「――治療が終わっタ奴はフェリス大浴場に行きナ! 今、
様々な色が入り混じった人の声、ジョッキががつんとぶつかる音、ダイナさんの呼びかけ。
それらのどれかが俺の意識に届いて、俺はいつの間にか眠っていた体をゆっくりと起こした。
「トーリちゃん!」
俺を呼ぶ声がして、そっちに顔を向ける。メジハノ村のシスターさんが、心配そうに俺を見ていた。
……フェリスギルドの酒場だ。床に敷かれた薄いベッドに寝かされていたようだ。
「回復漏れは無い? 痛むところがあったら、すぐに言ってね?」
「いえ、大丈夫です。すっかり治ってます」
俺の手を取るシスターさんに、ぐるぐると腕を回して答える。
腹だとか胸だとか、いろんなところをアイアームに砕かれたのを覚えているが、どこにも痛みが残っていない。
フェリス教会の神父様や、シスターさんが治療してくれたのだろう。……あとで治療費を払わなければ。
「……イドは? 討伐戦はどうなりましたか」
あたりを見回しながら俺は訊ねる。
つい先ほどまで俺はアイアームと戦っていたし、街ではイドの鐘が鳴り響いていたはずだ。それが今は、すっかり一面戦勝ムードである。
状況が変わりすぎていて、飲み込めなかった。
「
俺の問いに答えたのは、頭の後ろから聞こえてきた声だった。
体を捻って振り返る。両手にジョッキを持ったシフェルがそこに立っていた。
「マジ!? イド、倒せたのか!?」
「いえ……イドやそれらしい存在は最後まで確認できませんでした。鐘の音もいつの間にか止んでいて……敵性存在の全滅は確認できたので、一応は、です」
「確認できなかった……? じゃあ……何だ? イドがいないのに鐘が鳴ったってことか……?」
こくりと頷きながら、シフェルは手に持ったジョッキを俺に手渡す。
中にはアイスミルクが半分ほどまで注がれていた。
「そのあたりの話を、貴女と一緒にするつもりですが……ひとまずは。お互い、勝ち残ったことを祝しましょう」
ジョッキを小さく掲げるシフェルの動きを見て、俺は行動の意図を理解する。
何はともあれ、パーティメンバーが二人揃って無事だったのだ。ならばこれが
こつん、と小さくジョッキをぶつけ合い、それから俺達は一口でアイスミルクを飲み干した。
今朝も同じものを飲んだはずだが、なんだかとてもうまかった。
「オ!!」
カラになったジョッキを通りがかったギルドガールさんに渡そうとして顔を上げた時、丁度ダイナさんと目が合った。
机や簡易ベッドの隙間を早歩きで通り抜けて、黒いもふもふの顔が目の前まで来る。ぱちぱちと瞬きをするダイナさんの目を暫く見つめていたら、わしわしと頭を撫でられた。
「ウン、浸食や中毒の気配もなシ! よく無事で帰ってきたナァ、
もふもふの体に抱き寄せられ、ぼんぼんと頭を優しく叩かれる。
ダイナさんの体は俺達より一回り大きく、抱きしめられると体も顔も全部毛並みに埋まってしまう。
暖かい。すこしくすぐったい。陽射しをたっぷり吸い込んだ毛並みの香りは、昔飼っていた猫のそれとまるで同じだった。
「あ……ぁりがとうございます、ダイナさん……ほああ…………」
「イド討伐戦を生き残ったんダ、
俺から離れて、ダイナさんはあたりを見回した。
ギルドガールたちが忙しなく駆けて、負傷者の世話を行っている。ギルドや教会といった所属を問わずとも
五年前、慢性的な
――この状況だ、とダイナさんは言いたいのだろう。
昇格には一定の功績点の確保や戦力の確認に加え、ギルドが行う試験が不可欠になる。試験自体は形式的なもので、けして難しいものではないのだが、人手が必要になるのも確かだ。
「シフェルとパーティを組めたおかげで、
主観的には一刻も早く昇格したい気持ちはあるが、客観的には後回しにしても問題ないものである。
ダイナさんは頭をカリカリと掻きながら、ムーー……と鼻で鳴いた。
「ギルドとしちゃ、実力がある
腕を組み、ため息をつくとともにダイナさんはその問題を飲み込んだ。
「そういえば、ダイナさん」
その彼女へ向け、シフェルが片手を上げて質問する。
「イド討伐戦とおっしゃいましたが……今回、イドの出現が確認されなかった場合でも、討伐戦と認められるのでしょうか?」
「ああ、それは俺も気になってた。ギルド側としてはどうなのかな、って……」
イドの鐘が鳴ったということは、イドに匹敵する脅威が出現したということ。
しかし今回、その脅威が確認されなかった。俺が交戦したアイアームも強敵だったが、イドほどの神気を放つような存在じゃなかった。
この場合……イド討伐戦は、果たしてどう処理されるのだろう。
「アア、それについて丁度話がしたかっタ。アタシの部屋で話そうカ、シフェル、トーリ……それから、シスターアリア」
「……? わ、私も……ですか?」
きょろきょろと俺達を見ながら自分の立ち位置に悩んでいた様子のシスターさんが不意に名を指され、戸惑った様子で自分の顔を人差し指で指した。
「教会からトーリの戦いを見てたんだろウ? ……なら、あなたの言葉も必要ダ」
*
ハディマギルドのカウンターを通り、その奥。
ギルドマスターが執務を行うと共に、来客の対応を行う大きな部屋に、俺達は招かれる。
壁一面の本棚と、それを埋め尽くす資料の数々。質のいい木材の茶色と、黄色いラインの走る赤いマットや旗がいかにも厳かといった雰囲気を作っていた。
俺とシフェル、向かいにダイナさんと緊張して縮こまった様子のシスターさん。
横長のテーブルを挟み、大きなソファに腰かけて、俺達四人は今回の討伐戦についてを話し合った。
最初に話したのは、シフェルの懸念について。今回の討伐戦はどういった扱いになるのか。
私見にはなるものの、討伐戦の発生と終息自体は認められるが、『討伐』ではなく『撃退』という形になり――参加者に功績点は与えられるものの、討伐者が存在しないという扱いになるだろう、とのことだった。
同時に、今回の異例な討伐戦については既に大陸中央に報せを出していて、
「街中で突如発生したイド討伐戦。五年前のイスガトでの出来事モ、記憶ニャ新しイ。雑には扱われンだろうサ」
日常を突如として破壊して訪れた、イドとの戦い。
それは俺にとって、この上なく身近な出来事だった。忘れようと思うことも、忘れることもありえないほど。
ふと俺は、この街のギルドでダイナさんがイド討伐戦の開始を宣言した時のことを思い出した。
あの時、その場に居合わせた
イドの脅威は
そのことについてダイナさんに訊ねてみると、彼女は自分の手を見つめながら答えた。
「――『待ってた』からだよ、みんな。五年前のイスガトで起きタ惨劇を知ったのハ、聖剣の光が落ちてかラのことだっタ。誰も何もできなかった。だからもシ、もシ次に自分たちの街で同じようナことが起きたなラ……」
爪を立てて、手に力を込めながら、ダイナさんは言う。
「天使や神の力を借りず、必ず独力で守り切ってみせると。そう誓った」
だから……だから、あんなにも高揚していたのか。
ようやくこの時が来たと、彼らは喜んでいたのか。
「最モ、相手は魔物の力だけ借りたズブの素人だっタわけだガ――」
アア、とダイナさんはそこで俺の目を見て、正門で戦った
自ら神気をその身に纏い、自我を保ったまま魔物に変身する人間たち。
もののついでに説明するにはあまりにも衝撃的な内容だったが、ダイナさんが淡々と説明を続けるせいで驚くタイミングを完全に失ってしまった。
魔物の体を持つ人間という説明を隣で聞いていたシスターアリアが、そういえばと口を開く。
「トーリちゃんが戦っていた相手も、そうでした。大きな体に鋼鉄のような両腕と、一本角……あれは確か、鉱山の洞穴だとかに生息している魔物、ですよね?」
「ええ、その特徴はオウガ種と見て間違いないかト。一本角ならモノオウガ、知能は低いガ戦闘力が高ク、山を下りて暴れ回ルこともあるんデ、
んなのとよく戦ったナ、とダイナさん。
けれど俺には、その説明の中で『知能が低い』という部分が引っかかった。
「あいつ……アイアームと名乗ってましたが、とんでもなく頭の切れる奴でした。自前の武術や経験、判断力と、魔物の体の力が嚙み合ってたような――」
武術の型に嵌まった拳、俺が放つ炎にも怯むどころか攻め込む覚悟、そして何よりも、延焼を防ぐために自分の両腕を捨てるという判断。
特徴は魔物のそれに当てはまるとしても、あの姿から知能の低さは毛ほども感じなかった。
「ホウ? ……となるト、アタシ達が戦った魔物人間とはまるで別物だナ。元から強い奴ガ魔物になっテ、さらに強くなった手合いカ?」
おそらくはそうだろうと、頷いて答える。
「…………参ったナ」
ダイナさんは、何故か片手で頭を抱えて、ぼふりと背もたれに体重を預けた。
「元から強イ素体があるんなラ……連中は何だ? どこから来て……どうして、ああなった……?」
彼女が何に対して悩んでいるのか、それはわからなかった。
人の声が消え、ギルドガールさんが注いでくれたコーヒーの香りだけが部屋に満ちる時間があって、隣に座るシフェルに俺は訊ねる。
「なあ、シフェル」
「はい?」
今回、俺達は結果的にフラム・ルージュをカース商団から奪い取った。
俺はそいつらを……村を襲い、人を攫い、その成果に喜んで酒を食らう連中を人間だとは思えなかった。人の形をした魔物だと認識していた。俺のよく知るマンガやゲームに登場する、ゴブリンやオークのようなものだと。
事実、魔物を焼く神殺しの炎で連中は残らず焼き殺せたのだから。
だが、ダイナさんが説明した内容は、俺の認識と似ていれど真逆のものだった。
人間の形をした魔物ではなく、魔物の形をした人間。そんな連中で構成された商団が、フェリス湖畔街へフラム・ルージュを取り返しに来るだろうと踏み、取った手は対カースではなくイド討伐戦に活かされ――やってきた連中は、カースではない名を名乗った。
……カース商団は、そもそも
カース商団とそれらの繋がりとは、何だろうかと。
「カース商団って、どういう連中なんだ? 村とか街を襲う荒くれ盗賊の集まりって思ってたが……」
「概ね、その認識で間違いありませんよ。彼らの生業は金品の強奪、『宝石』と称しての人の身の売り買い、表沙汰にならない事件……そういったものです」
お手本のような悪党達だ。人の身を売り買う為の『仕入れ』を行っていたことは、俺も知っている。
アリアさんに至っては当事者だ。シフェルはコーヒーを少しずつ口に運びながら、説明を続けた。
「ずっと昔、デクシード王国の建国以前――大陸の西部で領地を奪い合う戦争をやっていた頃は、彼らの影響力は非常に大きかったと聞きますが……昔の話です。今では痩せさらばえた鼠の衆ですよ」
「……? 戦争中は強かったのか?」
「『人』に需要がありましたから。領地を保つには人が要る。兵器や防壁を作ったり、農耕をしたり……とにかく使える人手がたくさん必要だったんです。そこで彼らがどことも知れぬ場所で攫った人間を買い取り、働かせていた領主も多く……ありていに言ってしまえば、カース商団は『もうけている』盗賊たちでした」
人の身に需要があった。自分たちが奪ったものを、買い取ってくれる顧客がいた。
だから戦時中の彼らの影響力は強く――デクシード王国が建国され、領地がひとつに纏まって戦争が終結したことで、その需要が消え失せた。
現人神様から直々に禁じられている奴隷の売買を、戦時の混沌とした中でならいざ知らず、百年続いている王国の治世のもとで行う利点はどこにもない。
ものが売れなくなった。だから、細々と生きていくことしかできなくなった鼠。
シフェルの説明に納得すると同時に、新たな疑問も浮上する。
「連中のギュウバ車……ずいぶん羽振りがよかったように……見えたけどな」
一夜にして村を壊滅させ、団員たちが酒を浴びるように食らう、いくつものギュウバ車の集まり。
あのキャラバンの様相は、とても痩せた鼠と例えることのできないものだった。
商売が成り立たなくなって痩せたのなら……連中がまた肥えた理由とは。
「――『神』?」
不意に沈黙を破り、口を開いたのは、アリアさんだった。
「シスター?」
シフェルが聞き返す。アリアさんは彼女の目を見て続けた。
「私たちを攫った、その……グィス……? が、口にしていたんです。確か……『我々の信奉する神は、人の身を、何よりも求めておられる』……と」
エモルク様でも現人神様でもない、自分たちの神を信奉しているという彼らの言葉。
アリアさんが聞いたという言葉が俺の中でかちりと何かに当てはまると同時に、ぞくりとした悪寒が背中を走った。
「じゃ……じゃあ、待てよ、まさか……『魔物人間』の正体って――」
「トーリ」
導き出した答えを口にする前に、ダイナさんが俺の名を呼んだ。
大きな目が、俺の顔を映していた。威圧されたと一瞬思ったが、違った。
ダイナさんも俺と同じ、悪寒を覚えている顔をしていた。
「……アイアームと言ったか。奴は何か……所属のようなものを……名乗らなかったか」
「…………名乗った」
雄々しく、猛々しく、誇り高く。あのアイアームが、名乗った名前は……。
「「イドラ教」」
「……だナ?」
ゆっくりと頷いて、俺は肯定する。
……いつだったか。
俺は前にも、神を否定し、新たな神を信ずる誰かの姿を見たような気がする。
*
『やはりこの大地こそ間違いだ。僕らが信仰すべきは、空だったのさ』
誰かの声が、耳の奥にずっと貼り付いている。
そんなようなことを言っているのかどうかは定かではないのにしろ。俺はその言葉が何より恐ろしかった。
わざわざ異世界から人を呼び、そして食うような神の、どこに救いを見出したのかがわからなかった。
真夜中。広い広い浴場の、端っこのほう。誰もいない女湯で、天井を見上げて湯船に浸かりながら物思いに耽る。
俺の体は小さな少女なので女湯に入る必要があるのだが、中身は五年前から変わらず成人男性なので、誰かに出くわすことのないよう時間をずらして足を運んだのだった。
(姉の体は家族ってことで見慣れたが……赤の他人だとなあ……)
ばちゃばちゃと湯船で顔を洗い、そこに映る自分の顔を見つめる。
五年、共に生きた少女の顔がある。俺が瞬きをすれば、その子も瞬きをする。
陶器のようにつるりとした体には体毛の一本も生えておらず、水気を吸った体毛がべっとりと肌に貼り付く感覚もない。全身がじかに湯に触れて、暖まる。
あどけない顔をした、十五歳の少女がそこにいる。
その幼さを塗り隠すように、表情には凛々しさを帯びている。柔肌の内側には硬い筋肉が育っていて、女性らしい膨らみは上にも下にもない。
時々。
俺が俺としてここに来ないまま、トーリ・ノウェルグレイという少女が産まれていたら、どんな生き方をしただろうかと思うことがある。
俺が俺として選んだ選択は、トーリにとって良い選択だったのだろうかと。剣など学ばず、ただの少女として生きるべきだったのだろうかと。
答えは出ない。俺がトーリなのだから、当然だった。
「……まあ……普通の女の子の生き方ってのが、どういうもんかも……俺にゃわかんないんだけどさ」
とはいえ、選択をやり直す機会が与えられたとしても、きっと俺は剣を選ぶ。
夢ごと、友に託されたのだから。それを捨てることは、どうしたってできそうになかった。
――トーリ・ノウェルグレイという少女剣士として、今は。
フラム・ルージュを現人神様のもとに運ぶため、イドラ教という脅威と対峙しなくてはならない。
「明日になったら、旅支度をして……北上して、デクシード王都を目指そう」
イドラ教の規模がどの程度のものなのかはわからないが、王都への影響もけして無視できない。
改めて、次の目的地へ向かう決意を固め――浴場から出ようと立ち上がった時だった。
かちゃりと、女湯の扉が開く音がした。
反射的に、落下するようにざぶんと湯船に体を隠した。
(!!?!?!!!?!?)
「――そうですか。では暫く街に滞在する予定と」
「お野菜おいしいし、愛着湧いちゃってさ! 魔物の数が減ってるって話だったけど、今回のこともあるし――シフェルは残らないの?
「わたしはもののついでに祝福を受けているだけで、本業は魔術師ですから。はぁ、今日の治療も、軽い手伝いのつもりがこんな時間に……」
(シフェル!!?!? しかもフランシュシュと一緒だ!!?)
別にやましいことをしているわけではないのだが、両手で口を押さえて息を潜めようと試みてしまう。
何故、何故こんな時間に、よりにもよってシフェルが。相方の素っ裸など見るわけには――いやこれから長い付き合いになるから見るべきなのか? いや仮にそうだとしても今じゃなきゃダメかなそれは? ていうか隣にフランシュシュもついてきてるが? 彼女の素っ裸も見なくちゃダメなのか俺?
「あれ……トーリ?」
「もぐぇ」
頭をぐるぐる回して硬直していた俺の目の前に、すでにシフェルが立っていた。
片腕で体を抱くようにして胸を隠しながら立つ姿はやけに様になっており、無駄な肉がついていないモデルみたいな体をしている。
一瞬、目を向けただけでもえらい情報量が頭に入ってくる。これはいかんとフランシュシュの方に目を向けた。
駄目だフランシュシュはもっと駄目だ、ふわふわしたピンクの髪と俺以上に幼い顔の下にとんでもないものがついている。俺以上に鍛え上がった体はうっすらと筋肉の形を浮かべてるのに、どこに隠してたんだそれって胸が凄い。
目のやり場が無い。それでいて二人とも、わりと遠慮なく俺と距離を縮めてくる。
湯船はこんなに広いのに、俺とシフェルとフランで三人、浴槽の隅に人の塊ができていた。
(事情を――いや今このタイミングで俺が男なんですなんて明かしたら問題しかないな? ここはひとつなんとかこう……平常心、平常心を保とう、そう、別に普通のことだ、俺は女なんだから普通のことだ……)
「……聞いてます? 大丈夫ですかトーリ? のぼせてないです?」
「はい。えっと、その…………なんて?」
心配そうに俺の顔を覗き込むシフェルの目を見つめ返しながら、聞き逃していた言葉を改めて聞く。
胸よか目の方がまだ見ていられる。綺麗な銀色の瞳に俺の顔が映っている。
「ですから、だいぶ遅い時間ですけど、どうしたのかなと……。傷の治りが遅かったとか……?」
「あ、ああ、大丈夫。ただ日課の稽古をやってたんで、入るのが遅くなっただけ……」
それは事実だ。師である母から教わった型を忘れないように、いつも剣を振っている。
すると稽古という言葉に反応したフランがぐいっと俺に顔を近づけて、目を輝かせながら訊ねてきた。
「稽古!? いいね、流派は何!? 獲物は……その筋肉の形からして剣だよね!?」
「え、あ……う、うん、その通りだけどヒイ!!?」
するりと腕を絡め取られ、手のひらから二の腕までを細く硬い指先で撫でられる。
思わず恐怖と驚愕で声が出てきた。フランはどんどん俺の腕を抱き寄せて二の腕から肩にまで手を伸ばしていき、必然的に胸の谷間に俺の手がどんどん埋まっていく。
昔観たホラー映画の、排水溝から顔を覗かせたピエロに腕を食われるシーンを思い出した。俺は食われる少年のほうと同じ顔をしている。
「うわーーすごい腕!! ぜんぜんぷにぷにしてない!! 表面は滑らかなのに内側が硬いんだ、鍛えながら成長したって感じ!! 幼い頃からやってたね!? この感じだと骨もすっっごい頑丈そう!! 骨…………」
「あ……あの、フラン。トーリが怖がってます。そうぐいぐい体を触るのは……」
「……ちょっと待って?」
肘まで胸に食われたあたりで、フランの顔と声から楽し気な色が消え失せる。
肩、首、首の後ろ、胸。ぐ、ぐっ、と少しだけ強く押しながら、フランの手が俺の体の至るところに触れる。
……何だろう。何をしているのかはわからないまま、何をされているのかが、わかりかけるような……不思議な感覚がある。
「あのさ、トーリ」
「……はい……何でしょう、フラン……シュシュ?」
「フランで大丈夫。えっと、ちょっと強めにぎゅーって抱きしめてもいい?」
何を言っているんだろう??
聞き返したかったが、その表情があまりにも真剣なので、聞き返せなかった。
「な……!? ちょっとフラン、何を考えてるんですか!?」
「……はい……大丈夫です……」
「大丈夫なの!?」
困惑したいのは俺の方だった。焦るシフェルをよそに、フランは俺の体を抱き寄せて、かなり強くぎゅうと抱きしめる。
胸で胸が潰れる。はてなの一色で埋まる俺の頭は存外に冷静だった。というか、頭が動作を停止している。
食事の手を突然止めるハムスターとか、人の家に困惑する猫とか、今の俺はたぶんそんな顔をしている。
「ひ」
しかし、するりとフランの両手が俺の腰に来た瞬間はさすがに声が出た。
ぎゅうと腰を鷲掴まれ、体がぷるぷる震え始める。さすがにもう、とフランの体を離そうとした時、フランの方から離れてくれた。
「うん……やっぱり、そうだ」
「フラン……? いったい何をしていたんですか? さすがにその……パーティメンバーが被害に遭うのを見過ごすわけには」
「ぇや違う違う、ごめんて。筋肉の付き方っていうか、骨の形か……気になったから確かめさせてもらったの。やましい気持ちはないよ、ちょっとしか。ごめん無い。十割無いから指先ばちばちするのやめてシフェル」
水場でそれを使われると被害が俺にも来るから勘弁してほしい。
と思いつつ、俺もシフェルにフランの行為について付け加える形で弁明する。
恐らくだが、彼女は……。
「触診……だよね。やましい気持ちとかはなかったよ、多分」
手で触れることで、俺の体を診ていたのだろう。
その説明に、フランも頷いてくれた。医者の手つきにしてはやはりなんというか、ちょっと、あれではあったが。
「ああ、言い得て妙だね。でもその通り。……えと、診断結果を伝えてもいい?」
頷く。
俺は俺の体をよく知らない。もともとの体とは違う体だからだ。
だから他人が何かに気づいたなら、聞きたかった。この体と同じ性別であるなら、尚の事。
フランは俺の顔をしっかりと見つめ返しながら、真剣な眼差しで触診の結果を伝えた。
「トーリの体ね。成長はしてるけど、
……。
…………。
「それは……ええ、と」
「ちょ、っと待ってください、フラン。それはいったい……どういうことです」
「聞きたいのはあたしの方だよ、でも確かにそうなの! いや正しくは……そうとしか考えられない、って感じだけど!」
それ、は。ええと。どういうことなのだろう。
俺は五年で成長したし、筋肉はついて、身長もかなり伸びたはずだが。
成長してないということは……いや……性徴?
フランは俺の両肩を掴み、真剣な顔に焦りのようなものを浮かべて俺に問いかけた。
「ねえトーリ! 答えにくいことかもしれないけど……『月の』っていつ来たか覚えてる?」
「月……の? 来る……?」
何を言っているのかわからなくて、聞き返す。
その反応に、フランだけではなく、困惑していたシフェルの顔も青ざめるのがわかった。
……俺の中で、疎い知識が呼び覚まされて、結びつく。
ああ、そうか。言われてみれば、そうだ。
普通は、そうだ。けれど……。
俺は、トーリ・ノウェルグレイという少女は。
十五歳になって尚、彼女たちの言う『月のもの』を経験したことが、一度もなかった。