ステラエモルク   作:朝神佑来

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三日目・その二

 

 「治療は、成功していたんだ」

 

 ――ぱちぱちと、なにかが焼ける音がする。

 深いまどろみから意識を引き上げて、重い瞼を開いて見えた景色は、俺の周りの床を焼く灰色の炎と、すべてが紫色に染まった世界だった。

 天井の吹き飛んだ、破壊されつくした瓦礫の一部と化した家屋の中で、俺は意識を取り戻す。

 

 「ただ……」

 

 「君たちテンセイ人の存在は、今の彼女にとって……ああなるほどに、極上の馳走に見えてしまったというだけで」

 

 誰かが話している。

 落ち着き払った、安心感を抱くような低い声だ。

 

 その横から、歯がきしむような音がして。

 その歯の隙間から、押し出されたような声が聞こえた。

 

 「……お前は」

 

 「お前はいったい、何をした……エラン・ニュートレンツ」

 

 すらりと、剣が抜ける音がして。

 怒号が、響き渡った。

 

 「自分の娘に、何をした……!? あの子に……リコリスに何をしやがった、貴様ぁあッ!!!」

 

 リコリス。

 それは……。

 

 「治療だと言ったろう、オンズ。僕が授かった神の恵みを、あの子に分け与えたんだ。そして治療は成功した。……成功していた、はずなのにな……」

 

 ようやく明瞭になりはじめた意識を、空へと持ち上げる。

 深い紫色の曇天が広がっている。まるで気象情報に載る台風のような形に渦を描いていて、その中心には。

 

 『おとうさん』

 

 『ごはん!』

 

 なぜか、はっきりと意味がわかる、名状しがたい叫び声をあげる巨人がいた。

 その巨大な単眼が、俺を、見下ろしていた。

 

 「……ああ、そうだなリコリス。君は自分に必要なものを、ちゃんと見つけて、持って帰ってきたんだな。よくできた子だ、エリスに似て、本当に利口な子だ」

 

 艶やかな薄緑の髪がさらりと流れ、ちかりと光る眼鏡の奥の瞳が俺を見る。

 ――エラン・ニュートレンツと、リコリス・ニュートレンツだったものが、揃って、俺を。

 

 全身が痺れ、逃げるどころか立ち上がることすら難しい俺の眼前へ、巨人の黒く巨大な手が迫る。

 口を開けるように開かれた手のひらは真っ赤に染まっていた。

 ああ、こんな映像を昔、テーマパークで見たことがあると思った。乗り物に乗って、専用の眼鏡をかけて、迫り出してくる映像に驚いた――。

 

 「『神纏(じんてん)』ッ!! ――ッカァアア!!!」

 

 その、手のひらと俺の間に、斬り込んだ人影がひとつ。

 深い紫色の光を纏った刃が一閃、翻った瞬間に、巨人の手のひらに一文字の切創が刻まれていた。

 ぶしゃりと噴き出した青い血液が、刹那の一瞬に俺を抱きかかえたガラハの背中に受け止められる。背骨やあばらがへし折れるんじゃないかと思うほど強く抱きしめられ、抱きかかえられ――ガラハはそのまま、空を切って駆け出した。

 

 『痛い、痛い痛い痛い、痛いっ……!!!』

 

 「――リコリス!!」

 

 巨人の巨躯を思えば、その程度の傷など軽傷にすぎないのだろうが――だが彼女は、叫び、暴れながら切り裂かれた手をぎゅっと抱えた。

 深く手のひらを斬られた娘。傷つけられた娘を思って名を叫ぶ父親。それはいたって普通の光景だった。

 世界と彼女が、こんな有様でさえなければ。

 

 「はぁ、はぁ、はぁっ……!! 離れるなよトーリ、指がへし折れようが、俺から絶対に離れるな……!!」

 

 「っ……!!」

 

 返事はせず、答える代わりに、俺は彼の背中を強く抱きしめ返した。

 瞬間、ぐちゃりと不快な感触があった。腐りかけの果実を握った瞬間、それが砕けて指が埋まっていくような。

 必死に現実味を排そうと試みていた俺の心に、その瞬間に、凍り付くような悪寒が走る。

 

 「ガラハお前ッ、背中――」

 

 「口を開けんな、舌ァ噛むぞ!!!」

 

 抱えられながら、横目に街の様相を見る。

 人の形をした人でないものが、ぼたりぼたりと空から絶えず落ちて来ている。あの巨人と同じように、黒い鱗にまみれた化け物が。

 ガラハの脚は速く正確で、俺の横で何人もの人間が追い抜かされていった。足がもつれて転げた人もいた。その人影と化け物が重なる瞬間に、俺は目を逸らした。

 

 ――ごおん、ごおんと、鐘が鳴っていた。

 

 「何だ……なんだよ……なんなんだよ、何が起きたんだよ……!!」

 

 絶えず押し寄せる恐怖が、俺の心の内を喉から口へと押し出していく。

 ぎゅっと、後頭部にごわごわした手の感触があった。

 

 「……『イド』だ」

 

 「え……っ?」

 

 「方法はわからねえが、エランの奴……自分の娘を、古い神の眷属に――『イド』に改造してやがった……!! 何が治療だ、ふざけやがって……!!」

 

 そうだ、そうだったと、やっとはっきりと思い出す。

 

 俺達は図書館に来た女の子を、リコリスを、六番街へ連れ帰った。

 俺の体にひしと抱き着いて離れない彼女を歩かせながら、たどり着いたニュートレンツ家の門を開け、家主であるエランと顔を合わせて……一言二言、ガラハとエランが話をして……。

 

 『……もう、外を歩けるまで回復したのか。聖職者の手も借りねえで……?』

 

 『見ての通りだよ、オンズ。やはりこの大地こそ間違いだ。僕らが信仰すべきは、空だったのさ……』

 

 エラン・ニュートレンツは、ひどくからっぽな目をしていた。目の前のガラハや俺へ言葉を投げながら、けれど決して、会話をしていなかった。

 そして俺にしがみついたままのリコリスが言った。ただ二言。

 

 『おとうさん! ごはん!』

 

 ヨカニセの背の上で姉が語った言葉を思い出す。

 古い神がそうであるように、古い神の眷属もまた、テンセイ人を喰らうのか。

 俺達は喰われるためにこの世界に呼び寄せられ、無力な子供の姿でテンセイさせられて、そして――今まさに起きているような、こんな形で……?

  

 「鐘の音が聞こえるか、トーリ」

 

 不意に聞こえたガラハの声が、俺の胸の内に燻る悪寒と、何故か湧いてくる罪悪感を塗りつぶす。

 聞こえている。体の芯を震わすような、おぞましい音だ。胸の内で頷いて答える。

 

 「あの鐘は住民に避難と自衛を呼びかけながら、同時に空の向こうにいる『天使』に報せを飛ばす役割も持つ――いいかトーリ、イドが出現したその地に居合わせた、俺達が今やらなきゃいけないことは……!」

 

 「何が何でも生き延びて、一歩でも遠くへ、あのイドから遠ざかることだ!! でないと――!!」

 

 言葉が続く瞬間に耳をつんざく轟音が響き、俺達の頭上を何かが飛んでいった。飛んで行った巨大な何かは何かにぶつかって、また大きな音を鳴らした。

 巨人が暴れ、瓦礫が吹き飛び、それが建物にぶつかったのか。地面が揺れて、家々が崩れていく音がする。

 街が壊れていく。イスガトの街が。黒い巨人に、蹂躙されて。

 

 「…………ああ」

 

 ゆっくりとガラハの脚が減速し、やがて止まってしまう。

 しゃがみこみ、するりと彼の両腕が俺を離し、俺は震えながらも着地した。体の麻痺はもうなくなっていた。

 

 「ガラハ……!? おい、大丈夫か、ガラハ!?」

 

 「……前を見ろ、トーリ」

 

 指をさされ、示された先にあったのは、瓦礫に埋もれた本の山だった。

 どこか見覚えのあるその廃墟に、人影があった。人影は俺達を見つけて、大きな声で俺の名を呼んだ。

 

 「あれ、って――ガラハ、あれ……!!」

 

 「ああ……」

 

 「…………よかった」

 

 希望を見つけ、人影がそうしたように俺もガラハの名を呼び、彼を見た。

 糸の切れた人形のように、あるいは瓦礫となって、ずるりと膝から崩れ落ちる姿を見た。

 

 「――ぁ」

 

 背中が紫色に沸騰し、灰色の炎に包まれている。そこから何かが手や顔を覗かせようとして、形が崩れて消えていくのを、繰り返していた。

 一歩、二歩、口を震わせながら後ずさる俺の前に、黒い影が近寄ってくる。

 顔を上げた俺と、それの視線が重なった。

 爬虫類のような顔をした、黒い鱗の、化け物だった。

 

 

 「フィサリスッ!!!」

 

 

 腰が抜けて座り込んだ俺の頭上を、なにかがひゅうと翻る。

 瞬きの瞬間に、目の前の化け物の頭が両断されていた。上半分が消えている。遠い場所でべしゃりと音がした。

 

 ざくざくと、重い足音が背後で鳴って、俺の前に真っ赤な背中が現れる。

 長い髪の毛の赤色だった。右腕の先に握られた巨大な剣の刀身が、べっとりと青い血で濡れていた。

 

 「……怪我はないか?」

 

 「……っ、俺は、俺は大丈夫、だけど――!」

 

 「大丈夫なら、良かった」

 

 赤い背中は一歩ずつ前へと歩き出し、その向こうにいる、黒い化け物の群れへと向かっていた。

 化け物たちのずっと向こうに、黒い巨人がいた。その巨大な単眼は、今でも俺だけをじっと見つめていた。

 

 「“セア サルヴァオス”――“クラーク イクス”!!」

 

 ぶわりと、暖かな突風が吹き荒れる。俺の真横から放たれた淡い光が俺とガラハの周囲を包み込み、ガラハの背中がゆっくりと人のものへと戻っていく。

 聞き慣れた声と治癒の魔術。彼女の名を呼ぶより先に、彼女が俺の体を抱きしめる。

 

 「()ぅッ――!! っ、トーリ、無事でよかった、本当に――!!」

 

 全身にじっとりと汗をかき、想像もできないような痛みに苛まれているのかもしれない頭を押さえながら、それでも姉は俺を離さなかった。 

 

 「姉さん……それに」

 

 赤い背中を追い、そこに並んでいく人影がもう一つ。瓦礫となった図書館で俺達を見つけ、名前を呼んでくれたその人。

 俺の横を歩き去るその瞬間、横顔に鮮やかな紫色の瞳が見えた。

 目元を覆っていたあの白い布が、無くなっていた。

 

 「衛天使(センチエル)の到着まであとどれくらいかかる? フィサリス」

 

 「数分、も無いだろう。テンシュラクとの対決のために待機してもらっていたのが、幸いだった」

 

 ……フィサリス。

 その名前は。

 

 

 「トーリ」

 

 「あとは、兄ちゃん達に任せろ」

 

 

 赤い髪の向こうで、肩越しに振り返った長兄の小さな笑顔があった。

 小さく歯を見せた笑顔は、ガルベラ婆さんとそっくりだった。

 

 

 *

 

 

 イドの出現。

 それは本来、天上に浮かぶ都市に暮らす天使たちがその予兆を観測・予測し、ロード級、あるいはオーバーロード級のハディマに招集をかけ、討伐を依頼するという形でもって対処されるべき災厄であった。

 神域より目覚め、集落を目指して進行するイドを、招集を受けたハディマ達がその進行を食い止めながら戦い――討伐、あるいは聖剣の光が届くまでの時間稼ぎでもって、イド討伐戦は終戦を迎える。

 神代が終わって一万年。人とイドの戦いは、凡そそのような形で決着をつけてきた。

 

 イド討伐戦において何よりも優先すべき目標とはとどのつまり、人的被害を出すことなく決着をつけること――街や村といった人里に、たどり着かせないこと。

 それを、人とイドの対決における、人の勝利条件と仮定したならば。

 

 この日この時発生したイド討伐戦は、始まった時点で、敗北していた。

 

 「鐘の音が聞こえるほうへ急げ!! 一番街を目指して走れッ!!」

 

 人の流れに逆らい、声を張り上げて誘導する男がひとり。

 片手に大きな金槌を握った、黒い短髪の鍛冶師である。友人の安否を確認するために着の身着のままに仕事場から飛び出し、流れていく人の波を目で追いながら、時折襲い掛かる魔物の頭を砕き続けていた。

 逃げていく誰もが知る顔だが、友人の顔は無い。瞬間、突如として飛び出してきた頭上より奇襲をかける魔物に不意をつかれて防御が遅れたが、その魔物の胴を一本の大矢が貫いた。

 

 男が振り向いた先に立っていたのは、巨大な弓を構えた筋骨隆々の大男――十二番街に住まう鉱夫のひとりである。

 

 「……生きてたか、ダユース」

 

 「ロダン……!! 無事だったか……!!」

 

 はっと、安堵に息を漏らす鍛冶師――ダユース。

 丸太のような腕でその背中をどんと叩き、安心するのは早いとロダンが窘める。

 

 「お前ひとりか? ……嫁さんはどうした?」

 

 「アーネは一番街の教会だ。出産が近いんで、ほんの一週間ぐらい前に向かわせたばかりさ。教会なら……大丈夫だと、信じたいが」

 

 「……そうだな」

 

 純聖石が放つ強い聖神気により護られた教会。確かにそこならば、街を包み込みながら拡がっている高濃度の神気からも免れられるだろう。

 ロダンは彼の言葉を否定せず、ただ頷いた。だからこそそこも、おそらく小さくない混乱の最中にあるはずだと――頭の片隅で考えながら。

 

 黒い巨人、イドは空を仰ぎながら、延々と紫色の雲を吐き出し続け……その後、ゆっくりと脚を動かし始めた。

 その脚が向かう先は、鐘の音の元へと避難を試みる人の波と同じ方向、即ち。

 

 「……動き出した……!? 野郎ッ、人の集まる場所を目指してんのか!?」

 

 「――ッ!!」

 

 地面に転がる石を掴み、半狂乱になってダユースはそれをイドに向けて投げつける。

 

 「どこへ――どこへ行きやがるクソッタレ!? こっちだデカブツ、こっちを見ろォッ!!!」

 

 並び、矢をつがえて放つロダン。放物線を描き、届かずに落下した石の横を通り過ぎた大矢がイドの体に突き刺さるが、イドは矢が放たれた方向を一瞥すらせず、まっすぐに一番街を目指して歩き続けた。

 金槌を構え、イドの足元へと走り出すダユース。その背を追い、引き留めるためにロダンも駆けた。

 

 「待てダユース!! 犬死にするつもりか、てめえッ!? アーネが大事なのはわかるが、冷静になれ――!!」

 

 「俺はッ――俺は冷静だよロダンッ!! イドが何を目指して歩くか、わからないわけないだろ!!」

 

 「何をって――」

 

 風を切って走りながら、はっと気づく。ダユースの怒りと、焦りの理由。

 

 「テンセイ人……オンズか!!?」

 

 「……あの野郎ッ…………!!」

 

 妻と、親友。その両方を、あのイドが今まさに奪わんとしている。

 自殺行為と分かっていながらも、それでもダユースは足を止められなかった。止めるわけにはいかなかった。

 

 それに近づけば近づくほど、体の芯を叩くような神気の圧力が増していく。

 距離を詰めれば詰めるほど、イドが放つ神気の濃度は高くなる。びりびりと全身が痺れ、体が思うように動かなくなる。

 自分の思考に混ざる、別の思考。少しずつ、自分が自分でなくなっていくような感覚が、ロダンとダユースの両名に襲い掛かる。

 

 「ダユースッ、ゲホ……これ以上は無理だ……神気汚染がキツすぎる、俺もお前も死んじまうぞ……!!」

 

 「っ、クソ……!! ガラハ…………アーネ……ッ!!」

 

 両の脚が鉛の塊に置き換わったかのように重たくなり、走る速度が遅くなる。やがて完全に停止し、その場に膝をつく。

 一歩ずつ、イドは一番街へと近づいていく――ダユースの元から離れていく。その都度に、体を蝕む神気の汚染は薄まり、鉛が脚へと戻っていく。

 

 ――自分の命をなげうってでも、妻と子と親友を守るか。今ここで、自分だけは生き残るか。

 ダユースは思考を巡らせるが、そのような都合のいい二択など、どこにも存在しないと本当はわかっていた。

 ハディマでもない自分が……ガラハのような強さを持たない自分が、イドの脚を止めるなど――。

 

 「……ッ!? おい、ダユース!!」

 

 「え……ッ!?」

 

 その時だった。

 きぃい――ん…………と、甲高い何かの音が鳴り響き、一筋の光がイドの元へと飛んでいくのが見えた。

 それはイドの眼前に停止すると、より強く光を放ち、翼を広げるように光り輝き。

 

 

 「“凄まじき(メガロ) 雷霆(ディジニオ)――撃ち貫け(ネレーティオ)”ッ!!!」

 

 

 光翼は雷霆を纏い、一本の槍へと形を変え、真正面からイドの眼球を撃ち貫いた。

 眼球から青い血涙を流しながら、イドは数歩後退し、両腕で目を抱えて蹲り、おぞましい悲鳴を轟かせる。

 再び空を切り裂く甲高い音が響き渡ると、それはイドに最も近い場所に居た二人――ダユースとロダンの元へと降り立った。

 

 「あ……あな、たは……」

 

 陽光を受けた麦や穂のように淡く輝く長髪。銀色の瞳に、黒い虹彩。

 特徴的な紋様が描かれた、袖の無いワンピース――に似た形の、厚手の服。

 遠方から声が響く。その翼にすがるような歓喜の声。

 

 「天使様……天使様だ……!!」

 

 「よかった、よかったぁあ……!! 天使様……!!」

 

 ある者はどさりと膝をつき、ある者は手を組み、目を伏せて一心に祈り始める者もいた。

 

 ダユースの心にも、彼らと同じ安堵が、ほんの一瞬だけ心に表れる。

 けれどその安堵は、目の前の天使が浮かべる唇を歪めた辛苦の表情を見た瞬間に、ひやりと消え失せていった。

 天使は無表情で自分の顔を覆い隠すと、一声、透き通るような声を張り上げる。

 

 「祈らないでッ!! 祈るのは、聖剣の光を見届けたあと!! あなた達の命が助かったあとにすべきことッ!!」

 

 その祈りを突き放し、天使は雄々しく叫ぶ。

 

 「一番街ではなく、その真逆――十二番街の方角へと逃げなさい!! そして坑道の奥へと身を潜めるのです!! イドの進行は……わたしは食い止めますからッ!!!」

 

 蹲っていた者、祈りを捧げていた者はその声を受けて立ち上がり、付近にいた者と目配せをしながら走り出す。坑道を目指せ、その指示に従って。

 目の前で声を張り上げる天使の姿を見ていたロダンとダユース、その二人だけは天使の――彼女の顔に浮かぶ、隠しきれない余裕のなさを感じ取っていた。

 

 「っ……あなた方も。急ぎ、避難を――」

 

 冷や汗を垂らしながら、天使は光の翼を振るう。瞬間、暖かな光の粒子が二人を包み、体内の汚染が浄化されていった。

 無詠唱による治療(サルヴァ)魔術の行使。そして先の上位階魔術、雷属性(ディジニオ)の一撃。そのどちらともに、衛天使(センチエル)が持つ熟達した力の証明。

 

 その衛天使(センチエル)が――疲弊している。

 

 「あ、ぁ……ありがとうございます、天使様……! しかし……」

 

 頭を下げ、深く感謝しながらも彼女の身を案じるロダンに、天使は首を横に振る。皆まで言わないで、と。

 ――何故、あなたお一人なのか。イド討伐戦に身を投じる衛天使(センチエル)の数は、もっと多いはずでは。

 その疑問に、天使は言葉を用いず、答えないことで答えた。

 

 「お二人も早く。あれは直に、わたしを狙う。一刻も早く……わたしから離れて」

 

 「けれどそれでは、あなた様は……!」

 

 「ダユースッ!!」

 

 たったひとりで、あのイドの相手をするのかと。そう疑問を投げかけ、引き留めようとするダユースの腕を、ロダンが掴む。

 

 「俺達がここにいても、できることなんて無い!! 生き残ることが天使様と、現人神様――そしてエモルク様に報いることじゃねえのか!?」

 

 「っ…………!」

 

 ぐっと腕を引かれながら、ダユースはロダンとともに十二番街の方面へと走る。

 自分たちよりもずっと強く、位の高い存在だとしても――少女をひとり、そこに残す事実に後ろ髪ひかれながら。

 走り去っていく二人の姿をじっと見つめ、眺め、見届けてから、天使は振り返る。

 憎悪に満ちた単眼で自分を睨む、その黒い巨人と向かい合う。

 

 

 『シフェル、シフェル――! よかった、通信は可能か……!』

 

 ざくざくというような音が入り混ざった声が、彼女の懐から鳴った。

 ぼんやりと薄緑色に光る石を取り出し、そこに向けて天使も喋る。遠い空の向こうにいる、同じ衛天使(センチエル)に向けて。

 

 「……ブラージェ。そちらに、わたしの位置は伝わっていますか?」

 

 『ああ、明瞭とは言い難いが……ぼんやりとわかる。高濃度の神気の中にある聖神気の塊が君だろう』

 

 「よかった」

 

 自らを睨みつけ、ゆっくりと歩み寄るイド――その向こうの空を、衛天使(センチエル)、シフェルは睨む。

 紫色の雲で覆われた曇天。本来であればあの向こうから天使たちが地上へと降り立つのだが――あまりにも濃度の高い神気が雲となって街を包んでいるため、イドの位置もわからなければ、そこめがけて降り立つこともままならない。

 前例のない出来事の連続に翻弄されていたのは人間だけでなく、彼らを守るべき天使もまた同じだった。

 

 「……聖剣の光は? 用意はできましたか?」

 

 『できている……が……イドの正確な位置がわからない以上、闇雲に撃つことはできない。できない以上――…………っ……』

 

 「ブラージェ。はっきりと伝えて。できないなら、どうするの?」

 

 

 『……神気の雲、すべてを……イスガト鉱山街すべてを消し去るほどの、大質量の光を、放つしか……ない。山脈を平らにならすほどの威力を、放つしか……』

 

 

 「……そう」

 

 予想していた。そう心の内に呟いて、シフェルは目を伏せた。

 

 衛天使シフェルは、独断によって地上に降り立っていた。それは本来すべきでない地上への過干渉に値するものであり、帰還すれば処分が待っているほどの行いだった。

 しかし今回、彼女が地上にまだ残っている時にイドが出現し、それが空と地上とを雲によって遮断した。それ故に、彼女だけが今、地上でイドと対峙することが叶っている。

 時間にして数秒、シフェルは決意にその時間を要し……そして、目を開く。

 

 自分がここにいるのは、きっと、この為なのだと。

 

 『だからシフェル、一刻も早くそこを離れてくれ……!! でないと君も――』

 

 「そこまでの光は必要ないよ、ブラージェ。わたしの位置は、わかるんでしょう?」

 

 『…………シ……フェル?』

 

 翼を広げ、空へと舞い上がる。

 まっすぐな光の筋を描いて、再びイドの眼前へと飛び立つ。

 そして自らへと迫る巨大な口のような真っ赤な手のひらを、正面に展開した光の翼で受け止めながら、シフェルは叫んだ。

 

  

 「現人神様――現人神ユウヒ・アズア様にお伝えしてッ!! 聖剣の光は――『わたしに撃って』、とッ!!!」

 

 

 逃げ惑う人々。彼らを守り、魔物を狩り続けるハディマ達。

 守られる人々。魔物に襲われ、瓦礫に巻き込まれ、命を散らす人々。

 イドの出現により、一瞬にして地獄と化したイスガトの街に、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。

 

 神気の雲から降り注ぐ、深い紫色の雨。

 しとしとと地面に落ちるそれらは、人の身を浸食し、魔物の身を活性させる、魔の雨だった。

 

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