訓練兵団教官のキース・シャーディスは目の前に佇む金髪の青年に底知れない不気味さを感じていた。
毎年行われる通過儀礼。
それまでの自分を否定されて真っ白な状態にすることで、訓練兵を兵士に適した人材にする恒例行事だ。兵士ならば必ず浴びる洗礼である。しかし既に通過儀礼を終えている兵士はその儀礼の対象外だ。2年前の惨劇やそれ以外の場で地獄を見てきた者たちは文字通り、面構えが違う。キースも毎年少ないながらもその様な覚悟の決まった訓練兵を見てきた。
しかし目の前の男は何か違う。腑抜けた表情や怖気づいている雰囲気は全く感じられない。不動に直立し、鋭い紫の瞳でただ前を向く様子からは、落ち着きが感じられる。しかし既に通過儀礼を終えた新兵とも異なる異質な面構えに、キースは畏怖の感情を抱いた。
一言でいえば、『虚無』。何を考えているのか分からない。同じ人間か、そこにいるのかさえ怪しくなる。目の前にいるのに現実感がない。そんな印象だった。
明らかに通過儀礼は要らないと分かっていたが、キースは毅然とした表情を保ちながら先ほどより声を落として尋ねた。それは好奇心に駆られての行動ではない。長年の経験から来る警戒心から、キースはデイビットへ探りを入れることにした。
「貴様は何者だ」
「ウォール・マリア東区出身、デイビット・ゼム・ヴォイドです。」
簡潔な問い、そして簡潔な回答だった。先程までのような、怒鳴り声による問いかけでも、腹から必死に出した返答でもない。低く、落ち着き、それでいて、緊迫感に満ちたやり取りだった。
キースは問答を続ける。
「そうか。ヴォイド、貴様はなぜここへ来た。」
デイビットは表情を一切変えることなく、教官に無機質な瞳を向けながら落ち着いた声で答える。
「それが『善いこと』だと判断したからです。」
明らかに具体性に欠ける答えだ。
周りの訓練兵は雷が落ちることを確信した。
キースとデイビットの視線が交差する。その間、デイビットの瞳は全く揺れない。一方でキースの視線の性質は、警戒色から徐々に変色を始める。
『不気味な男だ』キースはそう思った。先程の回答ではない。その瞳だ。無機質、という表現が一番当て嵌まる。熱意も、惰性も、希望も、絶望も、何一つその瞳には映らない。この壁内で、どういう育ち方をすればこの様な瞳が生まれるのだろうか、キースは思った。
僅かな静寂の後にキースから帰ってきたのは小さな肯定だけだった。
「・・・そうか、精々励むんだな。」
それだけ返すと、沈黙が空間を支配する。『それだけ?』と一同は呆気に取られた。しかし、その沈黙はほんの一瞬だ。キースはすぐさま、その横の面長の少年に目線の向きを変えた。再び先ほどまでの怒号が、お早い帰還を果たす。
「何腑抜けた顔をしている!?次、貴様は何者だ!!!」
「・・・はっ、はい!!!トロスト区出身!!!ジャン・キルシュタインです!!!」
先程までの奇妙な空気がキースの怒声で吹き飛ぶ。そうして再開された通過儀礼。多くの兵士が緊張感を取り戻した中、数名の訓練兵はキースと同様に、デイビットの異質性に嫌悪感・警戒心・そして『靄』を感じていた。
過酷な初日の訓練が終わった。残った訓練兵たちは食堂に集まり夕食を取っている。食堂では、シガンシナ区出身のエレン・イェーガーを中心に人だかりが出来ていた。エレンはウォール・マリア襲撃の現場にいた数少ない訓練兵だ。彼が見た超大型巨人や鎧の巨人、無垢巨人の情報は、他の訓練兵の好奇心を大いに刺激した。
「俺は壁を跨いだって聞いたぞ!」
「いや、そこまではでかくなかった・・・」
「どんな顔だったの!?」
「皮膚が殆ど無くて・・・・」
噂でしか巨人襲来を知らない彼等は、現場を知るエレンを質問責めにする。
彼等の好奇心を満たす代償に、エレンはフラッシュバックによる傷を心に一瞬だけ負うも、すぐに好戦的な態度を表に出す。『巨人なんて大したことない』と豪語する彼の周りには人だかりが出来ていた。
この104期の訓練兵。どうにも個性の強い面々が多い。初日にして既に周りと違う空気を持つものが目立ち始めている。『巨人を殺す』という強い意志を露わにする兵、その空気に気圧されず堂々と憲兵団志望を公言する兵。外には5時間ぶっ通しで走らされている兵や、その訓練兵に自分の食料をわざわざ持ってきた兵、それを見て意地の悪い茶々を入れる兵もいる。
食堂の隅でも異様な空気を醸し出す男がいた。とはいえその男、デイビットは何か目立った言動を繰り出している訳ではない。彼は中央のエレン達に目もくれずに黙々と食事を取っていただけだ。それでも、周りの訓練兵は彼に話しかけようとはしなかった。通過儀礼の一幕もあり、何処か近寄りづらさを感じさせる。食事を栄養摂取の為の作業としか捉えないかのように、表情を変えずに食す様子もその雰囲気を増長させていた。
そんな彼の隣に、初めて金髪の少年が座る。通過儀礼で隣にいた少年だ。
「ここ・・・座っても良いかな」
金髪の少年が尋ねる。デイビットはさらりと肯定の意を返した。
「ああ。」
「ありがとう、僕はアルミン。ええと、デイビット・ゼム・ヴォイド・・・だよね?よろしく。」
「失敬、そちらから名乗らせてしまったな。俺のことはデイビットだけでいい。」
互いに自己紹介を終える。思いのほか紳士的な対応に、アルミンは少し意外だなと感じた。
「うん、ありがとう。デイビットはウォール・マリア出身って言ってたよね?巨人は見たの?」
「あぁ、目撃している。そう言うおまえはシガンシナ区だったな。あそこのエレン・イェーガーと同じく、2年前の襲撃を経験したのか。」
デイビットは中央にいるエレンを視線で指差す。調査兵団志望のエレンは、憲兵団志望を表明しているジャン・キルシュタインと睨み合っていた。目標も性格も相容れない両者の間には今後も火花が散る事になるのだろう。
「うん、エレンと違って間近で直接巨人は見なかったけど、あの日にシガンシナ区にいたよ。」
男は「そうか、それは大変だったな」と淡泊に返し、食事を続ける。
「皆の名前と出身地を覚えているの?」
「あぁ、生憎記憶力だけは人後に落ちない。」
食事を取りながら淡々と答えるデイビットに対し、アルミンは澱みを含ませつつ話題を提供する。なんとかコミュニケーションを続けようとする意図がその様子からは感じられた。
「・・・あ、今朝の儀礼、凄かったね。デイビットだけ落ち着きが違ったよ。僕はビクビクしてて・・・何回も怒られちゃった。あはは・・・。」
自虐的な苦笑いを浮かべながら、今朝の儀礼を振り返るアルミン。デイビットはそんな彼を端的な言葉で肯定する。
「あの様な訓練は今日限りだ。大方、足切り目的だろう。あまり気にするな。」
「うん・・・ありがとう。」
デイビットの励ましの言葉をアルミンは素直に受けると、しばし静寂が流れる。振った話題を即座に結論で打ち返されるので中々会話が広がらない。この男と淀みなく会話を続けられるのは相当の会話巧者だろう。
会話の一節に幕が下りた。それでも、アルミンに彼の隣から離れる素振りは無い。アルミンは挨拶周りの為にデイビットの下に来たわけではないのだから。何かしらの用があり彼の下へ来たことを、この静寂が雄弁に物語っていた。
「・・・・・・あのさ!」
アルミンは迷いを振り切り、思い切った様子で沈黙の間を破りにかかる。
「訓練兵になった理由だけどさ・・・『善いことだと判断したため』って言ってたよね?それって、どういう意味なの・・かな?」
先程までの作った愛想笑いとは打って変わり、真剣な表情を前にしても、デイビットの食事のスピードは一切変わらない。
「そのままの意味だ。訓練兵団を経て兵士となることが善いことだと判断した。」
「うん・・・でも、具体的にはどういうことなのかなって。例えば・・・それって、何にとって善いのかな・・・とか。」
「秩序の維持、宇宙・・・ひいては人類にとってだ。そして、今後の行く末は、この兵団という組織を中心に動くと・・・そう判断した。だからオレはここにいる。」
「そっか・・・。そうだよね。」
デイビットの意見に対して肯定の返答を示しながらも、アルミンはあまり納得出来ていなかった。
返答として、全く不自然なものはない。確かに人類、秩序など、壮大な言葉ばかり多い点は違和感があるが、デカい主語を片手に夢を語るのは少年たちの特権だ。それに、人類の平和、ひいては未来が兵士にかかっていることは疑うまでもない。巨人によって奪われた生存圏を取り戻すこと、巨人から人々を守ること、壁の中の治安を維持すること、すべて兵士の役目だ。
だから、『壁内人類』のために兵士となることは全くおかしいことではない・・・その筈なのにアルミンはデイビットの答えに納得出来なかった。理由は非常に感覚的なものだ。
『目の前の男がその様な、人間的な目的を持つような人物に見えなかった』
ただ、それだけだ。
初めて会った相手の何が分かるんだ、とアルミンの理性の部分が忠告する。
しかし、『異質』『虚無』、デイビットを見ているとそんな印象がどうしても頭の中でよぎってしまう。そんな男が、真っ当に兵士として人類に貢献する。そんなビジョンが全く浮かばなかったのだ。
しかしそんな感情を上手く言語化出来る筈もなく、アルミンは再び言葉を濁らせ始めると、甲高い金属音が響いた。時間の終わりを告げる鐘の音のようなそれは、デイビットが食器を皿の上に置く音だった。食事を終えた様だ。
「今日はあまり時間がない。他に用がないならオレは行くが。」
「うん・・・分かった。また明日。デイビット。」
「あぁ。じゃあな。」
食器を片付け、デイビットは食堂を後にする。中央で睨み合っていたエレンとジャンは一旦和解した様だ。
食堂を去ったデイビットの姿が完全に見えなくなってから、アルミンは初めて自分の心臓が激しく鼓動していたことを自覚した。胸に手を置き、ゆっくり息を吐いて鼓動を抑えながら、アルミンは自身の感情に正面から向き合っていた。
結論はすぐに出た。デイビットと会話し、アルミンは居心地の悪さを感じていたのだ。初対面でこんな感想を抱いてしまうのは良くないと重々承知しているが、自分に嘘はつけない。自らを責める前に、アルミンは居心地の悪さの正体をより詳しく明らかにしようと試みる。
不愉快や苛立ちの類ではない。どちらかというと、危機意識にも近い本能による注意喚起だった。自身のつま先から神経を伝って脳にアラートを発するかのように、それはアルミンに訴えかけてくる。
『このまま進むと、とんでもないことが起きてしまうぞ』と。
何に気を付ければ良いのか、何故注意するべきなのか、その正体は全く分からない。理由はないのに、何故か不安に駆られる。
とても、1人の人間とただ会話しただけ出てくる感想ではない。
異常なのはアルミン自身が一番わかっている。アルミンは理屈をベースに頭を動かす人間だ。だからこそ、特に根拠もないのに理屈を超越して自分の頭を支配するその感情が、アルミンは気になって仕方がなかった。
実はこの感覚はアルミンにとって初対面ではない。明確にいつからかは覚えていないが、ここ数年間、時折ふと理由もなく不安で頭がいっぱいになることがあった。その時の感覚に非常に近い。
『確かに、人類は巨人に侵攻され最大の危機を迎えている。でも、危機は本当に巨人だけか?我々にはもっと警戒すべきことがあるんじゃないか?』
家の鍵を閉め忘れたか自信がなくなった時に感じるような、そんな不安感にアルミンは時折苦しめられてきた。
アルミンはこの不安感を『靄』のようだと形容していた。確かに何かに恐れを感じているのに、手を伸ばしても掴めず、目を凝らしても正体が分からないまま、ただただ警告だけがこちらの事情を無視して頭をかき乱してくる。
開拓地で労働に勤しんでいた時も、この『靄』で頭がいっぱいになって作業が手につかなくなり、ミカサに代わってもらったことが何回かあった。時折前触れもなく発作のように起こるそれは、巨人襲来によるストレスからくるものと周りからは判断され、アルミン自身もきっとそうだろうと思っていた。
しかし、今日発生した『靄』は明らかにデイビットと会話したことがトリガーだった。正確には、入団時の儀式で彼を一目見たときから、アルミンの胸中はやむことなくざわついていた。
これを受けてアルミンは自身の考えを改めた。
やはり、これは巨人襲撃によるストレスが生んだ漠然とした恐怖感ではない。明確な何かに自分は恐怖しているのだ。正体は分からない。でも、巨人でも意地悪な憲兵でも町のいじめっ子でもない何かに、僕は恐れを抱いているのだ。
デイビット・ゼム・ヴォイド。彼は自分がこれまで抱えてきた胸騒ぎの正体にきっと関係している。
こんなこと、誰にも言えない。口にしたとたん変人扱いだ。
だが、確実にその日からアルミンは他の訓練兵とは違う目で、デイビットを見るようになった。
「・・・そういえば、彼が言っていた『うちゅう』って・・・なんのことだったんだろう?」
翌日、訓練兵にとって最初の難関が訪れた。立体起動装置の適性試験である。ただぶらさがるだけの基礎中の基礎だが、これだけでもある程度の素質は見ることが出来る。
「デイビット・ゼム・ヴォイド、問題なし!」
涼しい顔で、真っすぐと姿勢を保つデイビットは10秒足らずで試験を終わらせた。
デイビットは天才だが、それは洞察力に限った事ではない。身体機能でも類い稀なる能力を持つ彼は、この適性テストを難なくクリアした。
「何をやっているエレン・イェーガー!!!上体を起こせ!!!」
一方で、全く自身を制御できずに文字通り地面に首を垂れる訓練兵もいた。バランスを取れずに真っ逆さまにぶら下がるエレン・イェーガーを、周りにいた訓練兵はあざ笑う。巨人を駆逐すると息巻いていた男が翌日には無様な様子を晒している姿に愉悦を感じるものは少なくない。
「(なんだこれ・・・こんなのどうやって・・・。うそだろ・・・)」
周りの訓練兵が自らをこけ下ろす様が、上下反転の世界でもよく伝わる。嘲りの視線と、声量は微かだが確かに聞こえる笑い声を一身に受けるも、エレンに出来ることはただ手足をばたつかせることだけだった。
2日目の訓練はエレンにとって屈辱的な一日となった。
「姿勢制御のコツだって?悪いけど俺天才だから、感じろとしか言えん。」
「俺は逆に教えて欲しいね。あんな無様な姿を晒しておいて正気を保っていられる秘訣とかをよ。」
「すまんが、ぶら下がるのにコツがいるとは思えん。期待する様な助言は出来そうにないな」
エレンはその夜、同期の訓練兵にコツを頼んで回ったが、ある者には笑われ、ある者は協力的ではあったものの感覚的な問題なので効果的なアドバイスを渡すことが出来ず、特に収穫の無いまま終わった。
「嘘だろ・・・まだ何も成し遂げてないのに。俺が・・・開拓地?」
「明日に賭けるしかないね・・・」
明日にも開拓地送りかと絶望した様子でエレンは廊下を歩いていた。アルミンもどうにかポジティブな言葉をかけようとするが、あまり上手くいかない。
「くそっ!あいつら、こっちが頭下げて頼んでいるのに・・・」
「しょうがないよ、皆だって今日が初めてなんだから・・・あ、そうだ!」
碌なアドバイスをくれないばかりか、それを逆手に取り笑ってくる連中への怒りを吐き出すエレン。アルミンは訓練兵1人1人の言動を思い返していると、まだ話を聞いていない兵士がいることを思い出した。
「そういえば、デイビットにまだ聞いて無かったよね?」
「デイビットって・・・昨日の通過儀礼で変なこと言ってた、ミカサ以上に無表情な奴だよな。」
「そんな風に思ってたの・・・?彼も姿勢制御を上手くこなしてたよ。凄く頭もよさそうだから、きっと他の人とは違うアドバイスがあるんじゃないかな。」
アルミンは昨日の会話と、今日の姿勢制御の様子から、デイビットが最適の相談相手と提案する。しかし、肝心のエレンには躊躇いの様子が見られた。
「・・・デイビット・・・か・・・。あいつはちょっと・・・」
「どうしたの?」
「いや、何でもねぇ。ありがとよ!そうだな、聞いてみるぜ!」
数秒だけ難しい顔をしていたエレンだったが、自分の進退がかかっている今相手は選べないと、すぐに行動に移した。
幸い兵舎のすぐ外で、空を見上げるデイビットを見つけたので、他の訓練兵に聞いたように立体起動のコツを尋ねた。いきなりの質問だったが、デイビットは冷静に問いをかみ砕く。
「情報が欠落している。所感でいいか。」
「もちろん、君の直感が聞きたいんだ。」
デイビットを真っすぐ見据えて問うアルミンとエレンに対し、デイビットは淡々と答えた。
「あれは訓練兵の適性を測るものだ。三半規管の強度が人間それぞれ異なる以上、言える事はなにもない。自分の感覚を信じるしかないだろう。」
他の兵士達より論理的な語り口ではあるが、内容自体はエレンがこれまでも聞いてきた答えと変わらない。
『感覚的なものだ、教えられない』
やはりだめか、とエレンは会話を終わらせようとするが、デイビットの回答にはまだ先があった。
「だからこそ、自分の感覚以外に根拠のない信頼を置くのは止めた方が良い。」
「・・・どういうことだ?」
簡潔過ぎる答えに、エレンは意図を問い返す。
「周りの環境は疑うべきだ。それは道具であり、規則であり、人である。」
「・・・ええと、なるほど・・・?」
2人は全く腹落ちしていない様子だったが、気にせずに語るべきは語ったと言わんばかりにデイビットは2人に背を向ける。
「オレから伝えられるのはこれくらいだろう、じゃあな。」
そう言い放つとデイビットは自室へと戻り、彼のアドバイスをいまいち理解できなかったエレンとアルミンはぽかんとした表情で立ちすくむ。
「・・・アルミン、意味分かったか?」
「いや、あんまり・・・だけど、取り敢えず明日は検査前に点検をちゃんとしようか。」
「・・・あぁ、そうだな。」
デイビットの理解不能な言葉と、不安を抱えたまま、エレンは眠りについた。
翌日、姿勢制御の試験が始まった。
「エレン・イェーガー、覚悟は良いか?」
「はい!」
「よし、上げろ」
キースが開始の合図を告げる。
それと同時にゆっくりと、装置に引っ張られエレンの体が浮き始める。つま先が地を離れ、とうとうエレンと地面の接触が完全に失われた。
「(やる。俺はやる。俺には素質がねぇかもしれねぇけど。根性だけは誰にも負けねぇ。
理屈なんか知らん・・・根拠もない。でも、俺にはそれしかねぇ!!!
これが・・・俺の武器だ!!!)」
その時、エレンの激しく荒々しい意志が皮肉にも、波風を一切立てぬほどの平衡感覚を引き起こした。
「うぉぉぉ!!」
「やったぞ!!!」
「ついにエレンが姿勢制御に」
「成功した!!!」
一同は彼の成功に一斉に湧く。
その歓声を受けてエレンが緊張の表情を解き、口角を上げたその時だった
『ガリッ』
訓練用のベルトがおかしな音を上げる。
エレンが訝しげにベルトに目線を向けようとした時、彼の顔面は既に地面に激突していた。
鈍い着地音が響く。
「あぁ」
「やっぱりだめだったか・・・。」
周りから失望の声が漏れ出る。
全く受け身を取れていなかったエレンは苦痛の表情を浮かべつつも、その内心では痛みなど全く意識していない。彼の中では昨日あった恐怖の感情が再発していた。すなわち、脱落に対する恐怖。
「(うそだろ・・・俺がこんなところで。)」
顔面蒼白な彼の表情に、人影が差す。エレンが顔を上げると、冷徹な表情を浮かべるキース教官がそこにはいた。
彼の唇が動こうとしている。その口が開いた時に発せられる言葉は、想像に難くない。その言葉が、その音声が、その断罪が、彼の口の中から公開された瞬間、もう終わりだ。
その前に何かを言わなければ。エレンの脳内は一瞬で活性化する。
「(『一瞬浮いたから合格にして欲しい』・・・いや、ダメだ。合格基準には全く満たしていない。『もう一度やらせてください』・・・何か理由がないと再試験は認められる筈がねぇ。)」
一気に溢れ出る容赦を求める選択肢の数々が、エレンの口から出る前に切り捨てられる。どれも、キースを頷かせるには足りない。
完全に詰んだ、と思い至る直前で、エレンはふと違和感に気付いた。
「(いや・・・何か理由があれば、再試験を認めて貰える。そう言えばさっきバランスを崩す前に、ベルトから変な音がした。ベルトの整備不良か?・・・いや、試験前に点検作業はみっちりやった。アルミンも一緒だったから間違いない。
・・・じゃあなぜ?)」
その時、エレンの脳内で昨日の言葉が響く。
―――周りの環境は疑うべきだ。それは道具であり、規則であり―――
その言葉をきっかけとして、エレンの脳内が答えを導き出した。そして、その次の瞬間には彼の口はすでに動いていた。
「他の訓練兵のベルトを交換したうえで、再度試験を受けさせてください!!!」
「・・・なに?」
「体勢を崩す前、ベルトからおかしな軋む音が聞こえました。ベルトに不具合がある可能性があります!」
「点検作業はしたんだろう?」
「はい・・・ですが、点検『規則』にはない項目にて、故障している可能性があるかと思われます!厚かましいお願いとなり恐縮ですが、他の訓練兵と全く同じ条件で試験を受けたく思います!」
キースの詰めるような問いに対しても、エレンは真っ向から主張をする。教官への敬意は辛うじて口調に残しつつも、その鋭い眼光と気迫あふれる声量は、キースの首を頷かせた。
「・・・よかろう。おい、ベルトを交換してやれ。」
キースは近くの訓練兵にエレンとベルトの交換を命じる。いそいそと再度装置を付け直すエレンに、キースは厳しい口調で宣告する。
「ここまで要求したんだ。次は無いぞ。」
「はい!!!」
そうして、彼の再試験が始まった。
結論、エレンは試験に合格した。
原因は結局ベルトの故障。それもベルトの点検項目にない箇所の破損であった。交換した通常のベルトで適性を測った所エレンは難なくクリア出来た為、開拓地送りを回避できたのである。
訓練が終わると、エレンは真っ先にデイビットのもとへ駆け寄った。
「デイビット、昨日はありがとな!ちゃんと合格したぜ!」
「あぁ、良かったな。」
「けど、昨日は何言っているのか全く分かんなかったぞ。あれベルト装備の不具合のこと言ってたんだな。お前、もうちょっと言葉増やした方が良いんじゃねぇか?。」
エレンが軽く呆れて笑いながら、デイビットに説明を増やすように指摘する。しかし、それに対する返答もやはり、淡泊かつ不可解なものだった。
「悪いが、性質上オレにそこまでの時間はなくてな。それに・・・昨日の話は姿勢制御の試験に限ったことじゃない。これまで、そしてこれからもお前を取り巻く環境に信用を置くべきではないという意味だ。」
「んん?それってどういう―――
「質問するぞ、エレン」
デイビットが初めて真正面からエレンに向かう。これまでは明後日の方向を向きながら会話していたが、その無機質な瞳が今はエレンに真っすぐと突き刺さっている。
その瞬間、エレンの背筋に寒気が走った。彼と初めて向き合うことにより、彼の雰囲気、空気、在り方を一瞬肌で感じる。感じただけだ。理解したわけでは到底ない。それでも、エレンは何か心地の悪い感情に支配された。
それは恐怖の類ではない。もっと、自分の価値観の根本から受け付けないような・・・自分の自由を阻まれているような・・・そんな感覚だ。
「2年前、シガンシナ区襲撃の日にお前の周りで何があった?」
「その話かよ、だから壁が超大型巨人に壊されて―――
「違う、お前の眼前で、何が起こったかを説明してくれ」
デイビットはエレンの言葉を遮って説明して欲しい事項を捕捉する。エレンは少し戸惑いながら、デイビットの要求に応えた。
「・・・瓦礫が家に飛んできて、家が潰れたよ。」
「お前はその後どうした。」
「・・・家の方まで走って様子を見に行った。」
エレンの顔が微かに曇り始める。
「そこには何があった。」
「・・・母さんが家に潰されていて、身動きできない状態になっていた。」
声から覇気が失われる。
「それでどうした。助けたのか。」
「・・・俺は・・・俺とミカサは必死で助けようとした。・・・けど、すぐに巨人がやって来た。」
身体が微かに震え始める。
「居たのはその巨人だけか。その周りにも巨人がいなかったか。」
「覚えてねえよ・・・。」
「巨人を思い出せ。顔に見覚えはないか。何か心当たりは感じなかったか。何か動きで不自然な点は無かったか。」
「・・・そいつは金髪で、にやけた面で母さんを拾い上げて、そのまま―――
「エレン!!!!」・・・ミカサ。」
自らのトラウマそのものである記憶を思い出し、真っ青な表情であの日の出来事を言葉にするエレン。その言葉が終わる前に、黒髪の少女、ミカサが焦燥しながらで声を掛ける。両手を握りエレンに正気を取り戻させるように語りかけ、落ち着かせた後にミカサは子供が泣き出す様な目つきでデイビットを睨みつける。
「エレンになにをしたの?」
「2年前のことを聞いていたが、すまない。流石に配慮に欠けていたな。」
「・・・エレンを傷付けたら容赦しないから。」
「あぁ。悪かった。話は以上だ。・・・じゃあな。」
そう謝罪すると、デイビットは背を向け寮へと帰っていく。
「・・・ミカサ、俺は大丈夫だって言ってんだろ。」
「エレン・・・あの能面男は図に乗り過ぎている。3年の間にしかるべき裁きを。」
般若の様な表情で呟くミカサの声を背に、デイビットは1人思案する。
「(2年前のあの金髪の巨人の動きに何か心あたりでもあればと思い尋ねたが、あの様子じゃ奴らは何も知らないな。)」
「(となると、あの場、もしくはあの『時』にいない何者だろうか。)」
「―――座標・・・か。絶対の神、あるいは意志ある人か、その姿を見定めることとしよう。」