王都エルンシャードにて毎年行われる、デクシード王国建国祭。
都中で様々な催しが執り行われるその祭りの中で、幼いジルジンクスが好きだったのは、アングレイという男が踊る鎮魂の舞だった。
長い戦乱の渦中にあった西の地に散った者達を鎮めるため、百年前のデクシード王国建国の際に一人の天使が踊ったとされる舞。その全貌を記した記録は百年の時の中で失われていき、今となってはアングレイだけがその舞を踊ることができる唯一の踊り子だった。
ぶ厚い布だけを腰に巻き、澄んだ水の水面を削いで薄膜に変えたような衣装に身を包み、ひらりひらりと舞い踊る男の姿は息を呑むほど美しく。
齢五十を超えて尚、アングレイの体にはほんのわずかな無駄も存在していなかった。
ただ舞うためだけに鍛え上げた体。直線ではなく、曲線で形作られた肉体。
幼いジルジンクスは、きっと来年も再来年も、この鎮魂の舞が見られると信じていた。
――アングレイが建国祭で舞を踊ることを止めたのは、五年前のことだった。
兆候はずっと前からあった。鎮魂の際に唱える祝詞が、口にできなくなった。
舞とともにそれを唱えるには、体力が足りなくなっていた。怪我や病ならば教会に足を運んで治療ができるが、
老いである。
街のどこよりも王城に近い、エルン山の中腹、貴族や重鎮たちが住む高位住宅街。
今ではそこに足を運ぶことすら難しくなった。自宅の窓から望む、かつて自分が舞っていた中央広場のカグラ場がひどく遠く思えるようになった。
――きっとこれも、時代の流れというものだろう。
いつしか鎮魂の舞を見に足を運ぶ者も少なくなった。元来それは見るものではなく、共に祈りを捧げるためのものだったが、年月が経つとともにその本来の意味は失われ、今となっては面白みのないただの見世物となっていった。
後継もなく、妻子もない。
自嘲を交えてそう話すアングレイに、ジルジンクスは否と答えた。
建国とともに生まれた舞だ、これが途絶えることはあってはならないと。
僕が必ず、踊れる者を――あなたの後継を見つけ出す。迫る建国祭にて、鎮魂の舞を復活させる。
だから。だから……。
『
アングレイの家の床に、額をぺたりと押し付けて、
……暫しの静寂があって、顔を上げてくれ、というアングレイの一言が室内にこだまして。
『依頼、というのなら――それを受けてくれるのなら。付け加えて、頼みたいことがある』
どこか哀しげな、寂しげな。
だが、小さな種火のような熱さを宿したアングレイの目が、ジルジンクスの顔を映した。
『頼まれてくれるかい。ジル』
ジルジンクスは、強く頷いた。
*
「それが……俺たちに手伝ってほしい、依頼の内容?」
「はいっ!!」
第一エルンギルド酒場、その宿舎の一室にて。
ロード級の
依頼の内容は、来たる建国祭にて、アングレイの代わりに鎮魂の舞を踊ってほしい――というもの。
口や文面でその内容を示すのは簡単だが、実際には建国祭が行われる来月までに舞を完璧に習得しなければならない。
ここに並ぶ数多くの依頼と比べても、時間も労力も多大に必要とするものであった。
「……ちなみにですが、依頼の報酬金は?」
「とても少ないですッ!!」
簡潔に、そして明確に答えながらジルジンクスは依頼書を取り出して見せた。
ジルジンクス自身も無理を言っている自覚はある。その上で、目の前に現れた彼女たちをどうにかして引き留めたいとも思っている。
故に今、この場で彼が取れる行動は、ただ誠実に正直に質問された内容に答えることだけだった。
机の上に広げられる依頼書を見たシフェルにとって、書かれている額は確かに少なかった。
つまるところ、手伝う場合はこれを三人で折半。するとたちまち報酬金は
「……ほんとに少ないですね?」
思わず眉間に皺が寄る相棒の顔色を見て、トーリはジルジンクスに訊ねた。
「ジルジンクス。しかしどうしてまた……この依頼に人手が必要になるんだ? 言っちゃあ悪いが、あんた一人がアングレイさんにつきっきりで教わる方が確実だと思うんだが……」
ジルジンクスは、その問いはもっともだと頷いた後、その理由を話し始める。
「……アングレイさんから頼まれた、もうひとつの依頼があるんだ。ここより北東……王都を出て数時間ほど歩いた場所に、ラハリアという廃村がある。そこにはデクシード王国の建国以前から立っている、古い書庫があってね。今では淀み、神気が満ちて魔物が住まうダンジョンとなってしまっているが……」
「ラハリア書庫ですか? ええ、知っています。生息する魔物のレベルの高さと、内部で得られるアイテムの質が釣り合っていないことから、手をつける
その通りだ、とシフェルの言葉を肯定するジルジンクス。
魔物は強く、見返りは少ない。探索する理由が薄いダンジョンは、最低限の対処だけ成されて放置されることも多い。
ラハリア書庫はそういったダンジョンの一つであった。
「あの書庫には、まだデクシード王国が『西の地』と呼ばれていた頃からの記録が詰まっている。アングレイさん曰く――そこには、百年前に天使が踊った鎮魂の舞。それの本来の型、本来の歌詞が残されているそうなんだ」
彼が最後にアングレイから頼まれたこと。それこそが、このラハリア書庫の攻略だった。
ラハリア村は、西の地の記録を守るために書庫とともに作られた村である。数十年ほど前に村はイドの襲撃を受けて滅び、閉鎖された書庫は神気に犯され、魔物を生み出すダンジョンへと変質した。
その中に今でも残されている――可能性がある――天使の舞の記録。自身の代に伝わる頃には大部分が失われ、変質してしまった鎮魂の舞の本来の形。
……舞の復活を依頼として出すのであれば、その本来の形を見せて欲しい。
それが、アングレイの頼みだった。
「僕からの頼みは、二つ。『ラハリア書庫を攻略し、鎮魂の舞の原型を知ること』。そして、『本来の型と歌詞を伴った鎮魂の舞を踊ってもらうこと』……だ」
立てた二つの指を順に折るとともに、ジルジンクスの額に冷や汗がにじみ、それが頬を伝って落ちる。
同時に、痛みを伴うほど激しい動悸の音が、トーリの耳に届いていた。ジルジンクスの胸から発せられているものだ。
利益の見込めないダンジョン攻略と、建国祭での舞の披露。提示した報酬の額は、到底それには見合っていない。
目の前にいるのはロード級と、ギルド証こそ
彼女たち二人に、その無茶を頼み込むという無茶が、彼の心臓を大きく跳ねさせていた。
「以上が――依頼の全貌だ!! 僕に出来ることと言えば頭を下げることだけで、ああ勿論ダンジョン攻略に同行するだけの実力はあると自負するが、単身での突入は成果が見込めない!! 故に強力な人手の協力が必要なんだ!! よろしくお願いさせてくれ、お二方!!!」
すうと大きく息を吸い、動悸をごまかすように叫び頼んだ後、ごん、とテーブルに頭をぶつけて見せるジルジンクス。
困惑するトーリと考え耽るシフェルの両名がその音に驚き、ぴくんと体を跳ねさせた。
「よろしくお願いさせてくれ……と、言われてもだな……? 依頼に関して理解はしたが……報酬金もそうだが、如何せん俺達が得るものが少なすぎる。いや、俺は
「……考えさせてくれませんか? ジルジンクス」
「ぅえっ!?」
真横から聞こえた意外な言葉に、声を裏返して驚くトーリ。
天使が踊った舞。最初にジルジンクスがそう説明した時から、シフェルはずっと考えていた。
――何故、天使が歌い、踊る必要があった?
その舞とはいったい何か。歌った歌とは何なのか。
「い……いいのですか!? ああっと……シフェルさん、でしたか!?」
「シフェルで構いません、ジルジンクス。報酬に関しては別途考る必要がありますが……わたし個人としては、どうしても気にかかることがあります。ですので、考えさせてください」
一蹴を覚悟していたジルジンクスに届く、少なからず喜ばしい言葉。
それを聞いたトーリも、シフェルと同じ意向を口にする。
「……シフェルがそういうなら。俺も、文字通り前向きに考えようと思う」
「トーリさんまで……!! ありがとうございます!! っいえ、まだ受けてもらったわけじゃありませんが、保留にさせていただいただけでも嬉しい限りですッ!!」
「そ……こまで頭を下げなくても。ケガするぞケガ、あと俺のこともトーリでいいよ……」
ごりごりと机に押し付けていた額を持ち上げ、赤い跡をつけながら、ジルジンクスは懐から小さな紙を一枚ちぎって取り出した。
「で、あるなら……どうか、僕のことも『ジル』と。もしまた何か聞きたいことがあれば」
それから鉛筆で、そこにさらさらと住所を書き記した。
王都の南部、住宅街の一角を示したもの。崩した字体で素早く書かれた文章は、けれど読み取りやすかった。
「アングレイさんの住所です、僕の名を出してくれれば大丈夫。そこでアングレイさんを交えて話せれば!」
*
同室、夕刻。
備え付けのキッチンに魔術で火をつけ、こぽこぽと湯を沸かしていたトーリの耳に、とすとすと不規則で不安定な足音が届く。
ほどなくして足音が消えたあたりでドアを開くと、そこには両手いっぱいに資料を抱えたシフェルが立っていた。
「……ありがとうございます。トーリ」
「おう、おかえりシフェル。何それ」
「ギルドエリアの古物商が昔の新聞や資料を溜め込んでいたので、買い取ってきました。調べたいことがありまして――」
そう言うとシフェルはテーブルの上にそれらを並べ、ソファに腰かけると、一番上の新聞を手に取って目を通し始めた。
トーリは湧いた湯に大匙一杯の粉を入れ、軽く混ぜる。旅の途中で収穫し、天日干ししておいたものを、煎ってすりつぶして作った物。
イスガトを出る前にヒコ婆さんから教わった、とある飲料の作り方。
「今日、ジルが話した依頼に関することか?」
「確証はありませんが……恐らくは」
トーリは出来上がったそれをコップに注ぎ、資料を読むシフェルの前に置く。
小さな会釈とともにコップを手に取り、口に運ぶと、仄かな苦みと心地いい香りがシフェルの心を落ち着かせた。
知らない味だったが、ずいぶんと美味しかった。
「トーリは……天使が地上に降りるとは、どういう意味か、知っていますか?」
ほう、と暖かい息をひとつついてから、シフェルは訊ねる。
「いや。イドやイドラの対処に降りてきて、その後、死者を弔い魂を運ぶっていうような……抽象的な話は聞いているけれど」
「大まかにはその通りです。天使が動くという背景には、イドやイドラ……つまり、必ず古い神が関わっています」
ジルジンクスは語った。建国祭で踊る鎮魂の舞は、百年前に天使が踊ったものだと。
天使が歌い、そして踊ったというのであれば……その行いには
「けど、百年も前の話だろ? 天使、って言葉は比喩にも使われる。えらく綺麗な普通の人が踊ったって歴史が、誇張されて記録された可能性もあるんじゃないか?」
「……ええ。ですので、こうして記録を遡って調べています」
「百年も前の舞のことをか? それこそ、ラハリア書庫に行ったほうが早いんじゃ……」
「いえ、そうではなく――」
シフェルはくるりと資料を裏返し、指先で紙面の隅にある見出しを示した。
「これは……」
「今から四十八年ほど前の新聞です。ほとんどかすれてますが……小さく、『悪薬』という言葉が見えるでしょう?」
「ああ……見える」
「それから、これは同じ年の建国祭の催しについてまとめたものです。出店や見世物、闘技大会、様々なものが並んでいますが――この年には、鎮魂の舞は行われませんでした」
一枚目を机の上に置くと同時に、二枚目の資料を取り出してみせるシフェル。
トーリはそこに書かれた文字をじっと目を凝らして見た。右から左へ、様々な催しが書かれているが、確かに舞らしきものの名前は無い。
「例はここだけではありません。悪薬が流行る時期が、何故か、鎮魂の舞が行われなかった時期と一致しているんです」
鎮魂の舞が行われないと、悪薬が流行る。
それはたった今、今年の王都の様子にも当てはまることだった。
「……王都にはずっと前から、赤砂糖が存在したってことか?」
「ここに書かれている悪薬が、今流行っている赤砂糖なのかどうかはわかりません。重要なのは……『作られる』とか『売られる』とかでなく、『流行る』という点だと思っています。普通の薬であれば、必ず製造と流通に時間がかかりますし、関連性があるにしても、数年はズレが発生して然るべきでしょうから」
「不可解な現象だなぁ……。要するに、鎮魂の舞さえ踊ることができれば、悪薬の流行を防ぐことができるって解釈でいいのか?」
「今のところは。……とはいえ、すべてわたしの推察です。正しいとは限りません」
話し終えると、シフェルはまた資料を睨み始めた。
正しいとは限らない、ただの推察。それを口にしただけに過ぎない――というには、今のシフェルの姿にはどこか確信めいたものがあるようにトーリには感じられた。
今の彼女の中には、彼女だけが行きついた結論や答えがあって、あとはそこに至る道を探しているかのような。
(悪薬の流行を防ぐ……終えるために、鎮魂の舞が必要。それはわかったが)
シフェルは、天使が地上に降りる理由には必ず古い神が関わっていると話した。
だが先程の、鎮魂の舞と悪薬の流行の関連性という話には、古い神に関する情報はどこにも存在しなかった。
赤い外套を纏い、壁に立てかけていた剣を手に取り、トーリは外に出る支度をする。
今、自分の頭の中にある断片的な情報を、ひとつの形にまとめて整理を試みる為に。
「トーリ? どこかへ出かけるんですか?」
「資料を読む邪魔をしちゃ悪い。どうせ夜まで暇だから、外で稽古でもして、時間を潰してくるよ」
「……邪魔なんてことはないですけど。であれば気を付けて。暗くなる前に帰ってきてくださいね」
小さく手を振り合い、トーリは部屋を出る。
ぱたりとドアが閉じて、ひとりになる。
向かう先は決めていた。
宿舎を出て、酒場へ。
カウンターの奥に立つギルドボーイに向け、トーリは声をかけた。
「ボーイさん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「おや、クマ殺しの
えらく物騒な仇名が付いたなと思いはしたが、言及せず。
何食わぬ顔で、トーリは訊ねる。
「王都で危ない場所っていったら、どこになる? 間違って足を運んじゃマズいから、聞いておきたいんだ」
*
王都エルンシャードの道路は、その殆どが石畳によって舗装されている。
巨大な城壁の内側に小さな山やいくつもの河川を閉じ込めた王都の広さは、村や街とは比べ物にならない、文字通りの規格外さを誇っており――それ故に、抱える影も大きく、またわかりやすいものだった。
石畳が無い、繋がっていない道の先。舗装が成されていない、要するに人の目が届かない場所。
ざくざくとむき出しの土を踏み、臆することなくそこを進む少女の姿がひとつ。
整った身なりをした人間どころか、人の気配すら殆ど無いその場所で、浮き上がるように異質な赤い外套と金色の髪。
その少女に最初に近づき、接触を試みたのは。
何枚ものボロ布を羽織り、腰に一本の剣を差した血色のいい男だった。
「こんなとこに一人で何の用だ、姉ちゃん。観光なら余所へ行きな、つまんねえよ、ここは」
「何だ、いるんじゃねえか、人。いやね、ちょっと買い物にさ」
その男に対し、トーリは全身に無防備を纏って訊ねた。
後頭部に手をやり、もふもふと髪を柔らかく掻きながら。
「赤い砂糖が欲しいんだ。売ってる?」
ふは、と男は鼻で笑った。
バカで、正直で、バカ正直だ。それも女だ。都合のよさも、ここまで極まると笑えてくると。
「笑うんじゃねえよ、失礼な奴だな。あるのかないのか、どっちだ?」
「は、ははっ……ああ、いや、アンタなら買う必要はねえよ。いくらでも食わせてやれっから」
「イートインじゃねえよ、テイクアウトだって。ぇや伝わんねえか……だからな」
「お嬢ちゃんさ、買い物じゃなくて学校に行くべきだよ、あんた」
男は哀れみと愉快さに目を歪めながら、トーリの後ろを見つめた。
背後から足音を殺して彼女に接近する、もうひとつの人影。
雑に切り出して仕上げた一本の棍棒を、両手に握った男の顔を。
「もうちょっと頭がよけりゃ、マシな生き方できただろーに――」
そして、その棍棒が振りかぶられた瞬間。
どん、と。
棍棒の先は地面を叩き、ぼん、と小さなバウンドを挟んだ。
「…………あえ?」
棍棒を握る男は素っ頓狂な声を上げる。
確かに定めた狙いが、なぜかずれている。
ほんの僅かに風を受けて、力の向きを逸らされたような、奇妙な感覚だけを両手に残したまま。
「……あー。先に手ぇ出したの、そっちだから――」
そう言ってトーリは、背後の男に目を向けないまま、指を向け。
直後、真っ赤な翼が翻るように、ぶわりと外套が舞い。
トーリの細い足の先が、棍棒を見つめて困惑する男の側頭に突き刺さった。
「――勘弁な?」
ごん、と鈍く大きな音がした次の瞬間、無人の家屋に男の体が吹き飛んでいった。
ばきばきと腐食の進んだ木が砕ける音。それから一瞬の静寂。砂を巻き上げる風の音。
僅かな間の直後、即座に動いたのは、四方八方に潜んでいた誰でもなく――最初に彼女に声をかけた男。
その男が行った、爆発するかのように一瞬で最高速に到達する抜剣。
――を。
爆発する前に押さえたのは、彼女の足。
「は……?」
腰に構えた剣の柄頭をがちんと押さえられ、全身に込めた力が込められるより先に霧散する感覚に、疑いの声が出て。
「……ああ、ディメン流か! 確か、一瞬の抜剣で決着をつける暗刃って謳い文句だが――起こりを悟られちゃ終いだな」
「~~~~ッッ!!」
一瞬で後方に飛びのいて距離を取る男に対し、トーリは足を浮かせたまま話す。
「事を荒立てるつもりはねえんだ。言ったろ? 砂糖を買いに来ただけだ、って」
依然変わらぬ、余裕しか存在しないその態度に、青筋と冷や汗を同時に浮かべながら男は叫ぶ。
「ふざけんじゃねえッ!! 砂糖を買いに来た、だぁ……!? なら……なら作ってやるよ、今ここでッ――」
男が懐に手を突っ込み、そこにあるものを取り出した瞬間。
それを握り潰すより速く、トーリの手は彼の手首を掴んでいた。
「……成程。やっぱ、それが原料か」
灰色の炎がにじみ出る、左手で。
瞬間、炎は男の左手を包んで燃え盛る。
自分の手が燃え上がるのを見た男は瞬時に慌てふためき、存在しない熱に一瞬悶えてトーリの手を振り払ったが、その炎に熱がないことを数秒の後に知る。
やがて灰色の炎は消え失せる。男が手の内に握っていた、赤い宝石と共に。
「な――んで、あぇ、え、っどこに…………ひ――ッ!?」
「なあ、あんちゃん」
地面に腰を落とし、確かにそれを握っていたはずの手を見つめながら、男はトーリを見上げ、怯えた。
「あんた、それをどこで手に入れた。……赤砂糖ってのは何なんだ。その宝石との繋がりは」
「っし……知らな、知らねえ、知らねえよ!! 俺だって買っただけだ、仕入れただけだ、売れるから買ったんだ!!」
「誰からだ。イドラ教か、それともカースか」
左手に炎を宿す彼女の目に酷く怯えながら、男は震える指先を彼女の背後に向ける。
指し示された方向へ、トーリは振り向く。聞こえていた小さな足音が、そこで止まった。
「――チンピラくずれのジャンキー相手に何遊んでるのよ。貴女」
小さな男の子を抱き上げている、長く、艶やかな銀髪の少女が立っていた。
その銀髪にはほんのわずかな黄金色が宿り、夕焼けを吸い込んで煌めいている。
絹糸のような髪だと、トーリは思った。
「…………」
「……ほら、ここまで来ればわかる? ひとりでも帰れる?」
「ん! おねーちゃん、ありがとう!」
「よし、じゃあ気を付けてね」
少女は抱えていた男の子をそっと地面に下ろすと、問いに強く頷いて答える彼の頭を撫でて、ぱたぱたと駆けていく彼の背を見送った。
「たまたま奥の方に迷い込んじゃったみたいでね。ほら、ここって夜になると危ないから」
「……あんたは」
警戒し、臨戦態勢に移るトーリに対し、彼女は冷静に、開いた手のひらで自分の胸を撫でながら答えた。
「イドラ教。シルク・ロンド・バルハジア」
「――『レッドシード』のプレゼンが聞きたいなら、道すがら話してあげるけど。トーリ・ノウェルグレイ」
胸を撫でていた手を、そのまま顔の横で上に向ける。その手のひらの上に、虚空が開く。
虚空の内側から、赤い輝きを閉じ込めた丸い宝石が、ころんと彼女の手のひらの上に零れ落ちた。