ステラエモルク   作:朝神佑来

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序章
初日・その一


 

 

 『もっと本気で生きるんだ! 俺達の人生はこれからだろ!』

 

 バックヤードでイスを倒し、寝ぼけ眼で読んでいたネット小説の中の一文を見て、ふっと腹から息が漏れた。

 そりゃあそうだろと心で笑う。トラックに轢かれて異世界に転生して、唯一無二のスキルを与えられ、そんな内容はまさしく『これからの人生を本気で生きる』にふさわしい。

 なら、これを書いてる人間は? これを読んでる人間は? 今を生きてる人間は、さっさと死んで本気で生きていける次の人生を夢見るべきなのか? 

 これからもクソもない、ただ今にしがみつくしかない人生を生きてる俺は、そのネット小説の中の主人公がうらやましくてたまらなかった。

  

 客の来店を告げるジングルが鳴ったのを聞き、俺はスマホを置いてカウンターへと足を運んだ。

 

 「お疲れ様ス、森田さん」

 

 「ああ……お疲れ」

 

 来たのは客ではなく、同じアルバイトの野口だった。

 ぼやける視界でぱっと時計を見ると、すでに朝六時前を指している。バックヤードで休んでいるうちに、俺の今日の十六時間労働は終わっていたらしい。

 簡単に引継ぎを終わらせ、六時を回ったのを確認してから、上着と荷物を取りにバックヤードへ戻る。

 

 「……その、森田さん? 大丈夫スか?」

 

 「え? 何が」

 

 「顔色、メチャクチャ悪いスけど」

 

 マスク越しによくわかるもんだと思った。壁の鏡を見るが、そもそも視界がぼんやりするのでよくわからなかった。

 マスクを外して改めて見ても、いつもの自分がいるだけである。片田舎のコンビニで昼過ぎから朝まで働いている、森田洋介がいるだけだ。

 とりあえず熱でも測ったらどうスかと、野口が救急箱から取り出した使い古された体温計を受け取り、言われたとおりに測ってみた。

 

 「どスか」

 

 「……三十七テン四度。微熱だわ」

 

 「そスか……熱あがったらヤバいスし、帰って即寝たほうがいいスよ」

 

 「だな」

 

 体温計の表示が見えないようにサッとしまった。

 実感はまるでないが、俺の体温は三十九度を回っていた。

 

 

 *

 

 

 本気で生きる。人生はこれから。

 流し読んだだけのネット小説の一文が、なぜか頭に張り付いて離れなかった。

 

 (……クソ……頭いてぇ……)

 

 家に帰った直後に、俺は玄関で倒れ込む。

 フローリングの冷たさがいやに心地よく感じられるほどの疲労に、改めて自分の状況がマズいんだと理解した。

 

 (いつだ? うつされた? マスクもしないで咳をしまくってたジーさんか? クシャミしながら店内を歩き回ったあのオッサンか? わからねえ)

 

 目をやった先の狭いキッチンには、空いたカップ麺のゴミと洗い物が詰まっていた。

 食欲が湧かず、ロクにメシも食えてないことを思い出したのは本当に今更のことだった。

 頭痛の激しさは秒を重ねるごとに増していき、とうとう俺は限界でうずくまったまま身動きひとつ取れなくなった。

 

 (…………いいか……このまま……寝よう)

 

 自室の布団にたどり着くほどの体力も、残ってはいなかった。

 目が覚めたら、また明日。いつものように仕事がはじまる。寝て起きて、働いて、寝て起きて……いつもと何も変わらない。

 

 (起きたら…………――を……片付けて……それから――…………)

 

 本気で生きる。

 人生はこれから。

 

 深い眠りに落ちる直前、最後に頭に浮かんだ言葉は、あの転生モノの主人公が口にした啖呵だった。

 

 

 (死にたくない)

 

 

 俺の名は、森田洋介。

 一人暮らしのワンルームで、ひっそり三十の誕生日を迎えたばかりの男で。

 横に膨らんだ体の、どこにでもいる、つまらない人生を生きた、つまらない人間だった。

 

 * 

 

 閉じた瞼がむず痒く感じて、目を開けた瞬間に飛び込んできたのは、折り重なった葉っぱと太陽の光。

 聞こえてくるのは、ざわざわちちちと言うような物音や鳴き声。

 俺――森田洋介はたった今、ほのかに暖かい土と落ち葉の上で目を覚ました。

 

 (…………外??)

 

 外である。三十を迎えたばかりの男が、外で寝ている。

 これは夢か? いや、この異様なまでの現実味の高さは夢じゃなく現実だ。なら、何故?

 何故……何故だろうか。何故、俺は土と落ち葉の上で寝ているのだろうか。自宅の玄関で意識が霧のようにぼやけていたあたりから、ぱったりと記憶が途切れている。

 その上背中に直に感じる感触や、体に感じる風の感触から、俺は今全裸であると認識できた。

 

 (いや全裸は――マズいだろ……!!)

 

 ぎゅっと土を掴み、体を起こす。

 見下ろした先にあったものは、陶器や人形のように真っ白な肌。つるっつるの肌。

 加えて全裸であるなら真っ先に視界に飛び込んでくるはずのものが、そこにない。

 

 「…………あれ……?」

 

 思わず漏れた声は、甲高く、幼い。

 流行り病がもたらす高熱も、全身のだるさもない、ひょいと動く軽い体は文字通り本当に軽かった。

 俺は…………健康になっている。

 土に濡れた手でぺたりと頬を触れば、ざりざりとした感触がしっかりとあった。

 俺の体である。疑いようもなく。

 

 とりあえず、立ち上がってみる。

 隣に生えていた木の幹を支えに立った体はあまりに小さく、地面がとても近くにあるように思えた。

 そして、地面を見下ろせば嫌でも視界に入る、その部分。

 

 「……すぅぅぅぅ…………ふぅう……」

 

 たんたんと指先で木を叩き、ひとつずつ判明した事実を反芻した。

 ひとつ。俺、森田洋介は今、森の中で全裸で目が覚めた。

 ふたつ。俺の全身はすこぶる健康になったが、それは体がまるで別のものになったが故である。

 みっつ。もはやごまかしたとて仕方ない。この体は幼女である。

 

 先日三十歳の誕生日を迎えたばかりの俺は、目が覚めたら、幼い少女の体になっていたのだ。

 

 「…………どういうことだ……??」

 

 ぺちぺちと自分の頬を叩きながら、漏れた声はやはり幼く甲高かった。

 

 *

 

 あまりに非現実的な状況は、かえって冷静さをもたらしてくれる。

 というよりも、気づいてはいけない、まともな思考になってはいけないと本能に言われているような気分だった。

 まともに考えればパニックになって然るべき状況だ。しかし、森の中でひとり幼女がパニックになって騒いだところで、事態は好転するわけがないことは容易に想像できる。

 

 とりあえず俺は、ちゃぷちゃぷという小さな水の音が聞こえる方に歩いた。

 小川が流れる音というより、風に揺れる水面がたてる小さな音だが、あまりに静かな森の中ではそんな音もよく聞こえたものだった。

 その見立ては正しかったようで、しばらく歩くと森の中に広がる大きな湖にたどり着いた。

 

 綺麗な湖である。大きく円形に広がり、陽光を反射して揺らめきながらきらめいている。

 膝をついて水面を見て、はじめて俺はこの体の顔を確認した。

 端正な顔立ちである。小顔で、丸っこい目をしていて、頬には土がついている。さっきつけてしまったものだ。

 ばちゃばちゃと手で掬った水で顔についた土を洗い流すうちに気づいたが、この湖の水はやけに青い。水は普通透明色のはずだが、小さな両手をくっつけて掬い上げてみたこの水は、絵の具を溶かしたように深い青色をしている。

 

 「異世界の水、ってことだろうか……」

 

 独り言ちるたびに聴こえる、甲高い女の子の声。俺の声である。

 今置かれている自分の状況に、まったく想像がつかないというわけでもなかった。

 流行りというにはいささか古いが、一大ジャンルとして定着しているその話。

 湖に両足を浸し、とさりと寝そべり、足で水をぱちゃぱちゃやりながらぼーっと空を見上げて考えた。

 

 目覚める前に最後に感じていた感覚は、布団まで歩くことすらできないほどの疲労と倦怠感で。

 なのに今の俺は、こうして元気な女児として寝っ転がって空を見上げている。……となれば。

 

 「……死んじまった……のか? 俺……」

 

 俺は……あの瞬間に、死んでしまったのかもしれない。

 これが夢というにはあまりにリアルで、とすると俺は異世界に転生したかあの世に来たかの二択なのだ。

 腹に贅肉を溜め込んだ、全身が毛むくじゃらのおっさんの姿は、今ここにはどこにもなく。

 ただ記憶と意識だけがそのおっさんのまま、幼女になってしまった森田洋介が森で寝っ転がっているのだ。

 

 「……はは……あの時読んでた、ネット小説のまんまじゃん……」

 

 目の前に飛び込んでくる景色は、広々とした青い空と太陽の光。

 聞こえてくるのは、ざわざわちちちと言うような物音や鳥の鳴き声。

 もともとがワンルームで独り暮らしだ、助けも来ずにぽっくり孤独に逝ったのだろう。

 非現実的な現実に現実味を覚えないまま、俺は素っ裸に陽光の布団だけ被って目を閉じた。

 

 *

 

 ……かさ、かさ。

 がさがさがさ、がさ。くんくんくん。

 

 「…………んぬぇ」

 

 いつの間にか寝落ちていた俺の顔が、何かに嗅がれている。

 こそばゆさで目を覚まし、起きて周りを見る。俺の顔を嗅いでいたそいつらはざっと数歩後退し、じっとこちらを伺った。

 長い耳。赤い目に、毛皮に包まれた小さい体。

 

 「…………ウサギ……?」

 

 ウサギ、である。見覚えのある小動物だった。

 けれどまさに記憶にあるものというわけではなく、ぴんと立った耳はかなり長いし、丸いはずの尻尾はもこもこしていて細長い。異世界ウサギとでも言うべきか。

 異世界ウサギたちは何をするでもなく、俺をじっと見つめて一斉にあくびをした。

 小さな口がいっぱいに開かれ、内側の長い前歯が覗く。

 

 「おいおい、なんだお前ら……かわい――」

 

 ……そのまま、ウサギの口は開き続ける。

 めきめきばきばきと鳴ってはならない音を響かせながら、喉の奥までさらけ出して大きく裂けて広がった口は、ウサギ自身の頭を飲み込むように包み込み。

 口の裏側にびっしりと生えそろった無数の牙を見せながら、喉の最奥から巨大な眼球がずるりと現れた。

 

 「――くねえ!!! まったくかわいくねえッ!!!?」

 

 形態変化したウサギの群れに囲まれ、俺は即座に湖から離れて走り出す。

 数匹蹴り飛ばして跳ね除けて森の中へ飛び込むが、ウサギたちは構わずザクザクと駆けて俺の背を追いかけた。

 速い。滅茶苦茶速い。野生の小動物なんてそりゃ速くて当然だろうが、連中は木の幹を蹴飛ばして空中から俺を襲ってくる。身をかがめながら必死で走り、草葉に突っ込んだりもしながらどうにか逃げるが――撒ける様子がない。

 

 走りながら見つけた、ひときわ大きな木の根元にしゃがみ込んで息を殺す。

 連中は俺を見失ったようだが、がさがさという物音は未だに聴こえ続けている。それどころか、おそらく数は増えている。

 冗談じゃない。死んだ矢先にまた殺されるのか? ごめんこうむりたい一心だが、しかし素っ裸の装備も何もない少女にできることなど何もない。

 

 「痛っづ…………!」

 

 ふと腕を見れば、陶器のような白い肌に赤い筋が出来ていた。

 素肌で草葉の中に突っ込めば当然怪我もする。もっとも、あの異世界ウサギに噛まれれば、怪我どころで済みはしないだろうが。

 裏返した口で頭を覆い、内側に並ぶ無数の牙を剥き出しにしたあの姿は、まさしく異形としか言いようがなく――おそらく、食いちぎる際には広げた口をばくんと閉じるのだろう。

 肝が冷えると同時に、どうしようもないやるせなさに襲われた。

 ここでウサギに食い殺されるなら、俺は何のために死んで、何のためにここで目を覚ましたんだ。

 

 「……はぁ、くそ……っ」

 

 小さくかぼそい声を少しだけ漏らし、両腕で頭を抱えた。

 何も出来ない。何もやれることがない。そうして自分の無力さを噛み締めている時だった。

 

 (…………?)

 

 小動物が草葉をかき分ける音に混じり、重さを感じる音が聞こえた。

 一定間隔で鳴る、土と葉を踏みつけるザクザクという音。――人の足音。

 気づいたときには、少しの逡巡もなく立ち上がって叫んでいた。

 

 「誰かッ――助けてええええええええッッ!!!」

 

 びっくりするほど甲高い声を、腹の底から張り上げる。

 高音域の叫び声は、人間がもっとも気づきやすい声だと聞いたことがあった。この異世界にも人間がいるのなら、今の俺の体はまさに――助けを求めるのに、適している。

 無論気づくのは人間だけじゃない。俺の姿を見つけたウサギたちは、意気揚々として俺に飛び掛かってきた。

 目論見通りに。

 

 「――――ッ!!」

 

 真正面から飛び込んでくる、無数の牙と眼球。それを横にかわせば、連中の頭だか口は、俺の体を隠してくれていた大きな木の幹に突き刺さる。

 まんまと木に噛り付いてくれたそいつらを尻目に、俺は記憶を頼りに足音が聞こえた方へ駆け出す。

 小石や小枝を踏みつけて、あの足音が空耳でないことを祈って一心に走る。

 

 「冗談じゃねえ、俺は……っ!!」

 

 もともとない体力が切れて息が乱れ、何度も体がぐらついた。

 頭の中によぎるのは、高熱で倒れたときのこと。

 目が覚めたらまず取り掛かろうと思っていた、職場の仕事のこと。

 雀の涙ほどの賃金を貰って暮らし、働いてばかりの人生だったが、それでも。

 

 「俺は、死にたくなんかねえんだよ――っ!!」

 

 俺の命は、その一心で繋がれていて。

 その叫びは、ぼふんと何かにぶつかったことで途切れた。

 

 「へぶっっ!!?」

 

 衝撃に眩んだ俺の体は、次の瞬間にはひょいと空中に浮いていた。

 いや、違う。持ち上げられた。俺よりもずっとでかいらしい、誰かに。

 

 「よう。災難だったな、お嬢ちゃん」

 

 「……へ?」

 

 俵でも持つみたいに肩に抱きかかえられ、俺の視界にはそいつの背中だけが見えていた。

 しゃがれた声のそいつはぽんぽんと俺の背中を叩くと、すらりと何かを引き抜く音を立て――ひゅんと、風が鳴った。

 

 「よく生き延びた」

 

 ぼたり、どちゃり。

 泥団子を地面に叩きつけたような音が、何度か聞こえて――また、すらりと何かが鳴る。

 カチンと留め具の音が聞こえたことで、それは引き抜いた何かを納めたのだと理解する。

 

 「降りれるか? っとと……」

 

 「あ……ああ……えと――」

 

 とん、と両足をそろえて肩から降りて、着地。

 ぶちゃりと生暖かい何かを踏んだ感触があって、地面を見たら、ウサギが死んでいた。

 

 「ぴぇッッッ!!?!?」

 

 モザイクのかかっていない動物の死体を目の当たりにして、驚いてウサギのように飛びのける。

 臓物をこぼして死んでいるのは、さっきまで俺を追いかけ回していたあの異世界ウサギたちだった。

 一体だけでなく、周囲には無数にそれらが転がっている。風の音はひとつしか聞こえていなかった筈だった。

 

 「…………お嬢ちゃん、名前は?」

 

 「え……あっ」

 

 名前を聞かれ、はじめて俺はそこでそいつの顔を見た。

 俺を抱き上げ、片手で武器をとって、こいつらを全滅させた人間。

 

 それは……紅色の髪の毛をした、えらく身長の高い婆さんだった。

 背中に軸が通った立ち姿に、切れ長の目。

 老人とはよく接客で顔を合わせていたが、これほど活力に満ちた婆さんははじめて見る。

 

 しわくちゃの顔で小さく笑い、婆さんは俺の返事を待っている。

 足音の主はこの人か。それにしてはまるで、成人の男のように力強い足音だったが。

 俺は、ありがとうございますと一言挟んで頭を下げてから、正直に名乗った。

 

 「……森田……森田洋介です」

 

 少しの間があってから、婆さんの返事があった。

 

 「ウソつけ」

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