ワゴン車の中で、根尾弓矢は一本の電話を取った。
「もしもし。麗真君、連絡を待っていたぞ。岬守君は?」
『彼も此方で無事です。ただ、敵の能力を受けてしまい、今日は動けそうにありません』
鷹番夜朗の相手を引き受けた麗真魅琴の報せに、根尾は一先ず胸を撫で下ろした。
彼の雰囲気から二人の無事を悟った他の者達にも安堵が伝搬する。
「良かった。此方は目立たないように高速道路を使わず一般道を走っている。何処か近場の駐車場で待つことにするから、動ける様になったら追い掛けて来てくれ」
鷹番を撃破した以上、合流するのはそう難しくないだろう。
魅琴がその鷹番、そして第一皇子・獅乃神叡智と遭遇したあの日、白檀揚羽のことを今一つ頼りにならないと感じた根尾は魅琴にも電話端末を持たせることにした。
今の彼女には目的地への道筋を調べる手段があるのだ。
『いいえ、其方はそのまま統京へ向かってください』
しかし、魅琴は根尾の提案を断った。
根尾は眉間に皺を寄せて彼女の真意を問い質す。
「どういうことだ? 合流出来ない訳でもあるのか?」
『此方の再起はおそらく明日以降になる。それまでみんなのことを足止めにする訳にはいきません。こうしている間にも次の刺客が忍び寄っているかも知れない』
根尾は暫し沈黙し、考える。
魅琴の言うことも解らないではなかった。
『根尾さん、私達は六摂家当主の一角を撃退したんです。次に襲ってくる相手もおそらく同じ六摂家当主、皇國でも最上位の貴族でしょう。一箇所に留まって手を拱いているのはあまりにも危険です』
「しかし……」
『私達のことは心配要りません。私は勿論のこと、航も見違える程逞しくなりました。鷹番を撃退したのは私ではなく航ですから』
「なんだと?」
俄かには信じられない言葉だった。
根尾は岬守航という男を侮っている訳ではない。
狼ノ牙から自ら逃げ延びてきたことは驚嘆に値する。
しかしそれでも、六摂家当主を乗り越えるとしたら魅琴の力だろうと思っていた。
「……解った。我々はこのまま統京の龍乃神邸へ向かう」
『ありがとうございます』
「但し、君達も必ず無事に辿り着け。さっき君が言った言葉はそのまま君達の方にも当て嵌まるんだからな。君達の力を見縊っている訳ではないが、それでも油断するなよ」
『問題ありません。誰が相手であろうと、私は敗けません』
魅琴の返答に、根尾は何かを思う様に目を閉じた。
「呉々も無茶はするなよ」
『はい』
「では、龍乃神邸で待つ。必ずまた会おう」
『ええ。ではまた』
電話を終えた根尾は、白檀にこのまま統京へ向かうように指示した。
二人を欠いたワゴン車はこのまま一般道を南下していく。
⦿⦿⦿
統京は皇宮、御所。
中庭を一望出来る広縁に、上等な革椅子が小卓を挟んで向き合うように置かれている。
そこに、若い皇族が二人腰掛けて中庭を眺めていた。
昼食会も終わり、一息吐いているところである。
「龍姉様、本気で言っているのかい?」
第三皇子・蛟乃神賢智は細面の顔を姉・龍乃神深花に向けて問い質した。
窓から吹き込む風が京紫色の髪を揺らし、睫毛の下から除く澄んだ向日葵色の眼と相俟って、どこか物憂げな雰囲気を醸し出している。
膝の上には羽の傷付いた鳩を乗せ、何やら掌から発する優しい光を当てている。
その佇まいは典型的な、優しく気弱な王子様といった様相だった。
「本気だからこそ、皇族の中では君にしか話せないんだ」
対する第二皇女・龍乃神深花は燃える様な紅い髪と菫青石の様な澄んだ眼に力強い意思を感じさせる。
歳が近いこともあって、この二人は皇族の中でも特に関係が良好であった。
姉・龍乃神深花にとって弟・蛟乃神賢智は普段見せられない弱みや立場上言えない本音を打ち明けることが出来、かつ聡明さから有意義な回答を期待出来る良き相談相手であった。
「賢智、君なら或いは解ってくれるような気がしてね」
弟は答えない。
掌から発した光が収まり、傷の癒えた鳩が窓の外へと飛び出していった。
「今の鳩には少し悪いことをしてしまってね……。元々はとある御令嬢の飼っていた伝書鳩だったんだ。その娘には親友が居て、伝書鳩を通じて手紙の遣り取りをしていたらしい」
「それは……また随分と古風で酔狂な話だね」
「可愛らしいだろう? ところが二人は或る理由で険悪になってしまった。というより、どちらかというと飼い主の御令嬢の方が嫉妬から相手を嫌うようになった。相手の娘はどうにか復縁しようと手紙を送ったんだが、その内容が却って御令嬢の逆鱗に触れてしまった。御令嬢は怒りから飼っていた鳩を深く傷付けてしまい、僕の邸宅の門前に捨てて行ってしまったんだ」
随分と過激な話に、龍乃神は苦笑いを浮かべた。
「でもその話のどこに、君が鳩に悪いことをしたという要素があるんだい?」
「姉様、二人の女性の仲が拗れた話をどうして僕が知っているか、もう分かっているんだろう? 恍けないでおくれよ」
「ああ、また女性二人に甘い言葉を掛けて誑かしたのか。君は優しい男だが女性関係が絡むと偶に酷いからな」
「だって、折角好意を持ってくれた女を傷付けたくないじゃないか」
おそらくは後ろめたさから目を伏せる蛟乃神を見て、龍乃神は呆れたように溜息を吐いた。
蛟乃神は見た目に反して結構な女誑しなのだ。
弟・蛟乃神賢智にとって姉・龍乃神深花は、そんな醜聞を打ち明けられる絶好の相手だった。
尤も、蛟乃神が突然こんな話を始めたのは、無意味な話題逸らしではない。
「まあ、曖昧な言葉でありもしない希望を持たせるのは残酷だと、解らない訳じゃないんだけれどね。でも、大抵の女性は不都合な現実よりも甘い夢想を求めているから仕方が無いでしょう」
「それは……どうかと思うよ、賢智」
「そう? じゃあさっきの姉様への返事ははっきりと言ってあげた方が良いかな」
弟・蛟乃神の視線が姉・龍乃神の方へと戻った。
龍乃神の表情も改まる。
「確かに、姉様の言うように明治日本の独立性を尊重するのが本来は正しいことだろうと思う。美しく尤もらしい大義を掲げようが、結局は自国の都合で数々の世界線に於ける日本国を強引に吸収してきたのが皇國の現実だからね。本道を言えば、皇國は神為の安定した継承を自国だけで目指すべきだ。成程、確かにその通りだろう」
身構えていた龍乃神に安堵の笑みが零れた。
「そうか、君なら解ってくれると思っていたよ」
「でも、それこそ甘い夢想というものだよ。姉様は皇國にありもしない希望を持たせようと言っているんだ。それは極めて高い確率で失敗し、残酷で悲惨な結果を齎すことになる」
「残酷で悲惨?」
龍乃神は眉を顰め、思わず立ち上がった。
「皇國が今まで行ってきたことが、残酷で悲惨な結果を齎さなかったとでも?」
龍乃神の語気が強くなる。
しかし、そんな姉に対して弟は掌を指しだして制止し、もう一方の手で口元に人差し指を立てた。
「駄目だよ、あまり大きな声を出しちゃあ。麒姉様に聞かれたらどうするの?」
「っ……すまない……」
龍乃神は再び椅子に腰掛けた。
先程も述べた様に、姉・龍乃神がこのことを弟・蛟乃神に話すのは、その内容を他人に聞かせられないからだ。
特に、政界に通じている第一皇女・麒乃神聖花に知られることだけは何としても避けなくてはならない。
「何も、皇國の行いを肯定するつもりは無いさ。寧ろ、それについては尚のこと龍姉様の言うとおりだと思う。皇國の繁栄を維持するという、そんな自国の都合で、一体どれ程の血が流れ、どれ程の痛みが生まれたのか……。考えただけで恐ろしいし、辛くなるよ。だから僕は、今回の転移で全て終わりになってほしい。それも、なるべく穏当な形でね」
「そうか……。すまない、君の気持ちも考えず、強く言い過ぎた」
蛟乃神は女癖が悪いという欠点こそあるものの、基本的には穏やかで心優しい青年である。
しかし同時に、現実を前にすると理想や原理原則を貫き切れない臆病さを同時に抱えていた。
彼が女性関係のトラブルを引き起こすのは、その優しさと臆病さが災いするのだった。
「まあ、こんなことは力による現状変更を辞さない麒姉様や鯱兄様には絶対に言えないし、問題が解っていない獅兄様や嵐花に言っても無駄だろうね。けれども、皇國が変わるという面では希望が無い訳じゃない」
「どういうことだい?」
「明治日本だよ」
蛟乃神はここへ来て真剣な視線を龍乃神に向けた。
「伝え聞くところによると、明治日本には皇國にとって学ぶべきところが多くある。それを取り入れることが出来れば、皇國は真の意味で素晴らしい国家に生まれ変わることが出来るかも知れない」
「学ぶべきところ? そこまで言う程のものが? 明治日本は、言っては難だが、国の汎ゆる指標で皇國の足下にも及ばないだろう?」
そう、一方で龍乃神の考え方も完全に善性のものとはいえない。
彼女は平和的な人物ではあるが、一方で国家として皇國の優位は疑っていない。
それは弱者に対する上から目線の優しさと誠実さである。
その点では、蛟乃神の方が自国と日本国を引いて見る考え方の持ち主だ。
「姉様、国家の優れた点は国力や経済力、文明力といった目に見える側面だけでは測れない。皇國が変わる為に大事なのは何よりも、それを知ることじゃないかな」
蛟乃神は珍しく真直ぐな意思を眼に宿している。
「彼らと接しているなら、姉様も今に解ると思うよ」
龍乃神はどこか嬉しそうに微笑む。
「そうか……。賢智も大きくなったね」
「いやいや、相変わらずだよ。臆病で優柔不断で、頭でっかちなだけの小物さ」
窓の方へ差し出された蛟乃神の指に紋白蝶が止まった。
鳥の囀りと共に、穏やかな午後が皇宮を包み込んでいる。
語り合う中で弟の成長を見た龍乃神は満足げな表情を浮かべて立ち上がった。
「じゃ、そろそろ妾は自邸に戻ろうかな」
「うん、僕は例の件を麒姉様に話してから帰るとするよ」
「ああ、頼んだよ。突っかかってしまった妾からは頼みにくい」
「お安い御用さ。僕は麒姉様からの覚えが一番良いからね」
控えていた侍従に襖扉を開けさせ、龍乃神は部屋を後にした。