婆さんの背中はえらく広くて、婆さんが歩く度に俺の腹にはがっしりとした太い背骨の感触があった。
俺は今、背負われている。婆さんが着ていた上着にすっぽりと包まれ、二人羽織のような状態で。
そうしてようやく落ち着ける状況になってから、全身に負った生傷の痛みがじわじわとやってきた。
「……痛っだぃ…………痛ぇ……うううう…………」
「もーちょっとの辛抱だ、我慢しな。じきオレん家に着くから」
俺を背負い直しながら、婆さんが答える。
森の中を全裸で走りまわり、何度も草の中に飛び込んだのだ。そりゃ痛い。
元の体……生前の体であればなんてことのない怪我だろうが、この小さな体の体表の面積では相対的に傷もでかくなる。とにかく痛い。痛すぎて熱を出したようなだるさがあって、そのだるさに嫌な懐かしさを覚えた。
そのまま痛みに耐えながら婆さんの背中で揺られ、しばらくして。
森を抜けたのか、かっと陽射しが強くなるのを感じて、婆さんの肩から景色を見た。
だだっ広い大空の下に、大きなログハウスが鎮座している。
「……家って、あれか……?」
「そ、あれがオレん家。よく頑張ったな、お嬢ちゃん」
ほっと胸をなでおろす。森や土といった大自然に揉まれたせいで、建造物を見るだけで安心する。
婆さんはひゅっと息を吸い込むと、大きな声を張り上げた。
「おーーい、ロヴィミアーーーーっ!! 来てくれーーーっ!!」
耳を塞ぎたかったが、両腕は婆さんの首にひっかけている。
大声にくらっとした俺の耳に、ログハウスの中から鳴るどたどたという足音が届いた。
誰かがいる……来る。婆さん以外の住人だろうか。
ロヴィミア、と呼ばれたその人は慌ててがちゃりとドアを開けて、姿を見せると同時にこちらへ駆け寄ってきた。
若い女性だった。背はそこそこに高く、先端だけが薄紫の白い髪がかなり特徴的だった。
「はいはい、なんですか母さん――っと、何ですかその背中のふくらみ? ……女の、子……?」
「ああ、森ん中で拾ったんだよ。素っ裸で走り回って生傷まみれだ、治療魔術を頼む」
「…………ええ、わかりました」
ロヴィミアは背中の方に回り込むと、上着の裾からするりと両手を差し込み、そのまま俺をすっぽりと引き抜いた。
婆さんから若い女性に抱き移される俺。でっかい胸の向こうにある、吸い込まれそうな赤い目に俺の顔が映っている。
近くにあると余計に、見惚れるような顔立ちの女性だった。あーあー、これまた酷いなあといった呟きとともに、その彼女の指先が俺の額を撫でる。
ぼんやりと暖かな光がそこに灯ると同時に、呪文のような言葉が聞こえた。
「“サルヴァ ウラフ――イクス”」
聞き馴染みのない言葉が繋がり、最後の『イクス』が聞こえたあたりで、ぱあっと体が暖かい感触に包まれる。
羽毛や毛玉でそっと拭われるように、汚れが落ちるように痛みが消えていく。暖かさが消えたとき、俺の腕や体にはひとつの傷跡も残っていなかった。
「お……おお、すげえ……!?」
治療魔術……確か、婆さんはそう言った。
魔術、魔法。知識にある胡散臭いものではない、本物のそれを俺は今体験したのか?
「っ……ふぅ……、痛みは残ってませんか?」
「ああ、すっかり無くなった……えと、ありがとうございます、ロヴィミア……さん」
ぽんぽんと俺の背中を撫でる彼女の声色には、わずかばかりの疲労があるように思えた。
魔術の行使に体力を消耗するのだろうか。治療されたばかりのふわふわした感覚を残したままの俺の体は、改めてロヴィミアにしっかりと抱きしめられて運ばれた。
「物置にある、お前が昔着てた服。そいつにやってもいいかな?」
がちゃりと家の戸を開けながら訪ねる婆さんに、俺の耳元でロヴィミアが返事をした。
「捨ててなかったんですか……って聞きたいですけど、好都合ですね。いいですよ、母さん」
母さん、とロヴィミアは婆さんをそう呼んでいる。
婆さんの歩き方や佇まいには力強さがあるが、それでも年は相当離れている……と思う。
たった今魔術によって塞がれた傷。少し前まで熱に浮かされていたはずの自分。俺を襲ったウサギ……。
疑問は尽きず、今目の前にあるあらゆることでぐちゃぐちゃになりそうになる頭と心を抱えたまま、俺は二人の家へと招かれたのだった。
*
外観からしてかなりの大きさだったログハウスは相応に中も広く、広々としたリビングの中央に置かれたテーブルを挟み、風呂に入れてもらって衣服を貰った俺は、まず最初に自分のことを打ち明けた。
着せられた服は女の子ものの可愛らしいもので、気持ち的には女装させられている感覚だが、羞恥を見せるのは服を譲ってくれた両者に失礼だろうとぐっとこらえる。
「……えっと、俺の名前は森田洋介……といいまして。ウソつけって言われちゃったけどホントで。三十歳になったばっかの……バイトリーダーって言って通じ……ないよな、えっと、働いてて。男です、三十歳の男なんです、俺」
甲高い少女の声でまくしたてるように説明し、スープを一口。
しばしの沈黙が重たくて、床につかず椅子から浮いた足がぷらぷらと揺れた。
先に口を開いたのはロヴィミアだった。
「わたしの名は、ロヴィミア。ロヴィミア・ノウェルグレイと言います。こっちの婆さんがわたしの育ての親で、名前は――」
「ガルベラだ、ガルベラ・ノウェルグレイ。旦那はいねえが子供が三人いる。現人神様から直々にあの森の管理を任されて――タハ森林って名前だが――長えこと、ここに住んでんのさ」
ロヴィミアと、ガルベラ。二人の顔を交互に見ながら、名前と顔を結びつける。
「ヨースケ……で、いいのでしょうか。わたし達は、『異なる世界の記憶を持った子供が、突然この世界に現れる』という現象を知っています。その知識に当てはめるならば、ヨースケ、あなたは――」
ロヴィミアは一瞬顔を伏せてから、俺を見た。
「――自分が亡くなった、という記憶を最後に、この世界で目を覚ましたのではありませんか?」
その問いに、俺も同じように顔を伏せる。
疑っていた……というより、認めたくなかった。
入眠を許さない高熱と頭痛に苦しめられ、ようやく眠れたと思ったら、すでにそこは知った世界ではなかった。
肯定は言葉にせぬまま、こくりと深く頷いて答えた。
「……その、現象によって……」
明確な形を得ない、漠然とした恐怖をこらえながら、言葉をつないでいく。
「ここに、来た……その……他の、子供? は……どんな記憶を、持ってたん……ですか?」
例えば――と言いながら、ロヴィミアは目を閉じて語り始めた。
「病に苦しんでいた、大きな傷を負った、誰かに殺された――そういった記憶を持っていたと聞いています。年齢はばらばらで、齢七十を超えるものもいれば、二十前後だと言った者もいたと」
「二十から……七十…………」
「そうして、この世界に現れたその子供たちを、わたし達はこう呼んでいます」
「――『テンセイ人』、と」
*
転生人。
俺のような、前世の記憶を持って突然現れる子供のことを、この世界でそう呼ぶらしい。
転生とはこの世界においてはたびたび起こる現象であり、珍しくはあれど、認知はされているという。
転生についてもっと深く話を聞こうとしたとき、俺の腹がくうと鳴って、そのままここで食事をすることになり……野菜のスープと焼きたてのパンを空の胃袋に詰め込むと、育ち盛りであろう幼女の体が喜ぶのがよくわかった。
今は食事を終え、少し前にロヴィミアが外の風呂場へ湯浴みに向かったところである。
「お前さんを拾ってやれたのは、幸運だった」
食器を片付けながら、ガルベラ婆さんがぽつりと言った。
「テンセイ人は無力な子供として生まれてくる。それも決まって、魔物の多い神域の近くにだ」
俺は、俺に襲い掛かってきた無数の異世界ウサギ――ボーパルウサギと名がついているらしい――のことを思い出す。
あそこで婆さんの足音を聞き、声を張り上げることが出来なかったら、俺は確実にここにいなかっただろう。
「……転生人が現れる現象が、珍しいってのは……そもそも、発見すらされずに死んでくことも多いから……?」
「そういうこった」
ひどい話だ。リスキルを用意する転生があってたまるか。
頭の中は相変わらずぐちゃぐちゃのまま、それでもなんとか状況を整理する。
俺は生きている。体は変わったが……魔物に食い殺されかける状況を抜け、今は命の恩人である二人の家に居る。
そして幸いにも、ここにいる二人は転生という現象にも詳しかった。
コポコポとお湯を沸かしている最中のガルベラ婆さんへ、俺は尋ねる。
「ガルベラさん、そしたら――」
「いいよ、かしこまんなくて。婆さんでいい」
「……婆さん。他の転生人たちは……生き延びた転生人たちは? どこで、どうやって生きてるか……そういうことって、わからない?」
「…………そうだなあ……」
天井を見上げ、少しの間を挟み。
「ここから少し行ったところに、イスガトって鉱山街がある。近辺じゃかなり規模のデカい街でな、元々テンセイ人だったって人もいるよ」
「……この世界で、普通に暮らしてるってこと?」
「ああ。曰く、長くここで暮らすうちに――」
ことん、と俺の前に湯気を立てるカップが置かれた。
縁だけ茶色い、黒い液体が中で揺れている。懐かしい香りがした。
「忘れるそうだ。昔の……前世の、かな? その記憶をよ」
「…………」
小さくなった手でカップに触れてみる。
じんわりと熱かった。
「お前さんがここに来るまでに、どんな世界で、どんな風に暮らしてたのかはわからんが――少なくとも今、お前さんはちっこい子供だ。そしてここじゃあ、子供ってのは貴重で大切で、大事に育てることになってる」
同様に熱いはずの、おそらく同じものが注がれたカップを、慣れた動きで傾けるガルベラ。
婆さんが持てば小さく見えるそれも、今の俺では両手を使ってようやく包める。
手に取って、ふうと冷まして口にする。
あの独特な酸っぱ苦い味を想像していたが、いざ飲んだそれは香りだけ残してすうっと喉を通り抜けて、俺の体を内側からあたためてくれた。
「……飲みやすいね、これ」
「だろ? 好きでよく飲んでる。次男坊に会いにイスガト鉱山街に行くときは、そいつを買って帰るって決めてる」
にっと歯を見せて笑うガルベラ。
次男坊、とは。彼女が最初に言った、三人の子供のうちの一人だろうか。
「婆さんの子供もいるのか? その……鉱山街に」
「ああ。ゼフィールっつってな、ロヴィミアはゼフ兄って呼んで慕ってる。ロヴィミアが一番下の長女で、一番上の長男坊はフィサリスっつってな。あいつは普段世界中をほっつき歩いてるが……こないだ、このあたりに来てるって連絡があった」
「……そしたら、三兄妹みんなと会えるかもしれないんだな」
「おう。久々にな」
子供の名前を口にする婆さんの顔は、わかりやすいものではないけれど、とても嬉しそうに思えた。
母親の顔だ。うらやましかった。
世界中を旅していても、帰る場所があって、母親に会うことのできるその子供たちが。
不意に、母と父の顔を思い出す。
母さんは何をしているだろうか。父さんは元気にしているだろうか。
自室に取り残された俺の遺体を発見するのは、いつになるのだろうか。
ああそうか、そうだよな、『俺』はもう死んでいて、今この世界にいる俺は、『俺』とは別人……で?
「……ヨースケ? 大丈夫か」
頭を抱える俺の横で、婆さんが心配そうに俺を見ていた。
「あ……いや、大丈夫なわけねえやな……。…………目ぇ覚めたら、知らねえ場所にひとりなんだもんな」
しわくちゃの手が、俺の頭を撫でる。
ヨースケ、と名前を呼ばれて頭を撫でられるその感触に、突き刺されてえぐられるような懐かしさを覚えて、俺は必死で笑顔を取り繕った。
「あ、その、婆さん――えっと」
「……うん?」
「その、イスガトって街……行ってみていいかな。行きたいんだ」
ひどく喉が渇いていくような寂しさと孤独を、前世を忘れていったテンセイ人は、忘れるまでにどうやってやり過ごしたのか。
それを知りたくて、口に出た言葉がそれだった。
「イスガトにか? ……徒歩なら半日、ギュウバならその半分ってところだが……ぇや、ひとりで行かせるわけねえがな? 行きたいってんなら……そうだな」
がちゃりと扉が開く音がした。
表の玄関ではなく、外にある風呂場に近い裏口の方からだった。
ぺたぺたという足音の後、リビングに風呂上がりのロヴィミアが現れる。
「あがりましたよ、母さん――」
「ああ、丁度いい。ロヴィミア、明日この子と一緒にイスガト鉱山街に行ってくれるか?」
「へ? ……いいですけど、母さんは?」
「残るよ、ここは一応タハ森林の観測所でもある、テンセイ人も現れた今空けるわけにゃいかねえ」
ガルベラ婆さんはそう言って俺の傍から離れ、飲み終えて空になったコップを片付けた。
街に行きたいという俺の願い出に思うところがあったのか、薄着のロヴィミアがじっと俺を見る。
長い白と紫の髪がさらりと流れている。目のやり場に困る恰好だった。
「しかしな、上ぐらい羽織ったらどうだ、年頃の娘っ子がはしたねえな」
「えー? 実家でくらいダラけさせて下さいよ、男連中はみんないないんだし……」
婆さんからの指摘と、それに対する返事で、そういやそうかとなった。
当然だがそう思われているのか。自認は三十のおっさんだとしても、実際にここに居るのはスカートを着せられた幼女だ。つまり今の俺は、女性の体に視線を向けてどうこう言われる存在ではない。
であれば女風呂に入り放題で覗き放題だと喜ぶよりも、これから俺は女の子としての振る舞いをしなくてはならないのかという、これからの人生を想像してくたびれそうになった。
……本当に。ここに来たテンセイ人たちは、どうやってこんな感覚を乗り越えたのだろうか……。
「けど母さん、そうなると立場や名前が必要になりますよ。イスガトはデクシード王国領ですし、ハディマギルド支部もありますから――テンセイ人ですと公に言うのは」
……?
転生人、と名乗るのは、よくないことなのだろうか。
「だからお前さんが必要なんだろ。ヨースケ、とりあえず困ったら『ノウェルグレイだ』って名乗りゃいい。本の虫のゼフィールや放浪癖のフィサリスはともかく、ロヴィミアやオレはこの大陸のお偉方にも顔が利くからな。その苗字を名乗りゃあ、イスガトをうろつく分には困らねえだろうさ」
となると……俺は、ヨースケ・ノウェルグレイと名乗ればいいのだろうか。
「立場は確かにそれでいいかもしれませんが……特徴的な響きの、男性のような名前を名乗るのは、暗に自分をテンセイ人と名乗るようなものですよ。名前もくださいよ、母さん」
ガルベラ婆さんは困った顔をして眉間をつまんだ。
くださいと言われて出せるものでもないと思う。
「し……っかしなあ……お前と上の兄貴二人でネタは切れてんだよ……。まあいいや、考えとく。ヨースケ、とりあえず今日はうちで休め。いろいろありすぎて疲れたろ」
……うちで? ……このまま厄介になっていいのだろうか?
いや、そもそも食事をさせてもらい、街に行きたいと言った時点で厄介にはなっているのだが……。
「えっと……いいん、ですか?」
「ここにゃ他に泊まれるような場所もねえ、遠慮なく休め。お前さんくらい小さい子をほったらかしにしたら、それこそ現人神様やエモルク様に大目玉を喰らわあ」
ガルベラ婆さんはそう言って、歯をみせてにっと笑った。
若々しくて特徴的なその笑顔は、まるでこの人の代名詞のようだと思えた。
「テンセイ人の保護も、わたし達の役目ですから。ああ……部屋は、わたしと一緒でも大丈夫ですか? 他の部屋、男連中のものですから……その」
「ぇ、あっ、…………はい。大丈夫です、えと、ありがとうございます……何からなにまで……」
きゅっと縮こまって頭を下げる。
女性の部屋に泊まるのは憚られるが、男の部屋とは他人が――特に俺のような幼女が入っていいものではないと、男である……あった俺が誰より理解している。
下げた頭は、また婆さんにわしわしと撫でられた。
――本当に、幸運だったとしか言いようがないのだろう。
子供となって魔物の住処にぽとりと転生させられる転生人に、自分がなって。
こうして親切な二人のもとにたどり着けて、衣食住にありつくことができた。
そうしてこの世界で迎えた最初の夜は、食事のおかげで空腹感を残すことなくゆっくりと眠れた。
同じベッドの上で、隣で俺の頭をずっと撫でてくれたロヴィミアのおかげもあるのだろう。
久々に昔の夢を見た。
気絶するように寝てアラームに起こされる、仕事に忙殺されていた数年間、まともに寝ることができなかった俺が。
ぽっくりと熱病で逝き、転生した先の異世界でようやくぐっすり眠れたと考えると、なんとも奇妙な感覚だった。