黒翼と白羽   作:ほしな まつり

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相変わらず黒いキリトと白いアスナです。


黒翼と白羽

「ねぇ……そんな所で寝てると風邪ひくわよ」

 

頭上から降ってきた鈴を転がすような声をなぜか無視できなくて面倒くさそうに真っ黒な前髪の隙間から瞼を持ち上げた少年は、芝生の上に寝転がっている自分を真上から覗き込んでいる少女の瞳の美しさに……いや、まだ自分が何かに「美しい」と感じる事に驚いて、それを誤魔化すようにわざとぶっきらぼうな声を出した。

 

「…天使ってのは随分お節介なんだな」

 

本当に、同族でさえ声なんてかけてくるヤツはまずいないってのに……と冷めた笑顔を装いつつ内側から強打してくる心臓にさえ気付かず、こんな近くで、という限定付きだが「天使、初めて見た」と頭上の少女から目が離せない。

一方、善意から声を掛けた少女は一転、おたおたと挙動不審に陥っていた。言うなればダラダラと見えない汗をかき、一瞬固まった表情はすぐに再起動してもの凄い早さで全身を手でペタペタと触りまくって何かを確かめている。

 

「ふぇっ?!、なんで?、どうして?」

 

彼女が目を渦巻き状にしながら触診をしている間に、よっこいしょ、と少年が上体を起こすと、すぐにその隣にぺたん、と少女が座り込みずいっ、と顔を寄せてきた。

 

「ど、どうやって私が天使だってわかったの?」

 

え?、本当にわかんないのか?、と本心から驚きつつも瞳だけではない、綺麗な顔がすぐ傍にあって心臓の連打が止まらない。もっと言えば全身から清浄な気でも発しているのか、どこもかしこも清らかで純心の権化みたいな容貌だ。きめの細かな素肌は透けるように白く、折れそうに細い手首や足首、それにゆったりとしたワンピース越しでも分かるメリハリのきいた身体の曲線、けれどそこに肉欲的な生々しさはなくてどこまでも清楚な美しさを醸し出している。

全身にくまなく向けられた視線に気付かないのか、或いは気にもしないのか、当の天使はわけがわからない、と純粋な不思議顔でどんどんにじり寄ってくるものだから、少年は疼いた悪戯心よりもようやく自覚した破裂しそうな心臓の保護を優先して種明かしを披露した。

 

「だって、オレ、悪魔だから」

「えぇ!?」

 

悪魔は普通の人間の目には映らない。

よほど勘の良い人間でも「そこに何か良くないモノがいる」と感じる程度で、人間界の公園の芝生の上で寝転がっている悪魔に「風邪ひくわよ」などと声を掛けてくる者などいるはずなく、それにその人間離れした容貌、いくら人間が着る服を身につけていても答えはひとつしかなかった。

とは言え少年の知っている天使という存在からも、かなり外れているのだが……。

人間界にいる天使は基本、教会とその周辺の結界内から出ることはない。

逆に悪魔はその結界には嫌悪を感じるので近づくことはない。

だから何かの偶然でたまたま遠目から教会近くにいる天使を目撃した事はあるが「へぇ、あれが天使か」と珍獣でも見ているような態度がバレたのか、気付いた向こうからはもの凄い目で睨み付けられた。人間には驚くほど優しく穏やかに心を砕いて接しているくせに、悪魔に対してはその辺の生ゴミに依ってきた虫扱いである。

存在すらも疎ましいと言いたげな態度に「天使ってみんなああなのか?」と数少ない知り合いに尋ねたところ「そんな感じだな」との返事だったので、彼の中の天使の印象は最悪だった。

それなのに、だ……目の前の天使はどうやら悪魔を人間と勘違いし、身体を気遣い、悪魔だと明かした今でもキョトンッとした無防備な顔で隣に座り込んだまま立ち去る気配すらない。

世間知らず、と言うか、浮世離れしている、と言うか……そんな言葉を思い浮かべてから天使に抱く感想じゃないな、と自嘲する。悪魔である自分が言うのもなんだが「この天使、大丈夫か?」と心配にすらなってくるレベルだ。

幸い近くに人間はおろか同族がいる気配もないし、普通の天使なら……当たり前だがこんな公園には来ない。だから逆に堂々と惰眠を貪っていたわけで、悪魔と天使が普通に言葉を交わしているなんてありえない状況をもう少しの間だけなら、と自分にとってはただの暇つぶしで気まぐれだと言い訳じみた理由を並べ天使の隣であぐらをかく。

 

「それで?、天使さんこそなんでこんな所に?」

 

まさか気まぐれに人の姿で教会の結界範囲から出て来て迷子とか……じゃないよな?、と全く笑えない話だが、この天使だったら万が一の可能性としてなくはないかも、と一人勝手に失礼な事を考えていると天使はぷくり、と柔らかそうな頬を膨らませた。それから、更に顔を近づけてくる。

 

「『天使さん』じゃなくて『アスナ』よ」

「は?」

「私の名前」

 

少年は一気に脱力した。

悪魔に名を教えるなんて真面目にもほどがある。

 

「あのなぁ……」

「だから、ア、ス、ナ。君の名前も教えて」

 

拒絶されるなんて思ってもいない無垢な笑顔がすぐそこにあって悪魔は再び心臓の安寧の為に負けを認めた。

 

「…キリト」

「キリト、くん。へぇ、悪魔もちゃんと名前あるのね」

「おいっ……教えろって言ったのはそっち……ア、アスナだろ」

「うん。でも、名前なんかない、って言われたらどうしようって思ったから…ありがとう、キリトくん」

 

ポカンと開いたままの口をキリトはわずかに震わせる。

そうか、そう言って誤魔化せばよかったんじゃないか、なんでオレまで馬鹿正直に答えてるんだ、と悔しさと共にこの天使相手だとどうも調子が狂う自分に混乱する。それでもちゃんと名乗ったことで得た笑顔と「ありがとう」という言葉がとても大事に思えてキリトはそれを戒めるように、くすっ、と軽く笑った。どうせ今、この一時しか言葉を交わすことのない相手、名前なんてお互いすぐに忘れる、と刹那的な思いを込めて。

それなのに「ねぇ、ねぇ、キリトくん」と早速天上から降ってくるような澄んだ声が親しげに話しかけてきた。

 

「私はね、ちょっと息抜きに来たんだ。キリトくんはどうしてここで寝てたの?」

「どうして、って……今日は気温も風も陽射しもちょうど良くて昼寝にもってこいじゃないか」

「そっか。悪魔もこういうおだやかな気候を気持ちいい、って感じるのね」

 

ふむふむ、と桜色の唇をちょっとだけすぼめて頷いていたアスナは、いきなり「あっ」と言うなりその口に手の平を当てる。

 

「ごめんね、こんな言い方。気分悪いよね」

 

驚いたのはキリトも同じだ。悪魔に対して「ありがとう」だの「ごめんね」だの同族からだって言われたことがない。黙り込んでしまったのを見て機嫌を悪くしたのだと勘違いしたアスナが「本当にごめんなさい」と重ねてくるからその誤解を解く前にまずは自分が落ち着こう、とキリトは深く息を吐き出した。

 

「別に、いいさ。それに悪魔がどんな存在かなんて天使は気にしないと思ってたから……その、オレも意外だった」

 

その言葉に目をまん丸くしてから、ふにゃり、と微笑んで「よかった」と胸をなで下ろしたアスナは次に顔全体を好奇心でいっぱいにしてキリトの前に差し出す。

 

「もっと聞いてもいい?、悪魔ってみんなこんなにのんびり屋さんなの?、それなら他の悪魔も今日は日向ぼっことかしてるの?」

 

立て続けの質問にキリトはのけぞりながら急いで頭を横に振った。

それだと悪魔は自由気ままで温厚的な奴ばかりみたいに聞こえてくる。同族達を思い浮かべて、そいつらがほのぼのしてる顔を想像しようとして思わず、ぷっ、と噴き出した。

 

「まさか……こんなことしてるのはオレくらいだろうな」

「そうなんだ」

 

特別残念そうでもなく、すんなりと納得した様子のアスナの口は止まらない。

 

「じゃあ他の悪魔はこんな良いお天気の日でも人間を堕落させようと頑張ってるのね」

 

頑張ってる……頑張ってるかぁ……確かに他の奴らは人間の弱ってる部分をねらってグイグイいってるけど、よくあんなに次から次へと声をかけられるよなぁ、一体何を目指してるんだか……とキリトが遠い目をする。おまけに人間と接触することなく一人で気楽に過ごしている自分は一部の悪魔達から反感を買っていて、ついこの前も衝突したばかりだ。しかし、そこは力の強い者が絶対的な世界だから全員を叩きのめして安穏な日常を守ったわけだが、要するにキリトにとっては見ず知らずの人間に自分から近づきあの手この手を使って籠絡するより、勝手を言ってケンカをふっかけてくる同族達を黙らせ一人自由でいる方がずっと簡単で性に合った生き方なのだ。

するといつの間にかちょっと憂い顔になっていたアスナが言いにくそうに口を開く。

 

「あの、私、今までキリトくん以外の悪魔とお話したことないんだけど…」

 

まぁ、そうだろうな、と頷いた。

悪魔だって天使とこんな近距離で、しかも公園の芝生の上に並んで座りお喋りをしたヤツなんていないだろう。

 

「ひとりでお昼寝してて大丈夫なの?」

 

初対面の天使からクリティカルヒットをくらった悪魔は「うっ」と咄嗟に胸元に手をやる。

それはオレと一緒に昼寝をしてくれるような同族がいなくて寂しくないか、って話なのか?、それとも他の悪魔から昼寝を咎められないか、って話なのか?……どちらにしてもあまり大丈夫でないのは確かだ。

 

「…まぁ……それは、その……オレだって、いつも昼寝してるわけじゃ……ないし……」

 

完璧に視線を反らせて返事をすると件の天使は「ふーん、あやしいなぁ」と疑いの目で見つめてくるがそれ以上の追求は種族の違いも考慮して「ま、いいわ」と諦めてくれたようだ。

 

「それに悪魔って人間を堕落に誘うわけでしょ」

「そればっかじゃないけど、でも結果的にはだいたいそうなるように仕向けてるな」

「例えば子供には学校を、大人なら仕事をサボらせようと甘言を弄するなら、それを真面目にやらないでお昼寝してるキリトくんの方がよっぽど悪魔らしいのかな、って思うし」

「そこなんだよ。人間には怠惰を勧めるくせにオレが怠惰だと文句言ってくるんだから……」

 

辟易とした言い草にアスナもどうやらこのキリトという悪魔は他の悪魔から見てもちょっと違うのだとわかってきたようだ。しかし同族に文句を言っている姿に卑屈さは欠片もない。

 

「キリトくんがね、平気ならいいの」

「へ?」

「だから…キミが無理をしたり、我慢をしてここにいるんじゃないなら、ってこと」

 

もしかしてこの天使はオレが仲間はずれにされてこんな所に一人でいるのかもしれないと心配してくれたのだろうか?、とまじまじと象徴的なはしばみ色の瞳を覗き込んだ。

 

「なっ、なによぅ」

 

自分からは無遠慮ににじり寄ってくるくせにこちらから近づくと羞恥心が芽生えるらしい。頬を薄紅色に染めて、ぷいっ、と顔を反らせてしまうが耳までもほんのりと色づいているのに気付いたキリトもまた伝染したように顔が熱い。急いで適切と思われる距離

まで離れて、ぽりっとその赤い部分を人差し指で掻いた。

 

「大丈夫さ。悪魔ってのは天使と違って群れたり…って言うと聞こえが悪いけど、あんまり仲間意識ってないんだ。だから大人数で動いてもそれは一時だけで基本的には各々が好き勝手にやってるから」

 

それを聞いたアスナは安心したように表情を緩めてから「へぇ」と新たに得た悪魔の習性を頭に入れて、けれどすぐに「あれ?」と頭を傾ける。

 

「でも、最近、悪魔の中で王様が誕生したんでしょ?」

「げほぉっ」

 

何がむせたのかキリトが呼吸を乱した。二、三回大きく深呼吸をしてから軽く涙目で「なんで」「どうして」とアスナに対し得体の知れない怪しげな物体でも見るような視線を送ると、そんな反応が心底不思議だと言いたげに傾げた頭を戻すことなく問いを続ける。

 

「違った?、ひとりのすごく強い悪魔が他の大勢の悪魔達を倒して王様になったって」

「一体誰がそんなことを」

「ネコネズミ族の情報屋さん」

 

敵対する種族の名前が合体している極めてウソくさい種族名を名乗っている時点で嫌な予感がしたキリトは恐る恐る「それってどんな情報屋?」と尋ねた。

 

「んー、神出鬼没でね。普通の小柄な女の子みたいな姿だけどいつも長いマントを着てるしフードも被ってるから詳しくはわからないの。もしかしたら耳は鼠か猫なのかも。それとも尻尾を隠してるのかしら。頬には三本のお髭があって『ニャハハ』って笑う……って、どうしたの?、キリトくん」

「あいつ、天使にまで情報を売ってるとは……」

「キリトくんも知ってるの?」

 

値段は高額だが情報の真偽は信用できる情報屋を知っている…と言うか時々情報を買っている…が……まさか同じ情報屋が天使の所にも出没していると言うのは信じたくないけれどそこまで特徴が一致している情報屋が他にもいるなんて更に考えたくもなく……どちらにしても頭の痛い状況なのは変わりない。

 

「ちなみにその情報、いくらで買ったんデス?」

 

最新ホヤホヤのビッグニュースだ、安くはないだろう、と妙に緊張感のある声で聞けばアスナは軽やかに顔を左右に振った。

 

「これはね、お茶会の時のお喋りで聞いたんたけど…やっぱりホントだったんだ」

「お…茶会……」

 

あいつ、天使と優雅に茶なんて飲んでるのか……と、ちょっと羨ましく思ってしまった自分に遅れて、己の反応がその情報の裏付けとなってしまった迂闊さに再び落ち込む。すると突然アスナが呪文のように、けれど軽やかに紡ぎ出して……

 

「サワーチェリーとクリームチーズのパイやドライフルーツとカスタードクリームのパイ、パプリカとキノコのパイとかパンプキンパイにミートパイ……あとは何を作ったかな。その時はパイばっかりていうお茶会だったのよ」

 

聞き入ってしまったキリトから、ごくんっ、と恥ずかしいくらい大きな音が漏れた……唾を飲み込んだ音だ。

だってそんなに美味しそうな名前を次から次へと並べられては仕方ないだろう、と開き直ってアスナの視線を受け止めるとお姉さんぶった顔で、クスッ、と笑われた。

 

「今度持ってくるわね。パイの中身リクエストがあったら教えて」

 

今度、って…この天使はまだ悪魔のオレと会うつもりなのか?!、という驚きと同じくらいの驚きがもうひとつ。

 

「アスナが、作るのか?」

「そうよ。お料理は得意なの。甘いお菓子系のパイと野菜やお肉入りのパイ、どっちが好き?」

 

なんだか全身が驚きでいっぱいだったので素直に「両方」と本音が勝手に転び落ちると、なぜかアスナが嬉しそうに笑って「うん、わかった」と頷いて、それでようやく認識する、これってまた会う約束した感じになるのか?、と。一方、アスナの方は小声で「何がいいかな。バナナチョコレートとかベーコンにアスパラとか…」と早速パイの中身を検討している。具材を聞いているだけで既に美味しそうな気がしてくるから不思議だ。

けれどアスナは何かに気付いたように一旦唇を閉じると周囲に誰も居ないのを確認してから口元を手で隠し、ひそっ、と声を潜めてキリト近づいた。

 

「私が作った物を食べて平気?」

「平気…って?」

 

天使が作った物は悪魔にとって毒物になるとか?、と想像して、いやいやそれはないだろ、と頭の中で否定する。

 

「…魔王に怒られない?」

 

カクッ、とコケた。

 

「魔王の事は気にしなくていいから……って言うか忘れてくれ」

「やっぱり天使が魔王の事知ってたらダメなの?」

「そういうんじゃなくて。そもそも…そいつは魔王になりたかったわけじゃないし」

「そうなの?」

 

じゃあ、なんで悪魔の頂点に立ったの?、と艶やかな栗色の髪の上にハテナマークが幾つも浮かび上がっているのが見えるようだ。とにかくその話題から逃げ出したかったキリトも無垢な不思議顔に焦りも静まり漆黒の瞳がおだやかに緩まる。天使は人外の存在だけあってその容貌はみな美しいがアスナのそれは絶世を付けるに相応しいものだ。ただそこに居るだけで光り輝き人間達がもしその姿を視認できたら自然と膝を突いてしまうような神々しさがある。そんな彼女が普通にくるくると喜怒哀楽を表す姿を見せられてキリトが最初に抱いた美しさの上に可愛らしいと思う感情まで加わってしまった事を自覚しているのかいないのか……彼女に向ける自身の表情が他の同族達にさえ見せないものだと当人はまだ気付いていない。

 

「でも……それなら、よかった」

 

心からホッとした笑顔に今度はキリトが「何が?」とハテナマークを浮かべた。

 

「そんな王様なら大勢の悪魔達をまとめ上げて天使を攻撃したりはしないでしょ?」

 

想像もしていなかった物騒な懸念に慌てて何回も首を上下に振りまくる。

 

「まさか、全く、全然、そんな事しないって」

「なんでキリトくんが答えるのよ」

 

クスクスとからかい混じりの笑い声を漏らしながら指摘されて「そ、そうだよな。でも、本当にそんな事にはならないから」と至極真面目な顔で告げると、その真意が伝わったのかアスナもまた落ち着いた笑顔で「うん」と微笑んだ。

 

「ちょっと心配だったの。情報屋さんも大丈夫だって言ってくれたけど……私、悪魔って見たことも話したこともなかったから、その王様ならすごい事をしてくるのかも、って」

 

話したとがない、のは当たり前だが見たこともない、というのは、普段は悪魔がうろついていない地域の教会にいるのか、それとも常に建物から出ることがない大聖堂にでもいるのか……どっちにしてもこの近辺に該当する教会はないなぁ、と周辺地図を頭の中で広げていたキリトは続いて耳にしたアスナの言葉に「は?」と素っ頓狂な声を出した。

 

「ごめん、アスナ。もう一回言ってくれるか?」

「だからね、王様ほど強い悪魔なら他の悪魔を大勢率いて天界まで来られるでしょ。天界にいる私達天使と戦えばどっちも傷つくし…」

「アスナ……って、天界の天使…なのか?」

「そうよ」

 

事も無げに肯定したアスナはそれから少しだけ悲しげに眉尻を落とし「私、キリトくんと戦いたくないもん」とポソポソと紡いで視線まで芝生に落とす。

教会に属している天使よりも上位の存在、地上に降りてくる事自体が奇跡と言われる天界の天使という衝撃の事実よりも想像だけでしょんぼりとしてしまった彼女をなんとか元気づけたくて、キリトは考えるよりも先に頭頂のその絹のような光沢のある髪の上にぽんっ、と自分の手を置いた。

 

「だから大丈夫だって言ってるだろ。絶対に」

 

キリトの手を頭に乗せたままアスナが上目遣いで「ほんと?」と念を押す。少し撫でるように動かしながら力強く「ああ」と宣言すれば「わかった。キリトくんが言うなら信用するね」と今度は反発することなく受け入れてくれた笑みに、ドキンッ、と痛いくらいに心臓が跳ねて慌てて手を離した。

それにしても、だ……地上の天使とさえ言葉を交わした…いや、しっかりと目を合わせたことすらないのに自分の隣で気持ち良さそうにそよ風に目を瞑っているのが天界の天使だったとは、と頭を抱えそうになったキリトは逆に「いや、天界の天使だからか」と納得する。だから悪魔に対しても妙な先入観がない、警戒心もない……総じて色々と危なっかしい天使サマだとアスナを評したキリトは、次に「なんで?」と実に純粋かつ素朴な疑問を口にした。

 

「天界の天使がこの公園に?」

 

大規模な聖祭式が執り行われている主聖堂に降臨するならまだしも、ここは広さと樹木の多さは誇れるが信者が集っているわけでもないし司教などの聖職者が訪れる場所でもない。

天使が舞い降りて来る理由が全く思いつかない様子のキリトにアスナは軽く伸びをしつつ答えた。

 

「だから息抜きよ。ここ数十年、ずっとお仕事ばかりしてたから」

「す、数十年……」

 

いくら時間の感覚が違うとは言え真面目にも程がある。自分だったら数十日でもありえないと目眩がしそうなキリトはそこで何かに気付いてアスナの顔を覗き込んだ。

 

「もしかして、人間界初めてか?」

「うん、そうだけど」

 

更に近づいて、ジッとはしばみ色の瞳を観察する。

 

「今、息苦しかったり、気分が悪くなったりは?」

「してないわよ」

 

すっ、と手を伸ばし今度は事前に「ちょっと触るぞ」と断ってアスナの前髪を軽くはらい額にぴたり、と手の平をくっつけた。

 

「ほてりや意識がぼんやりしたりは?…熱はなさそうだけど」

「うーん、ここ、ポカポカだからちょっと眠くなってきちゃったかも」

「そういうのは……地上酔いじゃないな」

「地上酔い?」

 

ふぅっ、と安心の息を吐き出したキリトは「人間界に慣れてないとたまになるんだ」と説明した後、アスナがやわらかく微笑んでいるのに気付いて「ん?」と頭を傾ける。

 

「やっぱり優しいのね」

「……悪魔が優しいわけないだろ」

「そんなことないよ……キリトくんの手、あたたかいから」

「悪魔にさわられて笑ってるなんて……変な天使だな、こんなに……」

「こんなに?」

 

綺麗で可愛いのに、と言いかけてギリギリで口を閉じる。すると密着している手の平の感覚が冴えて、そのやわらかさに、弾力に、白さに…総じて極上の肌触りの良さに、うわっ、となった。急いで離れようとするのを細い指が強引さなど微塵もなく繋ぎ止める。両手で挟み込んだキリトの手を頬にすり寄せ静かに目を閉じたアスナが、ほぅっ、と力を抜いた。

 

「思い切って地上に来てみてよかった」

 

ずっと天界しか知らなかった箱入り天使の初めての冒険と言ってもいいのだろう。それなのにこんな場所にやって来て悪魔と遭遇するなんて、きっと他の天使だったら即座に天界へ戻ってもう二度と地上になんか行かない、と憤慨しても良さそうなものだが……ホントにこんなに綺麗で可愛いのにおかしな天使だなぁ、とキリトもアスナに手を貸したまま困ったように笑った。それでも本当に安らいだ表情を見せるから、もっと、と久々に悪魔らしく勝手な我欲が黒く膨らんでくる。

今までは自分が近くにいるだけでこの天使を汚してしまいそうで離れる事ばかり考えていたが、彼女が何の躊躇いもなく包み込んでくれるなら遠慮はしない。

 

「自然が気に入ったなら大きな湖がある森もいいぞ。ここよりもっと野生の動物達もいて人間達は来ないからゆっくりできるし……それとも料理が好きなら街で食べ歩きとか……」

 

ぱちっ、と瞼が高速で持ち上がり、ぱああっ、とはしばみ色が喜光を放った。地上の天使は教会から離れる事など滅多にないし、人間が来ない場所なんて普通の悪魔には何の価値もない。だからそんな場所を知っているのはキリトだけで、街中に関しては自分が傍に付いていれば寄ってくる身の程知らずの悪魔なんているはずもなく……だからこれは、そう、普段働き詰めのアスナのためだ、と本性を偽って彼女の手の平ごしにスッ、と頬を撫でつつ顔を近づけて甘く、低く、ゆっくりと声を忍ばせる。

 

「オレが案内するよ」

 

人間を堕とす悪魔の艶声を吹き込まれたアスナは一瞬、きょとん、としたもののパチパチと長い睫毛を上下させて散らし「ふむぅ」となんだか小動物のような呻き声を出した。

 

「今のが『悪魔のささやき』ってやつなのね」

 

眉根を寄せて唇を尖らせている顔はまだ熟し切っていない果物をうっかり口にしてしまったみたいに渋さを表している。反してキリトは内心「さすが天使」と悪魔の誘いを聞いても揺るがない彼女の自我に舌を巻いた。悪魔の本性を垣間見て今度こそ侮蔑の目が自分に向けられるかと身構えたが、天使は悪魔の手を包んだまま輝くような笑みで欲を孕んだ真っ黒な瞳を柔らかくいなす。

 

「それは今度お願いするわ。今日はのんびりしに来たんだから……」

 

ふいにキリトの手を離して立ち上がったアスナはまっすぐ空に両腕を伸ばして大きく「んーっ」と伸びをしてから「もう人間の格好やめてもいいよね」と自分を見上げているキリトに清々しく告げた。

 

「え?、あ、ああ。別にいいけど…」

 

ぽかん、と口を開けたままのキリトに見つめられたままアスナがスッ、と目を閉じる。

よく考えてみればそれまでは人間には見る事の出来ない存在のキリトに向かってアスナが勝手に話しかけている状態だったわけで、ただ元々人間はおろか悪魔さえ来ない場所だからそれでも問題はなかったのだが……改めて天使として本来の姿に戻ると宣言した彼女の意図がわからないままキリトが固唾を呑んで見守っていると変化は直ぐに訪れた。

ふわり、とやわらかな光が彼女の全身からあふれ出して着ていたシンプルなワンピースが白銀色の聖衣に変化する。地上の植物では作れない光沢のある繊維から織られた生地、精緻な刺繍、見事な飾り細工、それらがふんだんに使われている装束は一種の騎士装のようにも見えるがどちらにしても神々しいことこの上ない。光の粒を纏った栗色の髪はさらに長さを増し、重力を無視してふわりふわりとたゆたっている。

いつもの自分で更にリラックスしたのかアスナが「ふぅぅ」と息をつき、キリトは「ほぇぇ」と息を吐き漏らした。

けれど変化はこれで終わりではない。

 

「リズに…天界の友達に地上に行って羽を伸ばしてきなさい、って送り出されたの」

 

言うなり「んっ」と軽く力を込めたのか、その華奢な背中から白光が二つ伸び上がり、どんどんと広がり始めた。

天使の羽翼だ。

 

「は?、ちょっ、ちょっと待て、アスナ。羽を伸ばせってそういう意味じゃっ…」

 

慌てふためくキリトの声を不思議そうな顔で受けながら、伸び始めた羽翼は止まる気配すらみせず更に増長を続ける。羽翼は天使の格の象徴だ。キリトは見たこともない程に広がっていく羽翼を観察しながら彼女の格を見定めようと自らの知識を引っ張り出す。

この大きさ……力天使?、…いや主天使?…違うっ……まだ伸びるのかっ……それにただの白い羽翼じゃない……白銀の光翼……嘘だろっ、まさか…………!!!

考える事を放棄した顔で白旗を揚げたい気分のままポツリと零す。

 

「この羽翼ならどの異界にも行き来自由じゃないか……」

 

それは即ち自分と同格の存在。さっきの彼女の懸念がそのまま跳ね返ってアスナが天使達と共に悪魔に挑んできたら……と想像を起こす前に打ち消した。そんな光景、ありえないと断言できる。のんきに悪魔にまでパイを焼いてくると言い出す天使だ。敵にすれば自分でも苦戦する相手なのは間違いないが彼女がそんな事を望むはずもないのは出会ってほんの少しでも十分わかっていて、それよりも今は大きく羽翼を広げた姿にひたすら魅入る。

もしも地上の人間が目にすれば涙を流しながらひれ伏すだろう。

ずっと見ていたいような、目にするのも畏れ多いような、純白の眩しさに己の邪な部分を見透かされそうな、様々な感情が去来するに違いない。だが悪魔であるキリトにとって彼女の目映さに畏怖はなく、それよりも完全体を目の前にして言うまいと決めていた純粋な言葉が簡単に自らを裏切って口から零れる。

 

「綺麗だな……」

 

するとその褒め言葉にアスナがにっこりと微笑んだ。

 

「ありがとう。毎日のお手入れ欠かさず頑張ってるもの」

 

単に羽翼だけの感想ではなかったのだが、アスナがそう受け取ったのなら、と誤解に便乗して「へえぇぇ」と大きく頷いてみせる。するとアスナは再びキリトの隣に座り込んで真っ黒なコートの裾を掴みクイックイッと引っ張った。

 

「ねぇねぇ、キリトくんのは?」

「うへっ?!」

「キリトくんの翼。やっぱり黒いの?」

「…そうですけど。それよりアスナさん……」

「見せて欲しいなっ。だめ?」

「ダメ、って言うか……取り敢えずその羽翼しまいませんか?、地上の天使達が気付いて集まってくるんじゃ……」

「どうしてもだめ?」

 

うずうずわくわくどきどきを全身から放っている高位天使のおねだりに「アスナが掴んでいるソレが擬態している黒翼なんだけど、最近洗ってないから埃がすごいかも」とは打ち明けられず、困り果てる悪魔の王だった。

 

 

 

 

 

後日……天界に帰還していたアスナのところに情報屋が訪れていた。

 

「アーちゃん、この前の休暇、どうだったんだ?」

「教えて貰った公園に行ったの。偶々ちょっと変わった悪魔がいて、うっかり話しかけちゃったんだけど…そうしたらたくさんお喋りできて楽しかった」

「ほうっ、そいつはよかったな」

「その悪魔…キリトくんって名前なの。すごく優しい悪魔でね、情報屋さんを知ってる感じだったわ。また会う約束もしたんだけど、地上に降りる時は自分以外の悪魔と絶対に話したり付いて行っちゃダメだって……」

 

どうしてかしら?、と首を傾げる純粋無垢な天使を見つつあの公園がキリトの昼寝スポットだと知っていた情報屋は常に飄々としている一匹狼のような悪魔に芽生えた執着という変化に目を細める。

 

「ニャハハ、そりゃあ予想以上に面白いことになってんな」




お読みいただき有り難うございました。
TV版「アリシゼーション編」のラストでアスナに羽根が装備されていたので……
あのビジュアルならこんなのもアリかと思いまして。
内容や台詞は原作サマをつまみ食いさせていただきました。
「多分続かない……」ってやつです(苦笑)
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