「……魔術学校に行ってみたい……か」
「ああ、昨日姉さんから魔術の触りを教えてもらってさ……興味が出てきたんだ」
翌朝、明朝。
ゼフィールの図書館の一室で目を覚ました俺の隣には、焼き立ての木の実パンと書き置きが残されていた。
『ゼフ兄と買い物をしてきます。昼までには戻ります』……といった内容を確認し、部屋を出た俺は、どうやらここの常連客らしいガラハとちょうど顔を合わせ、今に至る。
「おかしいことじゃないだろ? この世界でなら、さ」
「おかしいなんて言うつもりはねえが……どこ受ける気だ? 学校とひとえに言っても、そこらじゅうにあるぜ」
小椅子に腰掛け、借りる予定らしい本をすでに広げながら、ガラハは視線だけをこちらに向けて問いかけた。
昨晩俺とミア姉さんが利用させてもらった部屋に、今は俺とガラハがいる。仮にゼフ兄さんとミア姉さんが帰ってきても何か言われることもないだろうと、俺が勝手にそう判断して彼を招き入れた。
まあ、怒られたら謝ろうと思いつつ、俺はベッドに腰掛けながらガラハの質問に答えた。
「なんでも、デクシード王国……? ってとこに、でっかい魔術学校があるそうじゃんか。どうせ行くならでかいとこがいいかなあって」
「アリミアス魔術学校か? へえ、またでけえ目標を掲げたなあ……」
ぱたんとガラハが本を閉じる。
俺の答えは彼がその本よりも強く興味を示すものだったらしい。
「難しいのか? 倍率どんなもん?」
「倍率までは把握してねえが、いわゆる貴族の坊っちゃん嬢ちゃんら御用達のいいとこだよ。お家柄のサポートがありゃあ入れはするし、なけりゃえらくしんどい入学試験があると聞くぜ。勉強できんのか、お前さん?」
「……生前ロクにした記憶はねえけど、まあ、だからこそだよ。年取ってからの勉強って、意外と面白かったりするじゃん?」
なんだそりゃ、とガラハはどこか愉快そうに笑う。俺もそれにつられて笑ってしまった。
「ガラハ、昨日俺に言ってくれたろ。せっかく手に入れた生なんだから、大事に生きろって」
「……ああ。言ったな」
「俺さ、そう聞いた時……夢がねえなって、思っちゃったんだ。生前でも今でも、結局は自分が食い扶持稼いで生きていかないといけないわけだろ。外で冒険者が装備そろえて魔物退治に行くような世界で、結局は自分の身の丈にあった現実的な仕事を探さなきゃならねえわけで。だもんでさ」
まるで俺の言いたいことを見透かしたように魔術を見せてくれた姉の顔を思い出す。
にっこりとした笑顔と明るい声色の奥底で、どこか寂しさのようなものがあった。
思い過ごしかもしれないが、彼女は……俺に、このステラエモルクという世界を嫌いになってほしくなかったのかもしれない。
経緯はどうあれ、俺が生まれてきた、この世界のことを。
「どうせなら、やりたいことをやりたいなあって。眼の前で魔術を実際に披露されて、俺もちょっとだけど使ったりできて……勉強できるとこがあるなら、やってみたいなって、思ったんだ」
「そうか」
素っ気なくもどこか嬉しそうなガラハの返事に、俺は昨日の姉の笑顔を思い出した。
「アリミアス入学が、お前さんの『夢』か? トーリ」
「ん……ああ、当分はね。落ちたらまあ……そんとき考えるさ」
「そうか。夢を持つのは、いいことだ」
意外な言葉だった。
そんな風に思うことは失礼なのかもしれないが、あくまで現実的なプランを話に挙げる彼の姿からは少しばかり想像しがたいものだった。
だが思い返せば、彼は『夢をみるな』とは言っていなかった。ただ冒険者を勧めはしないと言っただけで――そこに、ひどく物悲し気な、諦観のようなものがあったように思えて……。
ふと、そこで。
俺は何故、彼が『夢』という言葉と無縁そうに思ったのか、その理由に思い至った。
「たとえばだ」
その理由を口にしようとして、先にガラハが口を開く。
「夢ばっかりを見て、ファンタジーを楽しんで生きる。それもひとつの人生の形なんだろうが――よくはない。ステラエモルクはどこまでも、死と隣り合わせの世界だ。……濃度が高まれば生き物が魔物になっちまうような『もの』が、窒素や酸素と混ざって飛んでるんだぜ? 剣と魔法って夢だけ見てちゃ、厳しい現実ってもんを学べなくなる……」
神気のことを言っているのだろう。
確かに……どこでも魔術が使えるということは、この世界のどこだろうと神気が満ちているということだ。
ガラハは淡々と、しかし真摯に続ける。
「だがな、厳しい現実だけをずっと見る。これもよくはない。ステラエモルクは街の外を歩くだけでも、魔物や動物に襲われて簡単に死ぬような世界だ。そんな世界でそんな事実ばかり気にして、意識し続けると、生きてる理由ってのがわからなくなっちまう。テンセイ人は特に顕著だ。別の世界で死んでやってきた以上、現実に打ちのめされて、極端な選択を取ることがあるのさ――『また次がある』、ってな」
ガラハは、まるでその目で見てきたかのように語る。
そして、ふうと息をひとつついて。
「……現実を知った上で、夢ってものを持って、はじめて人間は潤うんだ。だが一度それを失くすと――人間ってやつは、カラカラに乾いちまって……夢を、はじいちまうようになる。だから、トーリ」
「その夢は、大事にしろ。この世界を知った上で、お前が見つけた夢だ……大事に、大事にしろ。いいな」
俺は、静かに重く頷いた。
見てきたことを教訓のように語った最後に彼が口にした言葉は、彼自身のことだと理解した。
彼も、夢を持ったことがあるんだ。シルバーハディマの証が埋め込まれた剣を片時も手放さないのは、きっと無関係ではないと思う。
そして感じられる冷たい諦観は、彼のこれまでの生にどんなことがあったのかを俺に想像させた。
「あのさ、ガラハ」
少しの沈黙があって、俺は意を決してそれを破った。
「アリミアス魔術学校……デクシード王国って、ここからだと、遠い?」
「ん……ああ、それなりにな。山に森に川に、通る必要のある難所は多い……キャラバンに同行できれば一番だが、安くないしな……」
「知ってるってことは、行ったことはあるんだ」
「そりゃあな。これでもハディマだ、一時期は大陸中を踏破してやるつもりでいたもんさ……ま、結局北と南の国には行けずじまいだったが」
冷たく冷え切っていた彼の声色に、ほんのわずかな熱が灯ったのがわかった。
「だったら案内してくれよ。五年したら、デクシード王国に連れてってくれねえか」
「…………はっ?」
目を丸くして驚くガラハ。
俺はにんまり笑って、驚くことじゃねえだろう――と続けた。
「二十年ぐらいか? 長いこと生きてるテンセイ人の冒険者なんて、これ以上ないくらい頼れる相手じゃんか。だから一緒に冒険してほしいなって思ったんだけど…………ダメかな」
「……いや……ダメってこた、ねえが……」
彼はどこかで、夢を諦めた。けれどハディマとしての想いは乾ききらず、ずっとくすぶっていたんじゃないかと思った。
俺と話す彼が見せる、巨大な諦観の隙間から覗くほんのわずかな羨望から、俺はそう推察した。
髭もじゃの口を手で押さえて、じっと考えて、それからガラハは俺を見た。
「いいのか。……お前の……最初の仲間になるんだぜ? 俺が……」
「心強えよ、同じテンセイ人だし! 死と隣り合わせの世界で最初から仲間になってくれるベテランなんか、ありがたいことこの上ねえって……ああホラ、ジェイガンみたいなもんだよ、エフイーわかるかな」
「……ロクに成長望めねえってか、俺は」
「伝わったし!! そういうわけじゃねえし!!」
あははと、久しぶりに笑った。ころころと鈴を鳴らすような笑い声が喉から溢れた。
ガラハも照れくさそうに歯を見せて微笑んでいた。彼も久しぶりに笑ったというような様子だった。
「はー……いや、けど……ああ怒らないで欲しいんだけど……覚えてるもんなんだな、そういう知識も」
自分の名前も思い出せないと彼は言った。けれど彼の様子を見るに、彼には転生する前の知識が確かにあるようだった。
「少しずつ思い出してくんだよ、お前と話してるとな。でなきゃ、昔自分がやってたゲームのことなんて忘れたままだった」
ぼんやりと空を見つめるガラハ。
心の内を知る術は無いが、彼は今、遠い昔の記憶が少しずつ蘇っているのを感じているのだろうか。
「お前とこうやって話してれば、いずれ自分の名前も思い出せるかもしれないが……まあ、それはよくない兆候だ。俺は俺、ガラハ・オンズなんだからな」
そしてガラハはゆっくりと目を閉じて、腰にさげた剣の柄をぐっと握りしめた。
「大事なのは『これから』のことだ、お互いにな。トーリ・ノウェルグレイ」
「…………そう、だな。……ガラハ・オンズ」
……ここには今、二人のテンセイ人がいる。
図書館の一室、この閉じきった空間は外と隔絶されていて、俺達二人で『前』の話をすれば、そこには『前』の世界の空気が満ちることだろう。
だが、ここはステラエモルクだ。地球でもなければ日本でもない。俺達に残るその記憶は、この世界で得られる新たな記憶で塗りつぶしていかなくてはならない。
でなければ俺達は……俺は。
この世界で、永遠に孤独なままになってしまう。
……そう、理屈責めて自分を納得させようとしたが。
ガラハとの談笑で、俺も失いかけていた記憶が蘇ってきていた。
その時、下の階から、ぎぃい――と図書館の重い扉が開く音がした。
「……? 客か?」
「……かもな。ちょっと見てくるよ」
脳裏によぎりかけた両親の顔を振り払うように、俺は部屋を出る。
来客ならば事情を話さねばなるまい。今ここの主は出かけていて、しばらくすれば帰宅するはずだと。
「おい、トーリ――! 走るなよ、転ぶぞ……!」
階段を降りたあたりで、来客である彼女と目が合った。
自然と閉じていく扉の前で、じっと目の前を見つめる小さな少女。背丈は俺と同じか、少し小さいくらいの女の子である。
俺はなるべく足音が響かないよう、ゆっくりと彼女の元に歩いていった。
「……え、っと……館長に用事、かな? ゼフィールさん、今は出かけてて――」
「おとうさん」
「へ」
一瞬思考が停止した。
兄には娘がいたのかとか思ったが、目の前の少女は明らかに俺を見つめながらそう言っていた。
「……トーリ、その子……」
俺に続いてガラハも彼女のもとへと歩いてきた。少女は俺の後ろから歩いてくる大人に少し驚いた様子で、ぱたぱたと走って俺の体に隠れるようにぎゅっと抱き着いた。
「あ、えっと……たぶん……ゼフ兄に用事……なんだよね?」
「いや……この子は……」
言い淀んで、少しの間があってから、ガラハが口を開いた。
「……ニュートレンツさんの、子供だ。六番坑道街の方に家がある……たぶんだが、迷子になったんだろう……」
迷子――。そうか、なら開口一番にああ口にしたのは納得できる。
「お出かけの最中に父親とはぐれたのかな……ガラハ、どうしよう」
「ニュートレンツ――エラン・ニュートレンツさんの家なら、俺がわかる。俺が連れて帰るよ、トーリは図書館で待っていて――」
「や!!」
少女は俺の服にしがみついて、てこでも動かなさそうな様子だった。
どうしてもガラハには近寄りたくないらしい。俺の体を間に挟もうと、必死で隠れようと試みていた。
「……や、だってよ」
「……仕方ねえ、か……六番坑道街はそう遠くない、一緒に送ってやろう。ついてきてくれるか、トーリ」
「ああ、それはいいけど……図書館、空けて大丈夫かな」
「何、すぐ戻ってこれる距離だ。ゼフィール館長に怒られたら、俺が謝るよ」
扉を開け、外へと出ていくガラハ。彼を追いかけて、俺も少女にしがみつかれながら歩いていく。
俺が歩くと彼女は素直に足を動かしてくれて、離れはしないが同行はできそうな様子だった。
「こっちだ。はぐれないようにな」
俺の前を歩くガラハの背中は、何故かぴりぴりと緊張のようなものが張り詰めているように見えた。
*
イスガト鉱山街には、『〇番坑道が存在する地区』という区切りによって、各地区に一から十二までの数字が割り振られている。
数字が増えるにつれて鉱山の端へ行き、新しい坑道となっていく。そして利用されることのなくなった古い坑道付近の地区には住民や冒険者たちが集まり、人の集まりによる商業的な賑わいを見せ――新しい坑道付近の地区には現役の鉱夫たちが集まり、彼らが利用する娯楽施設や宿泊施設が集まったそこもまた、昼夜を問わず大きな賑わいを見せるのだった。
ゼフィールの図書館があるのは五番街。そこから数分歩いてたどり着ける、規模の大きな商店街が存在する四番街に、ロヴィミアとゼフィールの二人は足を運んでいた。
「はい、ミアちゃん。二か月分くらいの大容量にしといたからね」
「いつもありがとうございます、ヒコ婆」
商店街の一区画、石畳の道に面した小さな商店……ヒコナ雑貨店の中。
パンパンに膨らんだ大きな紙袋を受け取り、店主のヒコ婆にぺこりと頭を下げるロヴィミア。
「母さんってばヒコ婆のコーヒーしか飲まないくせに、いつもわたしやゼフ兄に買わせるんですから……たまには自分で行けばいいのに、ねえヒコ婆?」
「フフ、ベラちゃんも神域の観測っていう大事なお役目を担ってるものねえ……仕方ないわ。でも、やっぱり一日くらいは来てほしいもんね……」
細い目をしばしばさせながら、ああそうだ、とヒコ婆は店の奥に姿を隠し、それからすぐに顔を出した。
しわくちゃの手に小さな手帳があった。それを見たゼフィールが小さく首をかしげて尋ねる。
「ヒコさん、それは?」
「そのコーヒー豆の作り方。今度ベラちゃんが来たら、自分で作れるように教えてあげるわ、って伝えておいて」
「え……いいのかい? こういうの、ふつう秘密にしとくもんじゃないか……?」
困惑するゼフィールの顔を見ながら、ヒコ婆はにっこり微笑んで答えた。
「いいのよ。どうせあたしがいなくなったら買えないでしょう? 大事に抱えてお墓に持ってくには、ちょっと惜しい秘密だもの」
笑顔で口にするには重い言葉に、ゼフィールはしんと口を閉じた。
紙袋を抱えながらトーリに持っていく品物を探していたロヴィミアも、彼女のそんな聞き捨てならない言葉に思わず口を挟む。
「……寂しいことを言わないでください、ヒコ婆。わたしはもっとヒコ婆の店のお世話になりたいですよ」
「そうは言っても、あたしだってあと二、三十年も生きちゃいないわよ。なんにも言わないとそれぐらい家に閉じこもってそうでしょう、彼女? だからさっさと来いって言っておいて頂戴、ねえ、ミアちゃんにゼフくん……それに」
ヒコ婆の目が自分たちのどちらにも向いていないことに気づいた瞬間、二人は殆ど同時に振り返った。
それから、殆ど同時に目を開き、驚きの表情を浮かべて、その者の名を呼ぶ。
紅色の長髪に、黄金色の瞳をした隻眼。
ぼろきれのような外套の下に黒い鎧を身にまとい、背中にはその長身と同じ程の長さの大剣を抱えた青年。
「フィス兄…………!?」
「フィス!? 来てたのか、いつの間に……!」
母親によく似た、厳つい圧のある表情を前にして、ヒコ婆は懐かしさに頬をほころばせた。
「大きくなったわねぇ、フィスくん」
「……あなたはまるで変わらないな。ヒコナさん」
*
四番坑道街、商店街通り――人の通りもまばらな道の脇で、ノウェルグレイ三兄妹は身を寄せあって話をしていた。
長旅で消耗した体力の補給のため、大きな葉に包まれたビスケットを少しずつかじりながら、フィサリスはロヴィミアに神域について訊ねる。
「タハ湖の様子はどうだった、ミア? 今日明日にでも決行できそうか?」
「ええ、召喚さえ試みればいつでも。最も、まだ結界の構築も済んでないですし――今は鉱山街に純聖石が届くのを待ってるところです」
「そうか。オレの手元に三つある、足りない分はそれで埋まるか?」
「お……ぉ、万全ですねフィス兄。助かります」
道を往く人々が彼らに注目することはなく、皆それぞれがそれぞれの目的で行き交っていく。
今日の夕食を買う初老の男性、大きな背嚢を背負いながら食糧を買い込む商人の男性、玩具を見て回る親子。
酒場ギルドが存在する一番坑道街を離れ、わざわざここまで足を運ぶ冒険者はそうおらず、大位階と真位階の冒険者が三人並んでいても気に留めるものはない。時折視線を向けられても、何のことはないと歩き去っていく。
三人は皆、そんな何気ない今日の日を過ごす彼らの姿をじっと眺めていた。
それぞれがそれぞれの胸中に、深い想いを秘めながら。
「しかし、フィスがこっちに来るとはね。てっきり先に母さんの家に向かったかと……」
「ああ……それなんだが」
ゼフィールの言葉に、フィサリスが答える。
「ここに来る途中、
そう言って、フィサリスはじっとゼフィールを見つめた。
今でもこの街に住み続けているのは彼だけである。何か変わったことはなかったかと、フィサリスは尋ねる。
「変わったこと、か……。ないことは、ない。関係があるかどうかは定かじゃないが……」
思い出しながら言葉をまとめ、口をゆっくりと開いて、ゼフィールはぽつりぽつりと話す。
「……六番街に、母親を亡くした家族がいるんだ。その母親は生来、体の弱い女性で……子供を産んですぐに亡くなってしまったそうでね。父親は家族想いな人で、結婚の報告も、子供ができたって報告も周囲に欠かさずしていたんだが――妻を亡くしてからは、人が変わったように暗くなって、彼の笑顔が見れるのは娘と一緒に出掛けてるときだけになった」
「珍しい話じゃないな。……それで」
「ああ……数週間くらい前かな。その娘さんが病気を患ったらしく、とうとう外で彼の姿を見ることがなくなってね。家にずっと閉じこもって、しきりに何かをしている様子だったんだ。この通り耳はいいんでね、生活音に混じって聞き慣れない音もしていた」
「その間……彼は娘を医者に診せることもなく、自力で治療を試みていた――なんて、推測ですか? ゼフ兄」
ロヴィミアの言葉に、ゼフィールはこくりと頷く。
「確証は全くないけどね。もしかしたら、娘さんは大事なくて、ただ安静にさせていただけかもしれない。というより、そっちの可能性が高いと僕は思ってる」
「その親子は? 今も六番街にいるのか?」
「ああ、今も住んでる。最近はまた親子で歩いてる姿を見かけるようにもなった。もしだ、もし仮にだが……僕らの知らない手段で、彼が神気を用いた治療を成功させたとなれば……多少は揺らぎが観測されてもおかしくはないんじゃないか?」
壁にもたれかかり、地面を睨んで考え込むフィサリス。
エモルクに由来する聖神気ではなく、古い神に由来する神気を用いた治療は、神気中毒や魔物化のリスクこそあれど、取らざるを得ない最終手段として確かにある。生きてさえいれば後から聖神気による浄化や治療を施すことが可能だが、死んでしまえばそれまでであるが故に。
しかし、だとすれば何故街の教会にも頼らず、また後遺症を残すこともなく治療を成功させられたのか。そもそも、名だたる魔術師でもない一個人の魔術が、小規模とはいえ
その、何の裏付けもない、突拍子のない推測を信じるのは難しく、原因は他にあるだろうと考えつつも、フィサリスにはゼフィールが話した親子の話が妙に気にかかった。
妻を亡くした男が、病を患った娘と二人で家に閉じこもった。だが程なくして、彼らが揃って外出している姿を見るようになった。
自然に回復したのか、あるいは――本当に、未知の治療を成功させたのか。
「それは、つまり……『もう終わっていること』……なんだな?」
一瞬兄の言葉の意図を理解しかねたが、その後すぐゼフィールは「ああ」と頷いた。
「娘の病気は治った――んだと、思う。一緒に僕の図書館に遊びに来たりしていたし、二人と話したりもしたからね……」
フィサリスの内には、尚も疑念がくすぶり続けていた。
そして何よりも、『新しい妹を守れ』という母の言葉。
タハ湖の状況と併せて考えると、この街でも何か……大きな変化が起ころうとしているのではないのか、と。
「……ゼフィール、ロヴィミア。オレたちの『新しい妹』ってのは、今どこに――」
瞬間。
イスガト鉱山街に存在する、すべての人間の全身に、おびただしい数の虫が這った。
――ような、悪寒が走った。
彼らは皆一様に反射的に振り返り、あるいは見上げ、ある一点へと視点を向けた瞬間に、自分を覆う巨大な口の幻を見る。
その幻覚に恐怖し、あるいは驚愕し、目元を両腕で覆った瞬間。
覆えなかった両耳から、空気を切り裂くような雄叫びを聞いた。
ぞわぞわと全身を這い続ける悪寒と、恐怖と、叫び。
縮こまった体をどうにか押し上げ、何が起きたのかという現状を把握しようと試みた者の目に映ったのは。
深い紫に染まった、世界と、空の色。
暗雲を吐きながら天を望む、全身がいびつな鱗に包まれた単眼の巨人。
「………………な」
「あ――ぁっ…………」
事態を飲み込めず、震えるばかりの人々の前に、暗雲からボトリボトリとこぼれ落ちた無数の魔物が襲い掛かる。
やがて、悲鳴があがる。それは騒音となり、轟音となり、合唱と移る。
その渦中、巨人から離れようと試みる人の波に逆らい、その元へと飛び込もうと試みる三つの人影があった。
ごおん、ごおんと、鐘が鳴っていた。
古い神の眷属、イドの出現を知らせる、ハディマギルドに備えられたイドの鐘の音だった。