ざわざわちちちと言うような音を聴き、暖かいベッドの上で目が覚める。
隣に居たはずのロヴィミアがいない。置いていかれたかと一瞬不安になったが、一階から婆さんとロヴィミアの話し声が聞こえ、ほっと胸をなでおろした。
……そもそも、行きたいと言い出した当人を放ってはおかないか。ベッドから降りてカーテンを開けると、朝の風がふわりと部屋の中に入ってきた。
格子状に木が編まれた窓である。慣れ親しんだガラス窓ではない。その向こうには揺れる木々の頭が並んでいて、まるで海のようだった。
海が――森が、ずっとずっと向こうまで続いている。
果てなど見えそうもなく、また人工物も存在しない。どこまでも自然だ。
あんなにも雄大な自然の中に、俺はぽつりとひとり、落っこちてきたのか。
「……旅行でもしてみたいなーとは……思ってたがなあ……」
自分の口から甲高く可愛らしい声が出てくるのにも、一日経つと慣れてきた。
生前は金を貯めて親と一緒に温泉旅館でも巡りたいと思っていた。丁度あのような森が広がる山で、コンクリートのジャングルでは目にすることのできない自然を受け止める、非日常的な経験をしてみたいと。
今となってはコンクリートのジャングルの方が非日常である。俺はしばらく朝の風を受けて目を覚ましてから、ころげ落ちないように慎重に階段を降りて、二人が待つ一階に足を運んだ。
*
「あなたは今日から、『トーリ・ノウェルグレイ』です!」
「…………ふあい?」
なめらかな木製スプーンを口に咥えながら、気の抜けた返事をする。
テーブルの向かいに立つロヴィミアが手に持った薄茶色の紙にはいくつかの単語が書かれていて、その大半にバツが打たれており、唯一マルで囲まれた名前が『トーリ』だった。
朝食にいただいたスープは美味かった。
「昨晩母さんが考えた名前です。最終的にコレと決めたのが『トーリ』ですが……他のも見ますか?」
「…………いちおう」
ブロシア、パスィー、カズラ、ブロム、リリー……。
テーブルに差し出された紙に書かれた名前たちはどれも可愛らしく、また恐らくだが、花の名前が由来になっていると思われた。なんとなく語感が俺の知る花々と似ていて、それっぽかったためだ。
……紙に書かれた文字の形は明らかに日本語とは別のもののはずだが、頭の中で単語として認識できる。
俺が発している言葉もロヴィミアやガルベラ婆さんとは通じているし、転生の際にそうした言語の擦り合わせが起きているのだろうか。
「これ……って、お花の名前? ですかね」
返事はキッチンの方から聞こえてきた。
「オレがガルベラ、兄貴二人がフィスにゼフ、それからミアだ。ノウェルグレイの連中はみんな花の名前からとってんのさ」
調理台に背を預けたガルベラ婆さんが、コーヒーを啜りながらそう説明してくれた。
カズラやリリー、俺の知る花の名前と全く同じものもあれば、聞いたことのないものもある。
トーリはそれの最たるものだが……。
「まあ、あくまで表向きに名乗る名前だ、気にいったもんを選んでくれりゃいいさ」
俺には、既に森田洋介という名前がある。三十年世話になった名前だ。
その名前をさあ捨てろと言わず、表向きの名前なんだから好きなものから選べと言ってくれる婆さんの言葉を有難く思いながら、俺は答えた。
「じゃあ――トーリで。トーリがいいです」
トーリがいい。
その言葉を聞いた瞬間、ロヴィミアはまさしく花開くように笑顔になった。
「……うん、うんっ! ではトーリ、あなたはトーリです!」
「はい――はい? トーリです?」
「トーリですよ、トーリ。わたしは姉にあたるので、遠慮なくお姉ちゃんと呼んでください」
びしっとその大きな胸に手のひらを当ててアピールするロヴィミア。
……確かに、イスガトに行く際はノウェルグレイを名乗れとは言われたし、同じ苗字を名乗るということは……そういうことになるのだろうが。
あまりにも目をきらきらさせた、昨日とはまるで別の姿を見せるロヴィミアを前に困惑していると、こそこそっとガルベラ婆さんが耳打ちをしてきた。
「……末っ子だからよ、あの子。便宜的な立場上とはいえ、妹が出来て喜んでんだ。悪ィ、付き合ってやってくれ」
ふんすと鼻を鳴らす彼女は目を閉じていて、いざ姉と呼ばれる瞬間を待っている。
耳打ちにはこくりと頷きで答え、確かに表向きに家族として振る舞う以上、かしこまった呼び方や話し方は違和感を持たれてしまうだろうと思い、お姉ちゃんと呼んでみようとした――が。
そういえば、と頭をよぎる記憶。まだ見ぬ上の兄二人は、名前を略して「フィス兄」、「ゼフ兄」と呼ばれているらしいことを思い出す。
であるなら……末妹となる自分が、姉を呼ぶとするなら。
「……ミア姉、さん?」
ロヴィミアのミアを取って、ミア姉。
気分を害することのない呼び方だといいが、そう思って呼んでみたが。
「…………? おい、ロヴィミア?」
反応がない。ふんすというような表情のまま固まっている。
ロヴィミアはそのまま、微動だにせぬまま顔だけ真っ赤に染めて、息をも止めてばたりと背中から倒れた。
どしんと床に伝わる衝撃とその姿にダブルでめちゃくちゃ驚いてしまった。
*
時刻は丁度昼を回った頃。
この家に時計は無いが、ロヴィミアとガルベラの両名は空に浮かぶ太陽を見てだいたいの時間を把握する。
俺はガルベラ婆さんの私室で大きな姿見の前に立ち、寝間着から余所行きの格好に着替えさせられていた。
姿見に映る俺は、上下で一体になったワンピースのドレスを着ている。スカートの丈が長く、学生時代に女子たちが着ていた制服を想起させる服だった。
水面でしか見たことのなかった自分の姿をこうして鏡で見直すと、存外に印象は変わるもので、薄い黄色をしたもこもこのショートヘアに深い青色をした瞳が白い肌にくっついた頭は、まさしく手製の髪を植えられて宝石の目玉を嵌め込まれた人形のようだった。
背丈は小さく、顔つきはあどけない。着ているドレスもよく似合った、可愛らしい女の子である。
その女の子は俺が体を動かすと同じように動き、スカートの裾を掴んで持ち上げると、彼女のすべすべの細い足が覗いた。
毛が一本もない。すごい。つるっつるでキレイな足が二本、そこにある。
「こら、何してるんですか、はしたない」
ぺしりと後ろからロヴィミアに頭を軽くはたかれて正気に戻る。
鏡に映る少女を物珍し気に鑑賞していた気分だったが、これは俺なのだ。この女の子が俺、森田洋介……ではなく、トーリという少女なのである。
おっさんが少女の体を鑑賞するのももちろん問題だが、少女が自分でスカートを持ち上げるのも問題だ。ごめんなさいと一言頭を下げ、俺と同じく服を着替えたロヴィミアと、鏡に映るトーリという少女の両名に謝罪した。
「……自分の姿を、こうやって見るのは初めてだったので。つい……」
そう言うと、ロヴィミアは少しだけ複雑そうな表情を見せて、俺の隣にしゃがんで鏡に映る俺と目線を合わせた。
彼女が着ている前を大きく開けた白いコートは、この自然たちの中ではその異質さでもってよく映える。これが彼女の普段着なのだろうか。
「男性――だったんですよね、トーリは」
過去形の言葉に少しだけ噛みつきそうになったが、ただ黙って頷いた。
「三十年生きたから、不思議な気分でして。毛むくじゃらで腹の出た、横にでかい体の男を見慣れてたのに――鏡を見ると、もうどこにもいないもんだから」
惜しいとか、居心地が悪いとか、そういった感覚は無い。……無いが。
ただずっと、この世界で目を覚ましてからずっと、ふわふわと浮ついた感覚だけがある。
そうではない、自分はこうではないんだと心でいくら否定したとて、体は実際にここにある。
ロヴィミアはぽんと俺の頭に手を置いて、ふわふわした髪の毛をゆっくりと撫でた。
優しい手つきに反して、その顔は普段よりも強張って見えた。
「いいですか、トーリ。……あなたはトーリです。母さんの見立てですが――この世に生まれて十歳前後の女の子なんです。女性らしくあれとか、そういうことを言うつもりはありませんが……」
男の心、精神から見れば、どうしても好奇心というものは存在する。
しかし、とロヴィミアは――姉は、その心に対して警鐘を鳴らす。
「あなたの心がどうであれ。つつしみなさい、ということです。自分の身を、大事になさい」
俺が本当に十歳の女の子なら、その意味をきちんと把握はしなかっただろう。
けれども俺は少なくない歳を重ねた男だ。それ故に、その言葉にはきゅっと体を縮こませて、深く頷いて答えた。
今度は謝罪ではなく、肯定のために。
森田洋介という男は、このトーリ・ノウェルグレイという少女を守らねばならないのだ。
これから、ずっと。
「準備は済んだか、二人とも?」
窓の外からガルベラ婆さんの声がした。
ええ、もう大丈夫ですと答えるロヴィミア。その横で、俺はガルベラ婆さんが連れているでかい頭にビビった。
ぶるると鼻を鳴らしている。見たことがある。
俺はそのままロヴィミアと手を繋ぎ、連れられる形で家の外へ出た。
「ヨカニセ! 元気でしたか、ヨカニセ」
家の外周でもさもさと草を食んでいる、その大きな動物に駆け寄って体を撫ぜるロヴィミア。
でかい。かなりでかい。ロヴィミアも婆さんも長身のはずだが、四つ足のそいつはそれよりでかい。
その鞍をつけた大きな動物の名を、俺の知識に当てはめるなら――馬、である。
「元気も元気よ、こいつの脚なら昼過ぎには着くだろ。ああヨースケ――じゃねえな、トーリ。紹介するよ、ヨカニセってギュウバだ」
たてがみを撫でながらガルベラ婆さんが説明する。そいつの名はヨカニセというらしい。
馬……ヨカニセはもしゃもしゃと草を食いながら首を動かし、俺を見た。
顔がでかい。目もでかい。全身が艶のある真っ黒い毛並み――青鹿毛と言うのだったか――で覆われていて、頭には二本の大きな角がある。その迫力に怖がりつつ、ちょっとだけ興奮している俺がいる。
テレビや写真で見慣れた馬、サラブレッドの足を四本ぐらい束ねたような太さの足が、ヨカニセには四つあった。
「体は頑丈で足は速ぇ。一応
ぶるんと鼻を鳴らして首を上下に動かすヨカニセ。それにつられて俺も頭を下げてしまう。
頭だけで俺の体ぐらいあるそいつは、近くで見ると確かに整った顔立ちに見えた。そんなところを保証されても困るが。
不意にひょいと自分の体が持ち上がり、ぽすんとヨカニセの背中――肩のあたりに乗っけられる。次いで身をひるがえして背中に乗ったロヴィミアが俺の体を抱き留めて、手綱をぎゅっと引いた瞬間、草を食べてリラックスしていたヨカニセの体にぎゅっと力が入ったような気がした。
「明日の内には戻りますよ、母さん」
「気をつけてな、ロヴィミア! ゼフィールによろしく言っといてくれ」
普段は上から聞こえてくるガルベラ婆さんの声が、今は真下から聞こえる。
ただ馬の背に乗っただけだというのに、見下ろすと足がすくみそうな高さだった。
転げ落ちたらただでは済まない高さということは容易に想像できるが、俺の体を固定する器具などは見当たらない。これで大丈夫なのかとロヴィミアに尋ねようとした時。
「“フィセット イクス”」
聞き慣れない単語が聞こえ、その瞬間に俺の足はぴったりとヨカニセの体にくっついた。
足、というよりは股、ヨカニセに接している部分が糊で固められたように動かなくなっている。
「っ……、本来は剣や杖を背中にくっつける魔術ですが、あなたぐらい小さければ人にも使えます。感覚が気持ち悪いかもしれませんが、到着したら解除しますので……!」
「すごいな、これは便利だ……! ありがとう、ミア姉さんっ!」
はうふっっ、というような息が抜ける声を聞きつつ、俺は眼下のガルベラ婆さんと顔を合わせ。
「行ってきます」
「……おう。行ってらっしゃい、トーリ」
挨拶をひとつ、かわしてから――駆け出したヨカニセの上で、吹き抜けていく草原の風を受け止めた。