男は虚無だった。
記憶に関する障害は持っているが、身体を構成する塩基配列は人類そのもの。
二つの眼で世界を観測し、二つの手で目的地を指し、二つの足で歩き回り、一つの脳で情報を処理する、どこをとっても正常な『ヒト』の機能を持つ生命体であった。
それでも男は自覚していた。
『自分は人類ではない』と。
何をしてもこの世界のものである感覚はない。
いくら人と接しても同じ生物として共感できない。
誰も彼を理解することは出来ない。
そして彼自身、誰も理解しようとはしない。
『現実にぽっかりと空いた孔』と、彼をそう形容する仲間もいた。
男には10歳以前の記憶が殆ど無い。微かな記憶しか持たない状態で壁に囲まれた世界に放り出された。
唯一、男の中に残っていた記憶。
それは映像でも、知識でもない。
―――『人間は善いことをする』
ただそれだけの言葉だった。
男は自分が人類では無い事を自覚している。
しかし男は人類であろうとした。間違いなく自身の精神性は人類のそれではない。それでも、人類の法則に従う事で、男は自身を人類の定義にあてはめることが可能と考えた。
『人間は善いことをする』
ならば、善いことを行い続ける自分は人でいられるのではないか。まっさらな記憶のまま新たな世界に放り出されて、1分も経たないうちに彼は自身の使命を決定した。
しかし悲しいかな。人類の視点を持たない男にとっての『善いこと』は誰にも理解されることはない。
男の名はデイビット・ゼム・ヴォイド。
別の世界では『善いこと』の為に星の破壊を試みたものは、新たな世界でも人類であろうとする。
巨人の足音が町中に轟く。
住宅が潰れる音が絶え間なく響く。
人々の悲鳴がその場一帯を支配する。
845年、シガンシナ区は陥落した。
超大型巨人が壁の門を破壊し、多数の無垢の巨人が壁内に侵入する。
無垢の巨人に情の概念はない。
老人だろうが若者だろうが、男だろうが女だろうが、金持ちだろうが貧しかろうが、独り身だろうが愛する者がいようが、関係ない。
目の前にいる人間は全てが捕食対象だ。落とし物を拾うかのようにあっさり捕獲しては、躊躇いもなく口の中へ放り投げてかみ砕く。血の滴る口角を上げると、また別の人間に狙いを定める。つい数分前までは幸せそうに談笑を交わしていた住民は容赦なく喰われ、平穏だった街並みは蹂躙されていく。
デイビット・ゼム・ヴォイドは地獄の惨状を壁の上から眺めていた。
無造作に後ろへ流した金髪が、巨人の足踏みの度に軽く揺れる。鋭い眉に反し、紫の瞳からは無機質な雰囲気が放たれている。高所に立っているからだろう、辺りを吹きすさぶ強風は革製の黒いロングコートを激しくはためかせていた。
デイビットはその瞳で、町が破壊されているのを見た。人が喰われているのを見た。親を亡くした子の顔を見た。
しかしそのような悲劇的な光景を見た所で、特に感情が揺さぶられることはない。彼は人の悲しみや恐れを理解できても、それに対し共感を抱くことが出来ない。故に、彼は人ではないのだ。
巨人が歩き、建物は崩れる。
巨人が拾い上げ、人は喰われる。
この惨状を前にしても、彼は傍観者に徹する。壁の上でじっと状況を観察する。超大型巨人に壁の門が破壊され、無垢の巨人が壁内に入り蹂躙されているというこの状況から『それ以上の何か』を見出そうとしていた。
―――超大型巨人の中に潜んでいた子供
―――このタイミングに都合よく壁付近にいた多数の無垢巨人
―――まるで何かに操られている様に、1人の母親を喰らう金髪の巨人
彼は惨状の中に潜む不自然を逃さずに観測していた。
疑問は尽きない。デイビットは壁内の誰よりも巨人の生態を理解している。彼がこの一年間、たった一人で積み上げた研究実績は、調査兵団がこれまで多くの屍を築いて得た成果を軽く凌駕している。そんなデイビットにとっても、これまで見た巨人の行動は彼の経験に基づく巨人の定義とは大きく外れるものであった。傍観を一通り済ませたデイビットは一つの結論に至った。
「知識の更新が必要だな。もはや、ここで得るべき情報は殆どないだろう。」
デイビット・ゼム・ヴォイドは『善いこと』を行う。しかし『人類の視点』を持たない彼はいわゆる一般的な奉仕、救助、援助では納得できない。彼はより大きな視点で『善いこと』を成そうとしていた。
意識を持ち始めてから数年が経ったが、彼には『信念』こそあれ、具体的な目標をいまひとつ設定しきれないでいた。それはこの世界に対する解像度が低かったからだ。この隔離された島にいる限り、世界について理解できることは限られてしまう。より広義的な意味で『善いこと』を行う為にはこの世界、人類、巨人について理解しなければならない。
「行くか―――海の向こう側へ」
デイビットは絶望に打ちひしがれる壁内人類に背を向けた。
背後から聞こえる叫び声を受け止めながら、彼は南へ向かって歩みを進めた。
それから2年が経過した。
時が経とうとも、デイビットの『善いこと』を目指す信念は一切変わらない。しかし2年前と異なり、彼の中には明確な目的意識が出来ていた。
2年の調査を経て、彼は世界を知った。人類を知った。そして宇宙を知った。そのうえで、この先の展開の観測も完了した。
観測と同時に、彼は結論を出した。
人類である為に自分は何をすべきか。この世界において『善いこと』とは何か。その答えを見つけられずに手持ち無沙汰だった2年前の少年はもういない。
結論は出た。
デイビットは既に自分のやるべきことを理解している。
しかし、それはまだ彼の中の机上の結論・・・いわば仮説だ。仮説のまま実行に移す訳にはいかない。実例ケースとなるサンプルが欲しい。そのケースの結末を自らの眼で確認する必要がある。
―――すなわち、壁内人類。
自らの結論が正しいことを裏付ける最終確認の為に、デイビットは故郷へ帰った。壁の中に捉われた人類。世界に対し無知なまま日々を過ごす人類。そんな彼等は壁の外に対してどの様に接していくのか。この問いの答えがデイビットの仮説と一致した時、彼の計画は始動する。
彼は今、彼と同年代の少年達と共に胸に拳を当てて、直立に起立している。
場所はウォール・ローゼ内の訓練所。壁内人類の行く末を見守るまでの期間、デイビットは兵士として活動する事を決めた。隣では金髪の背の小さい少年が教官に怒鳴られながら、『何しにここに来たか』を叫んでいる。その姿を横目に、デイビットは自らの存在意義を、自身の
これは人類であろうとする空虚な男が、灯りを求める様に『善いこと』をする物語。
憎しみの連鎖に支配され、価値観と価値観がぶつかり合う残酷な世界で過ごす、最小の一日である。