かを話している風なのは、女が一人に男が三人。
その内、少年のような出で立ちの小柄な男と、長髪を髷の様に結った巨躯の男の名前はファイル名に記されている。
「『最右:甲夢黝前首相秘書・推城朔馬、最左:狼ノ牙首領補佐・八社女征一千』だと……? そういうことなら確かに、この写真は皇國の一大スキャンダルかも知れん。だが、態々俺に送ってくるような情報なのか?」
残る二人の詳細は判らない。
男一人は猫の仮面を着けているし、女の顔は写っていないのだ。
根尾は、本当に重要なのはこの不明な二人の方ではないかと考え始めていた。
と、その時、一人の壮年男が電話室に入ってきた。
「おや、これは根尾殿。奇遇ですな」
根尾はこの男と面識があった。
先んじて極秘で皇國を訪問した際、接触した政治家の一人である。
実力者であり、無下には出来ない人物だ。
「お久し振りです、大河侯爵閣下」
大河當熙――皇國の貴族院議員である。
頭髪や顔の皺は年齢を感じさせるものの、体付きは二十代の若者の様に健康的だ。
「統京から出られるのですか?」
「許可は得ていますよ。政治に携わるものとしては、中央だけでは無く地方も見ておきたいのです。そうでなくては見えてこないものもある」
根尾は出任せを答えた。
狼ノ牙に拉致された邦人を救出すると素直に言うわけにはいかなかった。
抑も、皇國の警察権力を差し置いて根尾達が動いていることには、皇國政府が本件の発覚を恐れているという理由がある。
皇國政府は或る理由により、日本国側の感情悪化を恐れていた。
またそれは、議会の非主流派や報道にとって格好の攻撃材料になる。
そして、その非主流派の最有力政治家こそ、今根尾に接触してきた大河當熙の従兄・甲夢黝である。
大河は甲家の人間ではないが、幕藩体制下の大名から旧華族となった名門の出であり、侯爵位を授爵している。
根尾としては今、大河とあまり関わりたくはなかった。
「それはそれは、御立派な志だ。根尾殿はまだお若いというのに明達な御意思をお持ちのようで。斯様な若者を抱える明治日本は、やはり皇國と同じく誉れ高き大和民族の国ということですな」
根尾は「またか」と眉を顰めた。
皇國の政治家というのは、やたらと自国や自民族の優位性を誇示するような言動をする者が多い。
(これはおそらく、反動なのだろうな。八十年程前まで続いた、過剰なまでに伝統的国民精神を否定して世界主義的労働者運動を称揚した反理想郷・ヤシマ人民民主義共和国時代への……)
狼ノ牙の前身であるヤシマ人民民主主義共和国は、それまでの帝国主義的体制の否定を徹底するあまり、国家の繁栄すらも捨て去って「足るを知る農業国家」を目指した。
それは民衆にとって地獄ともいえる貧困と抑圧的体制を生み出し、神皇を中心とする現体制「神聖大日本皇國」に覆されて現在に至る。
(確かに、愛国心や歴史・文化への誇り、国家への帰属意識を全否定するような思想は不健全だ。そんなものを強要されては堪らんし、我が国が戦後そちらに偏りがちだったのは是正が必要だと俺は思う。だが、皇國のこれも良いとは思わん。こうやって兎にも角にも国家や民族の優位性を全肯定するのは、全否定の鏡写しではないか)
根尾はこの「皇國の過剰な自国意識」を非常に危ういものだと感じていた。
何かが切掛で、脆く崩れ去るのではないか。
そうなった時、皇國はそれを補償する為にとんでもない暴挙に出るのではないか。
(必要なのはもっと自然に沸き起こる自国への愛着、歴史や先人への敬意、それに根差した自己肯定感――そんな健全な幸福感に基づく誇りと、それを未来へ繋いでいく社会奉仕の精神じゃないのか)
根尾は爛々と輝く大河の眼に若干の嫌悪感を抱いた。
(皇先生、貴女は本気であの計画を推し進めるつもりですか? 確かに、それは貴女の為だけでなく日本国を圧倒的に押し上げる神の一手となるでしょうが……)
根尾は揺れていた。
写真のことが頭から離れる程に。
と、そんな根尾に大河は不気味なくらい顔を近付けてきた。
根尾はギョッとして少し身を引いた。
「大河卿、如何なさいましたか?」
「根尾殿、少し内緒のお話が御座いまして、お耳を貸していただけませんか?」
根尾は立場上断る訳にもいかず、身を屈めた。
大河の唇が根尾の耳に近付く。
「うっ!?」
根尾は異様な気配から身を引いた。
大河は僅かに舌を出し、明らかに耳打ち以外の何かを試みていた。
否、それだけではなく、大河からは異様な神為と殺意が放たれている。
「大河卿! 何をなさいますか!」
「若造が……! もう少しのところで耳から我が術識神為を流し込み、脳髄を破壊出来たものを……!」
大河の眼は焦点が合っておらず、また口からは涎を垂らし、完全に正気を失っていた。
どうやら何者かに操られているようだ。
「電話を寄越せ……」
「電話?」
根尾は自身の手に握られていた電話端末に目を遣った。
狙いがこれだとすると――根尾は眦を決して大河と向き合った。
「電話を寄越せええエッッ!!」
「断る」
根尾は飛び掛かってきた大河の両腕を取った。
大河は蹴りを振り被る。
だが、大河はその姿勢のままで固まってしまった。
『術識神為』
大河の体に異変が起きた。
根尾に掴まれた腕から、徐々に石化し始めていた。
「そんなに俺が受け取った写真が重要なのか? ならば誰の差し金か、ある程度想像が付くな。裏に居るのは甲夢黝か? それとも、甲の思惑すらも超えて推城が勝手に動いているのか?」
甲夢黝という皇國最大の貴族が、推城朔馬の所属する皇道保守黨だけでなく八社女征一千の所属する叛逆組織にまで接点を持っている可能性――根尾が受け取った写真にはその重大なスキャンダルが示されている。
だが、ただそれだけならば有力な議員を鉄砲玉にして殺しに来るのではなく、もっと権力を背景として確実なやり方で潰しに来る筈だ。
「お前が殺しに来たことで確信したぞ。どうやら、裏で何やらとんでもない闇が蠢いているらしいな。そして残念ながら、仁志旗はそれを知って消されたのだな!」
大河は鼻から上を残して石化し、瞼を痙攣させるばかりであった。
根尾は大河の両腕から手を放した。
「安心しろ。俺はお前を殺さない。寧ろ依頼人に殺されないように助けてやろう。俺と一悶着合った直後に死なれては不都合だからな。石化も俺達が下車したら解いてやる」
根尾の指先が大河の額に当てられた。
「俺の術識神為は石化する相手の精神を上書き出来る。先ず、石化を解いたらお前はここで俺との間に起きたことは全て忘れろ。今からする命令以外は綺麗さっぱりな。命令は『甲夢黝と推城朔馬からなるべく離れろ』だ。良いな?」
根尾は踵を返し、電話室を出て行った。
一人取り残された大河は完全に石と化してしまった。
触れた相手を石に変える。
石化を解いたとしても、石化するまでの時間で下した命令を相手の精神に上書きし、従わせる――それが根尾弓矢の術識神為である。
根尾はこの術識神為を、航と出会った五年前の時点で既に身に付けていた。