が、こん――と、出入り口の大きな扉が背後でゆっくりと閉まる。
長方形の石が敷き詰められた床、大きな本棚がいくつも並んだ室内。外の音も殆ど聞こえてこない静かな図書館の中を、こつこつと姉は俺の手を引きながら歩いていく。
いくつか本棚の列を過ぎた先。図書館の端、一角を切り取るようにカウンターテーブルが置かれた向こう側で、長いブロンドの髪の男性が本を広げながらこちらに背を向けていた。
「今日は何の本を読んでらっしゃるんですか? ゼフ兄」
その声を聴いた瞬間、ぱたん、と彼は本を閉じ、くるりとこちらに振り向く。
ブロンドの髪がさらりと揺れ動いて流れる。その口が嬉しそうに朗らかな笑みを浮かべるのがわかったが、それ以外の表情がわからなかった。
その目は、包帯のような白い布でぐるぐるに巻かれて隠されていたからだ。
「『レン・ニコットの手記』――その三巻だよ、ミア。久しぶり、元気してたかい?」
「ああ、大冒険者レンの。珍しいですね、ゼフ兄がその手の本を読むのは……ええ、そちらも変わりないようでよかった」
口調は互いに淡々として落ち着いているが、その声色は少しだけ高く、そこに互いの喜びや嬉しさ、安堵といった気持ちが宿っているように聞き取れた。
……彼が、ゼフィール・ノウェルグレイ。ノウェルグレイの次男であり、ガルベラ婆さん曰く本の虫。
その言葉から俺は眼鏡をかけてきりっとした男性の姿を想像していたが、実際のゼフィールはそれ以上に特徴的な外見をしていた。
その白い布の向こう側にある目が見えているのかいないのか――それはわからないが。
ゼフィール、ゼフ兄さんはすっと顔をこちらに向け、そっとしゃがんで俺と視線を合わせてからミア姉さんに訊ねた。
「それで、こちらのお嬢さんは? ……えらく可愛らしい、整った顔立ちだね。深ぁい青色の瞳だ、最高純度の魔石を思わせる……」
「ええ、わたしの妹です。かわいいでしょう? 今日ここへ足を運んだのは、こちらの彼女の紹介も兼ねています」
「あ――と、トーリ・ノウェルグレイ、です。……よろしく……?」
見えている。見られている。少しばかり緊張しつつ、ぺこりと小さく俺は兄に頭を下げて名を名乗る。
「トーリ……トーリ……!? えっちょっと待ってじゃあ新しい妹ってことかい? 僕の二人目の妹ってことだよねミア!?」
「しー、図書館ではお静かに、ゼフ兄。わたしの妹です。かわいいでしょう」
「ああ超かわいいね僕の妹、マジか、いったいどうして――」
ウキウキと上半身でリズムを刻むゼフ兄さん――図書館内で出来る感情表現の限界であろう――は、俺の存在に何故と思い浮かべた瞬間、はっとなった様子でぴたりとそのリズムを止めた。
誇らしげに俺の頭をふわふわとしきりに撫でていたミア姉さんの手も止まり、ゼフ兄さんの様子に応えるようにこくりと頷いた。
「その経緯などの説明も踏まえて……少し、奥で話しませんか、ゼフ兄」
「……そう、だな。聞かせてくれ、ミア。ぁと、トーリ、悪いが兄さん姉さんは少しここを離れるよ。すぐ戻るから、これでも読んで待っててくれ」
そう言ってゼフ兄さんはさっきまで自分が読んでいた本、レン・ニコットの手記を俺にそっと手渡した。
ずしりと重い本だった。十歳前後の女に渡す本だろうかと頭にはてなを浮かべつつもこくんと頷いて、カウンターテーブルの奥、カーテンの向こう側へと去っていく二人の背中を見送った。
一人になった。
座れる場所はあるだろうかと館内を歩き回り、簡素な木椅子を見つけ、その上にぴょんと飛び乗って腰かける。
椅子の足は長く、俺の足先はぷらぷらと宙を泳いだ。二人が何について話しているかを考えないように、俺は目の前の分厚い本に集中することにした。
……俺の話だろう。そして、離れて話すということは好ましい内容でもあるまい。
ぱらぱらとページをめくって真っ先に目についたのは、とても精巧に描かれたイラストたちだった。
「……これは……モンスター? 魔物……? ここは、砂漠……雪原かな……」
イラストには色がついていないので、その様子から推定することになるが――内容は概ね、こういった風貌の魔物に襲われ、こういった対処をしてどうにか切り抜けた、といったようなものが連なっていた。
ページをめくればまた新たな魔物が描かれている。一日の終わりにはこういった場所でテントを張り、また出発する……そんな、レン・ニコットという冒険者の日々がつづられていた。
それを読むことで、まるで自分がレンと一緒に冒険しているような気分になる。この手記自体、レン・ニコットという人物が自分より後の時代に生まれる冒険者たちへ向け、知識と経験を残し伝える形で書かれているため、余計にそんな気持ちにさせられてしまうのだった。
「……魔物化した動物は、もともと持つ長所と短所がより極端になる。ギュウバはその最たるもので……魔ギュウバはその神速を捉えて脚を狙えば好し……」
まるでアキレウスのかかとのような話である。……狙いをつければ狙えるものなのだろうか。
書かれているのは魔物のことばかりではない、その日の食事に関しても記述がある。その場その場で入手した食材を調理し、その工程や味付け、実際の味と評価などが事細かに記されていた。
けれども、気になったのは頻出する『ビスケットで済ませた』という一文である。食材が得られなかったとき、いつもレンはこの『ビスケット』で済ませたと言っているが、ビスケットだけで腹は満たされるのだろうか。
「…………?」
ぱらぱらとページをめくり、このビスケットに関して書かれている箇所を探そうとした時だった。
こつ、こつと静かな足音が上から聞こえてきた。そっと階段を降りるような音だ。二階があったのだろうか。
よくよく目を凝らすと、あのカウンターテーブルの付近にある本棚の裏側にスペースがあった。足音はそのあたりから聞こえてきていて、やがてそこから男性がのそりと顔を出した。
「ゼフィール館長、こいつを借りたいんだが……。……あれ……留守か……?」
館長――俺の兄に用事らしい。俺はぱたりと本を閉じながら椅子から降りて、彼のもとに歩いた。
「ゼフ兄さんなら奥だよ、ミア姉さんと話してる。しばらく待てば来るんじゃないかな」
腰に剣をさした、黒いうねり髪の無精ひげの男性。彼も手に大きな本を抱えていた。
「うん? ああ……そうか。なら待つか……」
男性はそう言ってカウンターに背中を預け、手に持っていた本をそっと広げた。
『メイベトス大陸に生息する幻獣と魔獣』。飾り気のないタイトルの本だった。
「――兄さん姉さんってことは、お嬢ちゃんも、ノウェルグレイの子か?」
「ああ、末の妹だよ。昨日からね」
「そうか……」
しわがれた、低い声だった。
子供相手では怖がられそうな声だ。けれどその内には、こちらを気遣うような色があった。
正確には妹ではないし、今は名を借りているだけだが――ミア姉さんの紹介の仕方といいゼフ兄さんの反応といい、えらくさらりと俺の存在が受け入れられている。
いずれは俺自身も俺を受け入れてしまうのだろうか。トーリ・ノウェルグレイという、ここにいる自分を。
「…………災難だったな」
「え?」
「神域から逃げるのは、苦労したろう」
彼は、広げた本から目を離さぬまま、確かに俺にそう言った。
「……ガルベラ婆さんに、助けてもらった。俺ひとりじゃ死んでたよ、あんな……バケモノのウサギに囲まれちゃ」
「タハ森林のボーパルウサギか」
カーテンの奥の話し声が止んだ。
それから二人分の足音が聞こえてきて、ゆっくりとこちらに歩いてきているのがわかった。
「俺はガト湖だった。イスガト山脈の向こうに、でかい神殿跡があってな――そこにある湖で、キバクラゲに体中食われそうになったよ」
……ずいぶんと直接的で恐ろしい名前のクラゲである。
しかし、まるで自分のことを隠そうともしない彼の素振りから察するに……彼もまた。
「やあ、ガラハさん! 来てたのか、すまないね……少し取り込んでいた」
ばさりとカーテンを広げ、早歩きでこちらへと向かってきたのはゼフィール。
その後ろからゆっくりと歩いてくるロヴィミア。彼女は俺の視線に気が付くと、神妙な面持ちを隠すようににこりと微笑んだ。
「ミア姉さん、その……この人は」
テーブル越しに本の貸与の手続きをするゼフィールと彼の横で、俺は姉に訊ねた。
ロヴィミアは少しの沈黙と目配せを挟み、その目を見た彼がこくりと頷くと、彼は小さな財布から貸出料をゼフィールに払いつつ。
「シルバーハディマの、ガラハ・オンズだ。おそらくは、お前さんと同じ……『テンセイ人』だよ」
しわがれた、けれど明瞭な声で、そう俺に名乗った。
*
同時刻――タハ森林、タハ湖神域観測拠点。
部屋の掃除をしている最中の家主、ガルベラは特徴的な異音に気づき、窓の外を見た。
「……ありゃあ…………」
きぃい――ん…………といったような、知識にあるものの中で例えられるものが存在しない音。
それはある人物の背中から発せられていたもので、その人物はゆっくりと地面に着地すると、拠点の出入り口までふらついた足取りで近づき、こんこんとノックした。
来客である。ガルベラは掃除の手を止めて、ドアを開けて彼女を迎えた。
ドアの向こうで直立していた彼女が、ガルベラと顔を合わせた瞬間にぺこりと頭を下げる。
「ご無沙汰しております。ジエンドハディマ、ガルベラ・ノウェルグレイ」
「天使さまを迎えるのは久々だな。その服装……メイベトス担当じゃねえな。ノルデの子か?」
背中に、ぼんやりと光る形のない翼を持った少女だった。
陽光を受けた麦や穂のように淡く輝く長髪を見て、ガルベラは出会ったばかりの末妹のことを思い出した。
成長して伸びれば、あいつの髪もこんな風に綺麗になるだろうかと。
銀色の瞳の黒い虹彩にガルベラの顔を映し、少女は明瞭な声色で要件を話す。
「――テンシュラクの神域の濃度が、ここ数週間で急速に上昇しています。タハ湖の水の色は、ご覧になりましたか?」
「ああ、テンセイ人の出現も確認した。湖は濃い青色でウサギどもは狂暴化……そろそろとは思っちゃいたが、予想より早いな」
「対策は、済んでおいででしょうか」
「兄妹全員を招集した。最上級のハディマが四人集まれば、封印は確実だろう……連絡は行ってなかったか?」
「…………その旨の確認は、しております」
ガルベラはわずかに眉をひそめ、口ごもる天使を見下ろした。
彼女の知る天使、
成ってまだ日が浅いのか、それとも別の理由があるのか――その疑問を口にする前に、天使はすうっと息を吸い込んでから本題を切り出した。
「テンシュラクは――古い神の中でも、ナイリスに匹敵するほどの格を持ちます。我々はあれの復活に対し、最大出力の聖剣の使用も……視野に、入れております」
「…………ほう」
聖剣。現人神様が持つ、神代を終わらせた力――古い神を滅ぼした力。
通常、それは星に過度な傷を残さないためにわずかな出力で用いられる。人の所作になぞらえて言うならば、それは現人神にとってひゅうと風を斬る一振りに等しい。
ガルベラが生涯で観測した聖剣の光は、そのわずかな出力のものだけだった。それでも建造物のことごとくが消滅し、空気中に漂う神気のすべてを消し去り、草木が芽吹く平らな大地だけが残るほどの破壊と回帰をもたらす光――それの最大出力、すなわち全力での一太刀など、いったいどんな威力になるのか想像もつかなかった。
だが近辺に存在する生命体、つまりは招集を受けたノウェルグレイ一家など、塵も残らないことは容易に想像ができた。
「ガルベラ様」
それを踏まえた上で、もう一度、天使はガルベラに問いかける。
「……『対策』は……済んで、おいででしょうか?」
ガルベラは、なんだそんなことかと鼻から息をふっとひとつ噴き出して、笑みを浮かべて答えた。
「さっき伝えたテンセイ人だが――ウチで保護したんだ。今はイスガト鉱山街に行っててな、利口で気立てがいい」
「……イスガト?」
「そいつに名前をやった。名をトーリ、姓を……ノウェルグレイ。あいつがそれを気に入るか、受け入れるかどうかは別として……オレはオレにできることをした。対策というんなら、それで十分だ」
「…………」
ほんのわずかに、天使の内に逡巡があった。
ガルベラの答えに対する想いと、それとは別に、イスガトという地名に対する懸念。
きゅっと唇を締めて、何度かのまばたきの後、天使はガルベラにその懸念を口にした。
「テンシュラクのこととは、別件なのですが」
「うん?」
「イスガト鉱山街に関して、ひとつ――我々が観測したことがあります」
*
「…………」
口と顎とを手のひらで覆い、数十秒の思考を挟んで、ガルベラは訊ねた。
「それは……マジの話か?」
「無視しようと思えば、それが可能な程度の事実ではありますが――確かです」
「…………そうか」
ガルベラの頭の中に浮かぶ、長女と次女の姿。
それから街にいる次男の姿が浮かんで、最後にここへと向かっている最中の長男のことを思い出した。
「フィサリスはわかるか? アルテマ級のハディマで、長え赤髪が特徴の男なんだが……」
「“閃紅”の……ですか? はい、把握しております」
「そいつは今ウチに向かってる最中で、おそらくまだ平野を歩いてる。そいつに……伝言を、頼んでも?」
「……
「一言でいい――」
「『先にイスガト鉱山街に向かえ』。……新しい妹を守れってな」