対局室へ行くと珍しくヒカルが先にいる。
対局時間が近づいて対局者としてヒカルの対面に立つ。
なにこのプレッシャー。まるでヒカルの後ろに怖い顔をした鬼がいるような錯覚に陥る。
早くも座れよと言わんばかりにヒカルが姿勢を整え直す。
私ははっとなって慌てて座る。
碁笥を持つ手が震える。
今までの対局者も凄かったけどヒカルから発されるそれは段違いだった。何とか落とさず碁笥を手元に置く。
お願いします。
思えば、これが久しぶりのヒカルと話した言葉だった。
改めてヒカルを見ると、まるで私を見ているはずなのに私を見ていないような視線。遙か遠くを見渡すかのような視線だ。
私が初めて見るヒカルの顔だった。
私が黒になった。
初手は普通に右上星に打つ。
するとヒカルはまるで私に本気で打って来いよと言わんばかりに天元に打ってきた。
流石にヒカルでも2手天元は無理があるのか、私が一見優勢に見える形で対局が進む。でも相手はヒカルだ。全く油断ならない。現にこれだけ劣勢に見えるのに涼しい顔をしている。
本当に私が優勢なのか疑いたくなってしまう。
そんな状態がしばらく続いた
そして、急にヒカルの雰囲気が変わったかと思うと、ヒカルがまるで囲碁の神様が天から石を落としてそれにそっと手を添えたかのように打つ。
会場全体に響くような澄んだ音が響き渡る。
なに、この一手?
普段ならなんてことない打ちミスだと思う一手。でも私の黒石がぞわぞわするのがわかる。
いままで、優勢だったはずなのに碁盤全体がまるでひっくり返したように錯覚する。
優勢だったはずの戦局が気がつけば劣勢になっている。打ち続けるもヒカルには、何も響かないようにあしらわれてしまう。
もう投了かな。
こんなに苦しい対局は初めてだ。相手に、いや、ヒカルの心に私の一手が響かせられないことが辛いなんて思わなかった。
ありま…。
まだです。まだいけます。まだ手が残っています。
え?つい対局中なのに首を振って周りを見渡してしまう。
後ろに幽霊がいるだけで誰もいない。
幽霊がはっとなった表情をして扇で、口を覆う。
ひょっとして幽霊さんの声?
頭が重くなった気がするけど、心が晴れ渡ったかのようだ。
幽霊さんありがとう。まだいける。
時間をかけて見つけたわずかな光を頼りに打った次の一手は、不思議と澄んで響き渡る音がしたように感じた。
あの一手からヒカルの表情が僅かに変わった?
石を打つときの気迫もあがったように感じる。
盤面は苦しいままだけどまるで私の一手がヒカルに響いたようでうれしい。
終盤に入る。差はまったく縮まらない。
もうどう打っても5目半届かない。
それでも少しでもヒカルと繋がっていたくて最後まで打つ。
結局再度ひっくり返すことは出来ずに終局。
最後にヒカルがぽつりと
佐為。という声が聞こえた気がした。